LOGIN数多の男を魅了し、弄び、捨ててきた石黒麗子は、死後に閻魔大王から無慈悲な「無限ギロチンの刑」を宣告される。次に目覚めた時彼女は、異世界の公爵令嬢イザベラ・ルードイッヒとして転生していた。未来の王妃として厳格な教育を受け、完璧な淑女として生きてきたイザベラは、ある日突然、婚約者である王子から婚約破棄を告げられ、その場で命を奪われる――はずだった。だが転生した麗子は、従順な令嬢ではない。悪女として培った知略と策謀を武器に、自らを踏みにじった者たちへの復讐を誓う。彼女は微笑み、宣言する。「この世界で一番の悪女になってやる」。贖罪ではなく、悪として生き抜く復讐譚が、今ここに始まる。
View More人は死に直面すると、生前の記憶がまるで走馬灯のように目の前を駆け巡り、過去の一瞬一瞬が鮮明に浮かび上がると言われている。しかし今、私の脳裏を占めているのは、確かに私の記憶ではない。まるで別人の記憶が無理矢理押し寄せてきているかのようだ。
そう、私は死んだのだ。ほんの少し前、目の前に現れたのは、まるで地獄の番人を彷彿とさせる真っ赤な肌を持ち、ギョロリとした目が不気味に光り、鋭い牙を覗かせる異形の大男――閻魔大王だ。彼は私の生前の悪事を裁き、『無限ギロチンの刑』と冷徹に告げ、深いため息をついた。ため息は、まるで私を極邢の運命に突き落とすように、重く、冷たかった。その瞬間、私の意識は闇に呑み込まれた――地獄に送られるはずだったのに、何故か今、私はここにいる。
私の脳裏で展開する走馬灯の物語は、公爵令嬢イザベラ・ルードイッヒの幼少期から始まった。柔らかな陽光に包まれて育ち、贅沢な衣装と優雅な食卓に囲まれて――美しく、わがままに、そして少しだけ頑固に育てられた彼女の姿が映し出される。次に訪れるのは、あの王子との婚約の知らせ。王子ヘインズ・クラネルはまさに王子様そのもの、豪華な外見と高貴な血筋を持ちながら、イザベラの心を魅了していった。イザベラは過酷な王妃教育を受けながら未来の良き女王を目指して寸暇を惜しんで努力する。だが、彼女の未来は、あっけなく崩れ去る。王妃教育で時間に余裕のないイザベラにヘインズ王子の不満は高まり、王子は公然と浮気するようになったのだ。そして卒業パーティーで婚約解消を発表する。王子に抗議したイザベラは王子に殴り飛ばされ、仰向けに倒れる……その瞬間で走馬灯は途切れた。
これはイザベラの記憶だ。私はそう理解してイザベラという人間を考察した。
この子、美しいけれど、ちょっと負けん気が強すぎるわね。でも、頑張り屋さんで、素直に言うと、本当は良い子なんだ。王妃教育も真面目に受けていて、時間がない中でも一生懸命やっていた。でも、王子は……あんな公然と浮気をして、挙げ句の果てに婚約を破棄だなんて……。もしこの子が、黙って耐えていたら――泣き寝入りしていたら、こんなことにはならなかったのに。死ぬこともなかったのに……こんなに騒ぎを大きくしてしまったから、きっとこの後は処刑台に送られる運命だったはず。でも、あの一撃で――もう後頭部を強打して死んじゃったのね。可哀想だけど、もしかしたら、この後、牢に繋がれ、拷問を受け続けるよりは、きっと幸せな終わりだったのかもしれない。……それに、この子にも悪いところはあったのよ。
私ーー石黒麗子は、イザベラ・ルードイッヒの人生を、まるで他人のように寸評する。転生前、腹黒人生を送り、閻魔に捌かれ、地獄送りを言い渡された私が言えたことじゃあないけど。
そう。私は石黒麗子――誰もが憧れ、羨むような美貌を持ちながら、他人のものを奪い続けた女。彼氏を奪い、そして奪われ、どれだけの男を手に入れ、どれだけの女性の涙を引き出したことだろう。
だって、素敵な殿方たちは、いつだって邪魔な女に囲まれていたんだもの。それに私は、本気で取ろうとしたわけじゃないのよ。ただ、少し気を引くような素振りを見せただけで、彼らが向こうから寄ってきただけなの――仕方ないじゃない。だって、私があまりにも美しすぎたから。
それに、二股男たち――男なんて、どいつもこいつも二股してきたし。でも、私はほとんどの男を、最終的には私のものにしたわ。勝った後は、その男を振ってやった。手も握らせやしなかったし。
……そして、面と向かって元の女に言ってやったの、 「あの男は、私のことが好きなのよ」 って。 それだけのことなのに、なぜか私が非難される……それだけで、あのクソ閻魔に捌かれるなんて、どうしても納得がいかない。『無限ギロチンの刑』って、一体何よ?気付けば身体強化の魔法まで使ったヘインズ王子に思いっきり殴られた左頬が痛む。ズキズキとしたその痛みが、まるで私を罰するかのように響いている。後頭部には大きなたんこぶが出来ていて、殴られた感触が脳裏に鮮明に焼きついている。それは、私の体が痛むことで、何か大きな真実を知らせているようだった――あれ? でも、どうして私の頬が痛いんだろう? 殴られたのはイザベラのはず。
初めて目を開けると、目の前に広がったのは、眩い光に包まれた、見知らぬ天井だった。その天井は、まるで素敵な芸術作品のように、繊細で優美な模様が描かれている。天井には、いくつもの大きなシャンデリアが煌めき、柔らかな光を部屋いっぱいに散りばめている。私は仰向けに倒れている。まるで中世ヨーロッパの貴族たちが集う豪華なパーティー会場にでも迷い込んだかのような、重厚で優雅な空間が広がっている。――この場所は、どこかで見たことがある。確か、走馬灯に映った学院の卒業パーティーだ。
私は地獄に送られるはずだった。なのに、今、ここにいるのはなぜだろう? それとも――これが夢なのか? いや、そんなはずはない。死んだはずなのに、私はここにいる。
「ここは……どこ?」
息を呑んだ。声が出たのか出ていないのか分からなかったが、確かに私はここにいる。異世界のような空間に。
何が起こったのか分からない。死後、すぐに閻魔大王に裁かれるはずだった。『無限ギロチンの刑』――その言葉が脳裏に響く。あの瞬間の冷徹な声、ため息をついたあの顔を、私は決して忘れないだろう。あの後、何も感じず、ただ闇に呑み込まれたと思っていたのに……。
しかし、今、私はここにいる。息をしている。頬と頭以外に身体の痛みもない。でも、どうして私はこんな場所にいるのか?
目の前にぼんやりと浮かぶ記憶。それは私のものではない。イザベラ・ルードイッヒ――その名前が頭に浮かぶ。彼女の記憶が、私の中でざわざわと動き出す。
公爵令嬢イザベラ。優雅な衣装に囲まれ、広い屋敷で過ごす日々。あの王子との婚約――でも、何かが違う。何かが、違う。私の中にあの王子への執着が感じられない。王子ヘインズ・クラネルという名前に反応しようとしたけれど、それは私のものではない感情だ。
「私は……一体、誰?」
深いため息をつく。これは一体、どういうことだろう。私は石黒麗子。そう、確かに私が麗子だ。死ぬほどの美貌と魅力で、他人のものを奪い取ってきた。男たちを振り回し、女性たちを泣かせてきた。そのことに後悔はなかった。ただ、私が欲しいものを手に入れる。それだけだった。
しかし今、私の体は――イザベラのものになっている。
「イザベラ……?」
声に出してその名前を繰り返してみる。しっくりこない。自分が誰なのかがわからなくなり、ただその名前が耳に響く。私の記憶には、イザベラの記憶がどんどん流れ込んでくる。イザベラの過去、家族、王子との関係、そして――あの時のこと。
「いや、私は――」
イザベラは、確かにあの王子に裏切られた。でも、何かが違う。私の中でその感情が湧いてこない。あの王子に対する憤りや怒りが、どこかしら空虚で冷たい。それは私が経験したことではないような、他人の感情のようだ。
私――石黒麗子の記憶の中では、私は決してそんな風に扱われることを許さなかった。あの王子を奪われるなんて、絶対に許せなかった。だが、ここで感じるのは、イザベラとしての無力感、ただの空しさ――そう、まるで私が他人の記憶に操られているような気がしてならない。
その瞬間、ふと気づく。私の体が、まるでイザベラのものになったように感じる。その感覚がじわじわと迫ってくる。私の手はイザベラの手、私の目は彼女の目――それに、私が感じるのは、この身体が完全にイザベラだという事実だ。
「どうして……?」
心の中で叫ぶ。しかし、体が応えてくれない。どうして私の記憶がこんなにも混乱しているのだろう? 麗子としての自分と、イザベラとしての自分――その二つの自我が、どんどん交錯していく。
私は、イザベラの人生を引き継いだのか? それとも――
「いや、私がイザベラであってもいいのか?」
「私は誰だ?」
その問いが繰り返し私の中で響く。だが、答えはまだ見つからない。ただ、目の前に広がる豪華な空間に身を任せるしかないのだろうか。死んだはずの私が、異世界で再び目を覚まし、そして――イザベラ・ルードイッヒという人物として生きることになったのだろうか?
それでも、この体はまだ私のものとは思えない。何もかもが不確かで、混乱している。けれど、私は――どうしても、この新たな人生を受け入れなければならないのだろうか。
痛む左頬を抑えると、口の中に固い物が当たった。意識がそちらの方を向く。何だろう、これは…小さな奥歯が抜けている?
慌てて手を口に突っ込んで、抜けた歯を元の穴にねじ込んだ。確か、抜けたばかりの歯は再びくっつくことがあるって、昔誰かが言っていた気がする。 そのまましばらく固唾を呑んでいると、聴覚が戻ったのか、周囲の声や音が少しずつはっきり聞こえ始めた。一際大きく響く声。多分私を叱責するあの王子の声だ。
「死刑にしても飽き足らぬが、元婚約者だったことに免じて国外追放に処す! いや、その反抗的な目つき…やっぱり死刑だ! イザベラ、お前は死刑だ!死刑にしても飽き足らぬ!」
頭を持ち上げて視線を向けると、目に入ったのは王子、ヘインズ・クラネル。走馬灯の記憶の、あの卒業パーティーで二度と見たくないと思った顔だ。今、まさにイザベラに死刑を宣告し、怒りをぶつけている。
もしかして……私は…イザベラ?
ああ、まさか、転生しちゃったの? 私が死んだはずの体に、あの公爵令嬢イザベラ・ルードイッヒとして生き返ったっていうの? もしかしてここが生き地獄?「……ちょっと待って、これってまさか地獄?」
私は思わず口に出してしまった。『無限ギロチンの刑』って、もしかして死ぬたびに転生して、また死刑になる無限ループのことだったりするの?
そんなの嫌だ。死ぬのも怖いけど、もっと怖いのは、何度も死んで同じ痛みを繰り返すことだ。多分これから断頭台にかけられる。騒ぐ王子に現状を再確認しようとする。…………王子さま! あなた、すでにこの子殴り殺しちゃってるんじゃないの! 死刑にしても飽き足らないって、もうすでにやることやってるんだわ。
私はブレスレットや服が最後の記憶のイザベラのそれと一致するのを確かめて、やはり公爵令嬢イザベラ・ルードイッヒになっている今の自分に絶望した。そう、やっぱり走馬灯で流れた記憶の持ち主の子だ。
さらに周囲の状況がはっきりしてきた。王子の背後に隠れる様にしてこちらを見て嘲笑う女、イザベラがかつていじめていた女―― 男爵令嬢カトリーヌが立っているのが見えた。そう、あの泥棒猫。王子を奪った張本人だ。
それが原因でいじめられていたのだから、悪いのはあんたの方でしょ! 私はイザベラに少しだけ、いやかなり同情している。
その時、私の脳裏に閻魔大王の冷たい声が響いた。「お前もだろう」という言葉が、耳の中でしつこく繰り返される。その瞬間、思わず顔をしかめた。私はあの男を取ろうとしたわけじゃないし、男たちが勝手に私に寄ってきただけ。それを少し、教えてあげただけなのに――。今度は取られる立場を味わえってこと?
閻魔大王が裁きの場で、私の行動をいちいち取り上げて溜息をついていたのはさっきのことだ。
でも私だって、私だって酷いいじめにあっていたよ。倍返ししてやっただけじゃない。倍返しして何が悪いのさ!
泣き寝入りしてればよかったわけ? そうすれば死なずに済んだのかしら? え……そのせいで死んだの? そりゃ揉み合いになって車に轢かれちゃったわけだけど。
再び現実に戻ると、王子の声が更に響く。彼が私を死刑にする理由を延々と叫び続けている。どうしてこんな目に遭わなきゃならないのか。悪いのはあの女。愚かな王子は騙されて、有る事無い事イザベラの悪口を聞かされ続けたのだろう。イザベラを信じず、婚約を解消して、今もイザベラを責め続けている。こんなことになるとは思わなかった。だけど、今ここにいるのは――イザベラとしての私。
私はこの現実を受け入れるしかないのか?
立ち上がりかけたものの、すぐに再び膝が崩れた。土下座して謝る? それが最良の方法だろうか? でもどうしても、それができない。だって、あのカトリーヌが許せない。あの女が王子を奪ったのが、すべての始まりだ。そうじゃないか。私だけが悪いわけじゃない。
冷静になるとこのままではまずいのは分かる。ここはなんとか断頭台だけでも回避しなければ。
だがーー。
私はくびれた腰に手を当て、ふんすと胸を張る。そして右手を挙げて「ビシ!」という効果音が響くようにカトリーヌを指差す。
「悪いのはあんたでしょう!」
……言ってしまった。我慢できずに言ってしまった。なんてはしたない言葉使い。貞淑な公爵令嬢にはあるまじき大胆極まりない行ない。
殴り飛ばされた私に集まっていた視線が一気に指さされたカトリーヌに集まる。
それに気付かぬカトリーヌがヘインズ王子の背中でペロリと舌を出して挑発する。おのれー、男の前だけで潮らしくしおってー! 思わず拳を力強く握ってしまう私。完全にカトリーヌが生前の恋敵とシンクロする。イザベラの無念を晴らしてあげたいというよりもう自分はイザベラになっている。そう、今の私はイザベラだ。彼女の記憶、人生を引き継いでいる。
「イザベラ! まだ改心できないようだな。その反抗的は目つき、もう一発殴られたいか?」いや王子、あんたが殴りたいだけでしょう! 一度殴り殺しておいて、まだ足りんのかーい。
ここに至っては、王子の心はカトリーヌのもの。もう二度と戻ってくることはない。私という婚約者がありながら王子も王子だ。一夫多妻だからって結婚前からそれはないでしょう! しかも学園内でおおっぴらに……イザベラが不憫でならないわ。私はこのヘインズ王子が大嫌いになった。
元をただせばあんたが悪い! ……と言いたかったが、殴られた顎が腫れて言葉が出ないし、王子にそんなことを言ったら不敬罪で罰せられる。死刑が確定するようなことをするのは大馬鹿である。……もうすでに確定(閻魔談)だって?
グランクラネル王国第一王子ヘインズ・クラネルは、金髪碧眼整った顔立ちで、見た目だけは王太子として十分であるが中身は平凡以下の下衆野郎だ。コロッとカトリーヌに騙されているところがその証拠である。
言い返せない私に向かって馬鹿王子が偉そうに告げる。
「この女を牢につなげ! 追って沙汰を言い渡す!」
王子の顔に死刑と書いてある。
こりゃあ、死刑の無限ループいきだとあきらめる。顎が痛くて口もきけなければ、兵士に掴まれて抵抗もできない。観念して兵士に連れられ地下の牢にぶち込まれる。兵士さんったら、公爵令嬢の私に容赦ないんですけど。少しは優しく扱ってよ。
悪役令嬢に転生したのは間違いないが、もう少し前から転生できれば、死刑は避けられたのにと閻魔の顔を思い出して唇を噛んだ。『無限ギロチンの刑』だからしょうがないか…………。
牢に入れられ少し冷静になって、ここからできることは無いかしらと考えた。勿論脱獄する方法だ。
夜明け前の冷たい空気が、広大な草原に張り詰めるような緊張感をもたらしていた。蒼白い月が空に浮かび、雲間から薄明が差し始める頃、ベルシオン軍は静かに行軍を続けていた。その進軍は静かでありながら、確かな威圧感を放っていた。 甲冑の擦れる音、馬蹄が土を踏みしめる重厚な響き、そして無言のまま進む兵たちの影。それら全てが、練度の高さを物語っている。戦場に立つ者であれば、誰もがこの軍勢の規律と力を一目で悟るだろう。 軍の先頭を進むのは漆黒の馬にまたがるルーク・ベルシオン。その姿はまるで闇を纏う戦神のようだった。彼の黒鎧が薄明の光を鈍く反射し、背後には彼に忠誠を誓う精鋭たちが従う。その中でも、彼の右手に控えるケインズと、左手に並ぶガリオンは特に目を引いた。 ケインズは冷ややかに馬を進めながら、遠くに広がるスピネル軍の陣を一瞥した。彼の表情に迷いや不安はない。むしろ、すべてを見通しているかのような余裕があった。 「リチャードは手をこまねいている。いや、どう動くべきかも判断できていないというべきか」 彼の言葉には、嘲るような響きが混じっていた。 「奴はこれまで一度も"選択"をしたことがない。ただ、周囲の言葉に流され、その場しのぎの決断を繰り返してきただけだ。今も同じだ。突然戦場に現れた我らにどう対処すべきか、考えがまとまらぬまま狼狽している」 ルークは静かに頷いた。 「ならば、我らの手で選択肢を削ぎ落としてやればいい」 一方、ガリオンは豪快に笑いながら馬を進めた。 「まったく面白みのない王だな。敵に回すなら、もう少し骨のある奴のほうがやりがいがあるってものだ」 「奴が面白いかどうかは問題ではない。どうせじきに消える者だ」 ケインズが淡々と告げると、ガリオンは肩をすくめた。 「そうだな。だったら、早めに片をつけようぜ。俺は手応えのある戦がしたいんだ」 「手応えなら、これからたっぷり味わえるだろうよ」 ルークは不敵に笑いながら、スピネル軍の陣へと目を向けた。 スピネル王国軍の陣営が見える距離まで進軍すると
一方、スピネル王国内部では、戦の混乱が頂点に達していた。リチャード王の軍はエクロナス城を包囲し、兵糧攻めに出ていた。しかし、その包囲には思わぬ綻びがあった。 城の一角、闇に紛れるようにして兵が動いている。リチャード王の兵が見張る中、誰にも気づかれぬよう密かに城壁の外へと物資を運び込む影があった。「よし、運び込め……急げ。」 命じたのはオーガスト・ドレット伯爵。彼の瞳は夜の闇よりも冷たく光り、慎重に周囲を見渡している。密かにジェームズ側へ通じる補給路を開き、エクロナス城内へ食料や武器を流していたのだ。 城内では、ジェームズ公爵が険しい表情で地図を睨み、焦りを隠そうともせずに呟いた。「リチャードの包囲は厳しいが、まだ終わってはいない。我々には、最後の一手がある……」 蝋燭の灯りが地図の上を揺らし、戦局を映し出す。補給が続く限り、彼らには戦う余地がある。しかし、それも長くは続かない。リチャード軍がさらに包囲を強化すれば、いずれ飢えと病が城を蝕むことになる。 その時だった。 広間の扉が勢いよく開き、伝令が駆け込んできた。彼の顔には緊張が滲み、息を切らせながら叫んだ。「ジェームズ様!ベルシオン軍がスピネル領へ進軍を開始しました!」 広間の空気が凍りつく。ジェームズ公爵は一瞬言葉を失ったが、すぐに目を鋭く光らせた。「……ベルシオンが動いたか」 その言葉には、焦りと期待が入り混じっていた。 リチャード王の困惑 エクロナス城を包囲するリチャード軍の本陣にも、同じ報せが届いた。「ベルシオン軍が進軍中?」 リチャード王は豪奢な椅子に深く腰掛け、手にしていた酒盃を傾けかけたまま、訝しげに兵士を見つめた。「ま、待て……奴らは何のつもりだ?この戦は私とジェームズの争いだぞ?」 室内の空気がざわつく。彼の周囲には重臣たちが集まり、困惑の表情を浮かべていた。その中で、ただ一人冷静だったのは、ネルソン・スカバル公爵だった。「ベルシオンはこの戦の勝者を見極めるつもりでしょう。あるいは、
夜明けとともに、ベルシオン軍は威風堂々と進軍を開始した。漆黒の軍旗が朝焼けに揺れ、整然と並ぶ兵士たちの甲冑が朝陽を反射し輝く。ルーク・ベルシオンは馬上で静かに進軍を見つめ、冷徹な視線の奥に揺るぎない自信を宿していた。彼の側にはガリオン将軍が不敵な笑みを浮かべ、ケインズ参謀は冷静に作戦を再確認していた。 途中、ルークは別動隊を編成し、馬上から力強く貴族たちの名を呼んだ。「マルク公爵、アレン子爵、バートランド子爵、カッパー侯爵、ユーロ公爵——貴公らに別動隊を任せる!」 貴族たちはそれぞれ馬を進め、ルークの前に整列した。「南部の城はほぼ無防備だ。速やかに制圧し、補給線を確保せよ。」「存分にやらせてもらおう。」マルク公爵が静かに頷き、部隊の方を振り返る。 ルークはマルク公爵の肩を叩き、静かに言った。「貴公には別動隊の士気を託す。確実に戦果を挙げてくれ。」「王の期待に応えるのが我々の務めです。」マルク公爵は敬意を込めて一礼し、すぐさま馬を駆って部隊の先頭へと向かった。 ベルシオン軍の進軍は本格化した。王直属の本隊が主力として北へ向かう一方、南部制圧を担う別動隊が迅速に行動を開始する。先陣を切るのはケルシャ城主マルク公爵、そしてアレン子爵、バートランド子爵、カッパー侯爵、ユーロ公爵という歴戦の将たちである。 マルク公爵は馬上で地図を広げ、冷静な目で戦略を練る。彼の指が示したのは、スピネル王国南部に点在する小城や要塞だ。「リチャード王が軍を率いている今、南部の防備は手薄。迅速に各地を制圧し、補給線を確保する。アレン、バートランド、お前たちは騎兵を率い、東方の城を抑えよ。カッパー、ユーロ、お前たちは西方から圧力をかけつつ、可能なら無血開城を狙え。」 アレン子爵は口元をほころばせ、「ようやく腕が鳴るな」と呟いた。彼は機動戦を得意とする将であり、彼の率いる騎兵部隊はその速さと突撃力において右に出る者はいない。「バートランド、俺の後ろに続け。いつものように、俺が道を切り開く。」「お手並み拝見といこうか。」バートランド子爵が静かに笑いながら剣の柄を握る。彼は慎重かつ
夜明け前の薄闇の中、ベルシオン王国の軍営地に重厚な軍靴の音が響いていた。鎧の擦れる音、馬のいななき、戦旗が風を切る音が、冷えた空気を震わせる。長い列を成す兵士たちは静かに武器を構え、これから始まる戦いへの覚悟を噛み締めていた。 イザベラは城の城壁の上から、その光景を見下ろしていた。風が長い栗色の髪を優雅に揺らし、彼女の碧眼は遠くの地平を見据えている。大地を踏みしめるベルシオン軍の姿は、まるで地を這う黒鉄の奔流のようだった。 軍の先頭には、漆黒の軍装に身を包んだルーク・ベルシオン王がいた。濡羽色の髪が風に舞い、その瞳には確固たる決意の炎が宿っている。彼は堂々と馬上に立ち、静かに前を見据えていた。隣には、銀髪赤眼の猛将ガリオンが戦馬『黒龍王』に跨り、鋭い視線を前線へと向けていた。ハルバードを携えたその姿は、戦場に舞い降りる銀狼そのものだった。 その後方には、知略の要であるケインズが控えている。金髪碧眼の知将は冷静な表情を崩さず、時折メガネを押し上げながら戦況を見極めるように軍列を見渡していた。その傍らには、マルク公爵やケント公爵、そして若きベルク侯爵らが騎乗し、それぞれの軍を率いていた。「……とうとう行くのね」 イザベラは小さく呟いた。彼女の言葉は誰にも届かないが、その声音には確かな感情が宿っていた。戦場に向かうルークを見送ることは、これが初めてではないはずなのに、策略をめぐらし確実に勝てる状況を作ったはずなのに、万に一つも不安はないはずなのに、今日に限って胸の奥がざわめく。 まさか、私、ルークを心配しているの? それとも……。 ルークがふと振り返った。城壁の上のイザベラを見つけると、彼は微かに口角を上げ、まるで「必ず勝利して戻る」と告げるように視線を送った。 それに応えるように、イザベラはそっと頷いた。王として進む者と、それを見送る者――その立場の違いが、二人の間に張り詰めた緊張を生んでいた。「総員、進軍!」 ルークの号令が響き渡った。その瞬間、大軍が一斉に動き出す。無数の馬蹄が地を叩き、武器の鈍い輝きが朝日の中できらめく。黒鉄の奔流は、スピネル王国へ向かい、嵐のごとく駆け出した。
夜の帳が静かに降りる頃、冷たい風が窓辺をかすめた。城の中庭は深い闇に沈み、遠くで梟が低く鳴き、それもすぐに静寂へと溶けていく。揺らめく蝋燭の炎が壁に影を落とし、部屋の中はぼんやりとした橙色に染まっていた。イザベラは深く椅子にもたれ、指先でグラスの縁をなぞりながら静かに思索に耽っていた。ワインが僅かに揺れ、今にも溢れそうになる。その瞬間、扉がそっと叩かれた。「お嬢様。ベルシオン軍が、カーネシアン王国を無事征服いたしました」 低く、けれどどこか柔らかい声が響く。黒髪をきちんと撫でつけた執事、セバスの姿をした男――だが、その瞳に宿る鋭さは紛れもなく
その夜、カッパー侯爵のもとに密書が届けられた。 静まり返った陣営の中、揺らめく燭台の光の下、机の上に一通の封書が置かれていた。誰が運んだのか、どのようにして届いたのか、誰一人として気づいていなかった。ただ、そこには確かにベルシオン軍の印が刻まれていた。 震える指先で封を切ると、そこには短く冷酷な言葉が並んでいた。『汝の妻子は我が軍が保護している。彼らの命運は汝の選択に委ねられている。投降し、オリバー王を討ち取れ。さすれば、全てを返還する』 カッパー侯爵は密書を握りしめ、ふっと息を吐いた。目を閉じ、一瞬の沈黙の
ケインズ隊千は、闇に紛れて間道を進んでいた。湿った土の感触が靴底から伝わり、冷たい夜気が頬を撫でる。遠くの森では、獣の遠吠えがかすかに響いた。トリオラ城の裏門が見え始めると、漆黒の城壁が夜空に沈み込むようにそびえ立っていた。石造りの壁には冷たい露が張り付き、月明かりを受けてわずかに光っている。一方、ルーク率いる本隊は、血の匂いを孕んだ風を受けながら、カッパー軍が陣を敷く戦場へと進軍していた。 ルークの眼前には、無数の戦旗が翻るカッパー軍が整然と並んでいた。旗の布が烈風にはためき、槍を握る兵士たちの指は白く強張っていた。鎧の擦れる音が、張り詰めた静寂を切り裂
「報告! オリバー王の軍2200とウイリアム侯爵軍1000、カッパー軍1000がカードス川の対岸に陣を敷く模様!」 斥候からの報告が入り、ベルシオン軍は川を挟んでの対峙を強いられることが確定した。 ケインズがメガネを押し上げ、口の端をゆるく吊り上げる。「川を挟んで陣を敷き対峙するとして、先に渡った方が負けますね」「そうだな……こちらは5300、敵は4200か。何か良い作戦はあるか?」「そうですね…………カードス川の上流にあるカッパーのトリオラ城を別働隊で攻めると見せかけます。敵が軍を分けて城の救援