All Chapters of 風に散る霧、過ぎし日の痕: Chapter 1 - Chapter 10

22 Chapters

第1話

病院でCRT、すなわち認知機能リハビリテーションを受けていた三浦夢乃(みうら ゆめの)は、警察から一本の電話を受けた。「もしもし、三浦さん。ご主人の墜落事故による行方不明の件で、新しい情報が入りまして......」その言葉を聞いた瞬間、夢乃は嬉しさと緊張で胸がいっぱいになり、点滴を乱暴に抜き取った。目を赤くしながら、急いで警察署へ向かった。しかし――ずっと思い焦がれてきた、あの懐かしい横顔の傍らには、一人の女が立っていた。「ねぇ、礼。私、まだお腹すいてるんだけど?いつまで仕事してるの?早く帰って、私を満たしてよ?」甘えるような声。その奥には、明らかな挑発が滲んでいた。一瞬で、夢乃の期待は奈落へ落ちていった。彼は――一年もの間、事故で失踪した夫の佐藤風雅(さとうふうが)ではなかった。彼はその双子の弟、もうすぐ義妹の三浦茜(みうらあかね)と婚約するはずの男、佐藤礼(さとうれい)だった。再び押し寄せる失望。夢乃は、無理に引き抜いた点滴跡の、青紫に腫れた腕を押さえながら、ひとりで警察署を後にした。視界が熱く滲むまま、暗い通路に歩みを進めたその時――「風雅兄さん!」茜の声が、静寂を裂いた。夢乃は、その場に立ち尽くした。「風雅兄さん。今回は本当にただの誤報で良かったね。もしあの事故で墜落したっていう弟さんに本当に消息があったら──あなたが同じ顔を利用して、彼の身分と婚約者を横取りしてるってこと、全部バレちゃうところだったわよ?」「どうしたの?まさか怖くなった?」「私はね......ただ、夢乃に、またあなたを奪われるんじゃないかって、それだけが怖いの。だって......あの頃、海外であなたと一緒に留学してたとき、彼女が突然会いに来なければ、あなたに婚約者がいるなんて知らずに、あんなふうに傷ついて一人で帰国したりしなかった。それから母と一緒に三浦家に引き取られて......私は三浦家の次女になって、礼と政略結婚することになって──」茜は唇を尖らせながらも、どこか甘えるようにつぶやいた。その仕草に、風雅の瞳がわずかに揺れる。「馬鹿だな。忘れたのか?一年前......俺は会社の研究施設にある記憶ポッドを使って、夢乃の俺に関する記憶は全部整理して消しておいたんだ」――ドーンッ。
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第2話

「絶対に、お前を失望させたりしないから!」その簡潔な返信は、傷だらけの夢乃の心を、かすかに慰めてくれた。そもそも、礼がまだ生きていると電話を受けたとき、夢乃はまだ現実感が持てず、ぼんやりしていた。すべての真相をようやく知らされたばかりだったから、というだけじゃない。電話口で礼が最初に口にした一言が、あまりにも衝撃的だったのだ。「夢乃。やつらが俺たちに押しつけてきたこの茶番、全部まとめてそっくり返してやる気はないか?」最初は、あまりにも馬鹿げた話に思えた。だが、次から次へと重なっていく欺きと傷つけられる出来事の中で、胸の奥にかろうじて残っていた風雅への愛情にも、完全に憎しみが入り込み始めていた。どうせ彼は、佐藤家の次男・礼という身分と、茜という女があれほどまでに気に入っているのだ。ならば自分も、その流れに乗ってやるだけだ。二度と後戻りできないところまで──……翌日。夢乃は一人で退院の手続きを済ませた。病院の外には、すでに父の運転手が車を停めて待っていた。「お嬢様、今日は奥様のご命日です。社長が、ぜひお屋敷に戻ってきてほしいと仰っています」母の優しい顔がふっと脳裏に浮かぶ。夢乃はしばし迷った末、結局そのまま車に乗り込んだ。けれど、三浦家の本宅に足を踏み入れた途端。リビングでは茜と継母が、楽しそうに婚約パーティー用のドレスと祝い菓子を選んでいるところだった。夢乃は眉間に深く皺を寄せ、そのまま歩み寄ると、テーブルを勢いよくひっくり返した。茜の悲鳴じみた叫び声が二階にいた父を呼び寄せる。様子を見下ろした父は、怒鳴りつけるように問いただした。「夢乃、お前はまた何を馬鹿な真似をしているんだ。長いこと家に寄りつきもしなかったくせに、戻ってきた途端、家の中をこんなにかき乱して!」夢乃は鼻で笑った。「そうね。私が長いこと帰ってこなかったせいで、あなた、もうこの家のことを忘れたのかしら。今のあなたの地位も、会社も、全部、私の母の家柄と才能のおかげだっていうのに。三浦健太(みうら けんた)。今日は私の母の命日よ。本来なら家族全員、精進して仏前で手を合わせているべき日でしょう?それなのに、あなたは自分の溺愛する女たちに、私の目の前でこんな縁起でもないことをさせている。私
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第3話

夢乃の父は物音を聞きつけて駆けつけ、仏間の中の光景を目にした。位牌は床一面に倒れ、蝋燭の火は四方に飛び散っている。彼は怒りで顔を真っ赤にし、怒鳴った。「夢乃、お前本気で頭がおかしくなったのか?」夢乃は涙を浮かべたまま、冷たく笑う。「そうよ。私はもう昔の夢乃じゃない。あんたの仏間なんかに、もう私を閉じ込めておけないから!」そう言い放つと、彼女は手にしていたハンマーを振りかぶり、父の目の前の床に叩きつけた。そして、母の写真と位牌だけをぎゅっと抱きしめると、一度も振り返らずに三浦家を出ていった。……けれど車に乗り込み、バックミラー越しにあの家を見たとき、涙はやはり止まってはくれなかった。子どもの頃は温かくて、大好きだった家。父の愛と母の穏やかさに包まれていた日々。それらは、彼女が十二歳の年にはもう、完全にバラバラに壊れていた。その年、夢乃の母は、自分が夫にとって、心に抱き続けてきた女の「身代わり」に過ぎなかったことを知ってしまったのだ。絶望した母はやがて交通事故に遭い、突然この世を去った。母の死後、父はずっと、どこか母に似た女たちを探し続けていた。最初、夢乃はそれを「母を忘れられない父なりの、苦しい自己暗示」だと、無理やり納得しようとしていた。だが、茜の母が姿を現したとき、ようやく思い知らされる。本当の「身代わり」だったのは、自分の母のほうだったのだと。二人が再会すると、父はあっという間に彼女を妻として家に迎え入れた。そして、その女の娘である茜をそれとなく甘やかしてきた。それからというもの、夢乃と父の関係は、ますます水と油のようになっていった。ただ一人、風雅だけが、ずっと夢乃のそばにいた。とろけるような夜のたびに、耳元で何度もささやいてくる。「夢乃。俺は一生、お前を愛してる」けれど今振り返れば、その愛は、糖衣をまとった毒のようなものだった。華やかだが致命的な毒。……夢乃は傷だらけの身体を引きずりながら、東都で昼夜絶えず故人の安らぎを祈るための長寿香が焚かれている福安寺に向かい、そこに母の位牌を納めた。そして、全身の力が抜け落ちたような状態で、ようやく佐藤家へと戻ってきた。だが灯りより先に彼女を照らしたのは、スマホに届いた通知だった。茜が次々とアッ
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第4話

翌日、夢乃は、どたどたとした物音にたたき起こされた。ドアを開けると、リビングのソファでは、風雅と茜が寄り添うようにじゃれ合っている。夢乃はそのまま踵を返し、部屋へ引き返そうとした。だが茜が一歩前に出て、行く手をふさぐ。「お姉ちゃん、今日ね、礼と婚約用のドレスを見に行くの。二人ともそういうの全然分からなくて……よかったら、一緒についてきてくれない?」ふんわりした甘え声の中に、はっきりと挑発の色が混じっていた。夢乃は、彼女の一見人畜無害そうなその顔の奥にある、わざとらしい演技じみた表情をじっと見つめる。軽く笑って、その手を振り払うと、冷たく吐き捨てた。「そうね。あなたの埋葬用のドレスを選ぶっていうなら、私も少しは興味がわくかも」「なっ……」茜は怒りで顔色を失いながらも、歯を食いしばって、いかにも卑屈そうに言葉を継ぐ。「お姉ちゃん、まだ昨日のことで怒ってるの?ごめんなさい……あれ、本当にそんなつもりじゃなかったの……」「そう?」夢乃は眉をわずかに上げ、そのまま一歩、また一歩と詰め寄った。茜は思わずよろめき、前に出てきた風雅の胸に、そのまま倒れ込む。今にも泣きそうなその顔に、風雅の目元にたちまち怒りの色が宿る。「夢乃、いい加減にしろ。お前は何度も何度も茜を傷つけてきた。なのにあいつは、ずっとお姉ちゃんはわざとやってるんじゃないって庇ってるんだぞ。なのに、お前はどうなんだ?今日、茜がお前に一緒にドレスを選んでほしいって誘ってるんだ。あいつをがっかりさせたくない。もし今日付き添うのを断るなら──明日から、お前の母さんの研究用記憶カプセルの管理権を、お前の手から外す」威圧するような言葉に、夢乃はその場で固まった。信じられないものを見るように風雅を見上げ、目の奥にじわりと熱がこもる。茜のためなら、彼は夢乃にとっていちばん大切なものまで平気で脅しに使う。涙で視界がにじんだ瞬間、彼女の脳裏に浮かんだのは、母が恋しいあまりに、悪夢にさいなまれていたあの夜々だった。決まりを破ると分かっていても、夢乃はこっそり研究用の記憶カプセルに潜り込んで、母が残した記憶を何度も何度も繰り返し再生した。風雅が半ば狂ったように彼女を探し出し、見つけたとき。彼は責めもしなかった。ただ強く抱き
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第5話

茜は、あの気まぐれで陰のある顔つきのまま、夢乃の母の位牌の前に立っていた。その手に握られているのは、まさに夢乃の母のために灯されていた長生香だった。夢乃の目元に、瞬く間に怒りの色がさす。けれど茜は、どこ吹く風といった様子で、挑発めいた口調で話し出した。「お姉ちゃんって、本当に親孝行な娘ね。わざわざおばさんをここに安置して、長生香までずっと絶やさないなんて。でもさ、人って死んだらそれまででしょ?今ここでどれだけ騒いだって、男を失ったあなたなんて所詮、名ばかりの嫁でしかないのよ。でも、もう赤ちゃんをお腹に宿してるこの私こそが──いずれ佐藤家の本当の女主人になるんだから」その言葉に、夢乃のまつげがかすかに震えた。伏せた視線の先、茜のわずかにふくらんだ腹を見た途端、胸の奥に細かな刺のような痛みがひっそりと広がっていく。彼女の脳裏に浮かんだのは、かつて風雅と、いちばん激しく愛し合っていた夜のことだった。そのとき夢乃は、期待を込めてこんなふうに尋ねたのだ。「風雅、もし将来、私たちに子どもができたら……男の子と女の子、どっちがいい?」その問いを聞いたときの風雅の目には、彼女のような甘い喜びも期待もなかった。代わりに、声の温度をすっと冷やして、こう言った。「子どものことは、まだ急ぐ必要ないだろ。まずは俺が佐藤家の跡を継いでからでいい。そのときは、男でも女でもかまわない。お前が産んだ子なら、何だって愛するよ」──なのに今の彼は、何のためらいもなく、別の女に子どもを宿させている。そしてその女に、こうして目の前で好き勝手喚かせているのだ。……自分でも呆れるような自嘲の笑みを浮かべながら、夢乃は、込み上げてくる涙を必死に押し殺した。顔を上げ、冷えた声であざけるように言う。「そう……茜。男と寝るのなんて、たいしたことじゃないわ。本当にものを言うのは、その男を最後まで自分のそばに置いておけるかどうかよ。ねぇ、風雅が──あなたのこのきれいな皮一枚の下に隠れてる、残酷で陰湿な本性を知ったら。それでも、あなたを愛してくれると思う?」茜の笑みが、その瞬間ぴたりと凍りつく。挑発すれば夢乃が取り乱すと踏んでいたのに、彼女は少しも動じない。返ってくるのは、軽蔑と嘲りばかりだった。込み上
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第6話

再び目を開けたとき、夢乃は病院の病室にいた。医者が、火傷した彼女の皮膚を丁寧に処置している。そのすぐそばの椅子で、風雅が冷たい表情で腰かけていた。彼は、夢乃が目を覚ましたのに気づくと、どこか強張っているが心配そうな目でこちらを見つめた。「夢乃。昨日は俺が感情的になりすぎた。でも、お前だっていつも茜を目の敵にしすぎだろ。ましてや、あいつを熱い香灰の中に突き飛ばすなんて、絶対にやっちゃいけないことだ。……とはいえ、お前ももう十分痛い目を見ただろ。この件は、ここで水に流そう。これから先、二度と茜をいじめず、ちゃんと仲良くやってくれるなら──この一生、俺は兄貴の代わりに、お前のことをきちんと守る」その言葉を聞いた瞬間、夢乃は顔を上げた。目の前のきれいごとを並べる風雅の顔が、ひどく偽善的に見えてしまう。思わず口元に冷たい笑いが浮かんだ。「それはそれは、佐藤家の次男坊からのありがたいお情けね。でも残念。もういらないわ。もう佐藤おじいさまにはお話ししてきたの。警察からお兄さんの死亡診断書を正式に受け取ったら、そのまま離婚の手続きに入るわ。だって、人生はまだ長いもの。人間、どこかで執着を手放すことも、覚えなきゃいけないでしょう?」風雅は、その言葉に呆然と立ち尽くした。信じられないという顔で夢乃を見つめ、思わず聞き返す。「どういう意味だよ。それって、お前もう俺……の兄貴を待たないってことか?」夢乃は視線を外し、淡々と続ける。「もう一年よ。警察でさえ捜索を打ち切ったのに、どうして私だけが、いつまでも足を止めていなきゃいけないの。きっと、私を愛してくれたあの人だって、私に一生独りで生きろなんて、望んでないはずだわ」「でも……まだ兄貴の遺体は見つかってない。それって、まだ望みがあるってことだろ?本当に、もう少し待てないのか?」風雅は半ば取り乱したように身を乗り出し、夢乃の肩をぐっとつかんだ。心の奥底で、理由の分からない強い焦りと苛立ちが、じわりと膨れ上がっていく。視線がぶつかり合う中で、夢乃はふっと口角を上げる。だが、何も答えない。ただ、彼の手を振りほどき、そっと目を閉じてベッドに横たわった。病室の中は、針が落ちる音さえ響きそうな静けさに包まれる。その静寂が、理由もなく風雅の
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第7話

「なっ……何よ、それ……どういう意味?」「どう思う?茜」夢乃の鋭い視線に正面から射抜かれ、茜の頭の中に、雷でも落ちたような衝撃が走る。震えるまつげのまま、彼女はおそるおそる夢乃を見つめ、探るように口を開いた。「もしかして……何か、思い出したの?」その言葉に、夢乃はふっと笑い声を漏らす。「どうしたの?私が失くした記憶の中に、あんたがそこまで怯えるようなものでも隠れてるわけ?」茜は一瞬だけ呆けた顔をしたが、すぐに取り繕った表情がゆがみ、慌てた色が憎々しさに変わる。「夢乃、調子に乗らないで。自分を何様だと思ってるの?三浦家でのあんたなんて、とっくに追い出された出来損ないよ。佐藤家じゃ、居候同然の可哀想な厄介者でしかないくせに!言っとくけどね、私、あんたみたいに偉そうにしてる女が一番大嫌いなの。生まれが令嬢だろうが、母親が正妻だろうが、結局、あんたたち母娘は私とママに踏みつけられる立場でしかない。負け犬根性って、親子でちゃんと受け継がれるんだね。生まれつき手に入れる運はあっても、それを受けるがない──そういう女って、心底みじめね」そのあからさまな挑発に、夢乃の中で、長年積もり積もっていた怒りがついに弾け飛んだ。彼女は一気に距離を詰め、「パァンッ!」と勢いよく茜の頬を打ちつけた。続けて、夢乃の手は、その細い首筋へと滑っていった。怒りとともに指に込める力は、どんどん強くなっていく。「茜。これ以上私の母の悪口を一言でも吐いてみなさい。今日ここで、あんたとその腹の子、まとめて終わらせてあげる」「や、やれるもんならやってみなさいよ!」茜は恐怖に引きつった顔で叫ぶ。夢乃は、薄く口角を持ち上げた。「そんなに言うなら、試してみる?本当に私にやれるかどうか」酸素が足りなくなっていくせいで、茜の顔はみるみる赤く染まり、呼吸も荒く乱れていく。そのとき、研究室のドアが乱暴に開かれた。飛び込んできた風雅の顔色が、一瞬で暗く険しくなる。彼は一直線に駆け寄ると、夢乃を乱暴に突き飛ばし、茜を腕の中に抱き寄せて、必死に宥めた。茜は身を震わせながら、涙声で訴える。「礼……私、ただ記憶カプセルの仕組みを知りたくて、少し見てただけなの。そしたらお姉ちゃんが急に怒り出して……もし私が触ったら殺
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第8話

夢乃がふたたび目を開けたとき、風雅は彼女の手をぎゅっと握りしめていた。開口一番、あわてて問いかける。「どう?どこか気分悪くない?」夢乃は答えなかった。ただ、虚ろな表情のまま彼を見つめ、それから、そっと、しかし冷たくその手を引き抜いた。見慣れないよそよそしさに、風雅は一瞬、固まった。彼は夢乃の血の気のない無表情な顔を見つめ、胸の奥に得体の知れないざわめきがふつふつと湧き上がるのを感じた。「夢乃、この前研究室で起きたことは、設備の故障なんだ。急に漏電して……だからあんな――」「……何の話?」夢乃が首をかしげて口を挟む。言葉を遮られた瞬間、風雅はようやく、彼女の瞳の奥がどこか空っぽなことに気づいた。そして、おそるおそる問いかける。「……俺のこと、まだ分かるか?」夢乃はわずかに視線を上げ、当たり前のように口元をゆるめた。「もちろん。礼。風雅の弟で、私の義弟さんでしょ?」その言葉を聞いた風雅の笑みは、そこで凍りついた。本来なら、聞きたかったはずの答えだ。なのに、胸の奥には理由の分からない不安と焦りが一気にこみ上げてくる。さらに何か聞こうとしたそのとき、病室のドアが勢いよく開かれた。頭を押さえながら入ってきた茜が、夢乃の前でいかにも心配そうな顔を作る。「お姉ちゃん、やっと目が覚めたんだね。きっと最近、働きすぎなのよ。そのせいで会社で急に倒れちゃって……でも無事で本当によかった。ねえ、明日の私たちの婚約パーティー、お姉ちゃんはブライズメイドなんだから、絶対来てくれるよね?」探るような、挑むようなその言い方に、夢乃の唇がふっとわずかに持ち上がる。「もちろん。あなたたちの婚約パーティー、必ず時間どおりに行くわ。それに、心を込めたお祝いも持っていくから」茜はその言葉に、得意げに口角を跳ね上げた。一方で風雅は、こんなにも静かな夢乃を前に、どこか現実感を失っていた。それでも、茜が甘えた声で急かしながら腕を取ってくるので、そのまま病室の外へと連れ出され、深く考える余裕をなくしてしまった。……病室のドアが閉まった瞬間、夢乃はようやく仮面をすべて脱ぎ捨てた。はっきりした意識の奥で、自分でこっそり調整しておいた設定が、今回も働いたのだと分かる。ひどい苦痛を味わされはしたが、記憶そのものは
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第9話

礼は、場内の視線を正面から受けながら、きっちりと仕立てられたスーツ姿で、夢乃のそばへ歩み寄った。ほとんど一瞬のことだった。風雅の瞳孔が、ぎゅっとすぼまった。さっきまで喜びを浮かべていた顔が、たちまち言葉にできない驚愕で埋め尽くされた。宴会場の客たちは、さらに大騒ぎになる。「なんてことだ、一年も行方不明だった佐藤家本家の跡取りが、生きてたなんて!」「たしか、今日って本来は彼と三浦家のお嬢さんの結婚式の日だったはずだろ」「佐藤会長、今日は本当におめでた続きですな!」あちこちから沸き起こるひそひそ声に、呆然としていた風雅も、ようやく我に返った。人垣の向こうで、礼がどれほど深い眼差しで夢乃を見つめているか。それを見た瞬間、風雅の眉目には暗く鋭い怒りがさっと走る。まさか「礼」という存在がまだ生きていて、長男の身分を掲げて戻ってくるとは――風雅は、こみ上げる怒気のまま前へ飛び出した。自分の身分を奪おうとしている、この男がなりすましであると暴こうとしたのだ。だがその前に、屈強な警備員に横から押さえられてしまう。「礼様。風雅様からお達しが出ております。本日は風雅様と夢乃お嬢様の記念式典、改めて結婚式を行う日。式を乱そうとする者は、誰であれ中へは通すなと」その言葉に、風雅は制御を失ったように怒鳴り散らした。「よく目ぇ開いて俺が誰か見ろ!あいつは本物じゃない……あんなやつに夢乃を娶る資格なんてない!」どれだけ怒鳴りつけても、警備員の腕はびくともしない。結局、彼はただ見ていることしかできなかった。礼に手を引かれ、夢乃が式場の方へ歩いていくのを。並んで歩く二人の親しげな姿に、風雅の胸の妬みは頂点に達した。彼は力ずくで拘束を振り払い、駆け寄って夢乃の肩を強くつかんだ。「夢乃、あいつと結婚しちゃダメだ。あいつは――」「何だって?俺の可愛い弟よ」礼が、ふいに近づいてきて、夢乃を自分の腕の中へと引き寄せた。「俺が戻ってきたのが、そんなに気に入らないのか?」「黙れ!」風雅は、礼の胸ぐらを乱暴につかみ上げ、耳元で歯を食いしばるように言い放つ。「お前が何者かなんて、俺とお前が一番よく分かってるだろ!どれだけ好き勝手やろうが構わない。でも結婚は遊びじゃない。これ以上の勝手は、絶対に許
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第10話

「もう気は済んだか?」佐藤家の祖父の声は腹の底から響き渡り、その眼差しには鋭い詮索の色が宿っていた。「十分に暴れたなら、お前があれだけ苦労して仕組んだ婚約を、さっさと済ませてこい」風雅は、その言葉にその場で固まり、信じられないものを見るように顔を上げた。「じいさん、俺は……」だが、祖父の次の一言は、彼を奈落の底へ突き落とす一撃だった。「風雅。小さい頃から甘やかしてきたせいで、兄弟同士で骨肉の争いをするのが、わしの一番のタブーだということを忘れたらしいな。兄弟を陥れて身分をすり替え、そのうえ夢乃を傷つけるとは……本気で、この家を手のひらに転がせれているとでも思っているのか?そこまで礼の名と彼の女が欲しいなら、今日はこのじいさんが、きっちりお前の望みどおりにしてやろうじゃないか」その宣告は雷鳴のように頭の中で炸裂し、風雅は、その場に崩れ落ちた。彼は取り乱して祖父を見上げ、目を真っ赤にして懇願する。「違うんだ、じいさん、俺の話を聞いてくれ!」だが祖父は、聞く気などかけらもない。ただ冷たく言い捨てた。「風雅。佐藤家から完全に叩き出されたくないなら、自分で撒いた種は、自分の身で刈り取れ」風雅は、完全に茫然自失のまま、その場に立ち尽くした。祖父の部下たちに両腕をつかまれ、隣の婚約パーティー会場へと引きずられていった。そこで、茜との婚約式が始まるのを待たされることになる。……婚約式は予定どおり続行する――そう知らされたとき、さっきまで風雅のことで乱れていた茜の心は、一気に落ち着きを取り戻した。なぜ礼が風雅の身分を名乗って戻り、しかも夢乃と結婚することになっているのか。その理由は分からない。それでも、今日だけは何があっても、この婚約を最後までやり切らなければならない。人前で笑いものになるわけにはいかないのだ。なにしろ、本当の佐藤家本家の長孫は風雅。そして佐藤家ほど、長幼の序と格式を重んじる一族でもない。いったん自分たちの婚姻が既成事実になってしまえば、たとえあとで何かが暴かれようとも、いずれ自分は佐藤家の女主人になる。茜は、そう信じていた。音楽が流れ始めた瞬間、隣の宴会場のサイドドアが開く。茜は、ハイブランドのオートクチュールのドレスに身を包んでいた。メイクも衣装
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