Mag-log in病院でCRT、すなわち認知機能リハビリテーションを受けていた三浦夢乃(みうら ゆめの)は、警察から一本の電話を受けた。 「もしもし、三浦さん。ご主人の墜落事故による行方不明の件で、新しい情報が入りまして......」 その言葉を聞いた瞬間、夢乃は嬉しさと緊張で胸がいっぱいになり、点滴を乱暴に抜き取った。 目を赤くしながら、急いで警察署へ向かった。 しかし―― ずっと思い焦がれてきた、あの懐かしい横顔の傍らには、一人の女が立っていた。 「ねぇ、礼。私、まだお腹すいてるんだけど?いつまで仕事してるの? 早く帰って、私を満たしてよ?」 甘えるような声。 その奥には、明らかな挑発が滲んでいた。 一瞬で、夢乃の期待は奈落へ落ちていった。 彼は―― 一年もの間、事故で失踪した夫の佐藤風雅(さとうふうが)ではなかった。 彼はその双子の弟、もうすぐ義妹の三浦茜(みうらあかね)と婚約するはずの男、佐藤礼(さとうれい)だった。 再び押し寄せる失望。 夢乃は、無理に引き抜いた点滴跡の、青紫に腫れた腕を押さえながら、ひとりで警察署を後にした。 視界が熱く滲むまま、暗い通路に歩みを進めたその時―― 「風雅兄さん!」 茜の声が、静寂を裂いた。 夢乃は、その場に立ち尽くした。
view more夢乃の細やかな看病のおかげで、礼は思ったより早く退院できた。家に戻ったその日。礼は、主寝室に運び込まれた服や洗面道具の山を見て、思わず目を瞬かせた。そこに並んでいたのは、すべて彼の私物だった。一瞬、現実感がふっと遠のく。そして、夢乃があの日記とアルバムを、そっと彼の前に差し出した。そのときようやく礼は気づいた。何年も胸の奥に隠し続けてきた想いが、とうとう彼女に届いたのだと。……三か月後。礼は正式に佐藤グループへ復帰した。だが、佐藤家の後継としてトップに立つ道は選ばなかった。祖父にきちんと頭を下げ、「自分の人生を、自分の足で切り開きたい」と告げたのだ。祖父は名残惜しそうにしながらも、死線をくぐり抜けた孫の決意を前に、最後にはその背中をそっと押してやることにした。一方で夢乃も、母が残した研究成果と、自分が積み上げてきた最新の研究データを、すべて国に譲渡した。母が残してくれたものが、これから先、もっと多くの人たちの「大切な記憶」を守り、取り戻す力になりますように――彼女はそう願いながら、静かに手放した。……母の記憶カプセルを見納めるため、最後にもう一度だけ研究室を訪れた日。装置の前に立ち尽くす夢乃の前で、礼が、ふいにきちんと片膝をついた。「夢乃。長いあいだ、馬鹿みたいにお前だけを想い続けてきた礼のところに――お嫁に来てくれませんか?今度こそ、本当の妻になってほしい」まっすぐで真剣なその眼差しを見て、夢乃は涙をにじませながら、こくりと頷いた。……翌日。礼は、ピンク色の芍薬の花束を抱え、市役所の入口で夢乃を待っていた。朝日が昇るにつれ、二人は一緒に中へ入り、そしてまた、一緒に外へ出てきた。そのときにはもう、婚姻届の「夫」欄には、礼の名前が端整に記されていた。朱色の公印が押されたその紙を見つめながら、礼は幸せそうに笑い、夢乃をぎゅっと抱き寄せ、耳元でささやく。「ねえ夢乃、芍薬の花言葉、知ってる?」「もちろん。誠実で、変わらない愛でしょ。だからさ、これからはちゃんと奥さんって呼んでよ。完全無欠、礼だけの妻。これから先の人生、最後まで一緒に歩くパートナーだからね」木漏れ日が、風に揺れる葉の隙間からこぼれ、礼の瞳にきらきらと差し込む。彼は涙を浮か
礼は、夢乃の無事をこの目で確かめてから、ようやくその場に崩れ落ちた。全身を真っ赤に染める血を見た瞬間、夢乃の頭の中は真っ白になった。彼女は礼の手をつかみ、涙をぼろぼろこぼしながら、震える声で繰り返した。「礼、寝ちゃだめ……ねえ、起きてよ。お願いだから、目を開けて、私を見て……」その瞬間、夢乃は、母を失ったあの日の、あのどうしようもない痛みと絶望を、もう一度突きつけられたような気がした。彼女は、拠り所のない子どもみたいに、救急救命室の前でしゃがみ込み、ひたすら彼の無事を祈り続けた。けれど、やがて医者が出てきて告げたのは――「手術自体はうまくいきました。ただ、弾丸が心臓にあまりにも近くて……いつ目を覚ますかは、本人の生きようとする意思次第です」その言葉を聞いた途端、夢乃は膝から崩れ落ち、あふれ出した涙が止まらなくなった。佐藤家の祖父が、ひとりの孫は終身刑、もうひとりの孫は重体で目を覚まさない、との報せを受けたとき。たった一晩で、彼は十歳も老け込んだように見えた。誰もが「礼はもう目を覚まさないかもしれない」と思い始めたころ。ただひとり、夢乃だけは、「彼はきっと戻ってくる」と信じて疑わなかった。……礼が昏睡状態の間、夢乃は、彼の体を自分の手で拭いてあげることにした。そのとき、ふと彼の背中に、古い傷跡があるのを見つけてしまった。夢乃は、その場で固まった。震える指先でそっと触れると、目尻からじわりと涙がにじみ出る。記憶が一気に蘇る。まだ子どもだった頃、うっかり罠穴に落ちたことがあった。あの日、どしゃ降りの中、自分を助けに飛び込んできて、鉄筋に肩を貫かれた人がいた。――あれは、礼だったのだ。けれど目を覚ましたとき、ベッドのそばにいたのは風雅だけ。大人たちは、礼は母親と一緒に海市の夏目家に戻った、としか説明してくれなかった。そのあとも、風雅の身体には、それらしい傷一つ見当たらない。だから夢乃は、あの雨の中の光景は、自分が混乱して見た夢か何かだと思い込んでいた。いま、礼の背中の傷跡を指先でなぞりながら、視界は涙でにじんでいく。……その後、どうしても自分が付き添うと言い張る祖父に病室を任せ、夢乃は一度家に戻り、礼の着替えを用意することにした。荷物を整理しているとき、う
砕けた陽の光が、薄暗い空間の中にまだらに差し込んでいた。その光が照らし出したのは、少し離れたところにいる、やつれ果てた風雅の姿だった。たった数日で、彼は一回りも二回りも痩せたように見える。頬はすっかりこけ、目は充血して真っ赤になっている。夢乃が目を覚ましたのを見ると、風雅は震える声で問いかけた。「夢乃……お前、もしかして……全部、思い出したのか?」探りを入れるような言い方だった。「いつのことを聞いてるの?最初、何の防備もなく、あなたに記憶をぐちゃぐちゃに消されたときのこと?それとも、茜と手を組んで、無理やり電撃で記憶を消そうとしたとき?」その言葉に、風雅はその場で凍りついた。「じゃあ、お前……そのあとずっと……」「そのとおりよ、風雅。がっかりした?自分が猿みたいに弄ばれてたって知った気分は、どう?」夢乃は顔を上げ、まっすぐ彼を見た。その瞳には、もはや一片の迷いもなかった。鋭い言葉は、鋭利な刃物のように、容赦なく風雅の胸に突き刺さる。心臓を握りつぶされるような痛みに、彼の心が震えた。覚悟はしていたはずなのに、その事実をはっきり突きつけられた瞬間、頭の中は真っ白になった。目を真っ赤にしたまま、風雅はふらふらと歩み寄り、問いかけた。「いつから、知ってたんだ……?」「それって、そんなに大事なこと?全部、自分で選んだことでしょ。だったら、その選択の代償は、自分で払うべきじゃない?」「違う――!違うんだ、俺はお前を愛してる。ただ茜っていうあのクズ女に騙されて……」風雅は飛びつくように近づき、夢乃の手をつかんだ。喉が詰まり、声にならない嗚咽をこらえながら、必死に言葉を絞り出す。「夢乃、信じてくれ。俺が愛してるのは、ずっとずっとお前だけなんだ。分かってる。これまでしてきたことは全部俺が悪かった。でも、この間のお前のわがままも騒ぎも全部気にしない。この期間に、お前と礼の間に何があったって、それもどうだっていい。ただ、お前が俺のところに戻ってきてくれればいい。もう一度やり直そう。な?頼むよ」まるで、とんでもない冗談を聞かされたみたいに、夢乃は一瞬きょとんとしたあと、ゆっくり立ち上がり、彼の手を振り払った。そして、冷ややかに笑う。「愛してる?それ
翌朝。夢乃が目を覚ますと、ダイニングテーブルの上には、彼女の大好物がきれいに並んでいた。こんな朝が、もう半月以上も続いている。時々、本当に礼と結婚したんじゃないかと錯覚してしまうくらいだ。礼と風雅は、同じ顔をしているのに、本当に中身がまるで違う。礼には、風雅みたいな傲慢さも、世界を全部手に入れたような尊大さもない。礼は細やかで、優しくて、控えめ。家の中で使用人にあれこれ命じることも、ほとんどなかった。仕事が忙しくない日は、三食ほとんど全部、自分で台所に立って作ってくれる。「気に入った?今日はお前の分の朝ごはん、俺が用意してみたんだ」ふいに耳のすぐ後ろで柔らかな声がして、ぼんやりしていた夢乃の耳が、思わずぽっと熱くなる。夢乃はこくりとうなずき、笑顔で答えた。「おいしい。知らない人が見たら、本気で料理学校に通ってたのかと思うよ」「ああ、誰かさんがまったく料理できないからさ。しょうがなく、ちょっとだけ勉強しに行ったんだよ」その一言に、粥をすくっていた彼女の手がぴたりと止まる。顔を上げて問い返そうとしたそのとき、彼女のスマホにニュースアプリのトップ記事が、ポップアップのように表示された。画面に映ったのは、茜の自分語りの生配信だった。「皆さんこんにちは、三浦茜です。佐藤グループ研究開発部門の佐藤礼の婚約者です。今日は、その婚約者である彼の、卑劣な行為を暴露しようと思います。彼は、佐藤家の後継者は最初からずっと本家の長男にしか渡らない、と知っていました。だから私に協力させて、飛行機事故を仕組んだんです。それからその機に乗じて、私に兄の風雅さんを誘惑させました。一年後、自分は戻ってきて、身分をすり替え、兄になりすましたんです。兄の立場も、兄の女も、全部奪うために!さらに三浦夢乃さんの記憶を消し、自分たち二人を見分けられないようにしました。もともと佐藤風雅さんは、弟の礼が何をしでかしたのか、確かめようとしただけなのに、逆に罠にはめられてしまったんです。どうか信じてください。いま佐藤グループを仕切っているのは、偽物なんです……」たちまち、この生配信での暴露動画はネット中で再生数が跳ね上がった。異常なスピードで話題になっていき、誰かが裏で手を回しているのは明らかだった
Rebyu