Lahat ng Kabanata ng 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Kabanata 381 - Kabanata 390

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家族編 第93話 入学式前夜

 子供部屋の扉を細く開けた。寝具の温かな匂いが流れ、足元には靴下が片方落ちていた。陽向の布団へ、結衣が半分だけ潜り込んでいる。自分の枕まで持ってきたらしく、小さな頭の下が妙に高かった。  征也が屈み、枕を一つ抜いた。結衣は眉を寄せたが、陽向の肩へ顔を擦りつけると、また静かになる。  私は靴下を拾った。朝には、制服に合う紺色のものを履かせる。指に掛かった恐竜柄の靴下は少し擦り切れ、踵のところだけ薄かった。 「まだ捨てるなよ」  征也が小声で言った。私が見上げると、息子の足へ目をやる。 「気に入ってるやつだ」  分かってる、と頷いて握り直した。彼は布団を掛け直し、眠る二人の顔をもう一度見た。私は扉を押さえて待った。  廊下へ出ると、子供の寝息が遠くなった。征也が私の手を取る。靴下を持っていない方の手だった。 「明日、式が終わったら少し歩こうか」 「四人で?」 「近くのケーキ屋さんまで。陽向、ずっとあそこの苺のを食べたがってたから」  彼は少し考えた。私は返事を待たずに歩き出したが、寝室の前で手が軽く引かれた。 「結衣は途中で抱っこだぞ」 「あなたがいるでしょう」  征也は困ったように笑った。その顔を見て、私もようやく明日の帰り道を思い浮かべられた。晴れてくれるといい。窓の外は暗く、まだ空の色までは分からなかった。  寝室では、明日着る淡いネイビーの服を鏡の前で当ててみた。征也がネクタイを選ぶ手を止める。 「似合う?」  彼は頷いたが、まだこちらを見ていた。 「何か言いたそう」 「……綺麗だと思ってる。言う前に聞くな」  思いがけない返事に、私は鏡の中の彼を見た。征也はネクタイを置いて立ち上がり、背後へ来た。肩に触れた手が、服の襟を整える。鏡の向こうでも、彼の目は私を見ていた。 「明日は、俺とも撮れよ。子供ばかりじゃなく」  私は少し笑った。鏡の中で目が合い、そのまま頷く。征也の腕が腰へ回り、背中に温かい重みが触れた。  しばらくそうしてから、服をハンガーへ戻した。彼は選んだネクタイをスーツに掛け、私がベッドへ入るのを待って灯りを落とす。  暗くなると、廊下の小さな物音が聞こえた。二人とも顔を上げ、また静かになるのを待った。誰も来ない。征也が布団の中で私の手を探し、見つけると指を絡めた。  窓の隙間から、夜の庭の冷えた匂い
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次世代編 第1話 黄金色の朝

 柔らかな春の陽射しが、天道邸の広大なリビングの床に黄金色の四角い模様を描き出していた。  開け放たれた窓からは、微かに湿気を帯びた土の匂いと、どこかで咲きほころんでいる沈丁花の甘い香りが、そよ風に乗って流れ込んでくる。 「ひな兄ちゃん、かっこいい!」 「……そうか?」  絨毯の上をパタパタと走り回る小さな足音。まだ舌足らずな声で歓声を上げる結衣の前で、陽向は少し照れくさそうに肩をすくめた。  彼の背中には、今日から始まる六年間の相棒となる、真新しい黒のランドセルが乗っている。上質な牛革が放つ独特の匂いが、彼が真新しい世界へ足を踏み入れることを無言で証明していた。  まだ小さな陽向の背中には少し大きすぎるその箱は、動くたびに肩ベルトの金具が微かにカチャリと鳴る。少し硬い革の感触に慣れないのか、陽向は何度も肩を上下させては、居心地の悪そうな、それでいてどこか誇らしげな表情を浮かべていた。 「よく似合っているわ、陽向」  ダイニングテーブルの傍らに立ち、その様子を見守っていた莉子は、そっと口元を綻ばせた。  息子の成長を実感する朝。胸の奥がじんわりと温かくなり、目頭が熱くなるのを瞬きをして誤魔化す。今日のために新調した淡いネイビーのセットアップは、肌に吸い付くように滑らかで、彼女のしなやかな体の線を上品に包み込んでいた。 「ママ、泣いてるの?」 「泣いてないわよ。陽向があまりにもお兄ちゃんに見えて、びっくりしただけ」  陽向の真っ直ぐな瞳に見つめられ、莉子は苦笑しながらしゃがみ込んだ。ひんやりとしたフローリングの冷たさがストッキング越しの膝に伝わる。  そっと手を伸ばし、綺麗に整えられた陽向の柔らかい髪を撫でた。子供特有の高い体温が掌から伝わってくる。微かに香るベビーシャンプーの匂い。 「……もう、子供じゃないよ」  陽向は少し唇を尖らせて、莉子の手から逃れるように顔を背けた。その仕草すら愛おしくて、莉子はさらに笑みを深めた。 「そうね。今日から小学生だものね」  和やかな空気がリビングを満たしていた、その時。 「……随分と楽しそうだな」  吹き抜けになった階段の上から、低く、鼓膜の奥を直接震わせるような声が降ってきた。  その声一つで、部屋の空気がわずかに引き締まる。温度が一度下がったような、それでいて奇妙な熱を帯びたような錯覚
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次世代編 第2話 黄金色の朝

「パパ!」  結衣が嬉しそうに駆け寄り、征也の長い脚に抱きついた。  かつて『冷酷な暴君』として裏社会にまで名を轟かせた男は、娘の小さな頭を大きな手のひらで包み込み、呆れるほどに優しい手つきで撫でた。その目元には、昔の彼からは想像もつかないほど柔らかな光が宿っている。 「おはよう、結衣」 「パパもかっこいい!」 「そうか。お前も可愛いぞ」  しかし、結衣を撫でる手つきは極端に優しいものの、彼が顔を上げ、リビングの中央に立つ莉子へ視線を向けた瞬間、その瞳の色は劇的に変化した。  娘に向ける無条件の慈愛とは違う。  じっとりとした、逃げ場を塞ぐような、重く粘り気のある熱。  六年が経過しても、いや、時を重ねるごとにむしろ濃度を増しているその視線が、莉子のつま先から頭のてっぺんまでを舐めるように這い上がってくる。 「……なんだ、その服は」  征也はゆっくりと莉子に近づき、彼女の目の前で立ち止まった。  見上げるほどの長身。彼の胸板から発せられる熱気が、莉子の顔のすぐ前にある。 「入学式用のセットアップよ。先週、あなたと一緒に選んだじゃない」 「丈が短すぎる。膝が見えているだろう。それに、体の線が出過ぎだ」 「普通のタイトスカートよ? 膝なんて数センチしか見えていないわ」  莉子がため息混じりに反論すると、征也の眉間には深い皺が刻まれた。  彼は大きな手を伸ばしかけ、途中で止めた。触れたい衝動を押さえるように自分の指を握り込み、低く息を吐く。 「普通かどうかはともかく……似合いすぎている。だから余計に、他の男に見せたくない。だが、着替えろとは言わない」  低く唸るような声が耳元に落ちて、莉子の背筋がゾクリと震える。  その声の響きには、単なる独占欲を超えた、底知れない執着がこびりついている。  莉子は周囲に子供たちがいることを意識して、少し慌てて彼の胸板に両手を当て、わずかに押し返した。硬い筋肉の感触が、手のひらを弾き返すように存在感を主張してくる。 「征也くん、陽向たちの前よ。それに、今日は主役が違うでしょ」 「……俺にとっての主役は、いつだってお前だ」  全く悪びれる様子もなく言い放つと、征也はようやく腰から手を離した。しかし、名残惜しそうに指先が布の表面を滑っていく感覚に、莉子は小さく息を吐いた。 「もう……。ほら、ネ
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次世代編 第3話 黄金色の朝

「よし、これで完璧」 「……式が終わったら、まっすぐ帰るつもりか」 「え?」  莉子がネクタイから手を離そうとした瞬間、征也の大きな手が追いかけるように伸びたが、手首へ触れる直前で止まった。代わりに、その指は自分の掌へゆっくり折り畳まれる。  触れずに止まる。それ自体が、六年前の彼ならできなかった小さな自制だった。 「できれば、寄り道はしてほしくない。人も多い」 「だから、今日は陽向の入学式……」 「外には人も車も多い。お前たちが俺の目の届かない場所へ行くと、どうしても最悪のことを考える」  相変わらずの極端な物言いに、莉子は呆れたように溜息をついた。  昔のように暴力的な恐怖はない。だが、彼の内側にある「莉子を失うことへの異常なまでの恐怖」に根ざした過保護は、時に息苦しさを伴う。 「パパ、大げさ」  不意に、少し冷めた声が横から飛んできた。  陽向だった。彼はランドセルの肩ベルトを両手で掴みながら、ジトッとした目で父親を見上げている。 「ただの小学校の入学式だよ。SPの人たちをぞろぞろ引き連れて歩くなんて、恥ずかしいからやめてよ」 「安全の確保だ。お前にも万が一のことがあってはならない。……特に、お前の母親を守るためには必要な措置だ」  征也は莉子の手首には触れないまま、今度は陽向へ視線を向けて答えた。  その言葉の重さに、陽向は小さく肩をすくめた。六歳にしては大人びている彼は、父親の「母親に対する異常な執着」をすでに半分理解し、半分呆れているようだった。 「はいはい。じゃあ、早く行こうよ。遅刻しちゃう」  陽向の言葉に促されるように、莉子は征也へ小さく笑いかけ、そのまま歩き出した。手首には、彼の指の熱がじわっと残っている。 「そうね、行きましょうか」  そう言って歩き出した莉子の背中を、征也の重い視線がどこまでも追いかけてくるのを感じながら、天道家の一日が始まった。◇ 小学校の体育館に響き渡る拍手の音。  真新しい制服や華やかなスーツに身を包んだ保護者たちが並ぶ中、最後列のパイプ椅子に座る征也の存在感は、異様の一言に尽きた。  彼は腕を組み、微動だにせず前方を見据えている。周囲の空気がそこだけ数度低いのではないかと錯覚するほどの威圧感。時折、彼に視線を向けた他の保護者が、ハッとして目を逸らす場面が何度もあった。
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次世代編 第4話 黄金色の朝

 ビクッと彼の肩が揺れ、組まれていた腕が解かれる。莉子の小さな手が、彼の厚い手のひらに包み込まれる。  ゴツゴツとした骨の感触。少しだけ力が抜け、彼の手のひらから伝わってくる熱が穏やかなものに変わったのを感じて、莉子は小さく息を吐いた。  式自体は滞りなく終わり、春の暖かな日差しが降り注ぐ校庭で、桜の木の下で写真を撮る家族連れの輪が広がっていた。  陽向も少し緊張が解けたのか、結衣と一緒に桜の花びらを追いかけて走っている。その背中を見つめながら、莉子は隣に立つ征也を見上げた。 「無事に終わってよかったわね」 「……ああ。だが、人が多すぎる」  征也の鋭い視線が、周囲を歩く人々を一人残らず値踏みするように動いている。その度に征也は反射的に肩へ手を伸ばすが、莉子が視線を向けると、その手を自分で止めた。  スーツの硬い生地が頬に触れる。彼から漂うシトラスの香りが、桜の匂いを掻き消して鼻腔を満たした。 「誰も私たちなんて見てないわよ」 「俺が見ている。それだけで十分だ」  会話が噛み合わない。莉子は苦笑しながら少しだけ距離を取り、征也も不満そうな顔のままそれを受け入れた。 「……ねえ、征也くん」 「なんだ」 「陽向、今日すごく頑張ってたじゃない? だから、お祝いに……」  莉子は少しだけ声を潜め、彼を見上げて言った。 「駅前の商店街にある、あのケーキ屋さんに寄り道していかない? 陽向、あそこのイチゴのタルトが大好きなのよ」  その言葉が口から出た瞬間、征也の表情がスッと消え、周囲の空気が凍りついたように感じた。  彼の瞳の奥で、何かが冷たく光る。 「……寄り道だと?」 「ええ。ここから歩いて十分くらいだし。春の風が気持ちいいから、陽向と手を繋いで歩きたいなって」 「許可できない」  即答だった。  声のトーンは低いままだが、そこには一切の交渉の余地を許さない、強烈な拒絶が込められていた。 「どうして? すぐそこのケーキ屋さんよ?」 「あの道は歩道が狭い。その上、自転車の交通量も多い。お前と子供たちを、そんな危険な場所に晒すわけにはいかない」  征也は不安そうに周囲を見回したが、莉子へ触れる代わりに、自分の拳をゆっくり開いた。 「俺が車を出す。店の前まで横付けさせる。……いや、いっそ店ごと貸し切るか?」 「そういうことじゃ
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次世代編 第5話 止まった時間

「普通でいたい日もあるの」  莉子は穏やかに言った。  征也の瞳の奥で、いつもの恐怖が揺れる。けれど、彼は莉子へ手を伸ばさなかった。 「……分かった。歩こう」  陽向が驚いた顔をする。 「パパ、いいの?」 「いい。だが俺が車道側を歩く」 「それくらいなら」  莉子が笑う。  四人で校門を出た。  商店街へ向かう交差点で、信号が青に変わる。  その時、遠くから異常なエンジン音が響いた。  大型トラックが蛇行しながら交差点へ突っ込んでくる。  クラクション。タイヤの摩擦音。  横断歩道の中央で、小さな新入生が転んだ。  母親は数歩先にいる。  莉子は考えるより先に走った。 「危ない!」  男の子を抱え、歩道へ押し出す。  同時に征也が陽向と結衣を抱き寄せる。  金属が砕ける轟音。  莉子の身体が宙へ浮いた。  最後に見えたのは、助かった子供と、こちらへ手を伸ばす征也の顔だった。  春の光が白く弾け、莉子の意識はそこで途切れた。  鼓膜を震わせる轟音は、世界のすべてを粉砕する断末魔のようだった。  直前まで鼻腔をくすぐっていた沈丁花の香りは、一瞬にして焼け焦げたゴムの臭いへ塗り替えられた。 「……莉子?」  征也の喉から漏れたのは、声にすらならない掠れた空気の塊だった。  横断歩道の先。助けられた子供が母親に抱きしめられて泣いている。  その数メートル先に、莉子が倒れていた。 「ママッ!」  陽向の悲鳴が響く。  征也は子供たちへ振り返り、三田村に叫んだ。 「二人を頼む! 絶対にここから動かすな!」  それから莉子の元へ走った。 「莉子、聞こえるか。俺だ」  返事はない。  それでも征也は、救急隊が来るまで彼女の手を握り続けた。◇ 病院の廊下で、征也は陽向と結衣の手を両方握っていた。  手術室のランプが消え、医師が現れる。 「脳挫傷とびまん性軸索損傷があります。一命は取り留めました。ただ、意識障害が長期化する可能性があり、回復の時期や程度を今の段階で断言することはできません」  征也の膝から力が抜けた。 「……目を覚ます可能性は」 「あります。ですが、いつとは言えません」  陽向が父の手を強く握る。  結衣が泣きながら莉子の名前を呼ぶ。  征也は崩れそうな身体を立て直した。 「
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次世代編 第6話 十二年

 莉子は、さっきまで確かに笑っていた。  征也は病室の扉を見つめたまま、その事実だけを何度も思い返していた。 「パパ」  陽向の声に、今度は振り返った。  結衣は兄の袖を握っている。 「ママ、寝てるだけだよね?」  征也は、簡単な嘘をつけなかった。 「今は、眠っている。医者も、いつ起きるかは分からない」  結衣の目から涙が落ちる。  征也は二人の前へ膝をついた。 「怖いな」  自分からそう言った。  陽向が驚いた顔をする。 「俺も怖い。だから、三人で待つ」◇ 事故後、征也の生活は会社、病院、家の三つに絞られた。  莉子の病室へ毎日通う。同時に、陽向の学校行事にも、結衣の発表会にも顔を出した。  ただし、父親としてのやり方はひどく不器用だった。  事故が怖くて、登下校には警備員。外出は事前連絡。友人宅へ行くにも送迎。 「今日は体育祭でリレーの選手に選ばれた」  征也は病室で莉子へ話したあと、その夜、陽向本人にも同じ話を聞いた。 「一位だった」 「そうか。見ていた」 「……来てたの?」 「父親だからな」  愛情がないわけではない。  むしろありすぎる。  だからこそ、陽向は成長するほど、その重さへ息苦しさを覚えていった。 「パパは、私たちを見てるよ」  結衣は兄へそう言った。 「見すぎなんだよ」  陽向は答えた。  父は誕生日を忘れない。試合も発表会も来る。病室では母へ、今日子供たちに何があったか必ず話す。  けれど、事故以来、何かを失う可能性に耐えられなくなった父は、子供たちの人生へ安全策を敷き詰めた。  陽向には、それが愛情であるほど苦しかった。 「俺は、自分で失敗したい」  誰にも聞こえない部屋で呟く。◇ 病院の窓から見える桜が、十二回咲いて、十二回散った。  莉子は長い意識障害の中にいる。日によって小さな反応が見られることもあるが、意思疎通には至らない。  征也の髪には白いものが混じった。  そして陽向は十八歳になった。  卒業式の日、父の書斎へ入る。 「俺、この家を出る」  征也の視線が鋭くなる。 「大学へはここから通える」 「距離の話じゃない」  陽向は父を見た。 「あの日、母さんを守れなかった怖さと、俺の人生は別だ。俺は自分で選びたい」  征也の表情が動く。
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次世代編 第7話 白亜の箱庭

 私立聖マリアンナ女学園の正門へ続く石畳には、午後の光が淡く反射していた。  放課後の喧騒が校舎の方へ遠ざかっていく中、結衣のローファーが刻む「コツ、コツ」という乾いた音だけが、正門脇の石壁へ小さく返ってくる。 「天道さん」  背後からかけられた声に、結衣は流れるような動作で足を止めた。  ゆっくりと振り返る。肩先で揺れる、透き通るような黒髪。それはかつての母・莉子が持っていた柔らかさと、父・征也が纏う威厳を、奇跡的なバランスで配合したかのような美しさだった。  十五歳になった結衣の瞳には、同年代の少女が持つはずの浮ついた熱感はない。そこにあるのは、深く、静かな、氷の下の湖のような透明度だ。 「……はい。何か御用でしょうか、佐伯さん」  正門の外に立っていたのは、近隣の私立男子校に通う高等部三年生・佐伯だった。バスケットボール部のエースとして近隣校でも名が知られており、少し離れた場所には彼の友人たちが、好奇心を隠しきれない様子でこちらを窺っている。  佐伯は少し顔を赤らめ、差し出そうとした右手を一度下ろした。彼の指先は微かに震えており、ユニフォーム越しに漂ってくるのは、制汗剤のツンとした匂いと、激しい運動の後に残る若すぎる体温の残滓。 「これ、読んでほしいんだ」  差し出されたのは、水色の封筒だった。  結衣はそれを、陶器のような白い指先で受け取った。封筒の紙質、わずかに香るミントの香料。そこに込められた「熱」の正体を、彼女は瞬時に理解する。 「……ありがとうございます」  結衣は微笑んだ。それは、相手を否定せず、同時に一歩も近づかせない、完璧に計算された「令嬢」の微笑だった。  佐伯の瞳に、期待の色が灯る。しかし、結衣の言葉は、その期待を音も立てずに凍らせた。 「でも、お読みすることはできません。お返しいたします」 「えっ……どうして」 「私は、言葉に重みのないお手紙には興味がありませんから」  淡々と、けれど残酷なまでに明確な拒絶。  結衣は封筒を佐伯の手元に押し戻した。その際、彼女の指先が彼の掌に一瞬だけ触れる。佐伯がハッとして息を呑むが、結衣の視線はすでに彼の向こう側、何も存在しない虚空を捉えていた。 「このお手紙には、あなたが明日も私を好きでいるという保証が書かれていますか? 三年後も、十年後も、たとえ私が目覚めない
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次世代編 第8話 白亜の箱庭

 周囲で聞き耳を立てていた生徒たちが、ヒソヒソと囁き合う声が聞こえる。  ――高嶺の花。  ――天道家の冷徹な令嬢。  そんなレッテルが、結衣の背中に何枚も貼られていくのが分かった。けれど、彼女にとってそれは、心地よい鎧にすぎなかった。  彼女が知っている「愛」は、こんな生易しいものではない。  深夜、誰もいない病室で。  十二年間一度も返事をしない女性の指を、指先が白くなるほど強く、けれど壊れ物を扱うように繊細にマッサージし続ける父。  彼女の髪の匂いを嗅ぎ、名前を呼び続け、自分の人生のすべてをその一室に繋ぎ止めてしまった、あの悍ましいほどに純粋な執着。  あの狂気にも似た「重圧」を知ってしまえば、同年代の男子が向ける青い憧憬など、春の突風に舞う塵のようなものだった。 「失礼いたします」  結衣は一瞥もくれず、再び歩き出した。  背後で佐伯が何かを言いかけたが、廊下の角を曲がった瞬間に、その存在は彼女の意識から完全に抹消された。◇ 学園の正門を出ると、そこにはいつものように黒塗りのセダンが待機していた。  ドアの傍らに立つ、仕立ての良いスーツを着た男。天道家の私設秘書であり、警護担当でもある男が、結衣の姿を認めると最敬礼で迎える。 「お疲れ様でございます、結衣様」 「ええ。お願いね」  結衣が後部座席に乗り込むと、車内は瞬時に外界の喧騒から遮断された。  本革のシートが放つ重厚な匂い。エアコンの低く均一な駆動音。  窓の外を流れていく街並みは、結衣にとって動くパノラマ写真のようなものだった。彼女がその地面を、SPの同伴なしに自らの足で踏みしめることは、あの日から一度もない。  (……今日も、パパはあそこにいるのかしら)  結衣は膝の上で指を組んだ。  征也は仕事が終われば、真っ先に莉子のいる病院へと向かう。自宅に帰ってくるのは、いつも日付が変わる頃だ。  かつての天道邸に溢れていた、莉子の笑い声や、陽向と追いかけっこをした足音。それらはすべて、あのアスファルトの衝撃音と共に、時空の彼方へ吸い込まれてしまった。  車が、高級住宅街の入り口にある巨大な鉄扉をくぐった。  高くそびえ立つ白い外壁。完璧に手入れされた庭園には、季節外れの花が咲き乱れているが、そこには風の音以外の生活感がない。  人々はここを「天道家の城」
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次世代編 第9話 白亜の箱庭

 莉子が元気だった頃、この家はもっと「匂い」があったはずだ。  焼きたてのパンの香り。莉子が洗濯したてのタオルから漂わせる、お日様の匂い。  今の家政婦たちは、征也の顔色を伺いながら、一切の雑味を排除した無機質な「清潔」を維持している。それは、もはや人間が住む場所というより、莉子がいつ帰ってきてもいいように保存された、巨大な標本のようだった。 「ひな兄ちゃんは……帰っていないの?」  結衣が尋ねると、家政婦は困ったように視線を泳がせた。 「……陽向様からは、今日も連絡はございません。お食事も、外で済ませるとのことです」 「そう。分かったわ」  結衣は短く答えると、二階への階段を上がった。  陽向の部屋のドアの前で、一度だけ足を止める。  かつては、中からゲームの音や、彼が隠れて練習していたギターの拙い音が漏れてきた。けれど今は、厚い木製の扉が、拒絶するように固く閉ざされている。  陽向はこの家を「息が詰まる」と言って飛び出した。  父の莉子に対する執着を、兄は「恐怖の裏返し」だと言った。  結衣には、その不器用な愛が家族を守る鎖にも、息苦しい壁にもなっているように思えた。  自分の部屋に入り、結衣は制服のままベッドに体を投げ出した。  シルクのカバーが、ひんやりと頬に触れる。  壁に飾られた、まだ四人家族だった頃の写真。  若かりし日の父と、太陽のように笑う母。その膝の上で、幼い自分と陽向が笑っている。  莉子の首筋には、あの日、征也が強引に買い与えたサファイアの首輪が光っていた。  (……ねえ、ママ。パパは今も、あなたのことばかり。私のことを見てくれている。でも、いつも先に危険を探してしまう。私自身より、私を失う怖さを見ている気がするのよ)  結衣はそっと目を閉じた。  まぶたの裏に浮かぶのは、父が莉子の病室で流していた、あの透明な涙。  自分や陽向には決して見せない、一人の男としての、剥き出しの絶望。  結衣は自分の右手を持ち上げ、虚空に伸ばした。  佐伯に触れられた場所を、シーツで強く拭う。  あんな軽い熱はいらない。  自分の人生を、自分の存在を、すべて塗りつぶして支配してくれるような、そんな絶対的な熱が欲しい。  けれど、この完璧すぎる箱庭にいる限り、父の熱はいつも「失わせないための管理」という形で自分へ
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