没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~ のすべてのチャプター: チャプター 391 - チャプター 400

475 チャプター

次世代編 第10話 白亜の箱庭

◇ 深夜。  玄関が開く音が、階下から微かに聞こえた。  結衣は跳ね起き、部屋のドアを細く開けた。  階段を上がってくる、重い足音。  革靴がカーペットに沈み込む音。  そして、廊下に漂ってきたのは――。  冷たい夜の風の匂いと、病院の消毒液。そして、征也が愛用している、あの重厚なシトラスの香り。  征也は、結衣の部屋の前を通り過ぎようとした。  その横顔は、彫刻のように無機質で、深い疲労に彩られている。  かつて莉子が隣にいた頃の、あの鋭くも瑞々しい覇気はどこにもない。今の彼は、会社と病院と家庭を寸分の狂いもなく回すことで、崩れそうな自分を支えているようだった。 「……パパ」  結衣が小さく声をかけると、征也の足が止まった。  ゆっくりと顔を向ける。その瞳は結衣を見ている。だからこそ、少しの外出にも危険を先回りして見つけ、過剰に口を出す。 「起きていたのか、結衣」 「パパ、お疲れ様。……ママの様子は、どうだった?」  征也の表情が、わずかだけ和らいだ。莉子の名前を出した時だけ、彼の人間らしい感情が微かに漏れ出す。 「ああ。今日は少しだけ、顔色が良かった気がする。……明日も、会いに行く。お前も来るか?」 「……ごめんなさい、明日は学校の補習があるの」 「そうか」  それだけ言って歩き出しかけた征也は、二歩進んだところで足を止めた。 「補習は何時までだ」「帰りは鈴木に迎えに行かせる」――口から出るのは、やはり安全の確認ばかりだった。  結衣が本当に聞いてほしかったのは、今日学校で何があったかという話だ。けれど征也は、心配するほど予定と危険ばかりを先に確かめてしまう。娘を見ていないのではない。見すぎるあまり、目の前の娘より先に『失う可能性』を見てしまうのだ。  自室のドアを閉め、征也は自分のベッドに潜り込む。  莉子のいない、広すぎるキングサイズのベッド。  彼は隣に莉子が横たわっていると錯覚するように、彼女の枕を引き寄せ、その冷たい生地に顔を埋めた。 「莉子……早く、帰ってきてくれ……」  暗闇の中で漏れたその声は、一国の王のそれではなく、道に迷った子供の泣き声だった。  階下の廊下で、再び置時計が「カチッ」と音を立てる。  天道家の時間は、まだ動き出さない。  この家の住人たちは、止まった時間を抱えたまま、
last update最終更新日 : 2026-05-05
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次世代編 第11話 百合の匂い

 地上二百メートル、天道グループ本社ビルの最上階。  全面ガラス張りの執務室には、夕刻の柔らかな残光が、琥珀色の帯となって差し込んでいた。  空調の静かな駆動音だけが響く部屋で、征也は重厚な革張りの椅子に身を預け、目の前に置かれた一通の書類を見つめていた。それは、かつて莉子の実家が所有し、経営破綻後に他資本へ渡っていた『月島フーズ』の全株式取得に関する最終合意書だった。  征也は万年筆を手に取り、そのキャップを外した。チリリ、という繊細な金属音が静寂に溶ける。  かつて、雨の中で震えていた莉子に「俺の前に現れるな」と突き放したあの日。そして、家政婦として戻ってきた彼女が、いつか自分のルーツを、失われた誇りを『取り戻したい』と、消え入りそうな声で、けれど強い瞳で語った夜。  その約束だけが、十二年間の空白を埋めるための、征也の唯一の羅針盤だった。 「……ようやく、だ。莉子」  掠れた声が、無人の部屋にこぼれる。  彼は迷うことなく、サインを記した。  流れるような筆致。インクが紙に吸い込まれていく様子を、彼はじっと見つめていた。  莉子がかつて愛した場所を、彼女が目覚めた時のために完璧な状態で保存しておく。それが、今の彼にできる精一杯の『愛』の形だった。 「社長。失礼いたします」  控えめなノックと共に、秘書の三田村が入室してきた。  征也は瞬時に、感傷を瞳の奥に押し込める。サインの終わった書類を三田村へ差し出す動作は、一点の曇りもない冷徹な経営者のそれだった。 「手続きを。一秒の遅れも許さん」 「承知いたしました。……それと、お嬢様の学校から連絡が。また、他校の生徒との接触があったようで」 「……結衣に、何か不都合はあったか」 「いえ。お嬢様自身が、毅然とした態度で拒絶されたと伺っております」  征也の眉間が、わずかに揺れた。  守りたい。けれど、どう接していいか分からない。  結衣が莉子に似て美しく成長していくほど、征也は彼女の中に莉子の面影を探してしまい、同時に、あの日莉子を守れなかった自責の念に焼かれる。  娘を抱きしめることさえ、今の自分には許されないのではないか。  そんな臆病な想いが、結果として、結衣に対して「過干渉な警護」と「冷淡な沈黙」という、歪な形の壁を作っていた。 「……下がれ。後の処理は任せる」
last update最終更新日 : 2026-05-05
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次世代編 第12話 百合の匂い

 彼は温かなおしぼりを手に取り、莉子の指先を一本ずつ、丁寧に拭い始めた。  十二年。  その長さを数字にすれば簡単なのに、征也には今も、あの日の春が昨日のことのように鮮明だった。  横断歩道へ飛び出した莉子。助かった子供。自分へ伸ばされた手。  あれは、誰かに強いられた事故ではない。莉子が、自分の意思で目の前の命を助けた結果だった。  だからこそ、怖かった。  相手の選択を尊重しても、どれほど安全に備えても、世界から危険を完全に消すことなどできない。その当たり前の事実を、征也はあの日初めて骨の奥まで思い知らされた。  事故の後も、陽向の体育祭へ行った。結衣の発表会にも座った。誕生日も忘れなかった。  けれど、そこで最初に口から出るのはいつも同じだった。  転ぶな。遅くなるな。車道へ近づくな。帰る時は連絡しろ。  陽向が一位になった時、抱きしめるより先に膝の擦り傷を見た。  結衣が上手に弾き終えた時も、「よくやった」より先に、帰りの車の時間を確認した。  愛していなかったわけではない。  むしろ、愛しているから失う可能性ばかりが見えた。  家へ帰れば食卓に座り、陽向の成績表にも目を通した。結衣が熱を出せば仕事を切り上げ、夜中までベッド脇にいた。  それでも子供たちが欲しかったのは、事故の確率を下げる父親だけではなかった。 「今日、楽しかった」と話した時に、理由を聞いてくれる父親。  失敗した時に、先回りして片づけるのではなく、一緒に困ってくれる父親。  その当たり前を、征也は何度も取りこぼした。  気がつけば、子供たちが何をしたいのかを聞く前に、安全な答えを用意する父親になっていた。 「……俺は、また間違えたな」  返事のない莉子へ、小さく呟く。 「お前の意思を奪わないって決めたのに。今度は、あいつらが失敗する権利まで怖くなった」  莉子の手の甲へ額を寄せる。  冷たい皮膚の向こうに、あの日までの温度を探すように。 「陽向は家を出た。結衣は、俺が見ているほど息が詰まるらしい」  苦い笑いが漏れた。 「父親として最低だ、と言えば簡単なんだろう。でも、逃げたくはない。あいつらが俺を嫌っても、俺はあいつらを見る。今度は、危険だけじゃなく……あいつら自身を」  ベッド脇のモニターが、一定の音を刻んでいる。  征也は莉子
last update最終更新日 : 2026-05-06
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次世代編 第13話 百合の匂い

 だから、子供たちには最高の安全と環境を与えようとした。けれど、それは陽向にとって「自由を信じてもらえないこと」であり、結衣にとっては「自分で失敗する余地のなさ」に映っている。  征也は莉子の手のひらを、自分の額に押し当てた。  氷のような冷たさが、征也の焦燥を鎮めていく。 「お前がいれば、あいつらを……叱って、抱きしめてやれたんだろうな。……俺には、そのどちらも、あいつらの母親であるお前の代わりにはなれない」  征也の瞳から、一筋の熱い滴がこぼれ、莉子の手の甲に落ちた。  じわじわと広がる、小さな水溜り。  征也は慌ててそれを拭おうとしたが、その時、莉子の肌がわずかに温かくなったような、そんな錯覚に囚われた。 「莉子、聞こえているか。……結衣は、お前にそっくりだ。美しくて、そして……とても孤独そうな目をしている。俺が不甲斐ないばかりに、あの子にまで、この家の静寂を強いてしまっている」  征也は莉子の枕元にあるカサブランカの花瓶を整え、その瑞々しい花びらに顔を近づけた。  莉子の匂い。  微かな薬品の香りに混じる、百合の芳香。  それは、十二年間、彼をこの世に繋ぎ止めている、たった一つの希望の鎖だった。 「お前が目を開けたら、俺を一番に叱ってくれ。……子供たちのことも、会社に捧げた時間のことも。お前が笑って怒ってくれるなら、俺は魔王でもなんでも辞めてやる」  征也は莉子の手を、自分の首筋……あの日、莉子が最後に整えてくれた、ネクタイの結び目があった場所に当てた。 「……待っている。何年でも、何十年でも。お前が目覚めるその瞬間まで、俺は、お前との約束を守り続ける」  深夜の病室。  モニターの電子音が、征也の告白を祝福するように、規則的なビートを刻み続けている。  征也は莉子の手のひらに、誓うように何度も唇を寄せた。  彼は莉子の手をベッドに戻すと、彼女の髪をそっと整えた。  一本の乱れもない、美しい黒髪。  征也は彼女の耳元に顔を寄せ、世界で一番甘く、そして不器用な愛の言葉を、誰にも聞こえない声で囁いた。 「愛している、莉子。……俺のすべては、お前の中にある」◇ 翌朝、征也が病室を出ると、廊下には三田村が待機していた。  征也の表情は、いつもの冷徹な仮面に戻っていた。けれど、その足取りには、先ほどまでの「一人の男」とし
last update最終更新日 : 2026-05-06
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次世代編 第14話 見えない鎖

 築三十年を超える木造アパートの、薄暗い一室。  陽向は机の上に並んだ不採用通知を眺め、四件目のメールを閉じた。 「……またかよ」  天道邸を出て一週間。家賃四万円、風呂なし、トイレ共同。それでも、自分で選んだ狭い部屋は嫌いではなかった。  問題は、生活を始める入口にすら立てないことだった。  コンビニ、配送の仕分け、家庭教師。面接では悪くない感触だったのに、名前を書いた履歴書を見た途端、相手の空気が変わる。  昨日まで「即入居可」だったアパートも、今朝になって急に断られた。  保証会社の審査ではない。大家が「うちのような古い建物では、何かあった時に責任を取れない」と尻込みしたらしい。  名前を捨てれば簡単なのかもしれない。  けれど偽名で得た自由を、自立とは呼びたくなかった。  雨の中、陽向は不動産屋へ向かった。 「昨日の物件、どうして駄目になったんですか。初期費用も用意してます」  初老の店主は、何度も眼鏡を直した。 「天道くん。大家さんが怖がったんだよ」 「父に何か言われたんですか」 「いや。連絡なんて来てない」  予想外の答えに、陽向は黙る。  店主は声を潜めた。 「でも、君は天道征也の息子だろう。もし古いアパートで怪我でもしたら? 何か盗まれたら? 大家は責任を問われるんじゃないかって勝手に考える。うちだって、君を雑に扱って天道グループに睨まれたくない」 「そんな……」 「誰かが命令してるんじゃない。みんな、先回りしてるんだ」  それは、父から伸びた鎖ではなかった。  父の名前を見た人間たちが、自分から作ってしまう柵だった。  優遇されるのも嫌だった。  怖がられて拒絶されるのも、同じくらい嫌だった。  どちらも、目の前の自分ではなく「天道」という看板だけを見られていることに変わりはない。  店を出ても、雨の冷たさを感じなかった。  怒りの向け先が分からない。  父が命じたなら、殴り込みに行けばいい。だが誰も命じていないのなら、この息苦しさを誰に返せばいい。  それでも陽向の足は、気づけば天道グループ本社へ向かっていた。  確認したい。  本当に父は何もしていないのか。  そして、もし何もしていないのなら。  この名前から、どうやって自分の人生を取り戻せばいいのか。  雨に濡れたスニーカー
last update最終更新日 : 2026-05-07
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次世代編 第15話 見えない鎖

 天道グループ本社ビルのエントランス。  雨に濡れたスニーカーが、磨き抜かれた床へ小さな跡を残していく。  受付で名を告げると、数分後には最上階へ通された。  広大な執務室の奥で、征也は書類から目を上げた。 「……来たか」 「聞きたいことがある」  陽向は濡れたままデスクの前へ立った。 「バイトも、部屋も、俺の名前を見た途端に断られる。親父が裏で止めてるのか」  征也は眉を寄せた。 「止めていない」 「信用しろって?」 「三田村」  呼ばれた秘書がタブレットを操作し、陽向へ画面を向けた。  そこには、陽向が家を出た翌日に出された社内指示が残っていた。 『陽向本人から要請がない限り、就労・住居・交友関係へ一切介入しないこと。非公式な照会にも回答しない。先方から便宜供与の相談があった場合も断ること』  陽向は言葉を失った。 「……じゃあ、なんで」 「俺の名前があるからだ」  征也は椅子から立ち上がらなかった。 「俺が何も言わなくても、人間は勝手に俺の機嫌を読む。お前を優遇する者もいれば、怖がって触れない者もいる。俺が長年作った評判だ。お前にとっては、迷惑な遺産だろうな」  反論できなかった。  父が直接手を出していないのなら、昨日まで抱えていた怒りは宙に浮く。  それでも、自分が受けている不利益の根に、この男が作った巨大な影があることも事実だった。  征也は一枚の紙をデスクへ置く。 「必要なら、天道家はお前の賃貸契約や雇用に介入しないという確認書を出す。保証もしない。圧力もかけない。それ以上は何もしない」 「それも親父の力じゃないか」 「そうだ」  あっさり認める。 「だが、お前の代わりに部屋を選ぶわけじゃない。仕事を取るわけでもない。俺の名前が作った余計な恐怖だけを、俺が片づける」  陽向は紙を見つめた。  差し出されたのはマンションの鍵ではない。  父が選んだ安全な部屋でも、仕事でもない。  ただ「天道家が後から口を出してくるかもしれない」という相手側の恐怖を一つ減らすための紙だった。  選択肢だった。 「使うかどうかは、お前が決めろ」  征也の声が低く落ちる。 「使わなくてもいい。失敗して帰ってきてもいい。帰ってこなくてもいい。……お前が自分で決めた結果なら、俺は先に答えを置かない」  陽向
last update最終更新日 : 2026-05-07
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次世代編 第16話 見えない鎖

 窓の外で、雨粒がガラスを細く流れていた。  陽向はデスクの上の確認書へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。 「一つだけ聞く。……俺があのボロアパートで怪我したら?」 「病院へ行け」 「飯が食えなくなったら?」 「働け」 「それでも駄目だったら」  征也はそこで初めて、小さく息を吐いた。 「助けを求めろ。お前が決めた時に」  胸の奥に、妙な熱が広がった。  昔の父なら、求める前に全部用意しただろう。 「怖くないのか」 「怖い」  即答だった。 「お前が雨の中を歩いているだけで、車道から三メートル離れろと言いたくなる。あの部屋の写真を見れば、今すぐ買い取って建て替えたい」 「見てるじゃないか」 「警護ではない。三田村が報告する必要もないと言ったが、父親として気になって自分で調べた」 「それも十分怖いよ」 「……反省する」  征也が本当に反省しているのか分からない顔で言うものだから、陽向はとうとう小さく笑った。  十二年間、この人とこんな会話をした記憶はほとんどない。  言い合えば、最後は父が命令し、自分がドアを叩きつけて終わる。それがいつもの形だった。  今日は、会話が終わらない。  珍しい言葉に、陽向は思わず鼻で笑った。  征也の表情も、わずかに緩む。 「陽向。俺は、お前が危険に遭わない人生を作ることはできる」 「知ってる」 「だが、それをやれば、お前の人生ではなくなる」  静かな声だった。 「事故の日、俺はそれを思い知った。どれだけ備えても、世界を完全には支配できない。だから、お前まで支配するのはやめる」 「今さら?」 「ああ。今さらだ」  言い訳をしない答えだった。  征也は確認書を指で軽く押した。 「これは俺が作った壁を一枚減らすための紙だ。その先で何を選ぶかは、お前の仕事だ」  陽向はようやく紙を取った。 「これを使って部屋が決まっても、親父が部屋を取ってくれたことにはしないからな」 「好きに解釈しろ」 「借りだからな」 「返さなくていい」 「そういうのが嫌なんだよ」 「なら、いつか俺が困った時に返せ」  陽向は紙を二つ折りにしてポケットへ入れた。  帰り際、扉の前で振り返る。 「……母さんなら、今の親父をどう言うかな」  征也は一瞬だけ視線を逸らした。 「遅い、だろうな」
last update最終更新日 : 2026-05-08
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次世代編 第17話 見えない鎖

 翌朝、雨は止んでいた。  陽向は不動産屋のカウンターへ、昨日の確認書を置いた。  店主は何度も読み返し、最後に大きく息を吐いた。 「……これなら、大家さんにもう一度話せる」 「特別扱いはいりません。普通に審査してください」 「分かった」  それだけだった。  すぐに部屋が決まるわけでもない。けれど、自分の名前を見ただけで閉じていた扉が、今度は審査という普通の場所まで開いた。  午後、以前断られたコンビニから電話が来た。  確認書を見せたわけではない。店長が自分で本部へ掛け合ったらしい。 『天道くん。まだ働く気ある? 正直、名前を見て怖くなった。でも、本部に確認したら、本人を見ずに断る方がおかしいって話になってさ。面接で話した君まで嘘になるのは違うと思って』 「あります」  返事は考えるより早かった。  初出勤の夜。  陽向は慣れないレジの前で何度も操作を間違え、年下の先輩に頭を下げた。  床へこぼれたコーヒーを雑巾で拭き、ゴミ袋を両手に提げて裏口へ運ぶ。  誰も「天道様」と呼ばない。  レジを詰まらせれば後ろのお客に舌打ちされるし、品出しが遅ければ先輩に「急いで」と言われる。  父の名前では、一つも片づかない。  失敗すれば注意され、できれば「助かった」と言われる。  それが妙に嬉しかった。  休憩室で渡されたまかない代わりの廃棄寸前のおにぎりも、天道邸の料理より美味く感じた。  自分で働いた時間の後に食べる味だった。  休憩中、スマートフォンに父からのメッセージが一件だけ届いた。 『仕事は決まったか』  監視しているなら、とっくに知っているはずだ。  陽向は少し迷い、 『決まった。今、休憩』  とだけ返した。  数分後。 『そうか。遅い時間だから帰り道だけ気をつけろ』  余計な車も、警護も来なかった。  陽向は画面を見つめ、鼻から小さく息を吐いた。  見えない鎖が全部消えたわけではない。  天道という名前は、これからも自分より先に部屋へ入る。  けれど、その名前に人生を決めさせない方法はあるのかもしれない。  自分で選び、失敗し、必要な時だけ誰かの手を借りる。  その程度の自由を、まずは守ってみようと思った。  アパートへ戻ると、郵便受けには何も入っていなかった。  高級マンションの鍵
last update最終更新日 : 2026-05-08
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次世代編 第18話 雨宿り

 大学の図書館を支配しているのは、古い紙が放つ僅かに酸っぱい匂いと、何百人もの学生が吐き出す熱気が静寂の中に沈殿した、独特の落ち着いた空気だった。  大きな窓の外では、春の終わりを告げる柔らかな雨が、灰色の空からしとしとと降り注いでいる。ガラスを滑り落ちる雫の音は、規則正しいメトロノームのように一定のリズムを刻み、館内の静けさをより深いものへと変えていた。  陽向は、閲覧室の奥、使い古された木製デスクに座っていた。  分厚い法学の専門書を開き、ノートにペンを走らせる。その指先は、父・征也に似て長く、節くれ立っているが、ペンを握る力加減には彼のような威圧感はない。  陽向がここで求めているのは、父が用意する「完璧な正解」ではなく、自分の足で立ち、自分の頭で考えた末に辿り着く、ささやかな真実だった。  (……このアパートの生活も、悪くない)  ふとペンを置き、陽向は窓の外へ視線を向けた。  霧雨に煙るキャンパス。色とりどりの傘が、校庭をゆっくりと移動していく。  天道邸という、一切のノイズを許さない清潔な「城」から飛び出し、不自由な自炊生活を始めてからしばらくが経つ。  朝、自分で淹れる少し苦すぎるコーヒーや、狭いキッチンで焼く不恰好なトースト。それらは父が与えてくれた最高級の食事に比べれば劣るものかもしれない。けれど、自分の意志で選んだという実感が、陽向の心を不思議なほど穏やかに満たしていた。  その時だった。  隣の席から、カサリ、という控えめな音が聞こえた。  陽向は自然な動作で、隣の席へと視線を移した。  そこに座っていたのは、同じ講義をいくつか受けている同級生……朝比奈結月だった。  彼女は、妹の結衣の周囲にいるような、ブランド品で着飾った華やかな少女たちとは対極に位置する存在だった。  少し色褪せたネイビーのカーディガンを羽織り、真剣な眼差しで参考書に向き合っている。眼鏡の奥の瞳は、まるで静かな森の奥にある湖のように澄んでいて、難解な一節にぶつかったのか、時折、困ったように小さな眉を寄せている。  陽向は、彼女から漂ってくる微かな香りに、ふと胸の奥が熱くなるのを感じた。  それは、父の執務室を満たしている、あの圧倒的で暴力的なまでの百合の芳香ではない。  安価な石鹸の匂いと、雨に濡れたばかりの髪から漂う、ひどく平凡で、けれ
last update最終更新日 : 2026-05-09
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次世代編 第19話 雨宿り

「……はい、これ。落としたよ」  陽向の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。  父のように突き放すような冷たさではなく、かといって過剰に歩み寄るわけでもない。ただ、困っている相手を思いやる、青年らしい響き。  結月が、眼鏡の奥の瞳を揺らしながら、陽向を見上げた。  驚きと、少しの戸惑い。けれどそこには、父の周囲に渦巻くような「恐怖」や「計算」の色は微塵もなかった。  ただ、真っ直ぐに自分という存在を捉える、澄んだ眼差し。 「あ……ありがとうございます、天道くん。助かりました」  結月は、ふわりと、小さな花が綻ぶような笑みを浮かべた。  陽向は、自分の耳朶が急速に熱くなるのを感じて、慌てて視線を教科書へと落とした。 「いいよ、別に。……試験、近いしね。お互い大変だ」 「うん。これ、すごく大事なまとめだったから……本当に、ありがとう」  結月はおずおずとノートを受け取ると、大切そうに胸に抱えた。  陽向は、それ以上何を話せばいいか分からず、ペンを握り直した。  けれど、活字はもう一切頭に入ってこない。  隣から聞こえてくる、結月がペンを走らせる規則的な音。  衣擦れの音。  時折、彼女が小さく鼻をすする音。  それらの些細な「生きた音」のすべてが、陽向の孤独だった世界に、鮮やかな色彩を塗り込んでいくようだった。  (……なんだ、この感じ)  胸の奥が、ぎゅっと、けれど心地よく締め付けられる。  ただ、隣にいる彼女の存在が、雨音と共に心に染み込んでいくような、静かな、けれど抗いようのない熱。  陽向は、自分の掌を見つめた。  まだ、彼女の指先の熱が、そこだけ灯火のように残っている気がした。◇ 数時間後。  図書館が閉館の時間を迎え、エントランスには帰り支度をする学生たちが集まっていた。  雨は、霧雨から、一粒一粒がはっきりとした本格的な雨へと変わっていた。  アスファルトが街灯の光を反射し、夜の街を幻想的に照らし出している。  入り口の軒下で、結月が困ったように立ち尽くしていた。  彼女は自分のバッグを抱えるようにして、降りしきる雨を不安げに見つめている。 「……傘、持ってきてないの?」  背後から声をかけると、結月は少し肩を跳ねさせて振り返った。 「天道くん。……あ、うん。予報だと夕方には止むはずだったか
last update最終更新日 : 2026-05-09
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