◇ 深夜。 玄関が開く音が、階下から微かに聞こえた。 結衣は跳ね起き、部屋のドアを細く開けた。 階段を上がってくる、重い足音。 革靴がカーペットに沈み込む音。 そして、廊下に漂ってきたのは――。 冷たい夜の風の匂いと、病院の消毒液。そして、征也が愛用している、あの重厚なシトラスの香り。 征也は、結衣の部屋の前を通り過ぎようとした。 その横顔は、彫刻のように無機質で、深い疲労に彩られている。 かつて莉子が隣にいた頃の、あの鋭くも瑞々しい覇気はどこにもない。今の彼は、会社と病院と家庭を寸分の狂いもなく回すことで、崩れそうな自分を支えているようだった。 「……パパ」 結衣が小さく声をかけると、征也の足が止まった。 ゆっくりと顔を向ける。その瞳は結衣を見ている。だからこそ、少しの外出にも危険を先回りして見つけ、過剰に口を出す。 「起きていたのか、結衣」 「パパ、お疲れ様。……ママの様子は、どうだった?」 征也の表情が、わずかだけ和らいだ。莉子の名前を出した時だけ、彼の人間らしい感情が微かに漏れ出す。 「ああ。今日は少しだけ、顔色が良かった気がする。……明日も、会いに行く。お前も来るか?」 「……ごめんなさい、明日は学校の補習があるの」 「そうか」 それだけ言って歩き出しかけた征也は、二歩進んだところで足を止めた。 「補習は何時までだ」「帰りは鈴木に迎えに行かせる」――口から出るのは、やはり安全の確認ばかりだった。 結衣が本当に聞いてほしかったのは、今日学校で何があったかという話だ。けれど征也は、心配するほど予定と危険ばかりを先に確かめてしまう。娘を見ていないのではない。見すぎるあまり、目の前の娘より先に『失う可能性』を見てしまうのだ。 自室のドアを閉め、征也は自分のベッドに潜り込む。 莉子のいない、広すぎるキングサイズのベッド。 彼は隣に莉子が横たわっていると錯覚するように、彼女の枕を引き寄せ、その冷たい生地に顔を埋めた。 「莉子……早く、帰ってきてくれ……」 暗闇の中で漏れたその声は、一国の王のそれではなく、道に迷った子供の泣き声だった。 階下の廊下で、再び置時計が「カチッ」と音を立てる。 天道家の時間は、まだ動き出さない。 この家の住人たちは、止まった時間を抱えたまま、
最終更新日 : 2026-05-05 続きを読む