All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 401 - Chapter 410

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次世代編 第20話 雨宿り

 陽向は、自分の心臓の音が、雨音よりも大きく鳴り響いているのではないかと不安になった。 「天道くんって……意外と優しいんだね。もっと、怖い人だと思ってた」 「……怖い? 俺が?」 「うん。いつも一人で難しそうな本読んでるし、声も低いから……ちょっと近づきにくいっていうか」  結月が小さく笑う。その無邪気な反応に、陽向は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。 「……ただ、人付き合いが下手なだけだよ。父さんに似て、不器用なんだ」 「そうかな? 私は、その不器用な感じ、嫌いじゃないよ」  さらりと言われた言葉に、陽向の鼓動が不規則に跳ねる。 「……あ、水溜り」  結月が声を上げ、一歩横へ飛び退く。  その瞬間、彼女の細い腕が、陽向の腕にしっかりと重なった。  厚いカーディガン越しでも伝わってくる、彼女の柔らかな体温と、微かな震え。 「……っ」  陽向は、思わず息を呑んだ。  そのまま彼女の細い肩を引き寄せ、自分の方へもっと近づけてしまいたいという、衝動的な熱が指先を駆け巡る。  けれど、彼はその右手をぐっと傘の柄に押し付け、必死に理性で抑え込んだ。  今の自分と彼女は、ただ偶然、同じ傘の下に入っただけの同級生に過ぎない。このもどかしい距離を唐突に詰めれば、隣で小さく息をする彼女を怯えさせてしまうだろう。  だから今はただ、もう少しだけ、この雨音が続く時間を共有できればそれでよかった。 「……ごめん! びっくりさせちゃったよね」  結月が慌てて腕を離す。  陽向は、消えてしまった温もりに少しだけ名残惜しさを覚えながら、傘を深く構え直した。 「……大丈夫だよ。……足元、気をつけて」  二人は、雨音以外は無言のまま、駅への道を歩き続けた。  歩道に反射するネオンの光。  通り過ぎる車の水飛沫。  時折、傘の柄を持つ陽向の手に、結月のバッグがコツンとぶつかる。  それらすべてが、陽向の記憶の中に、宝物のような時間として静かに降り積もっていく。  駅の改札前で、陽向は傘を閉じた。  再び、夜の冷たい空気が二人を隔てる。 「ありがとうございました、天道くん。……これ、今日のお礼に」  結月がバッグの中から取り出したのは、小さな、可愛らしい包装のチョコレートだった。 「あ、甘いもの、嫌いじゃなかったら……。疲れた時に食べてね」
last updateLast Updated : 2026-05-10
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次世代編 第21話 天道の血

 翌日の昼下がり。  前夜の雨が嘘のように上がり、大学のキャンパスには初夏を思わせる強い陽射しが降り注いでいた。  水溜りが蒸発していくアスファルトから、微かに湿った土の匂いと、若葉の青臭い香りが立ち昇ってくる。  講義を終えた学生たちが、カフェテリアや中庭へと向かう喧騒。  陽向は、雑踏の中を一人で歩いていた。  履き潰したスニーカーの底が、コンクリートを叩く規則的な音。  彼の右手は、ジーンズのポケットの中に突っ込まれたまま、そこにある小さな、四角い感触を確かめ続けていた。  昨夜、雨の駅前で結月から手渡された、安価なチョコレートの包み。  アルミの包装紙が、指先が動くたびにカサリ、カサリと微かな音を立てる。  その小さな音が耳に届くたび、陽向の胸の奥で、甘く、そして静かな熱がじんわりと広がっていくのを感じた。  あの雨傘の下で感じた、彼女の細い腕の柔らかな感触。  雨の匂いに混じって鼻腔をくすぐった、清潔な石鹸の香り。  天道邸という完璧で無菌な城の中では決して手に入らなかった、不器用で、けれど確かな「誰かの体温」。  (……今日は、講義がかぶっていない日だったな)  陽向は、ポケットの中でチョコレートの包みを親指の腹でそっとなぞりながら、ふと息を吐いた。  どこかですれ違えないかと、無意識に群衆の中にあのネイビーのカーディガンを探している自分に気づき、自嘲気味に唇の端を上げる。  父・征也が、莉子以外のすべてを無価値だと切り捨てるあの冷徹な眼差し。  自分はあんなふうにはならないと誓いながらも、たった一夜の出来事で、自分の視界が「朝比奈結月」という一人の少女を中心に回り始めていることを、陽向は認めざるを得なかった。  陽向が、カフェテリアへと続く渡り廊下の角を曲がろうとした、その時だった。 「だからさ、一回だけでいいから! 連絡先だけでも教えてよ」  鼓膜を不快に震わせる、過剰に馴れ馴れしい男の声。  陽向の足が、ピタリと止まる。  渡り廊下の少し先の死角。自販機の横のスペースで、数人の男子学生が輪を作るようにして立っていた。  派手な金髪に、ブランドのロゴが大きくプリントされたTシャツ。首元にはじゃらじゃらとしたシルバーアクセサリー。  彼らが放つ、安っぽいデオドランドと、汗ばんだ肌の匂いが、風に乗って陽向の
last updateLast Updated : 2026-05-10
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次世代編 第22話 天道の血

「新入生はみんなそう言うんだって。うちのインカレ、マジで就活にも強いし、先輩との人脈広がるからさ。とりあえず今から、そこのファミレスで話だけでも……な?」  リーダー格と思われる金髪の男が、じりっと結月に距離を詰める。  結月の肩が、ビクッと大きく跳ねる。  彼女が抱きしめているバインダーの端を握る指先が、白く変色していた。 「ご、ごめんなさい……本当に、次の講義があるので……」 「つれないなー。俺ら、わざわざ声かけてやってんのに。ほら、ちょっとくらい時間あるっしょ?」  男が、結月の腕へと強引に手を伸ばした。  結月は顔を背け、身を縮めるようにして逃れようとする。  陽向の脳裏で、何かがパツン、と音を立てて切れた。  スニーカーの底がアスファルトを蹴る。  ポケットの中のチョコレートから手を離し、陽向は無言のまま、自分のスマートフォンを取り出し、カメラの録画ボタンをスワイプした。 「あの……やめて、ください……っ」  結月が、ついに恐怖で声を震わせた。  その瞬間、金髪の男が苛立ったように舌打ちをし、結月の細い手首をガシッと掴んだ。 「痛っ……」  結月の口から、小さな悲鳴が漏れた。 「……触るな」  背後からかけられた低く、氷のように冷たい声に、男たちの動きがピタリと止まった。  陽向は、結月と金髪の男の間に、割り込むようにして立ちはだかった。  不意に現れた長躯の青年に、金髪の男が驚いて結月の手首から手を離す。 「あぁ!? なんだてめぇ!」  体勢を立て直した男が、目を吊り上げて陽向を睨みつけた。  陽向は、結月を自分の背中に庇うようにして立ち、冷ややかに男を見下ろした。  身長は、陽向の方が頭一つ分高い。 「……彼女、嫌がってますよね」  陽向の声は、自分でも驚くほど静かだった。  怒りで声を荒げることもなく、ただ事実を淡々と確認するような、フラットな響き。 「はぁ? お前、誰だよ。彼氏気取りか? 俺らはただ、新歓の案内をしてただけだろ」 「案内なら、言葉だけで済むはずです。女性の手首を無理やり掴んで、退路を塞ぐ必要がどこにあるんですか」 「うるっせえな、関係ねえ奴は引っ込んでろ!」  男が、威嚇するように陽向の胸ぐらを掴もうと手を伸ばしてきた。  陽向は一歩も引かず、その手を左手で冷たく払い落と
last updateLast Updated : 2026-05-11
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次世代編 第23話 天道の血

 陽向の胸の奥底で、重く、どす黒い何かが、静かに目を覚ました。  いや、熱ではない。  それは、周囲の空気を瞬時に凍りつかせるような、絶対零度の冷たさを持った怒りだった。  自分の世界に土足で踏み入り、自分の庇護下にある存在を脅かした者を、徹底的に排除しなければ気が済まない衝動。  陽向の瞳の奥から、青年らしい瑞々しい光が消え失せ、底知れない深淵が広がっていく。 「……お前ら、名前は」  陽向の声が、先ほどよりもさらに一段階、低く沈んだ。  それは、喧騒に包まれていた渡り廊下の空気を、ビリビリと震わせるような、異質な響きを持っていた。  陽向は、右手に持っていたスマートフォンを、男たちの目の前へと突き出した。  画面には、赤い録画マークが点滅している。 「な、なんだよそれ。撮ってんのか!?」 「さっき、お前が彼女の腕を掴んで無理やり連れて行こうとしたところから、全部録画させてもらった」  陽向の冷たい瞳が、金髪の男の顔を射抜く。  男は慌てて陽向のスマホを奪おうと手を伸ばしたが、陽向はそれを軽く躱した。 「無駄だ。データはすでにクラウドに同期されている。今ここでこの端末を壊したところで、何の解決にもならない」 「ふざけんな! 消せよ!」 「……お前、三年の木崎だな。経済学部の」  陽向は、男が首から下げていたサークルのネームカードを、視線だけで一瞥した。 「木崎。……お前がたった今、数分の浅ましい欲求で満たそうとしたのは、自分自身のこれからの数十年の人生だ」 「は……? 何言って……」  木崎の額から、じわりと脂汗が滲み出した。  陽向の顔には、怒りも焦りもない。ただ、相手の弱点を正確に把握し、真綿で首を絞めるような、息の詰まる静けさだけがあった。 「お前たちが彼女の行く手を塞ぎ、腕を掴んで恐怖を与えた動画。……これを、大学の学生課と警察に持ち込めばどうなると思う? 単なる勧誘の行き過ぎでは済まされない。明確な暴行未遂、あるいは強要の証拠になる」 「ぼ、暴行なんて大げさな……!」 「大げさかどうかは、第三者が判断することだ。……お前、そろそろ就職活動の時期だろう? もし内定が出ているなら、そこにもこの動画のリンクを丁寧に送ってやる。お前の親元にも、息子が女子学生に路上で付き纏い、暴力を振るったという事実が知れ渡るだろう
last updateLast Updated : 2026-05-11
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次世代編 第24話 天道の血

「このまま共犯として名前を連ねたいなら、そこにいればいい。……もし自分の人生をドブに捨てたくないなら、今すぐ消えろ」  その絶対的な命令を含んだ言葉に、取り巻きの男たちは顔を見合わせ、やがて脱兎のごとく踵を返して逃げ去っていった。  残されたのは、陽向の冷酷な視線に晒されている木崎だけだ。 「あ、あいつら……っ、おい、わかった、悪かった! もう手は出さねえから、その動画消してくれ!」  木崎の声が、先ほどの威勢の良さを完全に失い、情けない哀願へと変わる。 「……言葉が軽い」  陽向は、木崎を見下ろした。  胸の奥で暴れ狂っていた暗い炎が、男の屈服を見ることで、少しずつ凪いでいく。  自分の力で、外敵を排除した。  彼女の世界から、脅威を完全に消し去った。  自分の支配下にあるものを守り抜くための、完璧な処刑。 「彼女に謝れ。……俺が見下ろす位置ではなく、もっと誠意の伝わる形でだ」 「は……?」 「土下座しろと言っているんだ、木崎」  低く、地を這うような命令。  抵抗を許さないその冷たい響きに、木崎の膝が、ガクガクと震え始めた。  社会的な死という恐怖を突きつけられ、彼はもはやプライドを保つことすらできなくなっていた。 「わ、わかった……! 謝る、謝るから……っ!」  木崎は崩れ落ちるようにして、アスファルトの上に膝をついた。  両手をつき、地面に額を擦り付けるような無様な姿勢。  彼は震える声で何度も「すいませんでした」「もう二度と近づきません」と繰り返した。  陽向は、足元で這いつくばる男を、虫けらを見るような目で見下ろした。  もう十分だ。これ以上は無意味な残骸でしかない。 「……二度と、彼女の半径十メートル以内に近づくな。次に見かけたら、社会的に終わらせてやる」  陽向が低く告げると、木崎は這うようにして立ち上がり、何度も振り返りながら、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。  静寂が、渡り廊下に戻ってくる。  風が吹き抜け、木々の葉がザワザワと音を立てた。  陽向は、大きく息を吐き出した。  スマホの録画を停止し、ポケットに仕舞い込む。  肺に新鮮な空気を入れ込み、瞳の奥の冷たい炎をゆっくりと鎮める。  右手を開き、ジーンズのサイドで軽く拭う。あの安物のムスクの匂いが移っている気がして、無意識に眉を
last updateLast Updated : 2026-05-12
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次世代編 第25話 天道の血

 相手の人生を一切の容赦なく踏みにじり、這いつくばらせることを平然とやってのけた、目の前の青年に対する底知れない怯え。 「ゆづ、き、さん……?」  陽向が一歩、彼女の方へと足を踏み出す。  ザリッ。  結月の靴底が、アスファルトを擦って、さらに後ずさる音が鳴った。  彼女の両腕は、胸のバインダーを抱きしめるのではなく、自分自身を守るように固く組まれている。  小刻みに震える肩。  浅く、ひきつるような呼吸。 「こ、こないで……っ」  結月の唇から、掠れた悲鳴のような声が漏れた。  その言葉は、先ほど彼女が、あのならず者の木崎に向けた拒絶の声よりも、はるかに切実で、深い絶望を含んでいた。  風が吹き抜け、彼女から漂ってくる匂いが、陽向の鼻腔を打った。  あの優しかった石鹸の香りは、今はもう感じられない。  極限の緊張状態から発せられる、鋭く、痛々しい恐怖の匂い。  陽向は、伸ばしかけていた自分の右手を、空中でピタリと止めた。  その手は、先ほどまでスマートフォンを突きつけ、相手の未来を盾にして物理的な暴力以上の恐怖でねじ伏せていた腕だ。  (……俺は)  陽向の脳裏に、あの日、執務室で自分を冷徹に見下ろしていた父・征也の姿が、鮮烈なフラッシュバックとなって蘇った。  相手を守るためだと言い訳をして。  自分の力を誇示し、相手の退路を断ち、圧倒的な恐怖で支配する。  自分が先ほど木崎に対して行った行為は、まさに父が周囲の人間に対して行ってきた「呪い」の再生産に他ならなかったのだ。 「……違う。俺は……」  陽向の喉から、掠れた声がこぼれる。  けれど、結月の瞳には、陽向の弁解など届いていなかった。  彼女の目には、陽向という不器用な青年ではなく、他者の尊厳を平然と握りつぶす、冷酷な支配者の姿しか映っていない。  彼女を、守りたかっただけなのに。  彼女の、あの柔らかな笑顔を、取り戻したかっただけなのに。  陽向の視界が、ぐらりと揺れた。  ポケットの中にある、あの安価なチョコレートの重みが、今は焼け焦げた鉛のように熱く、重く感じられる。  結月は、陽向から視線を外さないまま、さらに数歩後ずさると、やがて弾かれたように背を向け、カフェテリアとは逆の方向へと走り去っていった。  パタパタという彼女の靴音が、次第に小
last updateLast Updated : 2026-05-12
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次世代編 第26話 鏡の怪物

 薄っぺらいカーテンの隙間から、白々しい朝の光が容赦なく差し込んでいた。  陽向は、硬いフローリングの上に直に敷いた布団の中で、浅く濁った眠りから強引に引き剥がされた。  枕元のスマートフォンが、無機質なアラーム音を鳴らし続けている。手探りで画面を叩き、音を止める。  部屋の中には、昨夜干したままの生乾きの衣服の匂いと、微かなカビの臭いが淀んでいた。  頭の芯が、鉛を流し込まれたように鈍く重い。  昨夜、あの渡り廊下で結月が自分に向けていた、怯えきった瞳。  それが何度も夢に現れ、その度に自分の手が彼女を暗闇へ突き飛ばすような錯覚に苛まれて、まともに眠ることができなかった。  陽向はのろのろと身を起こし、狭いユニットバスへと向かった。  ひび割れた洗面台の前に立つ。  蛇口を捻ると、古びた配管がガタガタと鳴り、冷たい水が勢いよく吐き出された。  両手で水を掬い、顔に何度も叩きつける。  肌を刺すような冷たさが、ようやく意識の輪郭を少しだけはっきりさせた。  前髪からポタポタと水滴を落としながら、陽向は顔を上げ、鏡に映る自分を見つめた。  目の下には薄く青い隈が張り付き、ひび割れた唇からは血の気が失せている。  長く、形の良い眉。鋭く通った鼻筋。  そして、相手の奥底まで見透かすような、色素の薄い瞳。  どこをどう切り取っても、あの父・天道征也の血を濃く受け継いでいると嫌でも自覚させられる顔立ちだった。  (……俺は、間違ったことはしていない)  洗面台の縁を両手で強く握りしめながら、陽向は心の中で必死に言い訳を反芻した。  木崎たちから彼女を守るためには、あのように有無を言わさぬ力でねじ伏せるしかなかった。口先だけで窘めても、彼らのような人間はすぐにまた別の形で彼女に危害を加える。それを完全に断ち切るための、一番確実な手段を選んだだけだ。  俺は、父さんのように自分の欲望のためだけに力を振るったわけじゃない。  彼女を、助けたかっただけだ。  ちゃんと説明すれば、きっと分かってくれる。俺があの男たちと同じような人間ではないと、理解してくれるはずだ。  それは、十八歳の青年らしい、不器用で、どこまでも甘い希望的観測だった。  陽向は、ジーンズのポケットに入ったままになっている、あの安価なチョコレートの包みの感触を思い出し
last updateLast Updated : 2026-05-13
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次世代編 第27話 鏡の怪物

 それらの雑音が、今日の陽向の耳にはすべて、神経を逆撫でするノイズにしか聞こえない。  机の上に置かれたノートパソコンの黒い画面に、自分の強張った顔が映り込んでいる。  講義開始の五分前。  重い木製のドアが開き、見覚えのあるネイビーのカーディガンを着た小柄な影が現れた。  朝比奈結月だった。  陽向の背筋が、無意識にピンと伸びる。  彼女は、教室に入るとすぐに、怯えた小動物のように周囲へ視線を巡らせた。  そして、後方の席に座る陽向の姿を見つけた瞬間。  ビクッと、その細い肩が大きく跳ねた。  彼女は弾かれたように視線を逸らし、陽向の席から最も離れた、最前列の隅の席へと小走りで向かうと、背中を丸めるようにして座り込んだ。  陽向の胸の奥で、ギリッ、と不快な音が鳴った。  彼女が自分を明確に『避けている』という事実が、物理的な痛みとなって臓腑を抉る。  (……なんで、そんなに怯えるんだ)  みぞおちのあたりが、熱く焼けるように痛む。  それは怒りではなく、拒絶されたことに対する純粋な傷つきだった。  あんなならず者たちに絡まれていた時、助けに入ったのは俺だけだった。  雨の日、傘に入れて駅まで送った時は、あんなに柔らかく笑ってくれていたじゃないか。  なのに、なぜそんな、得体の知れない怪物を見るような目で俺を見るんだ。  陽向の掌に、じわりと嫌な汗が滲む。  講義が始まっても、老教授の単調な声は一言も頭に入らなかった。  陽向の視線は、何十列も前方に座る結月の、小さな背中だけに固定されていた。  彼女の肩が、時折不自然に強張るのが見える。  背後からの自分の視線に気づき、硬直しているのだ。  彼女にそんな思いをさせたいわけじゃない。ただ、昨日のことを謝って、誤解を解きたいだけなのに。  言葉を交わせない距離が、もどかしくてたまらない。  陽向は、手元のボールペンを、折れるほど強く握りしめた。  プラスチックの軸がミシミシと軋む音が、自分の心臓の音のように大きく聞こえた。◇ 講義終了のベルが鳴った瞬間、結月は誰よりも早く席を立った。  バインダーを胸に抱え込み、逃げるように教室の前方ドアから飛び出していく。  陽向もまた、ノートパソコンを乱暴にリュックに押し込み、彼女の後を追った。  廊下に出ると、学生の波
last updateLast Updated : 2026-05-13
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次世代編 第28話 鏡の怪物

 初夏の強い日差しを、背の高い銀杏の並木が遮っている。  足元には、まだ昨日の雨の湿りが残る黒い土と落ち葉。  周囲の喧騒が遠のき、二人の急ぎ足の靴音と、荒い息遣いだけが響く空間。 「待って、朝比奈さん。少しでいいから!」  陽向は、彼女の数メートル後ろまで迫り、焦燥感に駆られて声を張り上げた。  結月が息を呑み、急ブレーキをかけるように立ち止まった。  彼女の靴底が、アスファルトをザリッと擦る。  彼女は振り返ることなく、胸に抱えたバインダーを盾にするように強く握りしめ、肩を小刻みに震わせていた。  陽向は、彼女の背中から二歩離れた位置で立ち止まった。  これ以上近づけば、彼女をさらに怯えさせてしまうという理性が、辛うじて働いていた。 「……逃げないでくれ。昨日のこと、謝りたくて」  陽向の声は、少し上擦っていた。  自分でも情けないと思うほど、懇願するような響きが混じっている。  結月は、ゆっくりと、恐る恐るこちらを振り返った。  その顔は青白く、眼鏡の奥の瞳は不安に揺れている。 「……謝るって、何を……ですか」 「やりすぎた。……君を助けようとして、つい頭に血が上って……あんな、相手を徹底的に追い詰めるような脅し方をして。……怖がらせて、ごめん」  陽向は、深く頭を下げた。  誠意を見せれば、きっと伝わる。自分が本当に彼女を案じていたのだと、分かってくれるはずだ。  しかし、結月の口からこぼれたのは、陽向の期待とは全く違う言葉だった。 「……頭に血が上って、あんなことが、すらすらと言えるの?」  細く、かすれた声。  陽向はハッとして顔を上げた。  結月は、バインダーを抱える腕にさらに力を込め、後ずさりするように一歩引いた。 「天道くん……昨日のあの人たちを脅している時、ちっとも怒っているようには見えなかった。……すごく冷たい目で、相手がどうすれば一番傷つくか、どうすれば一番絶望するか、完全に分かっていて……それを楽しんでいるみたいに見えたの」 「楽しんでなんかいない! 俺はただ、あいつらが二度と君に近づけないように……」 「でも……っ!」  結月が、初めて陽向に対して声を荒げた。  その声の大きさに、陽向自身が驚き、言葉を飲み込む。 「ただ……やめてほしかっただけなのに。誰かに助けてほしかったのは本当
last updateLast Updated : 2026-05-14
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次世代編 第29話 鏡の怪物

「……違う。俺は、君を……」 「来ないで!」  陽向が一歩前に出ようとした瞬間、結月が悲鳴のような声を上げ、後ずさった。  彼女の背中が、小道に面した古いレンガの壁にぶつかる。トン、という鈍い音。  彼女の後ろにはもう、逃げ場はなかった。 「……っ」  陽向の胸の奥で、どうしようもない苛立ちと、焦りが渦巻く。  なぜ分かってくれないんだ。  俺は、君を傷つけるつもりなんて一ミリもないのに。  ただ、君のあの柔らかい笑顔を、もう一度見たかっただけなのに。  言葉が通じないもどかしさが、陽向の青年らしい幼さを暴走させる。 「俺の話を、聞いてくれよ!」  陽向は、彼女に自分の切実さを伝えたくて、無意識のうちにさらに一歩、大きく踏み込んでいた。  長身の彼の影が、壁際に追い詰められた結月の小さな身体を完全に覆い隠す。  彼女の逃げ場を塞ぐようにして、陽向は右手を伸ばした。  触れた瞬間。  ――熱い。  薄いカーディガン越しに伝わってくる、彼女の肩の体温。  しかし、それは雨の日に図書館で指先が触れ合った時の、あの心地よい温もりとは全く異なっていた。  ガチガチに強張りきった筋肉の感触。  陽向の大きな手が肩に触れた瞬間、結月はビクッと体を硬直させ、大きく息を呑んだ。 「や、やめて……っ、離して……!」  結月が、陽向の手から逃れようと必死に肩を捩った。  その懸命な抵抗が、陽向の掌に生々しく伝わってくる。  彼女の目から、ついに恐怖の涙がこぼれ落ち、眼鏡のレンズの奥で光った。  その涙を見た瞬間。  陽向の脳裏に、ある光景が鮮烈に蘇った。  ――静まり返った天道邸の廊下で、母・莉子の手首を、痛いほどの力で握りしめていた父の横顔。  ――「どこにも行くな」と告げる、あの重苦しいほどに濃密な声音。  ――父の溢れんばかりの溺愛を浴びながら、時折、母が浮かべていた、困ったような、どこか息苦しそうな微かな溜息。  父が母を傷つけようとしていたわけではない。それは陽向もわかっていた。父は、母なしでは生きていけないほどに彼女を愛し、慈しんでいた。  けれど。  その愛情という名の巨大な重力は、時に母から「自由」を奪い、自分だけの安全な檻に閉じ込めようとしていたのではないか。  今の自分は、何をしている。  自分の言い
last updateLast Updated : 2026-05-14
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