All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 361 - Chapter 370

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家族編 第73話 二人の発熱

 結衣と陽向が、同じ夜に熱を出した。リビングの灯りを落としても二人とも眠れず、私が身じろぎするたび、服を握る手に力が入る。子供たちの髪は汗で湿り、膝に触れる体温がいつまでも高かった。  征也が帰ってきたのは、ようやく陽向がうとうとし始めた頃だった。ネクタイを外しかけて手を止め、小児科でもらった指示書を拾い上げる。 「水は飲めているか」 「二十分前に、少しずつ。結衣は三十八度一分、陽向は三十七度八分だった」  彼は二人の胸元を見ていた。寝息の間隔を追っているのだと気づき、私は声を落とす。 「今は落ち着いてる」  征也は頷き、飲み物と着替えを手の届くところへ運んだ。グラスを置く時だけ、底がテーブルへ強く当たった。陽向が眉を寄せると、彼は動きを止めたまま息子の顔を覗き込んだ。  薬の時刻を書き留め、体温計を枕元へ置く。落ち着いて見えるのに、外し忘れたネクタイは首へ残ったままだった。  夜中、陽向が喉の渇きで目を覚ました。 「パパ……みず」  征也はすぐに膝をつき、背中を支えた。ストローを差し出すと、息子は二口ほど飲み、顔を背ける。彼はグラスを下げ、唇の端についた水を拭ってやった。 「ありがと」  その声に手が止まった。 「……寝ろ。ここに置いておく」  陽向は頷く代わりに、父の袖へ頬をつけた。征也が腕を抜くまで、少し時間がかかった。 「今度はお前だ。一時間寝ろ」 「私は平気」 「三時間前にも同じことを言った」  言い返そうとして、欠伸が出た。結衣が服を引くので、私はもう一度抱き直す。 「でも、パパだと泣くかも」 「泣かれたら、泣かれたまま抱く。お前が倒れるよりいい」  差し出された腕へ娘を預けると、肩から急に重みが消えた。結衣は小さくぐずったが、征也が歩き出すと、その胸へ顔を埋めた。  私はソファに横になった。まだ泣くかもしれないと耳を澄ませているうち、床をゆっくり往復する足音が遠くなった。  次に目を開けた時、カーテンの縁が白んでいた。横に敷いた寝具で子供たちが眠り、その間に征也が座っている。壁へもたれた頭が少し傾き、片手は結衣の背へ置かれたままだった。  二人の額へ順に触れる。昨夜の熱さが薄れていたので、体温を測り直した。表示を見た途端、息が長く漏れた。  征也が目を開ける。私は体温計を見せ、頷いた。 「……よかった
last updateLast Updated : 2026-04-20
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家族編 第74話 地下駐車場

 指先に触れるベルベットの箱は、吸い付くような滑らかさと、手のひらに沈み込むような確かな重みを持っていた。  銀座の老舗百貨店。その最上階に近い時計サロンの空気は、下層階のざわめきとは完全に切り離されたように静まり返っている。空調が運んでくるかすかな白檀の香りが、鼻腔の奥をくすぐった。 「……うん。やっぱり、これにします」  ガラスのカウンターの上に並べられた数本のタイムピース。照明を弾く鋭い金属光沢の中で、最も控えめで、それでいて文字盤の深い紺色が征也の瞳を思わせる一つを選び取った。  陽向と結衣の風邪がようやく落ち着き、天道家にいつもの平穏が戻ってきた。看病明けの疲れを気遣い、「たまには一人で羽を伸ばしてこい」と送り出してくれた不器用な優しさ。けれど、結局真っ先に向かったのは、もうすぐやってくる誕生日のためのギフト選びだった。 「かしこまりました。天道様、素晴らしいお選びでございます。旦那様も、きっとお喜びになりますわ」  純白の手袋をはめた店員の指先が、恭しく時計をケースに収める。  天道家という名を知らぬ者はいない。このサロンの分厚い扉の奥に通されるのも、今や日常の一部として肌に馴染みつつある。けれど、かつて家政婦として膝をつき、床を磨き上げていた頃の記憶は、今でも爪の間に微かな緊張としてへばりついている。隣を歩くにふさわしい人間でありたいという、祈りにも似た背筋の伸び。 「お包みしている間、温かいお紅茶でもいかがでしょうか」 「いえ、今日はこの後、子供たちを迎えに行く約束がありますから。……急がせてしまってごめんなさい」  小さく会釈をし、革のソファに浅く腰を下ろす。  窓の外には、午後の柔らかな光に照らされた銀座の街並みが広がっている。看病の疲れがまだ少しだけふくらはぎの奥に重く淀んでいるけれど、こうして一人の時間を持つと、逆に家族の顔ばかりが鮮明に浮かんでくる。  パパのお髭がチクチクすると泣いていた結衣の泣き顔。  ゼリーを食べて少しだけ頬を赤く染めた陽向の寝顔。  そして、暗い寝室で壊れ物を扱うように首筋に顔を埋め、熱い吐息を落としていた、大きな背中。  胸の奥が、じんわりと温かくなる。三田村や鈴木は護衛を申し出てくれたが、今日は一人で選びたかった。征也には行き先まで話さず、誕生日の買い物だと悟られないように出てきたの
last updateLast Updated : 2026-04-20
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家族編 第75話 地下駐車場

 この百貨店の地下深くに位置するVIP専用の駐車場は、限られた顧客しか利用できない。地上に出るよりも、ここから車を呼び出したほうが、人目を避けられる。  チーン、という乾いた電子音が鳴り、扉が左右に開いた。  眼前に広がったのは、低く、薄暗いコンクリートの空間。  天井を這う無数の配管が、等間隔に配置された青白い蛍光灯の光を浴びて、うねるような影を床に落としている。  カツ、カツ……。  スウェードのパンプスが、硬いコンクリートを叩く音が、静まり返った駐車場にやけに大きく反響した。  地上ではあんなに賑やかだった都会の熱気が、厚い地層と鉄筋コンクリートに阻まれて、ここには一切届かない。ただ、遠くの方で空調設備の低い唸り声だけが、重く淀んだ空気を震わせている。  少しだけ、空気が冷たい。  首元のスカーフを無意識に引き寄せ、愛車の停まっている区画へと歩みを速めた。  広い空間には、数台の高級外車が等間隔に並んでいるだけだ。その漆黒のボディに、蛍光灯の光が筋となって写り込み、まるで巨大な深海魚が静かに獲物を待っているような錯覚を覚える。  ふと。  心臓の音が、耳の奥でドクンと跳ねた。  ……おかしい。  立てる靴音に混じって、わずかに遅れて響く、別の音が聞こえる気がする。  カツ……。  コツ……。  立ち止まると、その音もピタリと止まった。  背後の闇を振り向こうとしたけれど、首の筋肉が強張って、視線がうまく動かない。  ただの気のせい。この広い空間で音が反響しているだけ。そう言い聞かせ、再びパンプスの先を踏み出した。  けれど。  カツ、カツ、カツ、カツ……。  今度は隠そうともせず、確実に背後から近づいてくる。  荒く、靴底を引きずるような、湿った足音。  逃げなければ。そう思った瞬間、背筋に氷のような寒気が走り、足元のパンプスがコンクリートに縫い付けられたようにひどく重く感じられた。  シルバーの輝きを放つ愛車が、数メートル先に見える。あそこまで行けば。リモコンキーを握りしめようとした時。 「……いい身分だな、天道の奥方は」  低く、粘りつくような声が、背後から突き刺さった。  喉の奥がカラカラに乾き、息が詰まる。  ゆっくりと、震える足を支えながら振り返った。  そこに立っていたのは、サイズの合ってい
last updateLast Updated : 2026-04-21
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家族編 第76話 地下駐車場

「どちら様? ハッ、とぼけるなよ。……幼稚園で俺たちのことを撮って、妻に余計な知恵をつけた女の顔を忘れるわけがねぇだろうが!」  男が吐き捨てた瞬間、安物の酒と、何日も風呂に入っていないような酸っぱい汗の臭いが鼻を突いた。  記憶が繋がる。  幼稚園のエントランス。頬を腫らした白石夫人。母親の腰へしがみつき、「帰りたくない」と震えていた健太くん。  そしてホテルラウンジで、夫へ向かって初めて「触らないで」と言った彼女の声。 「……健太くんのお父さん」 「その名前を気安く呼ぶな!」  男が一歩踏み出す。  以前の仕立ての良いスーツ姿は見る影もない。革靴のつま先は擦り減り、ネクタイは汚れ、目の下には深い隈が張り付いている。 「お前があの動画を残したせいで、警察だの弁護士だのが入ってきた! 妻には離婚を申し立てられ、会社じゃ役員に説明を求められ、取引先まで次々手を引いた!」  それは私たちが彼の人生を奪った話ではない。  彼自身が家族と周囲へ積み重ねてきた行為が、表へ出ただけだ。  けれど、今の男にその言葉が届くとは思えなかった。 「俺が全部失ったのに、お前は天道の金で着飾って、のうのうと買い物か。返せ。俺の人生を返せ」  男の視線が、私の手にある時計サロンの袋へ突き刺さる。 「話があるなら、弁護士を通してください。……そこをどいて」  距離を取りながら、バッグの中でスマートフォンへ指を伸ばす。  緊急SOSは有効になっている。  男の脇を抜けようとした瞬間、肩を強く押された。  ドサッ、と背中が冷たいコンクリートへぶつかる。 「あ……っ」  肺の空気が抜け、手から紙袋が落ちた。  けれど、視線だけは男から外さなかった。 「俺を見下すな!」  男が距離を詰める。  私はショルダーバッグを両手で持ち直し、身体の前へ構えた。 「近づかないでください」 「怖いのか?」  返事が出なかった。男の靴が近づく。私はバッグを胸へ押し当てたまま、車の陰へ半歩ずれた。  男の顔が歪む。  次の瞬間、私はバッグを振り上げるふりをして距離を作り、その隙にスマートフォンの側面ボタンへ指をかけた。  男が何か叫んでいた。離婚の手続きも、会社の審査も、私が仕組んだことになっている。言い返せば、また近づいてくる。私は唇を噛み、バッグの中の硬
last updateLast Updated : 2026-04-21
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家族編 第77話 地下駐車場

 白石が距離を詰めた瞬間、私はバッグの中でスマートフォンの側面ボタンを三度押した。  短い振動。  事前に設定していた緊急SOSが作動し、現在地と録音データが警備室と征也へ送られる。  白石は気づかない。 「お前が余計なことをしたせいで、俺は全部失った!」 「離して……!」  腕を掴まれ、声が引きつった。バッグを支える手まで動かなくなる。白石の指を剥がそうとしたが、爪が自分の皮膚を擦るばかりだった。  手が振り上がる。  その時、駐車場の奥で非常灯が点滅した。 『警備員が向かっています。通報済みです』  スマートフォンから機械音声が流れる。  白石が初めて顔色を変えた。  私はその隙に腕を引き抜き、車の陰へ距離を取る。  白石が音のした方を見る間に、私は車体へ手をついて身体を支えた。膝が震えている。靴を踏み直し、もう一度距離を取った。  遠くから複数の足音が響く。  その中に、聞き慣れた革靴の音が混じっていた。  冷たい恐怖の中で、私はようやく息を吐いた。  最初に駆け込んできたのは百貨店の警備員だった。  続いて三田村と鈴木。そして、その後ろから征也が現れる。  白石が逃げようとした瞬間、警備員二人に取り押さえられた。 「離せ! これは夫婦の問題だ!」  警備員の腕の向こうで叫ぶ顔を、私は見続けることができなかった。車の陰へ身を寄せ、痛む手首を抱えた。  征也は何も言わず私の前まで来た。  手首の赤みを見た瞬間、瞳の温度が消える。  征也の拳が固くなった。私は思わずその袖を掴んだ。 「征也くん、こっちにいて」  彼が私を見る。もう一度言おうとしたが、歯が鳴って、声がうまく出なかった。  征也は上着を脱ぎ、私の肩へ掛けた。その手まで震えていた。白石へ顔を向けかけ、それでも私が袖を放さないでいると、身を屈めて視線を合わせた。 「……分かった。ここにいる」  私は上着の前を握りしめた。警備員が白石を遠ざける足音を、征也の肩越しに聞いていた。  その言葉とほぼ同時に、パトカーのサイレンが地下へ近づいてきた。  警察官へ録音データを渡し、事情を説明する。  白石は最後まで叫んでいたが、手首を掴んだ跡も、防犯映像も残っている。私が話すたび、彼の声は遠くなっていった。  征也は少し離れたところにいたが、私が言葉に
last updateLast Updated : 2026-04-22
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家族編 第78話 守る約束

 リムジンが地上へ出ても、私は窓の外を見られなかった。征也が手首へ冷却材を当てている。布越しの冷たさに肩が動くと、彼の指も止まった。 「強い?」 「いや……今のでいい」  答えてから、視線を上げる。征也は赤くなったところを見つめていた。噛みしめた顎の線が、街灯の光に浮かぶ。 「私が呼んだ時、どこにいたの」 「近くまで来ていた。迎えに寄るつもりだった」  だからあんなに早かったのかと、ようやく考えられた。彼は冷却材を持ち替え、私の指先へ触れる。 「電話が鳴って、お前の声がした。……あんな声は、二度と聞きたくない」  私は俯いた。上着の袖が膝へ落ちる。謝りかけると、征也が顔を上げた。 「違う。お前を責めてるんじゃない」  言い直した声は掠れていた。私は空いている方の手を伸ばし、その袖口を掴んだ。帰るまで、手を放してもらわなくていいと思った。  家に着くと、廊下の奥から子供たちの声がした。何でもない声なのに、足が止まった。征也が私の背へ手を添える。私は一度深く息を吸い、ただいまと返した。  子供たちを寝かせてから、ようやく時計の箱を渡した。潰れた紙袋を伸ばしてみたが、角についた折れ目は戻らなかった。 「誕生日、おめでとう。……少し早いけど」  征也はすぐには受け取らなかった。私の手首を見てから、両手で箱を持つ。  蓋を開けると、深い紺色の文字盤が照明を映した。買った時には海のように見えた色が、今は彼の掌の中で暗く光っている。 「これ、あなたの目に似てると思ったの」  言うと、征也がこちらを見た。私も見返して、少しだけ笑えた。 「つけてみて」  彼は今までの時計を外し、新しいものを差し出した。私は留め具へ指をかけたが、手首が痛んでうまく動かせない。征也は何も言わず自分で留め、腕をこちらへ向けた。  ぴたりと馴染んでいた。店で何度も迷ったことが報われたようで、私はその縁を指で撫でた。 「似合う」  征也の手が上がり、私の頬へ触れた。親指が目元を擦る。もう泣いていないつもりだったのに、指先は湿っていた。 「ありがとう、莉子」  額へ唇が触れ、そのまましばらく離れなかった。私は目を閉じた。彼の腕に新しい時計の重みがある。冷たい金属が頬へ触れても、今日は少しも嫌ではなかった。  時計の箱を片づけようとすると、征也が先に手を伸ばした。
last updateLast Updated : 2026-04-22
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家族編 第79話 結衣の一歩

 窓を開けると、やわらかな風と一緒に庭の土の匂いが入ってくる季節になった。結衣はつかまり立ちを覚え、ソファの布地を擦る小さな手と、床へ落ちる柔らかな尻もちの音が一日中どこかで聞こえる。数十センチ高くなっただけで、彼女の世界は急に広がったらしい。  陽向はそのたび後ろをついて歩き、「あぶないよ」と兄らしく両手を広げる。小さな足が床をぺた、ぺたと叩くたび、リビングの空気まで落ち着かなくなる。  征也はもっとひどい。  リビングの角という角へクッション材を貼り、床には滑りにくいマット。低いテーブルは別室へ移され、観葉植物まで「倒れる可能性がある」と退避させられた。 「ここ、保育園の安全講習室みたいになってる」  私が言うと、「転倒のリスクを減らしただけだ」と真顔で返す。  その午後、結衣がソファから手を離した。  一歩。  身体がぐらつく。  征也が身を乗り出した時、結衣は尻もちをついた。柔らかいマットが沈み、本人も驚いた顔で足元を見る。  泣き声を待っていたのに、聞こえたのは小さな鼻息だった。結衣は床へ手をつき、ソファの布を掴む。何度か膝を滑らせてから、ようやく腰が上がった。  陽向が隣で息を吐いた。私も息を止めていたと、その時になって気づく。 「……起こしてやらなくてよかったのか」  征也の手はまだ娘のそばにあった。結衣はその手を押しのけ、ソファに胸をつけたままこちらを振り向く。口を開けた笑顔に、私は思わず笑い返した。 「見て。もう一回やるつもりみたい」  結衣はまた手を離した。  今度は父親の方へ向かう。  征也は床へ腰を下ろし、両腕を広げた。あと少しなのに、結衣はソファの縁を離さない。父の顔と足元を見比べ、片方の踵だけを上げたり下ろしたりしている。 「こっちだ、結衣」  低い声に、娘が笑った。手を離すかと思うと、また布を握る。征也は呼び続けず、掌を開いたまま待っていた。  陽向が私の膝へ触れた。 「パパ、息してない」  小声のつもりがよく響き、征也が眉を寄せた。私は笑いを堪えながら、息子を隣へ座らせる。窓から入る風にカーテンが膨らみ、結衣はそちらを見て、歩くことを忘れたように手を伸ばした。  征也の腕が少し下がる。ところが娘が父へ向き直ると、すぐに元の高さへ戻った。その忙しない腕を見ているうち、私まで胸の奥が落ち着かな
last updateLast Updated : 2026-04-23
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家族編 第80話 結衣の一歩

 結衣は一歩、二歩、三歩と進んだ。裸足の裏が床へぺたぺたと触れ、たった三歩で頬が興奮して赤くなる。見守る征也の方が、結衣より長く息を止めているように見えた。  足元は頼りなく、膝は今にも折れそうだ。それでも、自分から父親へ向かっている。 「パパ」  その声で、征也の表情が完全に崩れた。  あと一歩というところで、結衣の身体が傾く。  今度は征也が受け止めた。 「……よく来た」  低い声が震えている。  結衣は父の胸に顔を押しつけ、得意そうに笑った。  陽向が駆け寄る。「ぼくのとこも!」  結衣を床へ戻すと、今度は兄へ向かう。一歩目で転び、二歩目でも尻もちをつく。陽向は助けたくて手を伸ばすが、父を見て、同じように待った。  三度目。結衣は陽向のところまで辿り着いた。 「きた!」  兄妹が抱き合い、そのまま二人で倒れる。  征也が立ち上がりかけた。私も膝を浮かせたが、床で二人が声を上げて笑っているのを見て、また座る。陽向の髪に結衣の指が絡み、兄がくすぐったそうに首を曲げた。  その日の夕食では、陽向が何度も妹の歩いた数を数え直した。 「三歩だった!」 「四歩だ」  征也は譲らなかった。最後の一歩は倒れ込んだだけだと私が言っても、「前へ進んだ」と真顔で返す。結衣は何の話か分からないままスプーンを振り、父と兄が自分を見るたび嬉しそうに笑った。  夜、征也は子供靴の写真を見ていた。隣へ座ると、すでにいくつもの商品を並べている。 「足に合うのを一足ね。まず履いてみないと」 「……分かっている」  画面を閉じずに言うので、私はその肩へ頭を乗せた。 「あなたのところまで行った時、嬉しそうだった」  征也は答えなかった。代わりに、靴の画面を今日の動画へ切り替える。娘が倒れ込んでくるところで、自分がどんな顔をしているかに気づいたらしい。慌てて先へ送った。 「そこも見せてよ」 「もう見ただろう」  私は笑い、彼の手首へ指を添えた。画面の中で結衣が父の胸へ顔を押しつけている。いつか本人にも見せたいと思ったが、今は言わず、巻き戻す彼の指を眺めていた。  結衣が兄のところまで歩けた動画は、征也のスマートフォンに三つ保存されていた。撮影したのは私なのに、なぜ三つもあるのか分からない。 「バックアップだ」 「クラウドにもあるでしょ」 「
last updateLast Updated : 2026-04-23
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家族編 第81話 結衣の一歩

 結衣が歩けるようになると、家の中に新しい音が増えた。小さな足音、引き出しの取っ手、届かなかった場所へ指が触れる音。紙とインクと革の匂いが染みついた征也の書斎にも、いつの間にかクレヨンの粉と子供の足音が入り込むようになった。  それまで手の届かなかった棚、陽向の玩具箱、征也の書斎の扉。全部が新しい冒険になる。  ある日、書斎から征也の低い声が響いた。「結衣」  慌てて向かうと、娘がデスクの前で立っている。床には数枚の書類が散らばり、結衣の手には高級そうな万年筆。 「パパの」 「そうだ。返しなさい」  結衣は首を横に振った。  征也の眉間が深くなる。  私は扉のところで黙って見ていた。 「結衣。これは遊ぶものじゃない」 「や」 「返せ」 「や!」  征也は膝をつき、机から白い紙を下ろした。次に赤いクレヨンを出すと、結衣の目が動く。 「こっちなら、好きに描いていい」  娘は両方持とうとした。征也はクレヨンを渡す手を引き、空いた掌を差し出す。しばらく睨み合ってから、結衣がしぶしぶ万年筆を置いた。  床へ広げた紙に、すぐ赤い線が走った。征也は転がっていた書類を拾い、机の上へ戻す。袖口を結衣に掴まれ、そのまま床へ座り直した。 「……莉子。足元に一枚あるだろう。取ってくれ」  私が拾う間も、娘は父の袖を離さない。彼の顔を描いているつもりらしく、紙と顔を何度も見比べていた。私は書類を机へ置き、笑わないよう唇を結んだ。  書斎の万年筆事件の後、征也は低い引き出しへ鍵をつけた。  重要書類とレターオープナーをしまい、鍵を掛ける音がした。結衣は取っ手を引っ張ってみて、開かないと分かると父のズボンを掴む。征也は隣の引き出しを開けてやった。  一方で、結衣が自由に使える引き出しを一つ作った。紙、クレヨン、色鉛筆。娘はそこを自分の宝箱のように開け閉めする。  陽向も「ぼくのも」と言い、自分用の箱を作り始めた。  気づけば書斎の一角に、子供二人の絵や工作が増えていた。以前の征也なら、完璧に整った執務空間へ子供の物を置くなど考えられなかっただろう。 「仕事に邪魔じゃない?」 「邪魔だ」  彼は机の端へ積まれた色紙を動かそうとして、その下に挟まった娘の絵を見つけた。角を揃えて、また同じ場所へ戻す。 「じゃあ片づける?」 「いや」  即答だっ
last updateLast Updated : 2026-04-24
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家族編 第82話 結衣の一歩

 最初の靴を買う日は、家族全員で子供靴専門店へ出かけた。新しい革とゴム底の匂いが混じる店内で、棚から靴を下ろすたび小さな金具が鳴る。結衣は履き心地より色が気になるらしく、赤い靴を見つけると身を乗り出した。  征也が事前に予約したのは、子供靴専門店。貸し切りにはしなかったらしい。「そこまでしない」と彼は言うが、予約枠の前後が妙に空いているのは見なかったことにした。  結衣の足を計測すると、店員が数足を並べた。白、赤、黄色。  征也は白い革靴を指す。「これが一番素材がいい」  陽向は黄色。「こっち、はやそう」  私は口を挟まない。  結衣は三足を見比べ、赤い靴へ手を伸ばした。 「これ」  征也が一瞬だけ白い靴を見る。 「赤か」 「これ!」 「……分かった」  店員が履かせる。結衣は鏡の前で足を動かし、嬉しそうに笑った。  帰り道、征也が紙袋を持ちながら言う。「白の方が服には合わせやすかった」 「でも結衣は赤が好きだった」 「分かっている」  陽向が父の手を引く。「パパ、ぼくも赤いのほしい」 「お前は今の靴がある」 「じゃあ次」 「自分で選べ」  陽向はもう次の靴の色を考え始めていた。赤、やっぱり青、と指を折る息子の隣で、結衣が新しい靴の爪先を見下ろす。足を出すたび赤い色が動くのが面白いらしく、なかなか前へ進まない。  征也は少し先で立ち止まり、振り向いて待っていた。私が追いつくと、空いた方の手が差し出される。娘の靴にばかり目をやっているくせに、その手だけは迷わず私を探した。  赤い靴を履いた結衣は、家へ着いても脱ぎたがらなかった。 「お風呂まで履く気?」 「はく!」  征也が「室内では脱げ」と言うと、娘は床へ座り込み、両足を抱えた。  陽向が玄関へしゃがみ込んだ。「ゆい、ここに置こ。ぼくのと、ならべる」  自分の靴を少し横へ動かす。結衣は空いた場所を見てから、ようやく足を差し出した。私が脱がせると、自分で抱えてそこへ置く。左右が逆だったが、兄の靴の横に並ぶと満足したらしい。  征也が陽向を見る。「交渉が上手いな」 「パパより?」 「……場合による」  私は笑った。  夜、玄関を片づけていると、征也が白い靴も買うつもりだったと言った。 「棚へ戻すところ、見てたよ」 「……あれも悪くなかった」  まだ少し
last updateLast Updated : 2026-04-24
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