Lahat ng Kabanata ng 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Kabanata 421 - Kabanata 430

475 Kabanata

次世代編 第40話 買えない心

「アコースティックギターを探しているの」  結衣は、ずらりと並んだ楽器を見渡しながら、冷ややかな、けれど確かな熱を帯びた声で言った。 「最高のものを見せてちょうだい。……ええ、金額は気にしないで」  数十分後。結衣の目の前のベルベットの台座に置かれたのは、製造から半世紀以上が経過しているという、美しい飴色をしたヴィンテージギターだった。  店主が白い手袋をはめた手で弦を軽く弾くと、店内の空気を震わせるような、深く豊かな音が鳴り響いた。 「素晴らしいわ」  結衣は、黒いクレジットカードを店主のトレイに滑らせた。三百万円。  高校生が持ち歩くカードの限度額を遥かに超えているが、天道家の令嬢である結衣のカードには、実質的な上限など存在しない。  店主が手際よくギターを堅牢なハードケースに納め、結衣に手渡す。革張りのケースの取っ手を握った瞬間、ずっしりとした重みが腕に伝わってきた。  (……レイ、喜んでくれるかしら)  結衣の心臓が、期待でトクトクと跳ねる。レイがケースを開けた時の、驚きと喜びに満ちた顔が見たい。  レイの透明な歌声が、最高級の楽器と重なり合った時、どれほど美しい奇跡が生まれるのか。想像するだけで、足取りが軽くなるのを感じた。  店を出ると、鈴木がすぐにケースを受け取ろうと手を伸ばした。 「いいえ、私が持つわ。……車を出して。駅前の高架下まで」 「しかし、あのような場所にまた行かれるのは……」 「行くのよ。今すぐに」  結衣の鋭い一瞥に、鈴木は口を噤み、セダンのドアを開けた。  車の後部座席にギターケースを丁寧に置き、結衣は滑らかな革の表面を指先でなぞった。  窓の外の景色が流れていく。胸の奥で渦巻く高揚感が、結衣の呼吸を浅く、速くしていた。◇ 夕闇が完全に空を覆い尽くし、高架下にはいつもの薄暗いオレンジ色の街灯が灯っていた。  電車の通過音が轟く中、結衣は重いギターケースを両手で抱え、足早にアーチの奥へと進んだ。  柱の陰。レイは昨日と同じパイプ椅子に座り、新しい弦を張ったばかりのボロボロのギターを弾いていた。  ジャラン、という音が響く。結衣の靴音に気づき、レイが顔を上げた。 「……ユイ。今日は随分、荷物が大きいね」  レイの琥珀色の瞳が、結衣の抱える黒いハードケースに向けられる。結衣は、抑えきれない笑み
last updateHuling Na-update : 2026-05-20
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次世代編 第41話 買えない心

 しかし。  レイの瞳から、スッと、春の陽だまりのような温かさが消え失せた。琥珀色の目が、氷のように冷たく、硬い光を帯びて結衣を見下ろしていた。 「……しまって」  レイの声は、今まで聞いたことのないほど低く、平坦だった。 「え……?」 「ケースを閉めろって言ったんだよ」  結衣の心臓が、不自然な音を立てて跳ねた。喜ぶどころか、レイは美しい楽器に触れようとさえしない。 「ど、どうして? 気に入らなかった? もし別の形や音が好みなのなら、明日、別のものを……」 「そういう問題じゃない」  レイは、冷たいコンクリートの壁に背を預けたまま、結衣の顔を真っ直ぐに射抜いた。 「君は、僕が喜んで受け取ると思ったの?」 「だって……あなたのギターは、古くて、安物の弦を使っているから、よく切れるって……」 「だから、お金の力で、新品の、誰もが羨むような高級品を買い与えれば、僕が尻尾を振って喜ぶとでも?」  レイの言葉が、鋭い刃となって結衣の胸を切り裂いた。レイから放たれる明確な怒りの匂いが、高架下の湿った空気を冷え上がらせていく。 「違うわ! 私はただ、あなたの歌がもっと美しく響くように、あなたの助けになりたくて……」 「僕の歌は、お金で買われるためのものじゃない」  レイが、結衣の言葉を冷酷に遮った。 「ギターは、確かにボロボロだ。弦もすぐ切れるし、音だって、君の持ってきた何百万もするギターに比べたら、ゴミみたいなものかもしれない。……でもね、ユイ」  レイは、古いギターのネックを、愛おしそうに、けれど力強く握りしめた。 「これは、僕が初めて自分の力で手に入れたものだ。弦が切れて指から血が出ても、痛みごと、僕の音楽なんだよ」  レイの言葉の重圧に、結衣の膝が震えた。地面に置かれた最高級のヴィンテージギターが、突然、ひどく無価値で、醜悪な塊のように見え始めた。 「君がこれを僕にくれるのは、本当に僕の歌のためなの?」  レイの瞳が、結衣の魂の最も見られたくない深淵を覗き込むように細められた。 「君は、ただ僕を、綺麗に飾るためのおもちゃにしたいから、これを持ってきたんじゃないのか?」 「……っ!」  結衣の喉の奥から、空気が引き剥がされるような音が漏れた。  おもちゃ。綺麗に飾るための。  言葉が、結衣の脳裏に冷たい現実を突きつけた
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次世代編 第42話 買えない心

 天道家の圧倒的な財力を使って、レイの心に踏み込もうとしている。レイの誇りや、レイが傷つきながら手に入れた大切な歴史を無視して、札束の力で無理やり自分の存在を刻み込もうとしている。  レイの気持ちなんて少しも考えていなかった。ただ、喜んでほしかった。レイにとっての特別な存在になりたかった。  でも、やり方を間違えた。私は、一番大切な相手の心を、冷たいお金で買おうとする無神経な真似をしてしまったのだ。  父が自分に最高級のドレスや宝飾品を与えるだけで、決して目を合わせてくれなかったのと同じように、レイの本質を見ようとしていなかった。 「あ……ああ……」  結衣の唇が、無様に震えた。視界が、急速に歪んでいく。  自分がどれほど傲慢で、残酷な真似をしたのか。真実に気づいた瞬間、結衣の胸の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちた。  大粒の涙が、目尻から溢れ出し、コンクリートの地面に黒い染みを作った。 「ごめんなさい……っ」  結衣は、ハードケースの蓋を弾かれたように閉めると、崩れ落ちるように膝をついた。 「ごめんなさい、私……そんなつもりじゃ、なかったの……ただ、指が痛そうだったから……」  両手で顔を覆い、しゃくり上げる。涙が指の隙間からこぼれ落ち、制服のスカートを濡らしていく。 「私、最低だわ……。あなたを、お金で……。自分の思い通りにしようとした……っ」  結衣の泣き声が、電車の轟音の隙間で、悲痛に反響する。  高架下に、結衣の嗚咽と、雨上がりの湿った風の音だけが響き続ける。  どれくらいの時間が経っただろうか。  不意に、ジャラン、という柔らかい音が、頭上から降ってきた。  結衣がビクッと肩を震わせ、恐る恐る指の隙間から顔を上げる。  レイは、傷だらけの古いギターの弦を、ゆっくりと、優しい手つきで弾いていた。  レイの瞳から、先ほどの冷たい怒りは消え去っていた。そこにあるのは、泣きじゃくる幼い子供を見るような、静かな哀れみと、かすかな温もり。 「……もう、いいよ」  レイの静かな声が、ギターの余韻に溶け込む。 「君が、悪い人間じゃないことくらい、分かってる。……ただ、君の生きている世界と、僕の生きている世界は、ルールが違うだけだ」  レイはギターを置き、立ち上がると、結衣の目の前でしゃがみ込んだ。  柔軟剤と微かな煙草の匂い
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次世代編 第43話 命の警報

 病室を支配しているのは、低く一定の駆動音だけだった。  ベッド脇のモニターが、深夜の静寂の中で一定のリズムを刻み続けている。  天道征也は、重厚な革張りの椅子に深く身を預けたまま、眠り続ける莉子の指先を両手で包み込んでいた。  微かに残る血の気を感じ取ろうとするかのように、柔らかな指の腹を、親指でゆっくりとなぞる。  指先から伝わってくるのは、ひやりとした、今にも消えてしまいそうな冷たさだ。  十二年。  長い年月が過ぎても、莉子の時間はあのアスファルトの上で止まったままだ。  征也は莉子の手の甲に、そっと唇を押し当てた。  乾いた唇が、滑らかな手の甲に触れた。  当然、返事はない。  窓の外からは、遠くの幹線道路を走る長距離トラックの単調な走行音が、厚いガラス窓を透過してくぐもって聞こえてくるだけだった。  毎日欠かさず取り替えているカサブランカの肉厚な花びらが、空調の微かな風に吹かれて小さく揺れている。  その時だった。  ピーーーーーーッ。  甲高く、耳障りな電子音が、静寂を切り裂いて鼓膜を突き破るように鳴り響いた。  心電図のモニターが、鮮烈な赤色で点滅を始める。  規則正しく波打っていた緑色の線が、不規則な細かな揺れを刻み始める。モニターの警告表示が赤く点滅し、空気が一気に張り詰めた。  息が、止まった。  征也は弾かれたように立ち上がる。  革張りの椅子が後ろに倒れ、ガタンと大きな音を立てて床に転がった。  莉子の手を握っていた征也の指先が、痙攣したように硬直する。 「莉子! おい、莉子!」  細い肩を両手で掴み、何度も揺さぶる。  反応はない。  開かれたままの唇からは、浅い呼吸が規則的に続いているだけだ。  征也は枕元のナースコールを、指の骨が鳴るほどの力で何度も叩きつけた。  すぐさまバタンと重いドアが開き、数人の看護師と当直の医師が雪崩れ込んでくる。 「天道様、お下がりください!」  医師の鋭い声が響く。  看護師たちがベッドを囲み、莉子の胸元を開いて除細動器の準備を始めた。  征也は弾かれたように後ずさり、壁に背中を打ち付けた。  医療スタッフの邪魔をしてはいけない。頭では分かっているのに、膝の震えがどうしても止まらない。  天井の蛍光灯が、やけに白く、チカチカと不快に明滅してい
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次世代編 第44話 命の警報

 喉の奥から、ヒューという間抜けな音が漏れた。  自分の手は、こんなにも無力だったのか。  何百億という金を動かし、何万人もの人間を従えたところで、目の前で眠る妻のたった一秒の呼吸さえ、買い戻すことはできない。  過呼吸の発作のように喉がひきつり、胸ぐらを鷲掴みにされたような息苦しさが襲う。  壁に手をついて何とか立ち尽くしているのが精一杯だった。◇ 同じ頃、築三十年を超える木造アパートの一室。  スマートフォンの激しいバイブレーションの音が、薄い畳を震わせて陽向の鼓膜を叩いた。  浅い眠りの中にいた陽向は、飛び起きるようにして画面をスワイプする。  スピーカーから漏れてきたのは、天道家の本邸を守るSPからの、逼迫した声だった。 「陽向様、奥様の容態が急変されました。今すぐ病院へ――」  頭の中が真っ白になる。  陽向はグレーのスウェットに履き古したスニーカーを素足のまま引っ掛け、財布とスマートフォンだけを掴んで部屋を飛び出した。  深夜の冷たい空気が、古着の薄い生地を透かして肌を刺す。  大通りに出て、運良く通りかかったタクシーを強引に止め、行き先を告げた。  窓の外、街灯の光が引き延ばされた線となって後方へと流れていく。  流れる光を見つめながら、陽向はジーンズのポケットの中で、無意識に拳を強く握りしめていた。爪が手のひらに食い込み、鈍い痛みが走る。  (……なんでだよ。俺が家を出た途端にこれかよ)  病院の正面玄関に到着すると、陽向は運転手に千円札を数枚乱暴に押し付け、お釣りも受け取らずにダッシュした。  自動ドアが開き、静まり返ったロビーを抜けてエレベーターへと滑り込む。  上昇する最中、胃のあたりを圧迫するような不快な浮遊感が襲った。  深夜の廊下に、けたたましい足音が響き渡る。  陽向は息を切らしてICUの前に駆け込んだ。 「ハァッ……ハァッ……」  乱れた呼吸を整えながら、周囲を見回す。  重厚な二重扉の前に、天道家のSPたちが青ざめた顔で立ち並んでいる。その中心に、見覚えのある背中があった。  父だ。  いつもなら一分の隙もなく撫でつけられている黒髪が、今は鳥の巣のように無造作に乱れ、額に汗が張り付いている。  ジャケットは着ておらず、白シャツの袖は肘の上まで乱暴に腕まくりされ、ブランド物のシル
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次世代編 第45話 命の警報

 充血した瞳は焦点が合っておらず、口元はだらしなく歪んでいる。  そこにあるのは、会社で見せる威圧感でも冷徹さでもない。  ただの、妻を失う恐怖に怯えきった、一人の脆い人間の顔だった。 「……陽向か」  征也の声は、空気が抜けたタイヤのように掠れていた。 「母さんは……」 「今、中で……」  征也はそれ以上言葉を続けることができず、口元を両手で覆った。  顔を覆う大きな手が、ぶるぶると激しく震えている。  その震えは、陽向の記憶にある姿とは、あまりにもかけ離れていた。  家庭の空気を冷え切らせてまで、母親だけに執着し続けてきた親父。  文句の一つでも言ってやろうと家を出たはずなのに。  (……なんだよ、それ。そんなに震えてたら、文句も言えねえだろ。いつもみたいに冷たく突き放せよ)  陽向は、一歩も動くことができなかった。  反発の矛先を見失い、ただ、目の前で崩れ落ちそうになっている男の姿を前にして、立ち尽くすしかなかった。  タタタタッ、と。  廊下の奥から、今度は別の軽い足音が近づいてくる。 「パパ! ひな兄ちゃん!」  結衣だった。  イチゴ柄のパジャマの上に薄手のカーディガンを羽織っただけの姿で、顔面を蒼白にして走ってくる。  結衣は征也の前に飛び込むと、シャツの袖を強く掴んだ。 「ママは!? ママ、どうなったの!?」  悲痛な声が、静まり返った廊下に響き渡る。  征也は何も答えることができず、ただ結衣の肩に手を置こうとした。  だが、その手が小刻みに震えているのを見て、結衣はハッと息を呑んだ。 「……パパ」  結衣の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。 「ねえ、パパなら何とかできるんでしょ? ママのこと、パパが一番愛してるんだから……何とかしてよ……!」  すがるような結衣の声。  どんな時でも完璧で、すべてを自分の力で解決してきた父。  その父が、今は何もできずに震えている。 「……すまない」  征也の口から、低く、力のない謝罪が漏れた。  壁に背を預けていた身体がずるずると滑り落ち、大理石の冷たい床に座り込んでしまう。  仕立ての良いスラックスが皺になることなど、気にする素振りさえない。  結衣は、座り込んだ父の姿を見て、言葉を失った。  いつも見上げるほど高かったはずの父親が、今、自分
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次世代編 第46話 命の警報

 征也は弾かれたように立ち上がり、医師の前に進み出る。  陽向と結衣も、息を詰めて後に続いた。 「……先生。莉子は」  征也の声は、ひどく掠れていた。  医師は重く息を吐き出し、深く頭を下げる。 「一命は、取り留めました」  言葉が耳に届いた瞬間、征也の膝から完全に力が抜けた。  長身の身体が、前方に大きくよろめく。 「っと……おい!」  陽向がとっさに腕を伸ばし、倒れそうになった身体を力強く支えた。  スウェット越しに伝わってくる、父親の体重。  (……なんだよ、もっとがっしりした、壁みたいな男だと思ってたのに。こんなに軽かったのかよ、この親父)  陽向は心の中でそう毒づきながらも、父親の身体を丸椅子のほうへと誘導した。 「……ああ、すまん」  征也の口から、魂の抜けたような安堵の吐息が漏れた。 「ただし、予断は許さない状況です。心不全を引き起こした原因が特定できておらず、いつまた急変するか分かりません。……今夜は、覚悟しておいてください」  医師の宣告が、三人の胸に重くのしかかる。  それでも、生きている。  心臓は、まだ動いている。 「……面会は、可能ですか」  陽向が、医師に問いかけた。 「ええ。ただし、短時間でお願いします」  医師の許可を得て、三人は無言のまま、ICUの中へと足を踏み込んだ。◇ 無機質な機械音だけが支配する、冷たい空間。  莉子は、数え切れないほどのチューブや管に繋がれ、白いシーツの中で静かに眠っていた。  顔色は透き通るように白く、唇にはわずかな血の気も感じられない。  征也はベッドの横に置かれた丸椅子に腰掛け、シーツの上に投げ出された右手をそっと握った。  陽向と結衣は、ベッドの足元に立ち、ただ無言でその姿を見つめている。  三人の間には、言葉はなかった。  陽向はベッドの足元で拳を握り、結衣は肩を震わせている。  征也だけが丸椅子に沈み、莉子の手を離せずにいた。  誰も互いを見なかった。  それでも三人は、同じ音に耳を澄ませていた。  大きな手が、細い指を包み込む。  その手がまだ微かに震えているのを、陽向と結衣は静かに見つめていた。  鼻を突く消毒液の匂い。  機械の駆動音。  そして、シーツの微かな上下動。  それが止まらない限り、誰もここを離れられな
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次世代編 第47話 反撃の代償

 母親の容態が劇的に安定したわけではなかったが、あの深夜のICUでの危機を乗り越えてから三日が経過していた。  陽向は、築三十年のアパートに戻り、以前と変わらない錆びついたキッチンの前に立っていた。  アルミの鍋でモヤシを茹でる。  湯気と共に立ち上る微かな青臭い匂いが、狭いワンルームに広がっていく。 「……塩だけで食うのも、いい加減飽きてきたな」  ボウルに移したモヤシを見つめながら、喉の奥で小さく呟く。  天道邸にいれば、莉子が家政婦時代から守ってきた完璧な厨房から、栄養バランスの行き届いた温かな食事が湯気を立てて運ばれてきただろう。  だが、あの白亜の家に並ぶ大理石の床や、塵一つ許されない空間に漂うシトラスの香水の匂いを思い出すだけで、胃のあたりが重くなる。  父親の、あの病院の廊下で見せた震える背中は、確かに陽向の胸に消えない刺を遺した。  あんな風に脆く崩れる親父を、陽向は生まれて初めて見た。  だからといって、天道家の財力や権力に頼って頭を下げるつもりは毛頭ない。  自分の足で立ち、自分の力で生活を営む。その意地だけが、今の陽向をこの安アパートに繋ぎ止めていた。  箸でモヤシを口に運びながら、スマートフォンの画面を見る。  画面には、大学のポータルサイトの講義スケジュールが表示されているだけだ。  朝比奈結月の連絡先は、あの日以来、一度もタップしていない。  (二度と近づかない、って言ったんだ。それでいい)  言い聞かせるようにして、冷めた水を一気に飲み干した。◇ 大学の大講義室は、昼休み前の気怠い空気と学生たちの私語でざわついていた。  陽向は後方の席に座り、ノートの余白に法学の判例を書き殴っていたが、周囲の席から漏れ聞こえてくる声に、ふとペンの動きを止めた。 「……そうそう、駅の裏側にある『あさひな食堂』って店」 「あー、あの古いやつ? 出前とかやってる定食屋でしょ。あそこがどうかしたの?」 「なんか、ネットのレビューサイトでめちゃくちゃ低評価が大量に書き込まれててさ。『ゴキブリが入ってた』とか『店員が客を怒鳴り散らした』とか、ありえない噂が拡散されてるんだよ。そのせいで、最近全然客が入ってないらしくて」 「うわ、陰湿。誰がそんなことやってんだろ」  陽向の指先が、ボールペンの軸を強く握りしめた。  
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次世代編 第48話 反撃の代償

 (あの野郎……!)  胸の奥から、冷たい火花が散るような感覚が突き上げてくる。  陽向は教科書を乱暴にリュックに押し込み、講義室のドアへと向かって歩き出した。  周囲の学生たちが、突然立ち上がった陽向の強張った表情に驚き、一瞬だけ道をあける。  スニーカーの底がコンクリートの廊下を激しく叩く。  天道家の力なんて使わない。  親父のやり方である、暴力や社会的抹殺という恐怖で相手をねじ伏せるやり方は、結月を傷つけるだけだと学んだ。  なら、自分の力で、正しい手続きを踏んで、彼女の家を守ってみせる。  その真っ直ぐな意地だけが、陽向の身体を突き動かしていた。◇ 駅の反対側に位置する、古びた個人商店が並ぶ下町の路地。  陽向は、色褪せた暖簾が下がる『あさひな食堂』の前に立っていた。  店の周囲には、不穏な空気が漂っている。  入り口の引き戸のガラスには、生卵を投げつけられたような黄色い痕がベッタリと張り付き、床にはクシャクシャに丸められたゴミが散乱していた。  昼時だというのに、店内に人影は見えない。  陽向はガラガラと音を立てて引き戸を開けた。  店内に満ちているのは、長年染み付いた出汁の匂いと、揚げ物の油の匂い。  だが、その奥にある空気は、ひどく冷たく沈んでいた。  パイプ椅子の並ぶテーブル席の奥。  調理場の手前で、白髪混じりの小柄な男――結月の父親が、古い固定電話の受話器を上げては、すぐにガチャンと戻す作業を繰り返していた。  受話器を置いた瞬間、またすぐにジリリリ、とけたたましいベルが鳴り響く。  父親は、疲れ切った顔で、何度も、何度もその動作を繰り返している。無言電話の嫌がらせだ。 「あの……」  陽向が声をかけると、調理場の奥から、お盆を持った結月が顔を出した。  陽向の姿を認めた瞬間、結月の眼鏡の奥の瞳が、驚きと、そして明らかな動揺で大きく揺れた。 「天道……くん……? どうして」  結月の声は、驚くほど掠れていた。  目の下に濃い隈が張り付き、お盆を握る指先が小刻みに震えている。 「大学で、噂を聞いたんだ。……これ、木崎の仕業だな」  陽向が一歩、店の中へ足を踏み入れる。  結月は、反射的に一歩後ろへ下がり、お盆を胸元で固く抱え込んだ。  あの日の、レンガの壁際で陽向に向けた恐怖の眼差しが
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次世代編 第49話 反撃の代償

「これ以上、あんな怖い目に遭いたくない……。天道くんが関わると、どんどん話が大きくなる。お願いだから、私たちの生活をめちゃくちゃにしないで……っ」  結月の目から、堪えきれずに涙がこぼれ落ち、古い木の床に小さなシミを作る。 「お兄ちゃん、気持ちはありがたいがね」  受話器を置いた父親が、弱々しい声で陽向に視線を向けた。 「うちは細々とやってるだけの店なんだ。ネットの噂のせいで、常連さんも来なくなっちまった。警察にも相談したんだが、実害がどうとか言われて、まともに相手にしてもらえん。……これ以上、巻き込まないでくれ」  父親の、節くれ立った手のひらが、カウンターの上で力なく震えている。  陽向は、言葉を失った。  自分が正しいと信じて行った「反撃」が、巡り巡って、彼女たちの平穏な日常をすり潰している。 「……俺が、何とかしてくる」  陽向は、それだけを絞り出すように告げると、踵を返して店を飛び出した。  背後で、またジリリリと嫌がらせの電話が鳴り響く音が、陽向の耳を執拗に追いかけてきた。◇ 管轄の警察署のロビー。  陽向は、生活安全課の窓口にあるアクリル板の前に座り、担当の警察官に向かってスマートフォンの画面を突き出していた。  画面には、レビューサイトに書き込まれた、朝比奈食堂への無数の誹謗中傷の魚拓が表示されている。 「……だから、これは明らかな営業妨害です。嫌がらせの電話も数分おきにかかってきてる。犯人は、同じ大学の木崎っていう男なんです。すぐに動いてください」  陽向の声は、焦燥感でわずかに上擦っていた。  アクリル板の向こう側にいる中年の警察官は、事務的な手つきで眼鏡を押し上げ、陽向のスマートフォンを一瞥しただけで、手元の書類に目を戻した。 「君ね、気持ちは分かるんだけどさ。ネットの書き込みに関しては、プロバイダに開示請求をしてもらって、発信者を特定するのが先決なんだよ。警察がすぐに実質的な捜査に動くには、器物損壊の現場を押さえるか、直接的な暴行や脅迫の証拠がないとねえ」 「開示請求なんて、何ヶ月かかると思ってるんですか! 今も店は営業できない状態なんですよ! 落書きだって、生卵だって投げつけられてる!」 「落書きに関しては、被害届は店主から出してもらわないと。君は第三者でしょう? それに、犯人がその木崎くんという学生
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