All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 411 - Chapter 420

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次世代編 第30話 鏡の怪物

 まるで、自分が触れているのが熱く焼けた鉄板であるかのように、陽向は弾かれたように結月の肩から手を離した。 「……っ」  陽向は、一歩、また一歩と後ずさり、自分の右手を、まるで汚らわしい物でも見るかのように見つめた。  この手は、父と同じ手だ。  愛するものを守る、助けるという大義名分を掲げながら、その実、相手の意思を無視し、自分の支配下に置かなければ気が済まない、呪われた手。  自分の中に脈々と流れ続けている『天道の血』が、初めて明確な形を持って、彼自身の理性をあざ笑っていた。  彼女を大切にしたいという純粋な初恋すらも、この血は無意識のうちに「支配」という傲慢な形に変換して出力してしまう。  自分は、本当に、あの男の血を引く『怪物』なのだ。 「……ごめん」  陽向の声は、先ほどの熱が嘘のように、掠れ、無惨に震えていた。  結月は、壁に背を張り付けたまま、手首で涙を拭い、荒い呼吸を繰り返している。  その姿を見るのが、自分の存在が彼女をそこまで追い詰めてしまったという事実が、陽向の胸を八つ裂きにするように痛めつけた。 「俺は……」  陽向は、それ以上言葉を続けることができなかった。  何を言っても、それは結局、自分のための言い訳にしかならない。  これ以上ここにいれば、彼女をもっと傷つけてしまう。  自分の内側にあるこの黒い衝動が、彼女を完全に壊してしまう前に、ここから立ち去らなければならない。  陽向は、ギュッと目を閉じ、血が滲むほど奥歯を噛み締めた。  鼻の奥に、彼女の涙の匂いと、初夏の湿った土の匂いが混ざってツンと刺さる。 「……もう、二度と君に近づかない。約束する」  その言葉は、自分自身に枷をはめるための、痛みを伴う誓いだった。  陽向は、目を開けると、結月に背を向けた。  そして、振り返ることなく、初夏の陽射しが降り注ぐキャンパスの出口へと向かって歩き出した。  背後で、結月の微かな嗚咽が聞こえるような気がした。  その音が、陽向の背中を無数の針のように刺し貫く。  スニーカーの底が、アスファルトを重く叩く。  ポケットの中の、あのチョコレートの重みが、今はただ、自分の浅はかさと滑稽さを嘲笑うかのように、歩くたびに鈍く太腿にぶつかり続けていた。  捨ててしまえば楽になるかもしれない。けれど、陽向には
last updateLast Updated : 2026-05-15
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次世代編 第31話 安物のギター

 校門を出た瞬間に頬を叩いたのは、初夏の湿り気を帯びた重たい雨だった。  アスファルトに叩きつけられる無数の水滴が、白く煙るような飛沫を上げ、街の色彩を塗りつぶしていく。  天道結衣は、学校指定の紺色の傘を深く差し、足元を汚さないよう細心の注意を払いながら歩を進めた。  数歩後ろには、完璧な歩調で付き従う黒いスーツの男――SPの鈴木の気配がある。  彼の存在は、結衣にとって空気と同じだった。意識する必要さえない、けれど決して剥がすことのできない「天道家の令嬢」という記号の象徴。 「お嬢様、車を回しております」  鈴木の抑制された声が、雨音の向こう側から届く。  結衣は足を止めず、わずかに顎を引いてそれに応えた。  校門のすぐそばに停車している、艶やかな黒塗りのセダン。その車内に入れば、再び外界から遮断された無機質な静寂が訪れる。  家に戻れば、そこにあるのは莉子の不在を証明し続けるような、冷たく磨き上げられた「白亜の牢獄」だ。  陽向がいなくなってから一週間、邸内の静寂はさらにその濃度を増し、壁の隙間から孤独が染み出してくるような錯覚さえ覚える。  (……帰りたくない)  ふと、胸の奥で小さな火花が散った。  それは、いつもなら理性の奥底に沈めてしまう、ささやかな反逆の芽だった。  結衣はふいに向きを変え、セダンとは逆の方向、駅へと続く繁華街の雑踏の中へと足を踏み入れた。 「お嬢様! どちらへ」  鈴木の困惑した声が追いかけてくる。  結衣は振り返らず、少しだけ歩調を速めた。 「少し、歩きたいの。車は先に戻っていて」 「しかし、社長からは……」 「五分だけ。そこの駅ビルで買い物がしたいの。……あなたも、あまり目立ちたくはないでしょう?」  結衣は肩越しに、冷ややかな視線を向けた。  佐伯を切り捨てた時と同じ、相手を一歩も近づかせないための、天道家の冷徹な仮面。  鈴木は苦渋に満ちた表情で足を止め、無線機に手を伸ばしながらも、一定の距離を保って彼女を追う形をとった。  駅ビルの入り口付近は、雨宿りをする人々や帰路を急ぐ学生たちで溢れかえっていた。  結衣はその湿り気と体臭が混じり合った喧騒の中へ、迷わず飛び込んだ。  色とりどりのビニール傘。濡れたレインコートが擦れる音。  自分とは無関係な「誰かの生活」の匂いが、
last updateLast Updated : 2026-05-15
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次世代編 第32話 安物のギター

 結衣は濡れるのも構わず走り続け、駅前の高架下へと逃げ込んだ。  そこは、切り取られたような別世界だった。  湿ったコンクリートの匂い。錆びついた鉄骨から滴り落ちる水の音。  薄暗いオレンジ色の街灯が、湿り気を帯びた空気を澱んだ色に染めている。  その静寂を切り裂くように、一つの音が響いてきた。  ジャラン。  乾いた、けれど重厚な弦の振動。  アコースティックギターの旋律が、コンクリートの壁に反射し、幾重にも重なって結衣の耳に届く。  その音色に導かれるように、彼女は高架の奥へと歩みを進めた。  柱の影に、その人はいた。  壁に背を預け、安物のパイプ椅子に腰掛けた、一人の少年――あるいは、そう見えるほどに中性的な容姿をした若者。  フードを深く被り、顔の半分は影に隠れている。  使い込まれたギターの表面には、無数の傷が刻まれ、彼の指先が動くたびに、硬い弦が鋭く空気を震わせていた。  結衣は、息をすることさえ忘れて立ち尽くした。  少年の唇がゆっくりと開き、透明な、けれどどこか寂しげな歌声が紡ぎ出される。  それは、複雑なテクニックを駆使した音楽ではない。  ただ、心の奥底にある「誰にも届かない言葉」を、一つずつ丁寧に形にしているような、ひどく純粋で、剥き出しの響き。  天道邸で流れる最高級のクラシックとは、対極にある音。  磨き抜かれた完璧な音色ではなく、不純物が混じり、ざらついた、けれど確かな「熱」を持った歌。  少年の指が最後の一音を爪弾き、余韻がコンクリートの壁に溶けて消えた。  彼はゆっくりと顔を上げ、影の中から琥珀色の瞳を覗かせた。  その瞳が、ずぶ濡れのまま立ち尽くしている結衣を真っ直ぐに捉える。 「……あ」  結衣の唇から、小さな吐息が漏れた。  自分を見つめるその眼差しには、天道の令嬢に対する卑屈さも、下劣な好奇心もなかった。  ただ、雨宿りに迷い込んだ、一人の少女を見るような、どこまでも平坦で、けれど不思議な温かみを湛えた視線。 「……ずいぶん、派手に濡れたね」  少年の声は、歌声と同じように透き通っていた。 「……ええ。傘を、差すのを忘れてしまって」  結衣は自分の声が、場違いなほどに硬く、震えていることに気づいた。 「変なの。傘、持ってるのに」  少年はくすりと笑い、ギターを脇に置
last updateLast Updated : 2026-05-16
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次世代編 第33話 安物のギター

「ほら、これ。貸してあげる」  少年は自分の着ていたパーカーを脱ぐと、結衣の頭から無造作に被せた。 「……っ」  視界が、瞬時に灰色の布地に覆われる。  目の前が真っ暗になった瞬間、全身を包み込んだのは、圧倒的な「他人の熱」だった。  パーカーの生地は、何度も洗濯されて表面が毛羽立ち、少しだけゴワついている。  けれど、そこには、少年の身体から移ったばかりの、驚くほど高い体温が残っていた。  鼻を突く、強い匂い。  柔軟剤の奥に潜む、彼自身の肌の温もりが混じった、独特の匂い。  それは、征也が莉子の病室で纏っている、あの完成された静寂の匂いとは全く異なるものだった。  泥臭くて、不器用で、けれど今この瞬間、確かに「生きている」ことを証明するような、激しい熱量。  結衣はパーカーの袖に腕を通し、その大きな布地の中に自分の身体を縮めた。  指先に触れる、安物のポリエステルの質感。 「……暖かい」  掠れた声で呟くと、少年は自分の腕をさすりながら、満足げに頷いた。 「でしょ。安物だけど、風は通さないからさ」  彼は再びパイプ椅子に座り、ギターを抱え直した。  フードの下から覗く、細い首筋。そこには、女性のように白く滑らかな肌と、けれど少年特有の硬いラインが共存している。 「……あなたは、ここで、いつも歌っているの?」  結衣はパーカーの襟元を掴み、その匂いを逃さないように深く吸い込んだ。 「気が向いた時だけ。ここは、音が綺麗に響くから。……君みたいなお姫様が来る場所じゃないけどね」 「お姫様……」 「だって、その靴。ピカピカじゃないか。……僕のギターが何十本も買えるくらい、高いんだろう?」  少年は皮肉めいた様子もなく、ただ事実を述べるように言った。  結衣は自分の足元を見つめた。  泥水に汚れ、光沢を失ったローファー。 「……今は、ただのゴミよ。……こんなの、何の役にも立たない」 「ははっ、手厳しいね」  少年はギターの弦を軽く弾いた。  その振動が、パーカーを通して結衣の身体に伝わってくる。 「僕はレイ。君の名前は?」 「……ユイ。……ただの、ユイよ」  名字を名乗ることを、結衣の理性が拒絶した。  今は、天道という重い鎖を、この高架下の闇の中に捨ててしまいたい。  この安物のパーカーを纏い、この不純
last updateLast Updated : 2026-05-16
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次世代編 第34話 安物のギター

 けれど、今、この安っぽいパーカーの熱に包まれながら感じている、この得体の知れない胸の高鳴りは、何なのだろう。  心臓の奥が、熱いナイフで切り開かれたような、鋭い痛みを伴う歓喜。  結衣はパーカーの袖の中に、自分の両手を深く隠した。  誰にも見つかりたくない。  このまま、この雨が止まらなければいい。  このまま、この冷たいコンクリートの隅で、彼の歌を聴きながら、彼の熱に侵食されていきたい。  レイの歌が終わる頃、雨の勢いはさらに増し、高架下の暗闇を深く塗り潰していった。  結衣は自分の鼓動が、レイの奏でるギターのリズムと、完全に重なり合っているのを感じていた。  初めて知る、自分の意志で選んだ、一人の人間への渇望。  それは、父が母に向けたあの狂信的な愛よりも、ずっと脆く、けれど、どうしようもなく生々しい熱を持って、結衣の魂に刻み込まれようとしていた。  結衣はパーカーのフードをさらに深く被り、鼻先まで布を覆い隠した。  そこにある、彼の匂い。  柔軟剤と、微かな煙草の残り香。  その匂いが、彼女の「白亜の牢獄」に繋ぎ止められていた心を、静かに、けれど確実に解き放っていく。  高架の外では、遠くで鈴木が自分を探し回る無機質な声が聞こえたような気がしたが、結衣はただ、その匂いの中へと深く、深く沈んでいった。  雨の音だけが、二人の静寂を優しく包み込み、夜の帳を下ろしていく。  結衣の指先が、パーカーの裾を、離さないように強く、強く握りしめた。  止まっていたはずの彼女の時計が、今、この汚れた高架下で、不器用な音を立てて回り始めた。◇ それから一時間後。  結衣は邸の玄関ホールに立っていた。  床に滴り落ちる雨水。  鈴木をはじめとするSPたちが、青ざめた顔で彼女を取り囲んでいる。 「お嬢様、ご無事で何よりです……。すぐに着替えの用意を」  結衣は何も言わず、ただ自分の身体を包んでいる「灰色のパーカー」を、奪われないようにきつく抱きしめた。  びしょ濡れの高級な制服の上に、場違いなほど薄汚れた、安物の布地。  そこからはまだ、あの高架下の匂いが、レイの熱の残滓が、微かに漂っていた。  階段の上から、征也がゆっくりと降りてくる。  冷徹な眼差し。 「……どこへ行っていた」  低く、地を這うような声。  結衣は
last updateLast Updated : 2026-05-17
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次世代編 第35話 秘密の場所

 天道邸の自室。  結衣は、クローゼットの奥深くに隠していたあの灰色のパーカーを顔に押し当て、深く息を吸い込んだ。  あの日から三日が経っていた。  柔軟剤と微かなタバコ、そして雨の匂いが混ざり合った、あの強烈な「彼」の匂い。  それは、時間の経過とともに残酷なほど薄れつつある。  匂いが薄れるたびに、結衣の胸の奥で、じりじりとした焦燥感が焦げ付くように広がっていく。  もう一度、あの熱に触れたい。  あの透明な声で、自分の名前を――「ユイ」と呼ばれたい。  結衣はパーカーを丁寧に畳み、学校指定の革鞄の一番底に押し込んだ。  そして、鏡の前で完璧な「天道家の令嬢」の仮面を被り直す。  一本の乱れもない黒髪、隙のない制服の着こなし、感情を読み取らせない冷ややかな微笑み。  一階へ降りると、大理石の床に黒いローファーの硬い音が響いた。 「おはようございます、お嬢様」  SPの鈴木が、いつもと変わらぬ硬い表情で一礼する。 「おはよう。……行きましょう」  結衣は短く応え、迎えの黒塗りのセダンへと乗り込んだ。  車内の、完璧に調整された無臭の空間が、息苦しい。  学校での時間は、砂を噛むように無味乾燥だった。  周囲の生徒たちの浮ついた会話も、教師の単調な声も、結衣の耳を素通りしていく。  彼女の脳裏を満たしているのは、あの薄暗い高架下で響いていた、ギターの硬い音色だけだった。  放課後。  結衣は校門を出ると、待機していた鈴木に向かって、少しだけ歩調を緩めた。 「鈴木」 「はい、お嬢様」 「今日は、図書室で少し調べ物をしたいの。車は一時間後に回してちょうだい」  声が震えないよう、細心の注意を払って紡いだ言葉。 「……承知いたしました。では、図書室の前で待機しております」 「いいえ」  結衣は、静かに、けれど強い視線で鈴木を射抜いた。 「調べ物は集中したいの。あなたの視線があると、気が散るわ」 「しかし、社長からの指示で……」 「学内よ。誰が私に危害を加えるというの? それとも、私の言うことが聞けないのかしら」  冷徹な響き。それは、父・征也が部下を下す時の声色を、無意識に模倣したものだった。  鈴木は一瞬言葉を詰まらせ、やがて苦渋の表情で深く頭を下げた。 「……申し訳ございません。では、一時間後にこちら
last updateLast Updated : 2026-05-17
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次世代編 第36話 秘密の場所

 ネオンサインが瞬き始め、家路を急ぐ人々の波が結衣の身体をぶつかるようにして通り過ぎていく。  排気ガスと、どこかの飲食店の油の匂い。  結衣は鞄を胸に抱え、あの高架下へと向かって小走りで進んだ。  コンクリートのアーチの下に足を踏み入れる。  薄暗いオレンジ色の街灯。  電車の通過音が響く中、その奥から、かすかに弦を弾く音が聞こえてきた。  ジャラン。  結衣の足が、ピタリと止まる。  いた。  あの日と同じ、壁に背を預け、安物のパイプ椅子に腰掛けてギターを抱える影。  今日はフードを被っておらず、少し長めの癖のある前髪が、彼の白い額を隠すように揺れていた。  細身のダメージジーンズに、色褪せたチェックのシャツ。  彼の指先が、ギターのネックを滑るように移動し、柔らかいアルペジオを奏でている。  結衣は、そっと息を吐き出した。  彼が存在しているという事実だけで、強張っていた肩の力が抜け、肺の奥まで酸素が行き渡るような気がした。  レイは、ポロロンと最後のコードを鳴らすと、顔を上げた。  琥珀色の瞳が、柱の陰に立つ結衣を捉える。  彼の目が少しだけ見開かれ、やがて、春の陽だまりのように柔らかく細められた。 「……ユイ?」  その透明な声に名前を呼ばれた瞬間、結衣の心臓がトクン、と大きく跳ねた。 「……また、雨宿り?」  レイはギターを膝の上に置き、いたずらっぽく笑った。  外には雨など一滴も降っていないのに。  結衣は顔が熱くなるのを感じながら、ゆっくりと彼に近づいた。 「……これを、返しに来たの」  結衣は鞄の中から、あの灰色のパーカーを取り出し、両手で差し出した。  綺麗にクリーニングに出すことも考えたが、そうすれば彼の匂いが完全に消えてしまう。結局、結衣は自分で洗面器に水を張り、丁寧に手洗いし、アイロンをかけていた。  レイは少し驚いたような顔をして、パーカーを受け取った。 「わざわざ洗ってくれたの? ありがとう。……でも、なんか僕のじゃないみたいにいい匂いがする」  レイがパーカーに顔を近づけ、くん、と匂いを嗅ぐ。  その無防備な仕草に、結衣は息を呑んだ。 「……少し、柔軟剤を使いすぎたかもしれないわ」 「ううん、すごくいい匂い。ユイの匂いがする」  さらりと言われた言葉に、結衣は指先が小さ
last updateLast Updated : 2026-05-18
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次世代編 第37話 秘密の場所

「……今日は、誰も聞いていないのね」  結衣が周囲を見渡して言うと、レイはギターの弦を指の腹でなぞりながら苦笑した。 「僕の歌なんて、足を止めて聴くほどのものじゃないからね。みんな、急いで自分の帰る場所に帰っていくんだよ」 「私は、好きよ」  結衣の口から、自分でも驚くほど素直な言葉がこぼれた。 「あなたの声、すごく……真っ直ぐで。余計なものが何もなくて」  レイはギターを弾く手を止め、結衣の顔をじっと見つめた。  その琥珀色の瞳の奥に、少しだけ戸惑いのような色が浮かぶ。 「……そっか。ありがとう」  レイは照れくさそうに前髪を掻き乱すと、「ちょっと待ってて」と言って立ち上がった。  彼は高架下のすぐ外にある自動販売機へ走り、小銭を入れてボタンを押した。  ガコン、という重い音が二回響く。  戻ってきた彼の手には、二本の小さな缶コーヒーが握られていた。 「ほら、お礼」  差し出された赤い缶。  結衣は両手でそれを受け取った。 「……熱っ」  思わず声が出るほど、缶の表面は熱を持っていた。  天道邸で出される、適温に冷まされた紅茶や、完璧な温度で抽出されたコーヒーとは全く違う、火傷しそうなほどの熱さ。 「あはは、ごめん。ここの自販機、やたら熱いんだよね」  レイは自分の缶のプルタブを、カシュッという軽快な音を立てて開けた。  結衣もそれに倣い、プルタブに指をかける。  しかし、硬くてなかなか開かない。 「貸して」  レイが横から手を伸ばし、結衣の持っている缶に自分の手を重ねた。 「……っ」  結衣の指に、レイの指が触れる。  その瞬間、結衣はビクッと体を硬直させた。  彼の指先は、驚くほど硬かった。  ギターの弦を押し込み続けることで分厚く角質化した、指先のタコ。  大理石のように滑らかな結衣の指とは対極にある、ザラザラとした、生々しい傷跡のような感触。  プシュッ、と小さな音を立てて、缶が開いた。 「はい、どうぞ」  レイは事もなげに缶を結衣の手に戻す。  結衣は、彼が触れたプルタブの縁を唇で探すようにして、コーヒーを一口含んだ。  甘すぎる、人工的なミルクと砂糖の味。  そして、舌を刺すような熱さ。  決して美味しいとは言えないはずのその液体が、今は、結衣の胸の奥底の冷え切った部分を、じわじ
last updateLast Updated : 2026-05-18
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次世代編 第38話 秘密の場所

 その言葉が、結衣の鼓膜を震わせ、心臓の奥深くに真っ直ぐに突き刺さった。  今まで、誰も結衣にそんな言葉を投げかけたことはなかった。  周囲の人間は皆、結衣を「完璧な令嬢」として扱い、遠くから羨望と嫉妬の目を向けるだけだった。  父・征也でさえも、結衣の中に莉子の面影を見いだし、彼女の本当の寂しさには気づいてくれなかった。  なのに、この少年は。  出会って間もない、素性も知らないこの少年だけが、結衣を縛り付けている見えない鎖の存在を、いとも簡単に見抜いてしまった。 「……窮屈、か」  結衣は、自嘲するように小さく笑った。 「そうかもしれない。……私は、自分の意志で外を歩くことさえ、許されないから」 「厳しい家なんだね」 「厳しい……ええ、そうね。息が詰まるくらいに」  結衣は、熱い缶コーヒーを胸の前に抱きしめた。 「私の家は、時間が止まっているの。……十二年前から、ずっと。そこには、誰も私を見てくれる人がいない。……私に触れて、熱を与えてくれる人が、誰もいない」  結衣の口から、無意識のうちに、隠していたはずの孤独が零れ落ちていた。  自分がこんなにも脆い言葉を他人に吐露するなんて、思いもしなかった。  レイは何も言わず、ただ静かに結衣の言葉を聞いていた。  彼の琥珀色の瞳は、結衣の痛みをそのまま受け止めるように、どこまでも深く、澄んでいた。  やがて、レイはそっと、結衣の頭に手を乗せた。 「……え?」  結衣が顔を上げると、レイは優しく、結衣の髪を撫でた。 「辛かったね、お姫様」  彼の大きな手が、結衣の髪をゆっくりとすく。  その指のタコの硬い感触が、髪越しに頭皮に伝わってくる。  熱い。  彼の手のひらから伝わる熱が、結衣の冷え切った心を、一瞬にして燃え上がらせた。 「……っ」  結衣の目から、不意に一粒の涙が零れ落ちた。  自分でも気づかないうちに、頬を伝う熱い雫。 「あ……ご、ごめん」  慌てて涙を拭おうとする結衣の指を、レイの手がそっと止めた。 「泣きたい時は、泣けばいいよ。ここは、誰にも見られないから」  レイの声は、どこまでも優しく、結衣の魂を包み込むようだった。  結衣は、レイの手を握り返した。  彼の硬い指の感触。  その圧倒的な熱量に、結衣は自分が長い間探し求めていたものを、
last updateLast Updated : 2026-05-19
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次世代編 第39話 買えない心

 鋭い破裂音が高架下のコンクリートの壁に反響し、結衣の鼓膜を不快に打った。  バチンッ。  レイの指先で軽やかに弾かれていたアコースティックギターの弦が、一瞬にして弾け飛んだ。空気を切り裂くような硬い音。結衣は思わず肩を跳ねさせ、持っていた缶コーヒーを取り落としそうになる。 「あっ……」  レイの声が小さく漏れた。  左手の指先から、一筋の赤い血が滲み出ている。切れたスチール弦の先端が、演奏中の無防備な指の腹を浅く裂いたのだ。 「レイ……! 血が……」  結衣は弾かれたように立ち上がり、レイの怪我をした指に手を伸ばした。しかしレイは、慌てる結衣を制するように、無事な右手でひらひらと手を振った。 「大丈夫、大丈夫。こんなの、よくあることだから」  レイは血の滲む指先を無造作に口に含み、ペッと吐き出すと、そのままジーンズの腿で拭った。 「安い弦を使ってるからさ。すぐ錆びて、こうやって切れちゃうんだよね。……ごめん、いいところだったのに」  レイは困ったように笑い、切れて丸まった弦の残骸を指で弾いた。  レイが抱えるギターは、結衣の目から見ても限界に近いほどボロボロだった。ボディの表面には無数の傷が走り、塗装は剥げ、ピックガードの周辺は木肌が黒ずんで露出している。  結衣は、レイが血の滲む指で古い楽器を撫でる姿を見て、胸の奥がチクッと痛むのを感じた。  レイの透明で美しい声には、薄汚れた、いつでも持ち主を傷つけるような楽器はふさわしくない。もっとレイを輝かせる、完璧な道具があるはずだ。 「……新しい弦、買わないの?」 「んー、今日はもう持ち合わせがないや。また明日、バイト代が入ったら張り替えるよ」  レイはギターをケースにしまいながら、事もなげに言った。  持ち合わせがない。言葉の響きが、結衣の耳にはひどく異質なものとして聞こえた。  天道家において「お金がない」という概念は存在しない。欲しいものは何でも手に入るし、むしろ望む前に最高のものが目の前に用意されているのが当たり前の世界だった。  結衣は、コンクリートの壁に背を預けながら、頭の中である計算を無意識に始めていた。  レイの血が滲んだ指を、もう二度と傷つけないために。  レイの歌声を、もっと美しく響かせるために。  私にできることがある。私なら、レイにふさわしいものを与
last updateLast Updated : 2026-05-19
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