「……アリーシャ姉さま……?」自分の声に、自分が一瞬遅れて驚いていた。その名は、確かに記憶にあった。まだ王国の構文塔にも近づいていなかった頃。冷たい石造りの庁舎で、たった一人だけ、優しく手を握ってくれた“姉さま”がいた。髪の色も、目の色も、今この女と似ていたような気がする。けれど――違う。そんなはずがなかった。この女は、暗号兵《ゼロフォー》――コード名:N=0。フィリシアは、ほんのわずかに深呼吸し、意識を切り替えた。声が漏れた理由はわからない。けれど、いま優先すべきは任務であり、疑念ではない。(この女が、仮に“アリーシャ”本人であったとしても――敵であることは変わらない)それは事実だった。記録が示していなくとも、自分の行動を正当化するに足る確信があった。フィリシアは、視線を送った。空中に“言葉なき命令”が走る。Y02の身体がわずかに傾き、次の動作に入る気配を発する。手も、目も、心拍も、何一つ乱れてはいない。任務を遂行するための構文は、完全に再起動している。構文塔の上から戦場を見下ろし、彼女はただの処分対象を見据えた。アラーナが、立ち上がる。その手には、ルジェ・ノワールがしっかりと握られている。胸の奥に、説明のつかないざわめきが残っていた。名に覚えはない。呼ばれた実感もなかった。それでも――(……なぜか……)心臓が、一度だけ強く脈を打った。それが何なのか、言葉にはできなかった。だが、迷いもなかった。アラーナはルジェ・ノワールをゆっくりと掲げ、空中へと投げ上げる。唇が、封じられていた“声”を形にする。「コード開放――ヴェルサ・ファタール」その瞬間、地面に散らされた封術陣が一斉に光を放った。重く響くような構文干渉の共鳴音。空気が軋み、詠唱の波長が歪む。投げかけられた小鎌が、空中でぴたりと止まった。高所。屋上。封鎖塔。複数の術式制御兵が展開した符が、同時に術式網を走らせる。光はアラーナの周囲に張りめぐられ、構文を“封じる”ための網が空を塞いだ。すでに、フィリシアの命令は届いていた。アラーナの手が宙を裂こうとする寸前、詠唱は封じられた。刃は、まだ目覚めない。その瞬間、記憶の片隅で、リュカの声がひっかかった。『封じられることも、あるぞ。あいつら、そういう準備だけは抜かりないからな』一言だけだ
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