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幕四十 記録にない感情

「……アリーシャ姉さま……?」自分の声に、自分が一瞬遅れて驚いていた。その名は、確かに記憶にあった。まだ王国の構文塔にも近づいていなかった頃。冷たい石造りの庁舎で、たった一人だけ、優しく手を握ってくれた“姉さま”がいた。髪の色も、目の色も、今この女と似ていたような気がする。けれど――違う。そんなはずがなかった。この女は、暗号兵《ゼロフォー》――コード名:N=0。フィリシアは、ほんのわずかに深呼吸し、意識を切り替えた。声が漏れた理由はわからない。けれど、いま優先すべきは任務であり、疑念ではない。(この女が、仮に“アリーシャ”本人であったとしても――敵であることは変わらない)それは事実だった。記録が示していなくとも、自分の行動を正当化するに足る確信があった。フィリシアは、視線を送った。空中に“言葉なき命令”が走る。Y02の身体がわずかに傾き、次の動作に入る気配を発する。手も、目も、心拍も、何一つ乱れてはいない。任務を遂行するための構文は、完全に再起動している。構文塔の上から戦場を見下ろし、彼女はただの処分対象を見据えた。アラーナが、立ち上がる。その手には、ルジェ・ノワールがしっかりと握られている。胸の奥に、説明のつかないざわめきが残っていた。名に覚えはない。呼ばれた実感もなかった。それでも――(……なぜか……)心臓が、一度だけ強く脈を打った。それが何なのか、言葉にはできなかった。だが、迷いもなかった。アラーナはルジェ・ノワールをゆっくりと掲げ、空中へと投げ上げる。唇が、封じられていた“声”を形にする。「コード開放――ヴェルサ・ファタール」その瞬間、地面に散らされた封術陣が一斉に光を放った。重く響くような構文干渉の共鳴音。空気が軋み、詠唱の波長が歪む。投げかけられた小鎌が、空中でぴたりと止まった。高所。屋上。封鎖塔。複数の術式制御兵が展開した符が、同時に術式網を走らせる。光はアラーナの周囲に張りめぐられ、構文を“封じる”ための網が空を塞いだ。すでに、フィリシアの命令は届いていた。アラーナの手が宙を裂こうとする寸前、詠唱は封じられた。刃は、まだ目覚めない。その瞬間、記憶の片隅で、リュカの声がひっかかった。『封じられることも、あるぞ。あいつら、そういう準備だけは抜かりないからな』一言だけだ
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幕四十一 構文の檻と刃の飛翔

「A隊、全滅」「……B隊、追いつけず、失陥」報告が届いたとき、フィリシアの指先は微動だにしなかった。予定より少しだけ早い。だが、許容範囲内だった。戦場は“まだ制御下”にある。構文封鎖網――C隊が準備していた“空間ごと封じる術式”が、いま、完成を迎えようとしている。フィリシアは情報層をひとつ確認し、視線を一点に落とした。――対象、移動開始。封鎖範囲、進入。(ここで終わらせる)そう判断するまでに、一秒もかからなかった。フィリシアが求めるのは、「死」ではない。構文の消失。存在そのものの“無効化”だった。指先が軽く動く。C隊の術式制御兵たちが一斉に詠唱に入る。術式領域が、静かに空間を包囲していった。*アラーナは、空気の歪みに気づいていた。足元。背後。視界の端。何かが、“ずれている”。風が止まり、音が沈む。鼓動と動作のタイミングが、どこか遅れて聞こえる。(……構文封殺)詠唱を封じ、次は“動作”そのものを狙ってくる。鎌を振るう――その行為自体が“術”として捕捉されている。動けば、止まる。揺らせば、拘束される。ならば。アラーナは《ルジェ=ノワール》を掲げた。呼びかけはない。詠唱もしない。ただ、その“形”だけが空に弧を描く。構文術式が展開しきるより、わずかに早く。彼女は、刃を――投げた。黒の閃光が、音もなく術式の空間を横断した。詠唱が途切れる。防壁が揺れる。誰も理解できなかった。“それ”は、魔術でも術式でもなかった。ただ、《ルジェ=ノワール》が空を裂いた。その軌跡が、張り巡らされた術式領域ごと空間を両断した。C隊が展開していた構文封鎖網が、一斉に崩れ落ちた。高所にいた制御兵の一人が、口を開いたまま倒れる。“切られた”のではない。“届かなかった”。網を張るための空間そのものが、もうそこに存在していなかった。アラーナは、跳ね返ってきた刃を地面で拾い上げる。そして、静かに息を整えながら、その場で《ルジェ=ノワール》を高く掲げた。風が変わる。誰も命令しなかった。誰も叫ばなかった。それでも、刃は応じた。「――コード開放、ヴェルサ・ファタール」その名が響いた瞬間、アラーナは小さく刃を空に投げた。黒煙が空間を裂き、空中で爆ぜたように“何か”が開いた。空気の筋が反転するような軋みの中で、巨大な大鎌
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幕四十二 その呼び名を、まだ知らなかった

 奴らは、人の形をしているだけだった。 左右非対称の骨格。関節の過剰な可動域。血管の走っていない眼。 それらはただ、命令のもとに“殺す”という行為を繰り返すためだけの存在――Yシリーズ。 フィリシアは構文層を操作し、静かに言葉を紡ぐ。「対象、《ゼロフォー》。コード:N=0。これより“実体抹消”に移行する」「最終展開。――Yシリーズ、全隊、殺処分開始」* その数は、十を超えていた。 地上から三体。側面の瓦礫の陰から二体。上空から四体。 包囲は完璧だった。 アラーナは刃を振るう。だが、違和感があった。 《ルジェ=ノワール》は、《ヴェルサ・ファタール》で顕現している。 それでも――刃が“重い”。 振り抜いた軌道に、空気とは異なる“抵抗”が混じっていた。 術式干渉領域。構文の余波が、刃の運動を制限している。 その間にも、Yシリーズが一斉に飛び込んできた。 アラーナは柄を反転させ、大鎌の重量ごと振り払う。 構文も、魔術もない。ただの質量と反射。 それでも一体の首が砕け、もう一体の胸部が陥没する。 ――が、止まらない。 残る個体が地を滑り、空中から挟み撃ちにかかる。 アラーナは跳ぶ。だが、飛び切れなかった。 側面からの回転蹴りがインナースーツの脇腹を捉える。 構文遮断の刺突が肩口にかすった。 布が裂け、肌が露出する。砂に汚れ、傷口が開く。 アラーナの表情が――歪んだ。 その顔に、確かに“苦悶”が浮かんでいた。 常に沈黙をまとっていた女。 何をされても顔色一つ変えなかった死神が、その瞬間、眉を寄せた。 だがそれでも、止まらない。 アラーナは叫んだ。声にならない、裂けた息を伴った絶叫だった。 大鎌を全身で振り抜く。重心を軸に回転し、刃が低く薙ぐ。 空気が砕ける。 刃がYシリーズの胴体を真正面から裂く。 動きが、止まったのは、その胴が真っ二つに割れてからだった。 だが――次の瞬間、別の個体が飛び込む。 肋骨の下に、打撃。背後から蹴り。 片膝を落とした瞬間、右肩に衝撃。大鎌がわずかに浮く。 アラーナは刃を持ち直し、なおも振るう。 だが、振りの速度が一瞬、遅れた。 その隙を、Yシリーズは逃さない。 肩口に、斬撃。腹部に回し蹴り。 腕を掴まれ、半回転のまま地面に投げつけられる。 地面に背が叩きつけられ、
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幕四十三 呼ばれたことのない名を

 意識が、落ちていく。 世界は、闇に沈んでいた。 光も音も、ただ遠ざかるばかりで、身体の輪郭も曖昧になっていく。 (……ここは……) それでも、完全には途切れなかった。 どこかで、誰かが、自分を―― 『……アラ……』 音ではない。記憶でもない。 けれど確かに、“誰か”が呼んでいる。 『……姉……さま……?』 声は、子どもだった。 ひとりじゃない。複数の影が、名を口にしていた。 でも、その名が、自分のことなのかどうかも、わからなかった。 (わたしは……誰?) 答えは、返ってこない。 “ゼロフォー”でも、“死神”でもないと、自分で否定する。 けれど“アラーナ”もまた、誰かに与えられた仮の名前にすぎなかった。 ならば―― 自分は、誰なのか。 名がなければ、存在は消えるのか。 声がなければ、意志も消えるのか。 それでも。 (立たなきゃ……) 指先が、かすかに動いた。 感覚はなかった。力も残っていない。 それでも、手は探していた。 《ルジェ=ノワール》。 それだけが、まだここにあると知っていた。* 現実が、ゆっくりと戻る。 重くなった瞼が開き、視界の先に処理動作に入ったY02の姿が映る。 アラーナは、大鎌の柄に手をかけた。 そして、ゆっくりと戦いの構えをとる。 肩は傷だらけ。スーツは破れ、腕からは血が流れていた。 けれど、その動きに、迷いはなかった。 口元が、かすかに動く。 笑っていた。 不敵に。冷たく。まるで――本物の“死神”のように。 アラーナは、大鎌に口づけを落とす。 柄の根元、紅い魔眼の意匠にそっと唇を寄せる。 直後に、《ルジェ=ノワール》の魔眼が閃いた。 紅の光が脈動し、空間が震える。 そして―― Y02の首が、爆ぜたように吹き飛んだ。 反応する間すら与えなかった。 それは刃ではない。 斬撃を拒む者に向けた“断裁”――《カットサンドル》が発動していた。* Y02が倒れた瞬間、Yシリーズ全体の動きに乱れが生じた。 指令層の消失。統率の喪失。構文反応の暴走。 アラーナはそれを見逃さなかった。「……ノクターン・ドーム」 その声はかすれていたが、確かだった。 大鎌が振り抜かれる。 刃が虚空に円を描くように振るわれた瞬間、全身の傷が裂け、熱を帯びた血が宙に舞った。 
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幕四十四 封じられた刃、静寂の神殿

 三日目の夜。 アラーナは、目を覚ました。 重く、鈍く、全身がきしむ。 けれど、意識ははっきりしていた。反応できるだけの感覚は、戻っている。 身体を起こすと、隣に水が置かれていた。 机の端には、黒い布と金属が揃えられている。 インナースーツ。ロングコート。ピンヒールのブーツ。 すべてが、新品だった。 擦れも、汚れもない。手入れを超えた、“用意されたもの”。 アラーナは無言で装備を身につけた。 それは、いつもの姿―― リュカが、何も言わずに揃えた“死神の正装”。 そして、《ルジェ=ノワール》。 外に出ると、彼は壁にもたれて立っていた。「……西の端に、構文核神殿がある。行くなら、そこだ」 アラーナは、何も返さなかった。 そのまま歩き出す。 夜明け前の道を、フードを深くかぶって進む。 歩くたびに、硬質なヒールの音が石畳に乾いた音を響かせた。 頭の奥に、ひとつの名前が、張り付いていた。 アリーシャ。 思考の縁を掠めるたびに、鈍い頭痛がにじむ。 記憶ではなかった。感情でもなかった。 ただ、その名に触れると、拒絶するように脳が痛んだ。「……そんな名前、知らない」 誰に届くでもなく、アラーナは低く呟いた。 王国西端にある、古代構文魔術の根源施設――構文核神殿。 礼拝空間の奥。 彼女は奥を向いて立っていた。 白銀の軍装。青の封構官章。黒革の手袋。整った姿勢と冷たい気配。 フィリシア=ヴァルトリエル――王国軍中央戦術局 特別執行室 室長。「よく来てくれました、“アラーナ・ノクターン”。 ――いや、アリーシャ姉さま」 間を置かず、続けた。「……少し、おしゃべりしましょう」 アラーナは、その場で足を止める。 間合いは十数メートル。警戒は解かない。「……その名は何なの」 低く、短く。問いかけるだけの声だった。 フィリシアは、静かに振り返った。 表情は変わらない。瞳に迷いもなかった。「アリーシャ姉さま――そう呼んでいた記憶があります。 ほんの少しだけ、昔の話。王家の一族でありながら、なぜか本家とは離れた古い屋敷にいて…… 私は、その方の後ろを、よく追いかけていました」 アラーナの表情は動かない。 無反応にも見えるその沈黙を前に、フィリシアは語りを継いだ。「髪の色も、声も、今のあなたに似ていると思った
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幕四十五 封じられた構文、語られぬ記憶

 斬撃が空気を裂いた。 紅の光が弧を描き、礼拝空間の床に亀裂が走る。 ノクターン・ドーム。 構文斬撃の最終連動型。 完全な構文起動ではなかったが、それでも十分な殺傷圧を持つ。 フィリシアは一歩も動かず、正面から受け止めた。 術式展開は瞬時。詠唱は不要。 術式陣は右掌を起点に展開され、骨格と魔導回路を“逆干渉”で固定する防壁を形成する。 刃の速度と斬撃軌道を読み切り、拡張を最小限に抑えた“抑制術”だ。 紅の衝撃が、術式陣に弾かれる。 空気が歪み、音が遅れて耳を打つ。 だが、構えは崩れなかった。 礼拝堂には、風の通り道も、術式の波もない。 音がない。 その静けさが、二人の距離をさらに広げていく。 構文が通るはずの空間で、刃だけが孤立している。 まるで、二人がどこにもつながっていないかのように。「……あなたは、覚えていないのですか?」 沈黙を遮るように、問いかけた。 確認ではない。祈りにも似た、投げかけだった。 たとえ届かなくても、それでいい。 ただ、いま問わずに進むことだけは、できなかった。 アラーナは、答えなかった。 構えは崩さず、視線も動かない。 だがその輪郭には、研ぎ澄まされた静寂があった。 わずかに揺れた髪の奥で、彼女の瞳はどこも見ていなかった。 ただ、見届けていた。自分の中に刻まれた“なにか”を。 フィリシアは、刃ではなく“瞳の奥”を見ていた。 だが、そこには何もなかった。 ただ、静かに拒絶する者の目だけがあった。 だから彼女は、記憶を語ることを選んだ。「昔、私は泣いていました。ノクターン家の屋敷。冷たい石の回廊」「誰にも気づかれないように、あなたは手を取ってくれた」「何も言わずに、ただ静かに一緒に歩いてくれた」「今わかるのは……あのときと同じ、背中のかたち。横顔。歩き方。そして、立ち方」「子どもながらに思いました――あの人の表情は、凛としていて。 立ち姿は、美しすぎるほど整っていた」「今のあなたも……まったく同じに見えます」 その言葉を、アラーナは切り捨てた。 ルジェ・ノワールを構えたまま。目も逸らさず。「記憶なんかない」「昔のことも、“あんた”のことも、何も」 “知らない”と答えた声に、ほんのわずかな間があった。 だが、それを“迷い”と呼ぶにはあまりにも短すぎた。 フ
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幕四十六 その名を、刃で否定するために

 構えは崩れない。 フィリシアの右掌に、再び術式の光が灯る。 さきほどとは違う。今度は、防御ではなく――攻撃のための術式。 術式回路が一瞬で展開され、空気がわずかに振動する。 構成術・近距離型。制御領域を最小限に圧縮し、即応で発射できる構造。 相手の動きを“読む”のではなく、“来る場所に撃ち込む”設計だった。 アラーナは動かない。 ただ、呼吸の速さがほんのわずかに変わっただけ。 それは、焦りでも警戒でもない。 余計な感情をすべて削ぎ落とし、最短で刃を振るうためだけの呼吸。 フィリシアもまた、距離と時間、出力と反応の比率を冷静に再計算していた。 この空間で、“次の一手”を外すことは、命を落とすのと同義だった。 沈黙が、再びふたりを包む。 礼拝堂の空気は冷たいのに、微かに熱が滲むような静けさがあった。 音も術もない。 ただ、構えだけが語る意志の交錯。「あなたが“アリーシャ姉さま”であることに疑いはありません」「けれど、それでも私は任務を遂行します。あなたは、コード:N=0――排除対象です」 フィリシアの声音は冷たい。 だが、その宣告に揺れはなかった。 アラーナは、わずかに足を踏み出す。 その動きに合わせ、黒い大鎌《ルジェ=ノワール》がかすかに揺れる。「……好きにしろ」 短い返答。 それだけで、すべてを断ち切るには十分だった。 フィリシアが、動いた。 手のひらから射出されるのは、編成された魔力粒子による「術式の刃」―― 空中で形を変え、追尾制御の波動がアラーナを狙う。 アラーナは、それを待っていた。 刃で受けるのではない。身体をひねり、足元を払うように回避する。 黒いコートの裾が翻り、衝撃波の軌道を逸らす。 反撃は、迷いなく。 《ルジェ=ノワール》が、静かに弧を描いた。 構文の力は乗っていない。 ただの刃。 けれどその一閃には、“死神”と呼ばれた者の“精度”だけが宿っている。 その軌道はあまりに鋭く、空間が一拍遅れて裂けたように見えた。 フィリシアは斬撃の到達点を予測し、身体の向きを数ミリだけずらす。 切っ先は布の先をかすめ、かすかな熱だけを残して通り過ぎた。 フィリシアは、斬撃を受けず、いなす。 構成術による応力変換――術式を展開することなく、最小限の動作で殺気を受け流す。(力ではない。
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幕四十七 それでも、名は呼ばれる

 礼拝堂に走るのは、術式の光と、音なき圧力。 フィリシアの両掌に、赤と青の構文が重なった。 術式名は、《双構式:ヴァルター・ゼロ》。 左右に展開される二重構文が、それぞれ異なる作用で空間を制御する。 一方は追尾制御、もう一方は爆裂干渉――その場で発動することで“逃げ場”を奪う仕様。 王国軍術式の中でも最高位に分類される、絶対制圧型の決戦術。 展開された術式の刃が礼拝堂の床をなぞるように走り、空気が鈍く震えた。 この術式の危険度を察知したアラーナは、二歩、三歩後退した。 そして、大鎌《ルジェ=ノワール》の構文を静かに解除する。 黒い霧が鎌を包み、その形は腰に収まる小鎌へと戻った。 彼女は両手を解放し、回避と機動に全振りする構えを選んだ。 フィリシアの術式の刃が、放たれる。 その軌道は弧を描きながら、正確にアラーナの動線を先読みしていた。 アラーナは回避する。 足音を消し、衣擦れすら抑え、滑るように宙を舞う。 それでも、完全には避けきれなかった。 左肩の後ろ、服を裂いて肉に届いた鋭い痛み。 術式の刃の断面が神経をかすめ、骨の奥をこすられるような疼きが全身に走る。 その疼きの奥から、声が響いた。 “姉さま”――誰かに呼ばれた記憶が、脳髄の奥で震えた。 そして、その声は消えなかった。 まるで脳の奥に染みついたまま、“姉さま”という言葉だけを繰り返し響かせている。 音でも記憶でもない――侵入してくる構文のように、意識の内側をかき回される。 頭蓋の内側が熱を持ち、平衡感覚が崩れ、音が遠のき、呼吸のリズムすら壊れていく。 自分の体が、自分のものではない。 脳のどこかが悲鳴を上げているのに、それがどこかもわからない。 視界は滲み、像が結ばれない。目の前にいるはずのフィリシアの姿すら、捉えられなかった。 アラーナの動きが鈍った。 左腕が震え、痺れが指先まで伝わっていく。 次の瞬間、第二の術式の刃が放たれた。 横から迫る鋭い刃。 アラーナは跳躍の反動で身体をひねり、辛うじてかわした……つもりだった。 だが、反応は限界だった。 視界がかすみ、足元が一瞬ふらつく。 フィリシアの刃が脇腹をかすめ、布を裂き、肉をえぐった。 致命傷は免れたが、防御とは言い難い。 それでもアラーナは倒れなかった。 ただ、呼吸を殺し、立って
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幕四十八 名前の意味を、まだ知らない

――それは、名乗っただけでは終われなかった。 礼拝堂にはまだ、血の匂いが漂っていた。  けれど、場に満ちていた殺気はすでに消えていた。  術式の残光は跡形もなく消え、礼拝堂は“沈黙”という名の圧に包まれていた。  天井の高い空間が音を吸い、呼吸の反響すら他人のもののように感じられる。  空気は動かず、音は一切なかった。  ただ、耳の奥を押しつぶすような“静けさ”だけが、そこにあった。 アラーナは《ルジェ=ノワール》を腰へと戻しながら、目の前の女を見下ろした。  倒れたフィリシアの胸は、まだゆっくりと上下している。  だがその目からは、もう戦う光は見えなかった。 アラーナが歩み寄ると、フィリシアは片方の手をゆっくりと差し出してきた。  震えるその手は、戦いを望むものではなかった。  それは、かつての誰かを求めるように、そっと開かれていた。 アラーナは無言でその手を取った。  細く、冷えた指先。  その冷たさが、すでに“別れ”を物語っていることに、アラーナは気づいていた。  握り返した手には、もう力は残っていなかった。  それでもフィリシアは、ぎこちなく――それでも、どこかあどけない笑みを浮かべた。「……あの頃と、同じ……」 その声が空気に溶けるよりも先に、アラーナの中で何かが揺れた。  “姉さま”――そう呼ばれた名が、記憶の底からまた響く。  だが今度は、さっきのような不快な雑音ではなかった。 フィリシアが、何かを伝えようと口を開いたが、それはもう言葉として聞き取れなかった。  アラーナは、フィリシアの口元にそっと耳を寄せる。「アリーシャ姉さまの本当の名は――……リシェル=アリシア=ノクターン……」 その瞬間、アラーナの頭の中に、奔流のように映像が駆け巡る。 家族に囲まれた温かい食卓。  年に数度、屋敷に訪れる甘えん坊の従妹。  泣きじゃくるフィリシアの手を握って、夜の中庭を歩いたあの晩。  背後から聞こえる「アリーシャ姉さま」と甘える声。  振り返れば、いつも彼女は少し泣き顔で、でも嬉しそうにそこにいた。 その声に、“名前”としての重みが宿るのを、今、ようやく理解した。 すべてが、よみがえる。 アラーナは、すべての記憶を取り戻した。 視界が戻ったとき、フィリシ
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幕四十九 ルメアの静寂

 薄明の空が、街の輪郭を静かに染めはじめていた。 ルメア、沈黙街。 夜の気配がまだ色濃く残る通りに、ひとつの足音だけが響いていた。 硬質な乾いた靴音が、無人の道に一定の間隔で刻まれていく。 黒いロングコートの裾が風に揺れ、肩口から腕にかけては、乾ききらぬ血と煤がこびりついている。 アラーナの歩みには、急ぎもためらいもない。 足元は重い。筋肉の節々に火照りが残り、裂傷のいくつかはまだ湿っている。 けれど痛みは、もう彼女の歩みに影響を与えない。 戦いの熱がまだ身体の内側に残っているような、そんな鈍い余熱だけを携えて、アラーナは歩いていた。 何を探すでもなく、ただ確かめるように、ひとつひとつの足音を街に残していく。 通りの中央まで来て、足を止めた。 ゆっくりと顔を上げ、周囲を見渡す。 通りには、戦いの痕跡がそのまま残っていた。 裂けた石畳。焼け焦げた壁。崩れかけた階段の端。 構文術式の爆裂痕や障壁の衝突跡が、そこかしこに黒く刻まれている。 ここで、何かが暴れ、壊された。 誰かを狙い、誰かがそれを止めようとした。 その爪痕だけが、通りに取り残されている。 金属の焦げた匂いが鼻を掠める。 封印符の残り香。割れた魔術石が放つ、わずかな熱。 すでに戦いは終わっているはずなのに、空気の中にはまだ“動”の余韻がわだかまっていた。 扉は歪み、軒下には割れた構文符の破片が散っている。 掲示板の紙は焼け焦げ、半分以上が剥がれ落ちていた。 それでも、かろうじて残された伝言が、風にさらされながら揺れていた。 「誰かが戻ったときのために、入口は開けておきます」 「灯りは落としてあります。必要ならそのまま使って」 道は乱れていた。 もともと整えられていた場所が、何者かに蹂躙され、そのまま放置されていた。 沈黙ではなく、“荒れたままの静寂”が沈みこんでいる。 アラーナはその静けさを、言葉もなく見渡していた。 この街になじんでいたわけではない。思い出があるわけでもない。 けれど、誰もいないこの光景に、胸の奥がわずかに重くなる。 石畳の隙間に、小さな白い花が咲いているのが目に入った。 誰が置いたかはわからない。 風に揺れながらも、それは今もそこにあった。 アラーナは歩を再開した。 しばらく進んだ先――路地の陰にある、住居の廃屋とも
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