Alle Kapitel von その刃は、声なきままに首を断つ: Kapitel 21 – Kapitel 30

33 Kapitel

幕二十 命令は冷たく届いた

 ヴァルティア歴V.E.286年――現在より3年前。 アラーナは、いつもの廊下を歩いていた。  影衛の指令室へと続く、地下最深部の通路。  何度も通った場所。任務のたびに、感情のない靴音を刻んだ道。 だが、その夜だけは、空気が違っていた。  白い蛍光灯は変わらず天井を照らし、温度も規定のまま。  それでも、皮膚の内側が静かにざわついた。  息を吸っても、どこかに“密度”がある。そんな気配だけが、歩みに影を落とす。 まだ指令室には入っていない。  けれど、そこに辿り着く前から、アラーナは知っていた。  今夜は、“いつもと同じ任務”ではない。 重厚な鋼鉄扉の前で、立ち止まる。  冷たい金属の静けさは、これから入る者にだけ許された緊張を孕んでいた。 無音の開錠音が鳴る。  扉がゆっくりと開いた先にいたのは、  影衛・第四実行班の指揮官――セリア・グランネヴィル。 黒髪をぴたりと結い上げ、軍服を寸分の隙もなく身にまとい、  書類棚のように無駄のない所作で、端末を操作していた。「ゼロフォー。着座を」 それは指示であり、命令であり、慣習でもあった。  アラーナは、応じなかった。  沈黙のまま、入り口近くで立ち尽くす。  彼女にとって、“座る”ことは“従う”ことではなかった。  それはただ、意味のない動作だった。 セリアは視線をわずかに逸らしただけで、反応を返さなかった。  やがて、端末から一枚の命令書が排出される。  重々しい封印紙。淡く浮かぶ文字は、見る者の目に冷たい圧をかけてくる。 命令書の上部には、任務分類を示すコードが刻まれていた。  《A2》――暗号兵・処理対象同班所属・記録抹消指令。 その分類が何を意味するか。アラーナには、わかっていた。  ただの粛清。しかも、それは“身内”に対して発動されるものだった。 処理対象:ゼロセブン(暗号兵・第4班所属)  状態:行動不明/再教育不可と判定  命令内容:即時処理、記録削除。手段不問。 視線は、一瞬だけ紙の端を逸れた。  読み間違いではない。封印も正規。命令は、成立している。 指先の関節がごくわずかに動いた。  呼吸は浅くなったが、それでも外には出ない。  肺に入りかけた空気が、どこかで止まったまま沈んでいく。――ゼロセブン。  かつて、
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幕二十一 葛藤と選択

  影衛・第四実行班のブリーフィングルームは、無人だった。 本来なら任務開始の報告を受けて、他の暗号兵たちが集まっている時間だ。 だが室内には、気配ひとつなかった。 整然と並ぶ椅子、壁に貼られた作戦予定表。 誰も座っていない机の上に、軍の灰色灯がぼんやりと落ちていた。 空気は乾いていた。 人の呼気が途絶えた部屋は、まるで時間そのものが停止したようで、床に響く足音すら、異物のように響いた。 アラーナは扉を閉め、音を立てずに中央へと進む。 手袋越しの指が、机の角をなぞる。 その冷たさが、現実を確かめるための唯一の感覚だった。 そこは――ゼロセブン。 彼がいつも立っていた位置だった。 命令書に記されていた“処理対象”の名。 ゼロセブン。 影衛・第四実行班所属、暗号兵。 沈黙の訓練、無言の作戦行動、息を合わせた戦場。 言葉はなくとも、隣に立つときだけは、わずかに空気が柔らかくなった気がしていた。 アラーナにとって、彼は数値でも符号でもない。 沈黙の中で、唯一、温度を持っていた存在だった。 だが、命令書の封印は正規だった。 署名も認証印も、軍の正式規格。 形式上、何の欠落もない。――だからこそ、異物だった。 軍の記録では、彼は“行動不明”、そして“再教育不可”。 それは軍が「もう利用価値がない」と判断した証だ。 つまり、命令書の意味は“処分”に等しい。 だが、彼がそんな判断を受ける理由が、どこにも見つからなかった。 アラーナの思考は冷たく、整っていた。 それでも、内側のどこかが軋む。 金属が歪むように、形を保ったまま、わずかに音を立てた。 本当に、彼が裏切ったのか。 それとも、誰かが彼を“裏切らせた”のか。 封印紙を見つめる指先が、かすかに震える。 感情ではない。 ただ、思考と呼吸のあいだに生じた“微細な揺れ”だった。 アラーナは、椅子をひとつだけ動かした。 ゼロセブンがいつも座っていた席。 音は立てなかったが、整然とした部屋の中で、そのわずかな位置のずれが、不自然な乱れを作った。 秩序の中の異物――まるで、今の自分のように。 壁の端にあるスクリーンには、かつての任務記録が映し出されたままだった。 座標、識別コード、処理対象一覧。 そのどれもが、淡々と処理されていった“過去”の断片。 そこ
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幕二十二 コード開放《ヴェルサ・ファタール》

 任務指定区画は、旧演習区域の外縁だった。 地図上ではすでに廃止と記録されている区域。 霧の濃い夜、森が濡れた息を吐く。 光も音も吸い込まれ、足音さえ輪郭を持たない。 アラーナは、定められた座標へと進んでいた。 道はない。地形は歪み、木々は形を失っている。 ただ“そこへ至る”ための命令だけが、頭の中に残っていた。 風が動く。 視界の奥、霧の裂け目に影が現れた。 警戒を強め、アラーナは立ち止まる。 そこにいたのは、ゼロセブン。 影衛・第四実行班、暗号兵。 つい数日前まで、同じ指令の下で隣に立っていた男。 距離は十数歩。 互いの輪郭がかろうじて見えるほど。 それでも、気配でわかる。 間違いようがない。 ゼロセブンは何も言わず、ただアラーナを見ていた。 その眼には恐れも驚きもなく、 ただ“理解”だけがあった。 アラーナは、コートの内側から命令書を取り出した。 濡れた封印紙を破ることなく、そのまま差し出す。 紙面を月明かりが照らした。 ゼロセブンは一瞥し、息を吐いた。 それは苦笑にも似た、静かな諦念だった。「……そういうこと、か」 その声は、風と霧に溶けて消えた。 彼は答えを求めていなかった。 アラーナも、言葉を返さなかった。 ただ、呼吸が一拍遅れただけ。 それでも、わずかな空気の乱れがあった。 命令よりも早く、別の言葉が口を突いて出た。「――逃げろ」 声は、ほとんど音にならなかった。 命令ではなく、衝動でもなく、ただひとつの選択として、そこに落ちた。 ゼロセブンはわずかに目を見開き――そして頷いた。 その仕草に、ためらいはなかった。 だが、次の瞬間――森がざわめいた。 気配が走る。 空気が揺れる。 霧の奥から、複数の影が浮かび上がった。 処理確認部隊。 命令の執行を監視する、軍の眼。 アラーナが命令を“正しく”実行するか、その一点だけを見届ける者たち。 数は二十を超えていた。 無言の足音が、円を描くように近づく。 ゼロセブンが身を翻そうとする。 だがアラーナは、右手を上げて制した。 その動作だけで、空気の密度が変わる。 沈黙が、刃のように張りつめる。 アラーナの指が、腰の後ろに触れた。 《ルジェ・ノワール》。 黒い柄が、指先の圧に応えるように微かに震える。 夜気が、
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幕二十三 記録に残らぬ処刑

 森を抜けた先、山を背にした戦術演習拠点。 第四実行班が一時的に展開していた仮設の野営地。 そこに生き残っていた兵士たちを、アラーナはすべて斬った。 理由はなかった。いや、理由を考える時間さえ、不要だった。 ゼロセブンを見逃したこと。任務を放棄したこと。 その事実が他者に伝わることは、アラーナにとって“無意味な喧騒”だった。 だから、それを防ぐ必要があった――ただ、それだけだった。 《ルジェ=ノワール》を携えて。 敵意も、怒りもなかった。ただ、ひとりずつ、静かに消していった。 声をあげる者は、いなかった。 逃げようとした者も、構えた者も、すべて等しく斬られた。 斬られたことに気づく間もなく。 首は落ちた。血は音を立てなかった。 アラーナは本部通路に姿を現した。 《ルジェ=ノワール》を肩に担いだまま、濡れた靴音を廊下に響かせていた。 その姿を見た本部の兵士たちが、一斉に凍りつく。 誰かが後ずさり、誰かが何も言えず、誰かが喉を鳴らして逃げ出した。「……まさか……」 ひとりが震える声を漏らすが、その先の言葉は出てこなかった。 アラーナの足音が止まる。 アラーナの全身にまとわりつく死の気配。 彼女が歩くこと、それ自体が処刑の始まりだった。 次の瞬間、《ルジェ=ノワール》が空を割いた。 一閃。 風も、叫びも、そこにはなかった。 気づいたときには、廊下に首のない死体が転がっていた。 アラーナの姿を目にした者は、死んだことすら知らずに崩れ落ちていく。 それでも、アラーナの足取りは変わらない。 まっすぐに、ただ、指令室へと向かっていた。 指令室のドアが、音もなく開いた。 そこは、冷たい光に包まれた静寂の空間だった。 中央のデスクには、一人の女性。 軍服を着たまま、背を向けて端末に向かっている。 セリア・グランネヴィル。 影衛・第四実行班の上官。アラーナに“命令”を下した者。 彼女はタイピングを止めず、振り返りもしなかった。「……戻ったのね」 その声には、驚きも警戒もなかった。 すでにすべてを知っていた者の声だった。 アラーナは何も言わず、一歩だけ前へ進む。 濡れた軍靴が床を叩き、赤い滴がそこに落ちた。「任務は、完了した?」 背中越しに問いが届く。だが、答えはない。 数秒の沈黙の後、セリアが椅子を
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幕二十四 存在しなかった者

 まず、記録が消された。 任務報告ファイル。監視映像。通話ログ。 それらはすべて“処理中”のフラグを立てられたまま、端末の奥へ沈められた。 次に、命令が消された。 ゼロセブン処理の命令書――コードA2。 その発行記録は削除され、関連する署名と承認履歴もすべて白紙化された。 誰も異を唱えなかった。 文書管理官は端末の指示どおりにボタンを押し、次の処理へと進んでいった。 最後に、名前が消された。 影衛・第四実行班“ゼロフォー”。 人事台帳からコードが消え、配属履歴が白紙になった。 識別記録は《N=0》という番号へ再構成された。 それは、“存在しなかった者”として処理されたことを意味していた。 ある者は言った。「……空席ができたな」と。 ある者は何も言わず、ファイルの表紙を伏せて引き出しにしまった。 表紙には何も書かれていなかった。 だが、誰もが内容を知っていた。 アラーナ=ゼロフォーの名は、どの報告書にも残らなかった。 誰も呼ばず、誰も追わず、ただ静かに“記録”だけが消えていった。 名が消されれば、罪にもならない。 罪がなければ、誰も裁かず、誰も追わない。 それは処理でも、制裁でもなく、――沈黙という決定だった。 けれど、ほんとうにすべてが終わったのか。 それを口にする者はいなかった。 記録には残らなかったが、 誰もが“知っていた”。 この夜が「終わり」ではなく、「始まり」であることを。 誰の命令でもなく、 誰の名でもなく、 ただ、沈黙がすべてを断ち切った。 その日から、王国の記録には、 “彼女”の名前が、二度と書かれることはなかった。 地下第七管制室。立ち入り制限区画。 そこに、情報統制部門と内務省軍務局の数名が集められていた。 照明は薄暗く、壁面には映像端末がひとつ。 再生されるのは、わずかに復元されたモニターデータの断片―― 黒い影が、廊下をゆっくりと歩く。 その後ろに、首のない死体が倒れていく。 映像はそこまでで切れていた。「影衛・第四実行班ゼロフォー。……いや、アラーナ・セレスタ」 中佐階級の男が、静かに呟いた。「孤児院“セレスタ・ホーム”からの収容名で登録されていたな」「画像は荒いが、間違いない……」 傍らの若い将校が緊張を押し隠したまま口を開く。「彼女が命令を逸脱
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幕二十五 帰る場所などないのに

 それは、追われるようにして始まった旅だった。 セリアを斬った夜から数えて、今日で――何日目だったか。  王都の記録から“抹消”された者として、アラーナは一度も名を呼ばれなかった。  通った町では名乗らず、金だけを置いて衣と水を買った。  山道では鹿に、谷のあたりでは猟師に紛れて、ただ歩いた。  追撃部隊の足音が背後に迫ることもあったが、足を止めたのはその時だけだった。  それ以外は、ただひたすらに進んだ。風のように、影のように。 そして今、足はひとりでに止まっていた。 朝霧が晴れかけた小高い丘。  湿った草の匂いと、まだ咲き残る白い野花が、ほのかに揺れる。  前方には、小さな石畳の道。その先に、懐かしい屋根が見えた。 セレスタ・ホーム―― 物静かな子。すぐ泣く子。木に登るのが得意な子。  かつてアラーナと共に食卓を囲み、眠り、笑い、喧嘩した子どもたちがいた場所だった。  騒がしくもあたたかな息遣いが、そこには確かにあった。 その玄関先に、灯りがともっている。 アラーナの黒衣は露に濡れて、裾が重くなっていた。  けれど、その足は一歩も進まない。ただ、門の前に立ち尽くす。「……その顔、ずいぶん遠くから来たね」 その声は、静かに胸の奥へしみ込んだ。 門扉の向こうから現れたのは、濃藍のローブを身にまとった女性――セレスタ・ホームの院長、ステラだった。  片手にまだ湿った布巾を持ちながらも、そのまなざしは揺るぎなく、深い光を湛えていた。 アラーナは何も返さない。ただ、視線を少しだけ伏せた。 ステラはその姿を見つめながら、小さく吐息をもらす。「この十何年、毎朝、門に灯りをつけるのが習慣になったよ。……どこかから、誰かが帰ってくる気がしてね」 それは、“名指し”ではなかった。けれどアラーナには、確かに届いた。「せめて……おかえりくらいは、言わせておくれ」 その言葉に、時間が少しだけ揺れた。  そして、その奥から、もうひとつの足音が聞こえた。「……ったく、まさか本当に戻ってくるとはな」 玄関の柱にもたれるようにして、青年が姿を現す。  たくましい腕、日に焼けた頬、そして幼き日と変わらぬ笑いじわ。  ――リオだった。 彼の目には、懐かしさと、少しの照れが混じっていた。  アラーナとは
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幕二十六 名前を呼んでくれたひと

 部屋に通されたとき、アラーナはふと立ち止まった。 壁際に据えられた、木枠の姿見。  年季は入っていたが、磨かれていて、曇りひとつない。 思わず、その前に立っていた。 影衛の施設には、鏡などなかった。  訓練と命令だけの空間に、“自分”を映すものなど、必要とされなかった。  だからこれは――子どもの頃以来、初めて見る自分の姿だった。 青い瞳はそのままだった。  けれど、目の下には深いクマ。頬はこけ、唇の色は薄くなっていた。  表情という表情が削げ落ち、どこか“顔”の形だけを保っているようだった。 その顔を見つめながら、アラーナは記憶をたぐろうとする。 小さな布団。やわらかな手。火のともる食卓の影。  「アラーナ」と、誰かが呼んでくれた気がする。  その声は、遠くてあたたかかった。 ――だが、すぐに重なる。 冷たい床の感触。夜明け前の号令。  番号で呼ばれ、沈黙を強いられた訓練の日々。 「ゼロフォー。視線、下げるな」  「ゼロフォー。命令が届くまで動くな」 その声の記憶のほうが、はるかに鮮明だった。 祈りの声は、鋼の音にかき消されていく。  ぬくもりは、打ち付けられた冷水で洗い流される。  やがて、名の記憶さえも――番号の下に沈んでいった。 ほんとうに、自分は「アラーナ」なのか? その疑問に、答えはなかった。 アラーナは鏡に映る“誰か”を見つめながら、そっと手を伸ばす。  縁をなぞるように触れ、次いで頬にも指をあててみる。  そこに映るのは、自分なのか、それともただの“空虚な器”なのか。 その指は――誰にも届かなかった。 扉の向こうから、鍋の煮える音が聞こえていた。  昼食の支度が進んでいた。 台所では、ナナがスープの味を見ながら、パンを切っている。  フェイは読み聞かせを終えた絵本を閉じ、窓辺に置く。  リオは裏で釜戸の火加減を見ているようだった。 アラーナは、皿を黙々と並べていた。無言で、きっちりと間隔をそろえながら。  その所作に無駄はなく、音ひとつ立てない。彼女自身が“空気の一部”のようだった。  ふすまの陰から、小さな顔がそっとのぞいた。 ミナ。六歳。臆病で、ぬいぐるみを離さない子。  けれど、誰よりも観察眼が鋭く、空気を読むのが早い。 続い
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幕二十七 帰る場所だったはずなのに

 穏やかな日が、いくつか続いた。 セレスタ・ホームの朝は早い。 薪を割る音、鍋の湯気、子どもたちのはしゃぎ声――そのひとつひとつが、アラーナにとっては異世界のようだった。 けれど、彼女はその日常の輪に、少しずつ、入り込んでいた。 朝食前の仕込みで、リオと並んで薪を運び、 針仕事の時間にはナナの手元をじっと見て、見よう見まねで糸を通す。 ミナの髪を結いながら、どんな言葉をかけるべきかわからずに、ただ静かに手を動かした。 子どもたちの声が響くたびに、アラーナのまなざしはわずかに揺れた。 彼女の中で、何かが少しずつ解けはじめていた。 そんなある昼下がりのこと。 フェイが古本を運んでいると、アラーナがそれを無言で手伝い始めた。 彼女は背表紙をなぞるように見て、整然と並べていく。 まるでその静けさが心地よいというように、子どもたちも一緒に並べはじめた。 並べ終えた本棚の前で、ミナがぽつりとつぶやいた。「……アラーナって、本とか読むの?」 アラーナは少しだけ首をかしげる。「読むこともある」 それだけだった。けれど、ミナは笑った。「じゃあ、今度一緒に読んで」 アラーナは何も返さなかった。けれど、その横顔に、ほんのわずかな、柔らかい影が差した。 その様子を見たリオが、パンを焼いていたナナのところに顔を寄せる。「なあナナ……今、見たか? アラーナ、笑ってたぞ」 リオは声をひそめながら、少しだけ得意げにささやく。「……あの感じ、なんか昔の空気に戻ったみたいだったな」 ナナがそっと笑い返す。 少し離れた場所で、その雰囲気を感じ取ったアラーナは、ふと視線を窓のほうへ逸らした。 けれど、その動きには、もはやぎこちなさはなかった。 その夜。 すべてが静まり返った廊下を、アラーナはひとりで歩いていた。 何かに呼ばれたわけでもない。ただ、眠りの中に潜む異物を、本能が感じ取っていた。 廊下を抜け、玄関に近づいたとき、風もないのに空気が少しだけ冷たく感じられた。 扉が、ほんのわずかに開いていた。音もなく、わずかな隙間が、そこにあった。 アラーナは扉に手をかけ、外を見やる。 足音も、人の姿も、何もなかった。 ただ、踏みしめられた土だけが、微かに形を変えていた。 “誰か”がいた。 けれど、それは夜気に紛れるように消えていた。 翌日
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幕二十八 その気配は、遠ざかるはずだった

 数日が経っていた。 あの日、空気の底に沈んでいたような“異物の気配”は、それきり現れることはなかった。 けれど、アラーナの中には、拭いきれないざらつきが残っていた。 セレスタ・ホームの暮らしは、変わらず穏やかに流れていた。 子どもたちは外で鬼ごっこをし、ミナは新しい歌を覚え、リオは半分焦げたパンを得意げに差し出した。 笑い声は絶えず、陽射しは暖かく、薪の煙はまっすぐ空にのぼっていた。 それでもアラーナは、ひとりだけ違っていた。 朝の草木を踏む音がわずかに軽いこと。 物陰に消えた鳥の群れが戻ってこないこと。 いつも吠えていた犬が、門の前でじっと沈黙していたこと。 そのすべてを、彼女は“気づかないふり”では済ませられなかった。 ある朝、ナナが声をかけてきた。「アラーナ、ごめん。今日はお願いしてもいい?」 手には、いつもの買い出し袋。 ナナは少し困ったように笑って続けた。「リオがちょっと熱っぽくて……私が側にいようと思って」 アラーナは無言のままうなずいた。 袋を受け取る彼女の動きに変わりはない。 ナナはその様子に、少しだけ申し訳なさそうな顔をして、言葉を添えた。「……ごめんね。ほんとは、私が行くべきなんだけど」  買い出しの帰り道、アラーナは丘のふもとを抜ける小道を歩いていた。 草花の香り、鳥の声――いつもの風景。けれど、それはあまりにも“整いすぎて”いた。 ――違う。 空気が、冷たい。 風が止まっているのに、肌をなでる感触がある。 喉の奥を、鋭い違和感が刺した。 それは声にならないまま、全身を貫いた。 ――何かが、壊れている。 その瞬間だった。 「――ッ!」 爆音。 山裾の向こう、セレスタ・ホームの方向から、轟音が空を裂いた。 炎のにおい。煙が、木々の向こうに立ち上る。 視界に赤が混ざるだけで、全身の血が逆流するような錯覚。 アラーナの足が止まったのは、一瞬。 次の瞬間には、腰の背に手を伸ばしていた。 「コード開放――ヴェルサ・ファタール」 小さく詠んだ声とともに、手にした小鎌が光を帯びる。 宙へと投げられたそれは、黒煙を巻きながら空を裂き、巨大な刃へと変貌した。 ルジェ・ノワール――死神の鎌。 アラーナはそれを背に、音をも置き去りにする勢いで駆け出した。 足音は土を穿ち、空気が裂
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幕二十九 アラーナ・ノクターン

 風は止んでいた。 熱も煙も、すでに夜の静けさに吸われていた。 墓の前に、アラーナは立ち尽くしていた。 昼間の土が冷え、足元を沈める。靴の裏に、わずかに湿り気が残っているのを感じる。 《ルジェ・ノワール》はまだ解放されたまま、院長ステラの墓標に立てかけられていた。 漆黒の柄と弧を描く刃が、月の光に濡れて淡く光っていた。 何も考えていないつもりだった。 けれど、思考の隙間から、何度も呼びかける声が蘇る。 フェイ。リオ。ナナ。 あの夜、戻らなければよかったのかもしれない。 自分がこの場所に帰ったせいで、あの子たちは巻き込まれた。 穏やかに続いていた日々に、壊れた影を引き込んでしまった。 “死神”は、最初から誰のそばにもいてはいけなかった。 アラーナは、ひとつだけ小さな布の欠片を拾っていた。 あの日、リオが巻いていた、染みのついた赤い腕布。 それをポケットに入れたまま、ずっと握っていたことに、今になって気づく。 遠くで、鳥が一羽だけ鳴いた。 そしてまた、夜がすべてをのみ込んだ。 「……名前なんて、もういらない」 かすれるような声がこぼれた。 それは、願いでも拒絶でもなく――ただの独白だった。 ステラの言葉が、ふいに胸の奥で揺れた。 『ノクターン家はね、ずっと記録を守る家だったの。でも、それを武器にすることだけは、どうしても受け入れなかった。名前じゃない、“記すこと”と“守ること”の意味を、最後まで信じた一族だった』 アラーナの視線が落ちる。 焼け焦げた地面の下には、かつてこの家にいた人々の暮らしがあった。 祈りのように、積み重ねられていた日々が。 ――王国にとって、記録はただの兵器だった。 けれどノクターン家は、それを“語るため”に遺し、“壊さないため”に守った。 それが粛清された理由。 老騎士が命を賭して守ったもの。 ステラが探し出し、手渡してくれた真実。 そして――自分が、ずっと忘れていたこと。 アラーナは目を閉じた。 記録も記憶も燃えてしまったこの場所で、 “受け継いだはずのもの”が、まだ胸の奥に残っている気がした。 「私は……アラーナ・ノクターン……」 その声には、震えもなければ確信もなかった。 けれど、それは音として、静かに朝の空気に滲んでいった。 王都の地下、記録処理局。 魔術式の
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