雨はとうに止んでいた。 けれど、ルメアの石畳はまだ濡れていて、踏みしめるたびにかすかな音がした。 硬質なピンヒールが、その音を縫うように静かに響く。 黒いロングコートの裾が、風のない夜に揺れていた。 アラーナ・ノクターン―― 今、この街でその名を口にする者はいない。 地下ギルド《オーケストラ》の帳簿には、ただ一行だけ、担当者として“死神”の記載があるだけだった。 それで、充分だった。 依頼はすべて《オーケストラ》を通す。 署名のない紙片、報酬の明記された契約、対象の記録。 そこに相応の金が支払われていれば――彼女は動く。 祈りでは刃を抜かない。 動くのは、対価が“死”に値すると彼女自身が認めたときだけだった。 一年。 セレスタ・ホームを後にした日から、ちょうどそれだけの時が過ぎていた。 彼女は手を合わせ、ひとつずつ土をかぶせ、最後に全員の名を心に刻んだ。 誰にも名を呼ばれなかった子どもたちの、無言の供養。 それは記録されない葬送だったが、たしかに、祈りのかたちだった。 路地裏の奥から、声が聞こえた。 ――笑い声? 違う。歌だった。 子どもたちの、どこかおかしな節回しのわらべ歌。「めがみさま、めがみさま」「くびだけでいいの。なまえはいらない」「あのひとのこえ、もう ききたくないから」 アラーナの足が止まる。 振り向かない。ただ、耳だけがそちらに向いた。 ――あの夜、フェイが聞かせてくれた祈りに似ている。 誰かの名前を出すのが怖くて、ただ“消えてほしい”と願う――それが、あの歌のかたちだった。 子どもたちは、それを遊びに変えていた。 遊びのふりをして、祈っていた。 その路地を曲がらずに、彼女はそのまま歩き出そうとした。 だが、壁の一枚に貼られた紙片が、目に入った。 濡れて破れかけた、小さな、子どもの手紙。 ――『あの人の名前を消してください。声を聴きたくないの』 指先がわずかに動いた。 けれど、触れなかった。 これは依頼ではない。 対価もない。記録もない。署名も、保証も、ない。 これはただの――祈りだ。「……私は、死神だ」 呟いた声は、誰にも届かない。 けれど、その声は彼女の中にだけは、深く、冷たく沈んでいった。 再び歩き出す。 雨音はない。子どもたちの歌も、遠ざかっていく。
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