Alle Kapitel von その刃は、声なきままに首を断つ: Kapitel 31 – Kapitel 33

33 Kapitel

幕三十 祈りの声

 雨はとうに止んでいた。 けれど、ルメアの石畳はまだ濡れていて、踏みしめるたびにかすかな音がした。 硬質なピンヒールが、その音を縫うように静かに響く。 黒いロングコートの裾が、風のない夜に揺れていた。 アラーナ・ノクターン―― 今、この街でその名を口にする者はいない。 地下ギルド《オーケストラ》の帳簿には、ただ一行だけ、担当者として“死神”の記載があるだけだった。 それで、充分だった。 依頼はすべて《オーケストラ》を通す。 署名のない紙片、報酬の明記された契約、対象の記録。 そこに相応の金が支払われていれば――彼女は動く。 祈りでは刃を抜かない。 動くのは、対価が“死”に値すると彼女自身が認めたときだけだった。 一年。 セレスタ・ホームを後にした日から、ちょうどそれだけの時が過ぎていた。 彼女は手を合わせ、ひとつずつ土をかぶせ、最後に全員の名を心に刻んだ。 誰にも名を呼ばれなかった子どもたちの、無言の供養。 それは記録されない葬送だったが、たしかに、祈りのかたちだった。 路地裏の奥から、声が聞こえた。 ――笑い声? 違う。歌だった。 子どもたちの、どこかおかしな節回しのわらべ歌。「めがみさま、めがみさま」「くびだけでいいの。なまえはいらない」「あのひとのこえ、もう ききたくないから」 アラーナの足が止まる。 振り向かない。ただ、耳だけがそちらに向いた。 ――あの夜、フェイが聞かせてくれた祈りに似ている。 誰かの名前を出すのが怖くて、ただ“消えてほしい”と願う――それが、あの歌のかたちだった。 子どもたちは、それを遊びに変えていた。 遊びのふりをして、祈っていた。 その路地を曲がらずに、彼女はそのまま歩き出そうとした。 だが、壁の一枚に貼られた紙片が、目に入った。 濡れて破れかけた、小さな、子どもの手紙。 ――『あの人の名前を消してください。声を聴きたくないの』 指先がわずかに動いた。 けれど、触れなかった。 これは依頼ではない。 対価もない。記録もない。署名も、保証も、ない。 これはただの――祈りだ。「……私は、死神だ」 呟いた声は、誰にも届かない。 けれど、その声は彼女の中にだけは、深く、冷たく沈んでいった。 再び歩き出す。 雨音はない。子どもたちの歌も、遠ざかっていく。 
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幕三十一 記憶の欠片

 部屋の灯りは落としてあった。 窓の外に、夜の街がある。けれど、アラーナの視線はそのどこにも向いていなかった。 壁に背を預け、ソファに深く腰を下ろしている。 目は閉じていたが、眠ってはいない。呼吸は浅く、指先はわずかに膝をつまんでいた。 ――子どもたちの歌が、まだ耳に残っている。 今夜、通りすがりに聞いた声。 それは、ただの遊びに見えた。 けれど―― なぜだろう。 あれを聞いたとき、心の奥に、何かがざらついた。「……女神、ね」 呟いた自分の声に、自分自身がわずかに戸惑った。 目を閉じたまま、思考が沈んでいく。 深く、冷たい水の底へ。 ――手を引かれていた。 かすかな記憶だ。誰の手かもわからない。 でも、温かかった気がする。 夜。毛布。誰かがそっとかけてくれた。 眠っているふりをしていたけれど、本当は起きていた。 呼ばれるのを、待っていた。 フェイが、昔こんなふうに尋ねたことがある。 「ねえ、アラーナって、本当の名前なの?」 そのとき彼女は、こう答えた。 「わからない。でも、そう呼ばれたから……それでいいと思ってる」 あのとき、自分は何を思っていたのだろう。 思い出そうとしても、記憶の中身は霞んでいた。 けれど、そのやりとりだけは、確かにあったとわかる。 そのあと――誰かが、そっと笑った。「名前はね、呼んでくれた人がいれば、それで十分なんだよ」 今度は、大人の声。 女の人。優しくて、揺らがなくて、どこか、遠くを見ているような響き。 ……あれは、ステラ院長だった。 アラーナは、目を開けた。 夜は変わっていない。 けれど、胸の奥が、少しだけ、熱かった。 ――名前。 誰かが、自分を呼んだ気がする。 けれど、顔も、声も、思い出せない。 名前すら、わからない。 それでも、自分はたしかに、“誰かに呼ばれていた”。 手が、無意識に胸元に触れた。 冷たい布地の下で、脈が、わずかに速まっている。「……違う。“ない”んじゃなくて、見ないようにしてただけ」 アラーナは、そう呟いた。 記録はない。記憶もない。 でも、確かにあった――“声”が、自分を呼んだ夜が。 言葉にならないまま、時間が過ぎていく。 アラーナは、そのままソファに身を預けた。 閉じたまぶたの裏に、名も知らない“誰か”の手の感触だけ
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幕三十二 死神の仕事

 石の階段を下りるたびに、空気が冷たさを増していく。 灯りもなく、声もない。ルメアの地下に広がる“沈黙の迷路”――その最深に、アラーナは足を踏み入れた。 やがて現れるのは、何十という金属製の抽斗(ひきだし)が並ぶ空間。 《オーケストラ》と呼ばれるこの地下契約所には、名札も案内もない。 だが、彼女の足取りには迷いがなかった。 一つの抽斗が、すでに開いていた。 中には、赤い封蝋袋。小ぶりの布に施された五線譜の刻印――《オーケストラ》所属の証。 アラーナは、何も言わずにそれを手に取る。 封蝋を割ると、中には銀貨一〇〇枚相当の契約証と、わずかな記述が記されていた。> 処理対象:カリス=ベルグラード(元王国軍中尉) > 処理形式:即時対応/証拠提出不要 > 報酬額:契約等級S 先払い完了 名前以外に依頼人の記録はない。 だが、アラーナにとってはそれで充分だった。 小さく息を吐き、腰の《ルジェ=ノワール》に指先を添える。 その刃は、まだ沈黙を守っている。 ただし、それは“刃を抜く理由”を得たということだった。 アラーナは、契約証を抽斗の奥に戻す。 そして、金属台の隅にある無音の鈴に、柄の底を軽く触れさせた。 カン―― 乾いた音が、空間に反響する。 それが、沈黙の死神が動き出す合図だった。 倉庫街は、沈黙街のさらに外れにある。 半壊した建物の奥、ひときわ広い空間の中央に、ひとりの男が立っていた。 カリス=ベルグラード。 元・王国軍所属。記録上は死んだはずの兵士。「……やっぱり来たな」 アラーナは返さない。 ただ、ゆっくりと歩を進める。「ここまでだってのは、分かってたさ。 でも、逃げる気にはなれなかった。……理由は、聞かねえよな?」 男は自嘲気味に笑った。 そして、少しだけ顔を上げる。「ずっと名を偽って生きてきた。 でもさ――死ぬときくらい、本当の名で終わりたかった」 静かに目を閉じ、言葉を紡ぐ。「……カリス=ベルグラード。それが、俺だ」 その瞬間、アラーナの手が柄に触れた――が。 刃を抜くまでの動作が、わずかに遅れた。 迷ったのではない。 だが、男の名が静かに空気に滲んだその一瞬―― アラーナの中で、何かがふっと揺れた。 “名を告げる者”を前に、名も声も持たぬ自分が、刃を向けようとしている。
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