Semua Bab その刃は、声なきままに首を断つ: Bab 31 - Bab 40

52 Bab

幕三十 祈りの声

 雨はとうに止んでいた。 けれど、ルメアの石畳はまだ濡れていて、踏みしめるたびにかすかな音がした。 硬質なピンヒールが、その音を縫うように静かに響く。 黒いロングコートの裾が、風のない夜に揺れていた。 アラーナ・ノクターン―― 今、この街でその名を口にする者はいない。 地下ギルド《オーケストラ》の帳簿には、ただ一行だけ、担当者として“死神”の記載があるだけだった。 それで、充分だった。 依頼はすべて《オーケストラ》を通す。 署名のない紙片、報酬の明記された契約、対象の記録。 そこに相応の金が支払われていれば――彼女は動く。 祈りでは刃を抜かない。 動くのは、対価が“死”に値すると彼女自身が認めたときだけだった。 一年。 セレスタ・ホームを後にした日から、ちょうどそれだけの時が過ぎていた。 彼女は手を合わせ、ひとつずつ土をかぶせ、最後に全員の名を心に刻んだ。 誰にも名を呼ばれなかった子どもたちの、無言の供養。 それは記録されない葬送だったが、たしかに、祈りのかたちだった。 路地裏の奥から、声が聞こえた。 ――笑い声? 違う。歌だった。 子どもたちの、どこかおかしな節回しのわらべ歌。「めがみさま、めがみさま」「くびだけでいいの。なまえはいらない」「あのひとのこえ、もう ききたくないから」 アラーナの足が止まる。 振り向かない。ただ、耳だけがそちらに向いた。 ――あの夜、フェイが聞かせてくれた祈りに似ている。 誰かの名前を出すのが怖くて、ただ“消えてほしい”と願う――それが、あの歌のかたちだった。 子どもたちは、それを遊びに変えていた。 遊びのふりをして、祈っていた。 その路地を曲がらずに、彼女はそのまま歩き出そうとした。 だが、壁の一枚に貼られた紙片が、目に入った。 濡れて破れかけた、小さな、子どもの手紙。 ――『あの人の名前を消してください。声を聴きたくないの』 指先がわずかに動いた。 けれど、触れなかった。 これは依頼ではない。 対価もない。記録もない。署名も、保証も、ない。 これはただの――祈りだ。「……私は、死神だ」 呟いた声は、誰にも届かない。 けれど、その声は彼女の中にだけは、深く、冷たく沈んでいった。 再び歩き出す。 雨音はない。子どもたちの歌も、遠ざかっていく。 
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幕三十一 記憶の欠片

 部屋の灯りは落としてあった。 窓の外に、夜の街がある。けれど、アラーナの視線はそのどこにも向いていなかった。 壁に背を預け、ソファに深く腰を下ろしている。 目は閉じていたが、眠ってはいない。呼吸は浅く、指先はわずかに膝をつまんでいた。 ――子どもたちの歌が、まだ耳に残っている。 今夜、通りすがりに聞いた声。 それは、ただの遊びに見えた。 けれど―― なぜだろう。 あれを聞いたとき、心の奥に、何かがざらついた。「……女神、ね」 呟いた自分の声に、自分自身がわずかに戸惑った。 目を閉じたまま、思考が沈んでいく。 深く、冷たい水の底へ。 ――手を引かれていた。 かすかな記憶だ。誰の手かもわからない。 でも、温かかった気がする。 夜。毛布。誰かがそっとかけてくれた。 眠っているふりをしていたけれど、本当は起きていた。 呼ばれるのを、待っていた。 フェイが、昔こんなふうに尋ねたことがある。 「ねえ、アラーナって、本当の名前なの?」 そのとき彼女は、こう答えた。 「わからない。でも、そう呼ばれたから……それでいいと思ってる」 あのとき、自分は何を思っていたのだろう。 思い出そうとしても、記憶の中身は霞んでいた。 けれど、そのやりとりだけは、確かにあったとわかる。 そのあと――誰かが、そっと笑った。「名前はね、呼んでくれた人がいれば、それで十分なんだよ」 今度は、大人の声。 女の人。優しくて、揺らがなくて、どこか、遠くを見ているような響き。 ……あれは、ステラ院長だった。 アラーナは、目を開けた。 夜は変わっていない。 けれど、胸の奥が、少しだけ、熱かった。 ――名前。 誰かが、自分を呼んだ気がする。 けれど、顔も、声も、思い出せない。 名前すら、わからない。 それでも、自分はたしかに、“誰かに呼ばれていた”。 手が、無意識に胸元に触れた。 冷たい布地の下で、脈が、わずかに速まっている。「……違う。“ない”んじゃなくて、見ないようにしてただけ」 アラーナは、そう呟いた。 記録はない。記憶もない。 でも、確かにあった――“声”が、自分を呼んだ夜が。 言葉にならないまま、時間が過ぎていく。 アラーナは、そのままソファに身を預けた。 閉じたまぶたの裏に、名も知らない“誰か”の手の感触だけ
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幕三十二 死神の仕事

 石の階段を下りるたびに、空気が冷たさを増していく。 灯りもなく、声もない。ルメアの地下に広がる“沈黙の迷路”――その最深に、アラーナは足を踏み入れた。 やがて現れるのは、何十という金属製の抽斗(ひきだし)が並ぶ空間。 《オーケストラ》と呼ばれるこの地下契約所には、名札も案内もない。 だが、彼女の足取りには迷いがなかった。 一つの抽斗が、すでに開いていた。 中には、赤い封蝋袋。小ぶりの布に施された五線譜の刻印――《オーケストラ》所属の証。 アラーナは、何も言わずにそれを手に取る。 封蝋を割ると、中には銀貨一〇〇枚相当の契約証と、わずかな記述が記されていた。> 処理対象:カリス=ベルグラード(元王国軍中尉) > 処理形式:即時対応/証拠提出不要 > 報酬額:契約等級S 先払い完了 名前以外に依頼人の記録はない。 だが、アラーナにとってはそれで充分だった。 小さく息を吐き、腰の《ルジェ=ノワール》に指先を添える。 その刃は、まだ沈黙を守っている。 ただし、それは“刃を抜く理由”を得たということだった。 アラーナは、契約証を抽斗の奥に戻す。 そして、金属台の隅にある無音の鈴に、柄の底を軽く触れさせた。 カン―― 乾いた音が、空間に反響する。 それが、沈黙の死神が動き出す合図だった。 倉庫街は、沈黙街のさらに外れにある。 半壊した建物の奥、ひときわ広い空間の中央に、ひとりの男が立っていた。 カリス=ベルグラード。 元・王国軍所属。記録上は死んだはずの兵士。「……やっぱり来たな」 アラーナは返さない。 ただ、ゆっくりと歩を進める。「ここまでだってのは、分かってたさ。 でも、逃げる気にはなれなかった。……理由は、聞かねえよな?」 男は自嘲気味に笑った。 そして、少しだけ顔を上げる。「ずっと名を偽って生きてきた。 でもさ――死ぬときくらい、本当の名で終わりたかった」 静かに目を閉じ、言葉を紡ぐ。「……カリス=ベルグラード。それが、俺だ」 その瞬間、アラーナの手が柄に触れた――が。 刃を抜くまでの動作が、わずかに遅れた。 迷ったのではない。 だが、男の名が静かに空気に滲んだその一瞬―― アラーナの中で、何かがふっと揺れた。 “名を告げる者”を前に、名も声も持たぬ自分が、刃を向けようとしている。
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幕三十三 呼ばれていた気がした

 まだ空はほんのり明るかった。 西の空に夕陽が沈みかけ、ルメアの石畳が金色に染まりはじめていた。 アラーナは定宿の一室で、《ルジェ=ノワール》の刃を静かに拭っていた。 けれどその手には、どこかぎこちなさがあった。 倉庫で出会った男の声―― 「……カリス=ベルグラード。それが、俺だ」 その言葉が、まだ耳の奥に残っていた。 ふと手を止めて、刃を見つめる。「……名前って、誰かに聞かせるためにあるんだな」 呟いた声は、誰にも届かない。 だがアラーナ自身には、初めて浮かんだ実感だった。 彼女は刃を布で包み、机に置くと、上着を羽織って外へ出た。 理由はない。ただ、何かを確かめるように、足が街へと向かっていた。 夕方の裏通り。 子どもたちの遊び声が響いていた。 ふと、ひとりの子がアラーナの姿に気づいて、ぽつりと漏らす。「……あの人、“めがみさま”みたい」 声に祈りも恐れもない。ただの印象だった。 アラーナは立ち止まりかけて――やめた。 彼女の名を知る者など、ここにはいない。「……呼ばれてなどいない」「それでも、そうだった気がしただけ」 街の広場を抜け、人気のない小道をたどって、アラーナは小さな酒場へ入った。 薄明かりのランプがゆらめく木造の店。 カウンターの隅に腰を下ろし、肉の煮込みとパン、酒を頼む。 聞くつもりはなかった。 けれど――隣の席の男たちの会話が、耳に入ってくる。「……最近また出たらしいぜ、“首狩りの女神”。」「死神じゃねえのか?」「違ぇよ、そいつはな、“名前も聞かずに、首だけ刈って消える”って…… でもな、子どもたちは“願いを聞いてくれる女神さま”って呼ぶんだと」 アラーナは、酒を口に含んだまま、微動だにしなかった。 ただ、胸の奥に小さな棘が刺さるような感覚があった。 ――首狩りの女神。 呼ばれたことのない名。 でも、誰かがそう呼んだということだけが、確かだった。 『女神』。 子どもたちは、祈りのようにそれを口にする。 「この人を殺してください」と。 そして「名前はいらない」と。 それは、恐れではなく、願いだった。 刃を向けられる相手の名前すら必要としないほどの、悲しみ。 自分の声が届かない誰かに、“声ではないかたちで”願いを託すということ。 アラーナは、ほんのわずかに眉を寄せた
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幕三十四 記録されなかった存在

 王国中枢、防音の施された記録管理室。  幾層にも暗号化された術式コードの書面が、無音のまま焼却炉へ送られていく。 記録の抹消――それは、物理と術式の両方で行われる“現実改変”に近い儀式だった。 記録されることのない声が、空気に溶けた。 同時刻。軍情報局・戦術解析室の奥、非公開の会議区画。 円卓の前に立つのは一人の女性――長身で白銀の軍装を纏い、背筋は微動だにしない。  その瞳は、目の前の映像資料に揺れることなく向けられていた。 映されていたのは、不鮮明な映像。  夜の倉庫街で、ひとりの黒衣の人物が首を断ち、無音のまま立ち去る姿。「……これは?」  白銀の女が、短く問いを発する。 隣の補佐官が即答する。 「密告情報より。ルメアの沈黙街より回収。映像の質は劣悪ですが――」 映像を見つめていた別の将校が、画面から目を離さずに呟いた。「あれは……間違いない。ゼロフォーの動きだ」 誰も否定しなかった。  微妙な肩の動き、構え、歩き方。  それを知る者には、それだけで十分だった。 円卓を囲む数名の上層士官が沈黙を交わし、やがてひとりが低く告げる。「……意思を持ち始めたら、制御は不可能だ」 「裏切った暗号兵は、破壊するしかない」 処理コード《N-Trace》。命令はすでに発せられている。 その日の夜。  王国軍・術構運用部隊の第零記録棟。  総勢20名の選抜戦力が、音もなく集められていた。 部隊名:《黒檻(Umbra Cage)》  記録上には存在しない部隊。だが、任務はひとつだけ。―――――――――――――――――――――― 王国軍中央戦術局・特別執行命令 命令コード:N-Trace対象:暗号兵《ゼロフォー》 現在名称:アラーナ・セレスタ 現行コード名:N=0状態:記録非公開・階級抹消済命令内容:排除 → 抹殺 に変更 処理手段:記録に残さず、構文発動前に沈黙処理を完遂せよ※本命令に関わるすべての作戦記録・作戦存在は秘匿指定とし、報告義務を免除する 執行責任者:フィリシア=ヴァルトリエル(少将) ―――――――――――――――――――――― 室内に立つのは、王国軍中央戦術局 特別執行室 室長――フィリシア=ヴァルトリエル。 彼女は、白銀の鎧風軍装をまとっていた。
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幕三十五 暗がりの導き

 夜の空気は、すでに冷えていた。 街の中心から少し離れた、使われなくなった輸送路の旧通路。 アラーナは、そのうねるような道を、ゆっくりと歩いていた。 足音はしない。ヒールの音さえ、湿った石に吸われるように沈む。 頭を垂れるでもなく、顔を上げるでもなく、ただまっすぐ。 処理を終えた後の身体はまだ戦闘の熱を帯びていたが、それさえもすでに風に冷まされつつあった。 背後に気配はなかった――はずだった。 ふと、空気が震えた。 誰かの視線。誰かの“探索”。 それは、武器を構える者の気配ではなかった。 もっと曖昧で、輪郭の定まらない“問いかけ”のような感触。 刃に触れるほどの緊張ではないが、見過ごせる類のものでもなかった。 すぐには振り返らなかった。だが、足がわずかに止まる。 暗闇の奥、古びた鉄柱の陰から、ひとりの男が現れる。 「……こっちだ」 その声を、アラーナは聞いたことがあった。 明確な記憶ではない。けれど、脳の奥に引っかかるような“音のかたち”。 聞きおぼえのある声だが、懐かしさはない。ただ、導かれる方向に歩を進めた。     * * * 地下通路の先に隠された鉄扉が、きぃ、と小さく軋む。 手動の錠をいくつか外し、男が中に入る。アラーナも、ためらいなく続いた。 中は、簡素な一室。照明は蝋燭ではなく、蓄電式の古いランプ。 机と椅子がひとつずつ、隅に配線の切れた旧端末が転がっている。 壁は分厚く、防音材のようなものが一部に貼られていた。 かつては軍の仮設拠点だったのかもしれない。 そう思わせる“密閉された空気”が、どこか軍の記憶と結びついた。 アラーナは室内をざっと見回す。危険はない。 だがこの空間は、何かを“始めるための場所”であるように感じられた。 男は扉を閉め、鍵を回す。 無言のまま、それを終えると、静かにアラーナのほうを向いた。 わずかに笑みを浮かべたようにも見えたが、それはすぐに消えた。 「……俺の名前は、リュカ・アーヴェント」 その響きが空間に落ちた瞬間、アラーナのまつげがほんのわずかに揺れた。 応えるように言葉を返すことはしなかったが、沈黙が変化した。 数秒の間があった。 そして、小さく、誰にも届かないような声で、彼女はつぶやいた。 「……リュカ」 声には感情はなかった。 けれど、かつ
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幕三十六 誰のためでもない話

 蝋色のランプが、小さく揺れた。 狭い部屋の空気は動かない。湿度の抜けきらぬ壁、古い紙と油の匂い。 リュカは机に置いたままの煙草をひと目見たが、火をつけることはしなかった。 「……聞かなくていい。言うだけだから」 そう言ってから、彼はわずかに息を吐き、ゆっくりと語り始めた。     * * * あの夜、命令に背いたアラーナに見逃された直後―― リュカは、自分がすでに“処理対象”になっていることを理解していた。 影衛の命令体系では、「見逃された者」は「生かしておいてはならない者」だ。 追撃は、すぐに始まる。 だが、傷を負っていたわけではなかった。 アラーナは、刃を振るうより先に背を向け、何も言わずに彼を逃した。 その理由は、今もわからない。 けれど――彼女が振り返らなかったという一点だけが、すべてを変えた。 「……だったら、俺はそれに応えるべきだった。  そう思って、ほんの少しだけ頭を使った」 廃棄予定だった補給ルートの搬入列。 ルート管理の死角、監視記録の間隙。 訓練時代に刷り込まれた全データを引きずり出し、軍の目を逃れるように脱出した。 それが、ゼロセブンとしてではない、“リュカ”としての最初の選択だった。 「……正直、あの頃から、うすうす気づいてたんだ。  影衛って組織が、どこか“おかしい”ってことに」 ランプの光が、揺れもせずにその顔を照らしていた。 「俺は、洗脳が浅かったらしい。命令には従えても、頭のどこかが引っかかってて……  処理命令が下りるたびに、“本当にこれが正しいのか?”って――思ってた。  でも、それを口に出すなんてこと、誰もしなかったし、できなかった」 彼は自嘲気味に小さく笑う。 「だから、あの夜、お前が俺を刈らなかった時……  初めて、“やっぱりあれは間違いだったんだ”って、確信したんだよ」 沈黙のなか、リュカはふっと息を吐き、視線をそっと横にずらす。 「――なあ。今のお前なら、分かるんじゃないのか?」 アラーナは少しだけ顔を上げた。 けれど、それ以上は動かず、ただ、ほんの一言だけ答える。 「……分からない」 声には揺らぎも感情もなかった。 けれどその否定は、“分かろうとしない”という強い意志のようにも聞こえた。 それ以上、彼女は何も言わない。 そしてリュカも、それ以
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幕三十七 記録される者

 リュカは無言で、封筒から数枚の写しを取り出した。 紙の端には赤い回覧印。 その中央に、擦れて読み取りにくくなった命令文の文字が浮かんでいた。 命令コード:《N-Trace》 アラーナは無言のまま、その文字列に視線を落とす。 リュカは、書類を広げながら淡々と口を開いた。 「……発令元は不明。署名も、印も、すべて黒塗り。  でも、対象だけは、はっきり記されてる。  ――“アラーナ・セレスタ”。」     * * * 彼は、別の紙を差し出した。 そこには、モノクロの画像。 暗い通路、黒い影、そして、構文が発動する寸前のアラーナの姿が静止していた。 「これが証拠だ。荒い監視映像のキャプチャ。おそらく、ルメアでの一件。  正式には報告されてない。“記録”には残ってない。  でも、映像は軍に回ってる。誰かが、ずっと追ってる。」 アラーナはその画像に反応を示さなかった。 構図も、光も、過去のもの。 彼女にとって、それは“既に終わった瞬間”だった。 リュカは視線を戻さず、次の紙を開いた。     * * * 《部隊識別:Umbra Cage》 「……これが部隊名。“黒檻”。」 言葉の響きさえ、吐き出すようだった。 「存在記録なし。配備も不明。報告義務もない。  誰が作ったかもわからない。けど、確かに存在してる。  俺はこの目で、そいつらの“痕跡”を見た。」 紙の片隅に、“戦術局外処理命令”の印だけが押されていた。 「構成員は……まあ、見たことのある番号もある。  ゼロエイト、ゼロナイン……“あの頃”の影衛の名残が、形を変えて動いてる。  “再洗浄済”って書かれてるが――要は、魂ごと命令に置き換えたってことだ。」 しばし沈黙が落ちた。 「自我も、記録も、感情もない。  彼らはただ、命令に従って動く。終わるまで止まらない。  記憶にも残らない。いや……“残せないようにされてる”。」 リュカは、手元の資料をアラーナに向けて押しやった。 「そして、これが“Yシリーズ”。」 コードネーム:Y02、Y03、Y04…… 兵士の名前は記されていない。ただ、ひとつの特記事項だけが並んでいた。 《命令階層:絶対直下/行動定義:発動前制圧》 《構文遮断機構搭載》《記録回避領域使用中》 「命令そのものに、体を与えた存在。
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幕三十八 静かに立つ場所

 しばしの沈黙が続いた。 机の上には命令文の写し、構文資料、遮断兵器の設計図、名前のない兵士のリスト。 紙の重なりは静まり返ったまま、空気だけが重く、揺れもなく張りつめていた。 リュカは椅子を引かず、立ったまま、息を整えるように短く吸い込んだ。 「――もう手は打ってる。ギルド経由で避難ルートを確保した」 静かな口調だったが、それは“語り”ではなく“報告”だった。 何度も確認し、手順を擦り合わせ、限られた手札で用意した策。 「この街の人間は、なるべく戦闘区域から遠ざける。……できるだけ静かに。  あいつらが来る前に、間に合わせるつもりだ」 言い終えてから、彼はほんのわずか、アラーナの顔を覗う。 返事はなかった。 アラーナは、資料を見つめたまま動かない。 まるで、それが紙ではなく、ただの影であるかのように。 しばらくの間を置いて、リュカは言葉を選ぶように、そっと口を開いた。 「聞こえてるか、ゼロフォー。……いや、アラーナ・ノクターン」 その声には、少しだけ力がこもっていた。 かつての番号、そして奪われた名前を、順番に呼び直すように。 「これは命令じゃない。ただ、俺の願いだ」 「もう誰の指示でもない。俺が、勝手に言ってるだけだ」 「それでも――お前には、生きていてほしい」     * * * アラーナは立ち上がった。 椅子を押す音はしなかった。 ただ、影がひとつ分、壁から剥がれるように立ち上がった。 そのまま、彼女は机の脇を抜け、窓辺へ向かう。 カーテンのない窓からは、霧がうっすらと這う街の縁が見える。 音も色もない景色だった。 背を向けたまま、アラーナは静かに言った。 「……私は、ここにいる」 その言葉は、誓いでも抵抗でもなかった。 戦いを選んだ者の強さでも、守る意思の灯でもない。 ただ、“この場に留まる”という、確かな意志のない事実だけがそこにあった。 「……そうだよな」 リュカは息をひとつのみ込み、ふっと短く笑った。 それは自嘲でも、諦めでもなく、受け入れるしかない者の静かな吐息。 「じゃあ、もう一つだけ……聞いてくれるか」 アラーナはほんのわずかに、肩と眉を動かした。 許すでも、答えるでもなく、ただ“話していい”という合図。 リュカは、少しだけ言葉を飲み込んでから、静かに続けた。 「俺
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幕三十九 追撃は静かに始まった

「避難は終わった。もう、誰も残ってない」リュカの声は、簡潔だった。路地裏に立つ彼の横顔には、余裕と緊張が入り混じっていた。アラーナはそれに頷き、言葉は返さなかった。ここから先は、“死神”の領分だ。彼が引き受けたのは、人を逃がすこと。彼女が向かうのは、敵が“来る”場所。ルメア旧市街、中心部――半壊した教会跡。構文陣の残響がいまだ微かに残るその場所こそ、最も戦術的に狙われる拠点だった。アラーナは一人、その廃教会通りへと足を進めた。そして――異常は、すでに“そこ”にあった。石畳の歪んだ音が、やけに大きく響いた。アラーナは、足を止めた。通りは静かだった。かつて祈りが響いていたというその場所に、今は風ひとつ吹いていない。だというのに、足音だけがやたらと反響する。まるで、壁や地面が何度も音を返しているかのようだった。(……来たか……)足を一歩ずらす。再び石が鳴る。だがその音は、壁からも、上からも、そして足元からも同時に聞こえた。空間が“ずれて”いる――そんな違和感が、耳を刺す。――次の瞬間、地面がわずかに“揺れた”。(封印陣……足元)反応は一瞬だった。アラーナは小鎌《ルジェ=ノワール》に手をかける――だが、その指が柄に触れる直前、視界がぐらりと傾いた。平衡感覚が崩れる。内耳干渉。バランスを奪う術だ。同時に、背後から“何か”が飛ぶような気配。風ではない。音でもない。ただ、そこに“殺気”すら存在していなかった。――視線。それだけで、Y02は動いた。命令はなかった。声もなかった。だが、フィリシアの視線が、地面に落ちた小石を見ただけで、それは始まっていた。踏み込む音すらない。空気が割れる前に、刃がアラーナの首筋をなぞる。(遅い)そう思った。跳躍する。黒衣が翻り、空中で姿勢を制御する。避けきれなかった。鋭い痛みが、背中をかすめた。だがその着地の瞬間を待っていたかのように――視覚の外側から、何かが炸裂する。音よりも先に、風が割れる。爆ぜるような衝撃波が、真正面からアラーナを襲った。コートが破れた。布が爆風に引き裂かれ、黒い布片が空中に舞う。衝撃は胸部から肩へ、裂くように斜めに走り、体が後方に投げ出される。――その瞬間、アラーナは受け身を取った。空中で体を半回転。足から着地する前に膝を折り、腕で地面を制する。
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