All Chapters of 艶撫亮~embryo~: Chapter 31 - Chapter 40

43 Chapters

残骸

──んみゅようんにゃがああいこんもおうんびゃにゃあう包帯の中で輪郭のないくぐもった奇声を発し、彼女はベッドの上で死にかけのバッタじみた動きで激しく暴れた。布団から彼女の手足が伸び、布団を蹴散らした。手足は無傷で触れただけで消えてしまいそうな滑らかな肌。綺麗な手足と包帯巻きの顔が不調和で余計に痛々しさが増す。精神が変質し、おかしくなっているみたいだ。「お願い落ち着いてくれ。俺の話を聞いてほしい」亮はみぞおちに蹴りを食らっていた。彼女は聴覚を失っていると分かっていながら、口で伝えようとするほど亮も動転している。暴れていた小野さんはベッドから落下した。看護師の男が慌てて二人の間に割って入ろうとする。小野さんは覚束ない足で立ち、窓の方に向かう。「待ってくれ。沙耶、落ち着いて。俺は君を絶対に失いたくない。沙耶のためにたくさん曲作って絶対に売れてみせるから」亮は両腕を伸ばして小野さんの肩を掴んでいる。二人の間に看護師の男が入って小野さんが飛び降りないようにし、亮をこれ以上近づかないように牽制していた。亮がここまで自身の気持ちをはっきりと言葉にしている様を初めて見た。直接的な告白や、熱い決意の言葉を口にする人物だった記憶がない。小野さんは奇声を発しながら両腕を振り回し、亮も看護師の男も振り払った。看護師の男は弾みでベッドの縁に腰を打った。部屋の真ん中まで下がって呆気にとられている亮の前に、小野さんはゆっくり移動し立ち止まった。「沙耶。こっちに来てよ」亮は両腕を広げて彼女を受け入れようとした。だが、彼女は動かない。小野さんの手はゆっくりと頭の包帯に伸び始めた。緊張感は最高潮にまで達する。「やっ、やややや止めなよ」小野さんの手は止まらない。包帯が解かれて薄くなるにつれ、饐えた生ごみのような肉が焦げたような刺激臭が漂い始めた。嫌な予感からの恐怖で私の両足は震え始める。亮は彼女の名前を小さな声でポツポツ呼びかけるだけで石化した。小野さんからはどす黒い排他性を感じる。完全に包帯の中身が露わになった。目にした途端、一瞬で今朝食べたトーストとヨーグルトが口から出そうになった。これは酷すぎる……。顔の皮膚は黒い下痢便のような質感で溶けかけている。赤ミミズや白滝に似た肉の繊維のようなものが
last updateLast Updated : 2026-01-31
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第八章 亮の復讐が始まる

   ♠ 亮電車に揺られながら、俺はさっき見た光景を何度も思い返す。沙耶の見る影もなくなった顔と唯織の病的に蒼白い顔。沙耶の状態を見た唯織は完全に恐怖に支配されたようだ。もう合同会社は追わないと目を真っ赤にして言い切り、病院から足早に去った。俺は病院の関係者から外に追い出されながらも、「生きとし生けるもの合同会社」の正体を暴こうと決意を固めた。スマホでラインを開くと、沙耶のトークルームに①と緑色のマークが付いていた。送信された時刻は彼女が俺の部屋を密かに出て行った早朝だ。開いて読む勇気がなく、何もせずにスマホの電源を切った。彼女が最期に俺に告げる言葉だ。開いたら最後、悲しみと後悔の洪水で狂いそうな気がした。相鉄線に揺られて西谷駅に行き、「居酒屋 生きとし生けるもの」のあった雑居ビルへ向かった。居酒屋の中にまだ合同会社の人間が残っている可能性に賭けた。だが、さすがに抜け目のない集団だった。ビルの一階のクリーニング店は残っていたが、二階の看板は撤去されて扉も施錠されていた。ビルの階段を下りながら逃げられた悔しさを抱く。頭を掻きむしりたい衝動に駆られる。そんなことしたら皮膚が切れて、どうなるか分からないので止しておく。ここからどうやって合同会社の行方を追うべきか。記憶しているのは、丸顔のリーダー格の女性とグレースーツの男くらいだ。男の方は確か清水と呼ばれていた。本名かは謎だ。西谷から和田町まで戻って来た。自宅のアパートに戻ると誰か扉の前に立っていた。茶色のスーツを着た、黒が一切混ざっていない綺麗な白髪をオールバックにした老人だ。壁に寄りかかりながら、ゆっくり俺に片手を上げて見せた。「あなた、艶撫亮さんですよね」俺の顔を見て屈託のない笑顔を見せてくれた。他人から笑顔で艶撫亮を受け入れられた試しがなかったため違和感を抱いた。「そうですけど、どなたでしょうか」「名乗らずに失礼いたしました。私は日本のこれからのアーティストを育成する活動を行っている、三浦洋二と申します」名刺を差し出された。名前の横にある肩書には「日本ルネッサンス会 会長」と記載があった。「多分、会の名だけ見たところで意味が分からないと思うので説明いたしますね。そこの喫茶店でお時間いただて良いですかね」俺が意
last updateLast Updated : 2026-02-01
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どちらに進むが地獄か

  ♢ 唯織沙耶を名乗っていた小野さんの衝撃的な姿を見てから三日、体調が優れず仕事へ行けなかった。一日中、布団に潜って何もできずにいた。とにかく怖かった。以前、山本さんの旦那を名乗るグレースーツの男が私にも危害が及ぶ話をしていた。亮曰く、グレースーツの男は沙耶を暴行した集団の仲間の中にいたようだ。男は私が勤めている産院を知っている。逃れられない立場にいるという意味だ。ナースとして生き続けるかどうかすら悩み出していた。だが、一体それ以外にどんな道があるのか。小野さんの惨状を目の当たりにした時、「生きとし生けるもの合同会社」を追うのをやめようと思った。その時点で今まで貫いて来た姿勢を裏切ったのではないかと罪の意識を抱いていた。本来の私であれば、絶対に許さないと憤ってより精力的に合同会社を追ったはずだ。布団に潜りながら私の顔を触る。特別顔が良いなど思った試しはない。だが、小野さんみたいにグチャグチャにはなりたくない。布団に入ったまま手を伸ばし、手鏡をポーチから取り出す。蒼白い肌の顎の細くて吊り目の女が映る。「本間唯織。お前は産科のナースとして、自尊心を持っていたんじゃないのか。早く動いて自尊心を取り戻せ」三日間、鏡像の私に言い聞かせたが一向に暗示がかからない。今回の件はそれだけショックが大きかった。鏡に映る私の顔を見つめ続けているとインターホンが鳴った。既に窓の外は真っ暗だ「生きとし生けるもの合同会社」の人間が私を捕まえに来たのではと思い、全身に寒気と緊張が走った。山本さんはこの部屋の住所を知っているはず。合同会社のメンバーが私の自宅を知っていてもおかしくない。恐怖心はあるものの、このまま黙っているとより悪い方に転びそうな気がした。何とか立ち上がって玄関まで行き、覗き穴に片目を当てた。宮田さんが心配そうな顔で立っていた。全身に安堵の感情が染み渡り、足腰の力が抜けてその場で座り込んだ。「本間さん、大丈夫ですか。すごく心配で来ちゃいました」宮田さんの手には野菜やお肉の入ったスーパーの袋が握られていた。「体調不良ってことだったから、お鍋でも作ろうと思って。きっと寒さも影響しているんだと思いますよ」宮田さんの心遣いが有難く、久々に人の温もりを感じた。彼女は部屋に上がっ
last updateLast Updated : 2026-02-02
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生と死、ブラックボックスの美

大船駅の西口を出た。白衣観音像へ伸びる細くて急な坂の途中に、山肌にめり込むように小さな喫茶店があった。ショーケースに洋食屋でお馴染みのオムライスなどのサンプルがテラテラ光っていた。上の段に「優美カフェ」と彫られた木の板がある。ドアを開くと、ドアベルが牧歌的な音を鳴らす。平日の午前中だからか店内に他のお客さんはいなかった。白い木目調の床に、茶色いテーブルが三つとカウンターに席が四つ並んでいた。カウンターの中に白髪を綺麗にオールバックにして渋めの茶色のスーツを着たお爺さんが立っていた。宮田さんオススメのマスターだろう。「ここの席に座って良いですか」木綿くらい柔らかい笑顔で微笑む老人に少し安心感を抱く。老人の首がコックリと縦に動いた。老人の目の前のカウンター席に座ると、濃いサクランボ色のクッションが思ったよりも柔らかくて体が沈んだ。幽霊みたいに白い手から紙一枚のメニュー表がスルリとカウンターの上に舞い下りた。「宮田さんから教えてもらって来たんですけど、マスターは何がオススメですか」冷気すらも醸し出す白い指がクラゲの足じみた動きで、一点を指した。「宮田さんでしたら、いつもオリジナルのブレンドコーヒーを注文されますよ。うちのブレンドは他店と全然違いますから」食欲は特になかったのでブレンドコーヒーのみ注文した。老人がコーヒー豆を砕く道具の取っ手を回すに従って香ばしい濃厚な香りが漂う。ドリップコーヒーが出来上がると、香りの質感がよりトゲトゲし、鼻の穴の中の粘膜に刺さる感じがした。「ここのお店、いつからやっているんですか」一口すすると、少量のコーヒーからコクと刺激のある苦味が一気に口の中に広がり、苦味に包含された蜜みたいな甘さが舌の根に残る。今までのコーヒーでは感じられなかった風味に思わず身震いした。宮田さんが独特な味で美味しいと評した理由が分かった。「最近ですよ。つい一年ほど前ですね。それまでは新潟の方でお店を出していたのです」「どうして大船に来たんですか」「本物の女神様が微笑んでいる気がしてね。つい惹かれて来たんですよ」老人は白衣観音像がある方向に顔を向けた。「彼女の出生について知っていますか」今後の仕事について相談しようとしたが、老人の方から想定外の質問が来て虚を突かれた。「詳しく
last updateLast Updated : 2026-02-03
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強さを備える者として

正直よく分からない。考えていると頭も痛くなる。いくら美しかろうが、そんな殺人を必要にする美学など価値があるとは思えない。「まだよく分かっていないので、例えば私の話は美しいと言えるか、ちょっと聞いてもらって良いですか」老人がどうぞと白い手で促した。「宮田さんと同じ産科の看護師として働いているんですけど、殺された赤ん坊を自宅の前に放置された経験があるのです」老人は何も反応せずに続きを促している。「その赤ん坊の弔いの意味も込めて、それまで以上に仕事に尽力しようと決めたのです」老人は黙って聞いており、余計な口を挟まない。仕事の傍ら赤子殺しに関わっている集団を追っていたが、彼らの猟奇的な行動を目にして恐怖を抱いたことや、彼らに私の居場所がバレていること、今後もナースを続けるかどうか悩んでいることを伝えた。打ち明けたくない内容だが、老人を信じないと紹介してくれた宮田さんに悪い気がした。「赤子殺しや集団の猟奇的行動を乗り越えても、人間の誕生を支える仕事を続けることにマスターの言う美しさがあるのかと思いました。だけど正直恐怖もあり、私はどうすれば良いのでしょうか」老人は私の話を聞き終えて一拍置いてから、一つ頷いた。音を立てずに軽く拍手をしてから、素晴らしいと一言漏らした。「素晴らしいお仕事ですね。もちろんあなたの抱く感情も分かります。その集団から自分が何をされるか分からない恐怖は計り知れないと思います」いつの間にか空になったのか。私のカップにコーヒーを継ぎ足してくれる。「結論から申し上げると、看護師のお仕事は続けるべきだと思います」コーヒーの刺々しさのある香りと共に老人の透明で鋭い視線が飛ぶ。「お見かけしたところ、あなたは人よりも何倍もの強さを備えた方だとお見受けいたしました。心当たりはありませんか」「確かに、シュートボクシングをやっておりましたので、身体的にも精神的にも人より強いと思います」「きっとそれもあると思います。今までの努力があなたを強くしてくれているのです。心身ともに強さを持ったあなたこそ、今の状況を打破できる唯一の存在なのではないでしょうか」少し言い過ぎな気がしたが、存在価値を認められたようで悪い気はしなかった。「私は看護師を続け、今後赤ん坊が殺されるような事件が起き
last updateLast Updated : 2026-02-03
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包帯男、夢人葵登場

観音寺の境内に入って階段を上ると、白衣観音像が堂々と立っている。階段を上りながら上を向くと真っ白で巨大な顔が迫力満点で美しい。胸像の背後に回ると人一人が通れるほどの穴が開いている。白衣観音像は背中から中に入れる。空間は胎内と称されている。胎内には祭壇に祀られた小さな観音像と千本仏が安置されている。祭壇の前に人影があった。正体を目にした時、あまりの驚きに心臓が絞り上げられたような感覚に襲われた。「夢人葵さんですか」マスターから教えられた名で呼びかけた。「はい、私が夢人葵と言います」体型や声から男性だと判断できる。彼の風貌は異常だった。上下紺のスーツを着ているが、スーツから出ている顔、手、足首全てが包帯で隙間なく包まれている。病室で頭部を包帯巻きにされた小野さんの発狂ぶりを思い出す。夢人は生死を何度も潜り抜けたとマスターは言っていたが、一体どんな目に逢って来たのか。なぜ全身包帯に包まれながら、こんなにも普通に立っていられるのか。驚きで体が硬直して言葉も出て来ない。黒のハットをかぶっており、つばを少し上げて私の方に顔を向ける。包帯の隙間から見えているのか。「驚きますよね。こんな姿の人間が存在するなんて誰も思いもしないはずですから」彼が一歩私の方に近付いた。シトラスの良い香りが漂った。彼は右手を伸ばし、小さな観音像がある祭壇を示す。「一度、お祈りしてみてください」彼に促されるまま祭壇の前に立って合掌した。何をどうお祈りすれば良いのか分からないので、無心で手を合わせた。「今、あなたの体の中に巣食っている真っ黒な懊悩が、白くて綺麗な体から透けて見えます。きっと相当な困難にぶつかって、どうするべきか分からなくなっているのでしょう」背後から言葉をかけられ、何もかも見透かされたようで不安になる。夢人葵という人間は一体何者なのか。「何でこの祭壇に祈りを捧げるのでしょうか」「目を閉じて無の時間を作ることで、自身の中を見つめることができ、困難を乗り越えるために役立つ経験を探し出せるためです」「経験ですか」まだ彼の発言が理解できない。「自身の経験から自分という人間を見詰め直すことで、他人という人間の思いもよく分かるようになります。困難や悩みは理解不能な他人から構成されています。
last updateLast Updated : 2026-02-05
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第九章 包帯男は私と俺を包み込み……。

   ♠ 亮三浦の運転するワゴン車を降りると、背の低い住宅の並ぶ町並みに馴染まない雑居ビルが立っていた。「ここがうちの本拠地です。このビルの二階なので覚えておいてください」鎌倉市の材木座に「日本ルネッサンス会」の事務所はあった。冷たい風に運ばれる海の匂いが良い。三浦と一緒に階段を上って部屋に入ると先客がいた。男は2DKの事務所でダイニングにあたる部屋で、テーブルの上で包丁を使った作業をしている。先にいた男の姿を見て言葉を失った。恐らく体型から男と分かるが、着ているスーツから出ている頭部や手、足が全て包帯で包まれていた。「彼は夢人葵さんです。彼も『日本ルネッサンス会』のメンバーなのです」三浦から紹介された夢人は丁重にお辞儀した。三浦は夢人にも俺の紹介をした。「存じ上げていますよ。顔面を破壊して胎児を名乗るセンセーショナルなアーティストさんですから、一度見たら忘れられません」夢人はテーブルの上にあるフルーツや花弁、白い粉末、虫がそれぞれ入った箱を片付け始めた。俺の残った左目がテーブル上に向いていると気が付いたようだ。「私はケーキ職人ですが、ただケーキを作るのではないのです。舞台上でバレエのように踊りながら華麗な装飾を施したケーキを作るのです」三浦は夢人の肩を軽く叩きながら親しみを込めた目を向ける。「『日本ルネッサンス会』にとっても、彼のような唯一無二のパフォーマンスをする者を大事にしたくてね。最も精力的に活動してくれている芸術家なんですよ」「そういえば、三浦さん。艶撫亮さんに今度の話は伝えてあるのですか」「まだです。今日夢人さんが来るのは知っていたので、あなたのいる前で伝えた方が良いかと思っていたのです」テーブルを囲み、三浦と夢人と三人で椅子に座る。今度の話とは一体何なのか。「艶撫亮さん、今度川崎で私たちと一緒にライブを敢行することが決まったのですよ」夢人の言葉に続いて三浦が詳細を話す。二か月後、川崎の小屋で様々な感覚を刺激するライブを行うようだ。「聴覚にアプローチする艶撫亮さんと、味覚で刺激する夢人さん、他にも嗅覚、視覚に特化したアーティストを呼ぶつもりなんです」ライブの日程に合わせた今後のスケジュールも三浦から共有された。新曲のレコーディング、公式プロモーションビ
last updateLast Updated : 2026-02-06
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夢人葵、包帯の端がほつれ始める

夢人がライブを行う日、開演の十五時より三十分早く会場の綱島駅すぐの商店街に到着した。今回は商店街の中にある喫茶店を貸し切りで行うようだ。ニット帽を目深に被りマスクで顔を隠して商店街を歩いていると、洋菓子店から既視感のある人物が出て来た。すぐに足を止め、遠目からグレースーツの男の姿を観察する。間違いなく集団の中にいた清水と呼ばれていた男だ。偶然だろうか。清水はポケットに手を突っ込んで、商店街から外れた方に歩いて行った。間に何人か人を挟んで追跡を始めた。一体何をしているのか。「生きとし生けるもの合同会社」の存在に手がかりが掴めるかもしれない。綱島駅から離れるように細い坂道を上って行く。マンションやアパートの並ぶ道を進むと朱い鳥居が目に入った。清水が鳥居のある稲荷神社の敷地に入る。神社の隣にワゴン車が停まっていた。沙耶と俺を攫った際に使った車だ。俺はなるべく足音を立てないように神社の方へ向かう。鳥居の前へ近づきチラリと敷地内を覗き込んだ。鳥居の向こうに広がる光景を目にした刹那、驚愕から元来た道を足音忍ばせながら速足で戻った。鼓動が早くなり呼吸も荒くなる。ニット帽の中で粘っこい汗を流す。なぜ清水と夢人が二人で立って話していたのか。混乱しながら坂道を下る。夢人は「生きとし生けるもの合同会社」に関わりがあるのか。だが、先日俺が合同会社について夢人の前でも話したが、特に何も反応を示さなかった。 顔が隠れており気づけなかったのか。骨の内側までゾワゾワする。だが、反面でチャンスではないかと思う。もし夢人が合同会社に関係のある人物であるならば、彼の近くにいればそのうち合同会社の構成員と接触できるはず。坂を下る足を止めた。深呼吸を繰り返して自身に落ち着くように言い聞かせる。ここで逃げてはいけない。沙耶を絶望させた連中は絶対に許さないと決めた。神社に突撃は無謀なので、どこか物陰から彼らの会話を盗み聞きできないか。緊張で強ばる足を動かし、慎重に再び坂を上る。バレたら一巻の終わりだろう。彼らに存在を気付かれてはいけない。心音でバレるのではと不安になるほど早鐘を打つ。朱い鳥居に近付き、ワゴン車の陰に隠れた。会話の内容まで聞こえず、二人が車に戻って来たらバレる可能性も高い。どこか隠れられる場所
last updateLast Updated : 2026-02-08
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ほつれた包帯は唯織を包み、夢のドームを作る

  ♢ 唯織喫茶店内の照明が暗くなり、ステージの上のみ照らされる。夢人葵のパフォーマンスが始まる。調理台に続いて夢人が現れる。喫茶店内にはラップロックのような音楽が流れる。彼は生クリームを舞うように作り、ロックの重厚なメロディーの中、ドラマティックにも、嫋かにも、大胆にも手足を動かす。生クリームを三つのスポンジケーキに塗り、それぞれに装飾を施す。真ん中に彼岸花を突き刺し、周囲にブドウやイチジク、マスカットをこれでもかとまぶし、フジツボの群れにも見えるほどだ。高揚し暴れ狂うよう舞い続ける夢人はベリー類をすり潰し、牛肉の薄切りを漬け込みバーナーで炙る。蜂の子と青カビチーズをミキサーで粉砕し不気味な粘液を作り上げる。終わりが近付いたのか、今まで以上に夢人は激しい舞を繰り広げ、包帯に巻かれた頭を取れそうなほど振り回す。炙った肉もケーキの上に貼り付け、ミキサーから粘液を最後にかける。見ている最中から味を疑っていたが、粘液がかけられた瞬間、爆裂したように馥郁たる香りが店内中に広まった。蜂の針が鼻の奥を刺す刺激と、ブドウやベリーのまとわりつくような柔らかい甘みが含まれた香りだ。刺激と甘さだけではなく牛の血肉も効果を発揮し、生命の匂いすらも感じる。何かに似ている香りだ。刺激の中に甘さと何とも言えないニュアンスを含む匂いは何だろうか。「皆様。ぜひ今日の作品を堪能してみてください」夢人は三つのケーキを観客全員に行き渡るように切り分けた。皿に乗って目の前に来た一切れは、そんなに大きくないが装飾の多さでボリューミーだ。「今日のテーマは生と死の舞です。死人花の異名を持つ彼岸花と、豊穣や子宝を象徴するブドウやイチジクを融合いたしました。牛の血の代わりに繁殖力の高いベリーを与えました。蜂の子とチーズという誕生を連想させる食物を混ぜ合わせています。深い匂いを演出するため青カビチーズと蜂の子の甘露煮を選びました。きっと夢のような味わいとなるでしょう。ぜひご賞味ください」夢人の言葉を聞きながらケーキにフォークを通し、一口頬張る。味わった瞬間、何の香りに似ているのかすぐに分かった。優美カフェのコーヒーだ。ケーキを一口食べるたびに、何だか謎の浮遊感を覚える。薄暗い空間で海に沈み行く気分となる。
last updateLast Updated : 2026-02-09
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シトラスの香りがする包帯は強く解けない

   ♢ 唯織仕事を終えた夜の二十時半、自宅に向かって歩いていた。夢人や優美カフェのマスターのおかげで私は無事に仕事に戻れた。彼らの言葉から私の強みを意識でき、私にしかできない仕事からやりがいを今まで以上に感じている。宮田さんからも復帰後、顔色が良くなったと褒められた。優美カフェを勧めてくれたという意味で宮田さんのおかげでもある。この前の夢人のライブから多幸感も溢れており、何だか生活自体が充実している気がする。合同会社については何も分からないままという点だけが気がかりだ。自宅のアパートに到着した時、誰かが私の名前を呼んだ。声のした方を振り返ると、ジーンズにグレーのスウェットを着た中年の男が立っていた。男は私の前に近付きながら、痰の絡まった声で有名週刊誌の記者を名乗った。「ちょっとお話聞きたいことがあるのですが、よろしいですか」もしかしたら「生きとし生けるもの合同会社」関係かもしれないので承諾した。夢人の期待にも応えたいという気持ちもあるので、何が何でも突き止めたい。「山本優香さんの件なのですが、山本さんが留置場内で自殺されたことはご存じですか」全く知らず、絶句した。結局昨年の赤子殺しは山本さんも共犯で逮捕されたところまでしか知らなかった。「何で自殺なんかしたんですか」「遺書が留置所内で見つかったようでして、そこに理由も記載がありました」記者の男は野卑な笑みを浮かべ、黄ばんだ歯列が覗く。顔中に皮脂が浮かび、毛穴も目立つ。身綺麗にしていない中年男の下品な笑いには不快さで溢れている。「どんな内容なのですか」「本間さん、あなたについてたくさん書かれていたのですよ」近くを軽自動車が通る。ライトが一瞬男の右半分を照らした。冬なのに日焼けして皮脂で光る肌がゴキブリに似た黒を感じた。この男から離れて行きたいが、遺書については気になる。山本さんは「生きとし生けるもの合同会社」に何らかの関係を持っていたはずだ。そんな彼女が私について何を遺したのか。「本間さんは山本さんの恋人だったような内容ですよ」男はより口を広げて笑い始めた。上の前歯の隙間に小さいネギが挟まっていた。「そんな事実はありません」山本さんとは看護師と患者の関係以上になった試しがない。「遺書内ではかなり細かく描写されていた
last updateLast Updated : 2026-02-10
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