All Chapters of 艶撫亮~embryo~: Chapter 21 - Chapter 30

43 Chapters

ごめん、 せっかく楽しみにしていた外出なのに

久々に人と並んで歩いた気がする。隣には俺の大好きな沙耶が笑顔でこちらを向いている。桜木町駅まで行き、ショッピングモールに入っている映画館へ向かう。映画を見た後はそのまま買い物や食事をしようと約束する。「映画館にポップコーンとオレンジジュースってベタだなって思うけど、ベタを楽しめる時間って心から楽しいなって思えるんだよね」沙耶の言う通りだ。ベタで当たり前な日常がどれだけ貴重か。顔を失った今、身に染みるほど理解できる。指定の席に座り、映画の開始まで待つ。待つ間も何でもない雑談をして過ごした。俺の話に沙耶はよく笑ってくれる。映画が始まる時間となり、劇場も暗くなった。「始まるんだから帽子取れよ。見えねえんだよ」突然、後頭部のヘッドレストが強く揺れた。後ろを振り向くと、高校生くらいの二人の女の子が俺を睨んでいた。体の芯が強張り、一気に血の気が引いていく。「帽子取れって言ってんだよ」ずっと頭を隠すためにニット帽を被ったままだった。映画を選んだことで、こんなピンチに陥るとは予想していなかった。だが、冷静に考えれば普通帽子は取る。沙耶との外出で浮かれておりリスクを忘れていた。仕方ないのでニット帽を外す。顕になった頭部を見た二人の女の子は暗くてもよく分かるくらい顔面蒼白になる。「すみません、気をつけます」静かな空間の中で片方の子が絶叫し始めた。彼女の叫びをきっかけに周囲がざわめき始める。劇場全体が大きな騒ぎとなり混乱し始めた。「亮君、出た方が良さそうだよ」隣にいた沙耶の比較的冷静な声が俺を正気に返らせる。ニット帽を取り爛れた頭皮が露わになっただけではなく、帽子で陰になっていた目元も晒されたようだ。劇場の暗さの中だと余計に化け物じみて恐怖心を煽っただろう。沙耶に引っ張られる形で席の間を抜けて出口へと向かう。俺が通ると近くにいる者たちは悲鳴を上げる。──ナニアレ。ヤダキモチワルイ。ヤバスギ。ドウナッテイルノアレ。ウワァサイアク。ヤダミチャッタ。彼女は劇場の外に出てすぐに俺の身を案じてくれた。彼女もきっと不快だったはずなのに、心配かけさせて申し訳なく情けなくなる。「ごめん、せっかく楽しみにしていた外出なのに」手足が震えてまともに立っていられない。へたれ込んでいると廊下の奥
last updateLast Updated : 2026-01-20
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第六章 甘ったるい餡子が私を包み込む

   ♢ 唯織この日は昼勤で朝の八時にナースステーションに入った。「山本さんが来ているよ。本間さんが来たら教えろってずっと言っているの」同僚の子が申し送りノートを私に手渡しながら小声で呟く。沙耶と通話で接触してからほぼ二週間、一切亮からも連絡がなく合同会社への手がかりが一向に掴めなかった。山本さんが来たと聞き、不快感と一緒に絶対に元旦那について聞き出してやると意気込みも沸き上がる。申し送りノートを確認してから山本さんが待っている部屋に向かう。ノートには入院する旨が書かれていたが、入院までしないといけない時期なのか。通常入院の準備を始めるのも妊娠し始めてから八か月ほど経ってからが普通だ。今入院するとなると、昨年の七月頃に懐妊したことになる。私の自宅に赤子の死体を置かれた直後の時期だ。赤ん坊が殺された時には山本さんには新しいパートナーがいた可能性もある。それが事実ならば、事態は考えているよりももっと複雑なのかもしれない。院内を歩きながら色々と推測する。だが、何も結論らしい考えは浮かばなかった。山本さんのいる部屋の扉をノックしてから中に入る。ここで逃げるわけにはいかない。看護師として全ての赤ん坊の命に責任を持つ。赤子殺しなど今後一切起こさないように尽力する。「本間さん、来てくれたの。嬉しいわあ」ベッドの上で横になっている山本さんが和紙みたいな白い顔を綻ばせる。赤紫色の唇がニッと横に広がる。「どうしたのですか。とても妊娠の兆候があるようには見えないのですが」ノートには定期的な陣痛や出血があると記載されていた。だが、目の前にいる山本さんのお腹は一切せり出していなかった。医師の診断結果に疑いを持ちたいわけではないが、どうしても疑問を抱く。「この中には小さい体だけど新しい命がいるの」彼女は自身の一切出ていない腹部をゆったりと何度も撫でながら、ぬるりと口を動かし笑顔を浮かべる。「二週間少し前に私に手紙を送りませんでしたか。茶封筒の中に短い文で横浜の相鉄ジョイナス前に来るようにって」「そんなの知らないわ。私が送ったのは本間さんにお世話になりますっていう挨拶の手紙だけ」嘘か本当か分からない。お腹を撫でながら私に目を向けないで答える。容易に信じてはいけないと再認識する。「あと、もう一個。佐
last updateLast Updated : 2026-01-23
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動きだす桃色のヘドロは悪臭を放ち始める

「本間さん、大丈夫ですか」扉が開いて宮田さんが声をかけてくれた。いつまでも来ない私を心配して来てくれたに違いない。「すぐに行きます。山本さん、今はやらないといけないことがあるので今日は失礼いたします。また何か不調がありましたら来てくださいね」他者が介入したからか素直に袖を離してくれた。山本さんは何事もしていなかったように白い天井の一点を見つめて横になっていた。病室から出ると、既に宮田さんがカートの上に手術に必要なガーゼ、スポンジ、注射器など、その他器械を載せて分娩室に向かおうとしていた。「また何かされたの。何か山本さんから出る雰囲気が嫌な感じしたんだけど」カートを押すのを代わりながら、とにかく大丈夫と言い張った。手術にて間接介助の仕事を終えてから昼休憩に入った。分娩室から食堂に向かう途中、山本さんのいる部屋の扉がなぜか開いたままになっていた。脇腹を擽るような気持ち悪さを伴う嫌な予感を覚え、ゆっくり音を立てないように忍び足で部屋に近寄った。横目で視線を点で残すくらいの速度で目を動かして部屋の中を確認した。宮田さんの丸い背中が見えた。宮田さんがベッドで横になっている山本さんと何やら話している。何を話しているのか興味が沸く。部屋の前を通り過ぎ、向こうから見えない場所に立った。ナース服に着いた細かいゴミを取る振りをして足を止めた。だが声を潜めているようで二人の言葉が一語も聞き取れない。なぜコソコソしているのか。聞かれたくないのであれば扉を閉めないのはなぜなのか。そもそも宮田さんが山本さんと密かに話している事実自体が不自然な気がする。いつまでも立っているわけにはいかないので、食堂に向かおうと歩を進めた。食堂は二階にあるので階段を降りて下の階に向かう。下の階から上って来る足音が聞こえた。見舞い客のようだ。季節に合ったオフホワイトのチェスターコートと、ミルクティ色のボブヘアがよく似合う可愛らしい女の子だった。会釈だけして通り過ぎようとしたら声をかけられた。「山本優香さんのお部屋ってどこですか」若くて爽やかな甘い声だった。どこかで聞き覚えのある声だ。大きすぎないつぶらな瞳がダークブラウンに光っている。チークとアイシャドウがピンク系で統一されて、小さな唇には赤いグロスがアクセントになって可
last updateLast Updated : 2026-01-25
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絶望は速度を高め、這い寄って来る

   ♠ 亮自室の和室の中で久々にSNSで艶撫亮のアカウントから投稿をした。デートで映画を観ることすらできなかった俺は、もう売れて艶撫亮の存在を認知させるしかないと結論を下した。沙耶も俺の話を聞いて改めてプロデューサーとして全力を出すと約束してくれた。今度新曲を出す予定だ。今日は新曲発表の日にちについて告知した。昔も似たような出来事があったと思い出す。中一の時に面談でHydeみたいな歌手になりたいと話したことを盗み聞きされ、馬鹿にされた後の出来事だ。当時片思いをしていた女の子がいた。彼女はAcid・Black・Cherryが好きなようだった。教室内で眠り姫という曲を口ずさんでいた。俺もAcid・Black・Cherryが好きだったが、話しかけられなかった。音楽の趣味について共通点があるので、仲良くなれるチャンスは作れたはずなのだが勇気がなかった。そんな中で俺を殴った同級生三人が俺の歌手の夢を教室内で暴露し、笑い者にした。Acid・Black・Cherryが好きな彼女も俺を嘲笑していた。将来の夢を馬鹿にされると、俺自身が未来に向けて生きる現実自体を否定された気分になる。好きな子に生きることを嘲笑われ、酷く落ち込むと同時に絶対に諦められないと思いも強くした。俺が間違っていないと証明するには歌手として売れるしかない。当時のように今もがむしゃらに音楽に熱中する。過去から現在に意識を戻して時計を確認した。時刻は二十時になり丁度空腹を感じた。夕飯を作ろうと腰を上げた。最近は自炊するように努めている。簡単な鍋であるが、これまで何も料理などできなかった俺にとっては大きな変化だった。キャベツやニンジン、玉ねぎや長ネギと豚バラ、出汁用の昆布を入れて湯を沸騰させる。気分が良く、思わず一人前よりも多く食材を入れた。鍋の蓋が音を立て始めた時、インターホンが鳴った。扉の除き穴に目を当てると外には沙耶が立っていた。だが、何だか俯き気味で顔も暗かった。「どうしたの急に。いつも来てくれる時は連絡くれるのに」扉を開けて招じ入れたが目元に光がない。俺の問についても曖昧な返事しかしない。「髪切ったの。すごく似合っているね」彼女は前会った時は肩までの長さでウェーブがかったヘアスタイルだったが、今日はストレートで毛
last updateLast Updated : 2026-01-26
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絶望は黒いゴミ袋のように俺を飲み込む

翌朝、スッスッという普段聞きなれない物音で目を覚ます。何の音かと一瞬思うも隣に体温を感じず、沙耶が寝ていないと気付く。足音を立てないように慎重に歩いている。俺を起こさないように気を使ってくれている。これ以上気を使わせないために目を開いて布団から出ようとした時、昨夜と同じ着信音が聞こえた。彼女の動転が足音と振動から伝わる。咄嗟に寝たふりを続ける。電話に出たようで、彼女の短い受け答えの声が聞こえる。「はい」「分かりました」「仰る通りです」と、小さな声で同じ語を繰り返す。いつもに比べて格段に声が低い。誰と話しているのか。彼女の絶望の要因は電話の相手にあると声から分かる。「今すぐ行きます。はい、すぐに出ます」電話は終了したようだ。鈍重な空気が部屋中を満たしている。ハンガーがぶつかるカタカタという音や、ドンと座り込んだような音が聞こえてから、空気の流れを感じなくなった。今、彼女の元に駆け寄って何らかの言葉をかけるべきなのか。それとも余計な言動は慎んで彼女の気持ちが整理できるまで待ってあげるべきなのか。暗闇の中で時間だけが過ぎる。どれだけの時間が経ったか、再び物音が部屋の中に響く。コートを羽織る衣擦れの音からスッスッという足音。俺が起きる前に部屋を出て行くようだ。行かないでくれと声をかけるべきだろうか。余計な言動にならないだろうか。迷っている間に玄関の扉が開閉する音が聞こえた。目を開けてスマホで時刻を確認すると、まだ五時を少し過ぎたくらいの時間だ。こんな早い時間にどこへ行くのか。彼女が使っていた布団は綺麗に畳まれて部屋の壁際にまとめられていた。時間から見て始発の電車に乗ったに違いない。自宅に帰っただけとは思えない。彼女のいつもと違う低い声が残響している。布団から出てダウンジャケットを羽織ってマスクとニット帽を着けて外に出た。三月の夜はまだ真っ暗だ。最寄りの和田町駅に到着すると、ホームのベンチに腰かけている沙耶を見つけた。明らかに顔の色がない。すっぴんだからとかではなく完全に血の気が失せている。直接尋ねてもどこに向かうのか教えてくれない可能性が高そうだ。後をつけて確認しようと決めた。早朝の人がほとんどいないホームで安易に近づくとバレるだろう。二両分ほど挟んだ場所で監視した。
last updateLast Updated : 2026-01-27
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絶望は黒いゴミ袋と化し、俺を飲み込む

何だか身に覚えのある名前だ。唯織が赤子殺しの件で調査していた「生きとし生けるもの合同会社」と繋がる。沙耶と合同会社は関係があるのか。彼女が出て来るまで待とうと決めた。今度こそ正直につけて来たと言い、何があったのか話を聞いて力になろう。どれだけの時間が経ったのか。電柱に寄りかかって待っていると一台のワゴン車が目の前に停まった。ワゴン車からは二人の男が降りた。男たちは俺を見付けるといきなり詰め寄って来た。意味が分からず、ただまごつく。背後は電柱、右側を壁、前と左を黒の上下のジャージを着た二人の大人の男に囲まれて逃げられなくなった。「こんなところで何をしているんすか」男たちは何者なのか。危機に瀕して体の芯から震える。もう少しで涙が出そうだ。男たちは俺が必死に謝る様子をしばらく観察してからお互いに見合っていた。「いいからどっか去れ」言われた通りすぐに逃げ去った。角を曲がって見えない位置にまで来た。角からさっきの男たちを覗き込むと、一人は「居酒屋 生きとし生けるもの」のある建物の階段を上った。もう一人はワゴン車の中に戻った。彼らは詰め寄った時に俺の潰れた目元を見たはずだ。全く驚かなかったので、艶撫亮の存在を知っていたのか。大分時間も経ち日が高くなると、激しい物音と短い細切れの悲鳴が反響した。階段から何か重量のあるものが落下していた。ゴム人形のように動かなくなった沙耶だった。彼女の体に続いて何人もの男女が階段を下りる。その中にさっき俺を脅した男の一人がいた。彼らは地面に倒れた沙耶の体をマットみたいに踏みつけた。沙耶が顔を上げると目鼻口から流血が酷かった。笑った時に三日月型になる目の上に紫色の瘤までできている。現れた集団に対してこれまで感じたことないほど激しい怒りを抱く。強く噛みすぎて奥歯から血の味がする。彼らは唯織が調べていた「生きとし生けるもの合同会社」と関係ある者たちなのか。沙耶が彼らとどういう関係なのかは分からないが、沙耶が酷い目に逢っているのは確実だ。ようやく助けに行こうと決意ができた。だが、怒りと同時に強大な緊張が全身に走る。両足の膝が笑って踏ん張って立つために力を入れるのも難しい。なぜか涙が止まらない。沙耶は今どす黒い恐怖に支配されているだろうと感情移入して俺も恐怖を抱
last updateLast Updated : 2026-01-27
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第七章 合同会社と沙耶。縛りつける化け物

   ♢ 唯織今日は珍しく宮田さんが体調不良で休んでいる。彼女が欠勤するなど余程体調が悪いのかと心配になる。勤勉な宮田さんは私が入社してから今まで急に休むなどなかった。ナースステーションで患者さんの記録を書いていると、背後から私の名を呼ぶ声が聞こえた。「本間さん、山本さんの旦那さんがお見舞いに来ました」受付に行くとグレーのスーツに身を包んだ背の高い男が立っていた。無精髭に覆われた青紫色の唇から、山本さんの見舞いに来た旨を述べた。「あなたが、担当看護師の本間さんっすよね」階段を上る途中、後ろから声をかけられたので振り返りながらそうだと答える。黄色い目を細めながら私の顔から爪先まで眺め回していた。「優香がレズだっていう話、聞いたことあるか」彼は急に足早に階段を上がり、私の隣に接近する。近くで見るとグレーのスーツの肩にフケが積もっていた。この男は山本さんが言うように銀行マンなのか。「そんな話は聞いていません」学生時代に女子柔道部の子と恋人の関係になった話を思い出しながら、当たり障りないよう嘘を吐く。「あなた優香のタイプっぽいんだよな。もしかして、うちに妻を狙っていたりしないよね」階段を上り切って廊下を進みながら絶対にないと否定した。男は終始ニヤついている。なぜ揶揄われないといけないのか。「本間さんの恋愛対象は男か。ちょっと男勝りそうでレズっぽい気がしたんですよねえ」心中では苛々しつつも必死に感情を抑えた。簡単に同性愛者ではないと言い、山本さんの部屋まで足を速めた。「本当か。怪しいから、ちょっと試させてもらうわ」廊下で男が急に抱き着いて来ようとした。反射的にスーツの襟と袖を掴んで床に投げ技を決めた。シュートボクシングで習った技が条件反射で出た。「痛ぇ。マジでふざけんなよな」男は腰をまともに打ったようで手で擦りながらゆっくり立ち上がる。一応謝罪はしたが、男から手を出して来たので本気で悪いとは思っていない。格闘技を習得しておいて良かったと痛感する。中一の頃の友達のように私は男の好きにはさせない。「調子に乗るんじゃねえぞ。気付いていないだけでな、お前の周囲には最悪な事態をもたらす化け物が近づいて来ているんだからな」男としてのプライドを保ちたいのか、無駄に吠えている。だが、
last updateLast Updated : 2026-01-29
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甘い顔、崩壊。①

   ♠ 亮エンジン音が止み、振動を感じなくなると無理矢理ラゲッジスペースから足を掴まれて引き摺り降ろされた。黒のゴミ袋を被っているためどこにいるのかも分からない。階段を降りるように指示され、何も見えない中一歩一歩慎重に進むと、背もたれがある椅子に座らされた。手足をビニール紐で何重にも拘束されると、ようやくゴミ袋から解放された。「居酒屋 生きとし生けるもの」から出て来た男女が俺と床に倒れる沙耶を囲んでいた。恰幅の良い丸顔の女性が俺の前でキャッキャッと笑う。顔の皮膚全体に人を不愉快にさせるノイズが表出していた。「何で、笑うんですか」口の中は水分がなくなり粘々する。「意味分からないんだもの。わざわざ自分から、こんな奴のために捕まりに来るなんてさ」丸顔の女は床にうつ伏せで倒れる沙耶を黒のパンプスの爪先で突いた。「それは、沙耶のことが、大事だからですよっ」とにかく言葉を発しないと、おかしくなりそうだ。「なるほどね。この沙耶という人間は藤沢亮さんを大切にしてくれる女性だと思っているのですね」俺の中での沙耶の像が液状化し、ドロドロと思い出ごと溶けそうになる。必死で沙耶は俺を大切にしてくれたと伝える。「この女と出会って人生好転しましたか。あなたの艶撫亮としてのライブは悲惨だったと聞きましたよ」「でも、沙耶が一緒にいてくれて楽しかったです」「楽しかっただけで何になるのさ」丸顔の女性には俺が何を言おうと響かなさそうだ。だが、沙耶と過ごした時間の価値を守るために戦うしかない。腹に力を入れ、落ち着いて自信を持てと俺自身に言い聞かせる。「楽しさは俺の作品作りの根源になってくれます。彼女が口にした言葉からヒントを得て新しい曲ができることもありました」女は沙耶の脇腹を思い切り蹴った。短いうめき声が響く。やめるように大きな声を発した。沙耶には手を出さずに俺だけを攻撃してほしい。艶撫亮となった今、どんな肉体的、精神的な痛みも耐えられる。「この沙耶という女がお前をどう思っているのか直接聞いてみると良い」周囲を見渡すと男女全員がニヤついて俺と沙耶を見物している。悔しさと恐怖でいつの間にか口内の肉を強く噛んでおり、血の味が広がる。「沙耶。顔を見せてほしい」「ごめんなさい、ごめんなさい。本当にごめ
last updateLast Updated : 2026-01-30
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甘い顔、崩壊。②

何を言っているのか。耳が沙耶の言葉を拒絶して頭に入って来ない。突然足元に倒れている沙耶に向かって沢山の男女の足が伸びる。鈍い音が何度も響き始めた。「待て、お前ら。小野立て」丸顔の女性の一喝によって暴行が止んだ。「立てよ、小野。てめえ、また過ちを犯すのか」沙耶と名乗っていた小野美里が、ここにいる全員から反感を買われている。小野美里という本名の彼女が、なぜ沙耶を名乗って俺の前に現れたのか。「てめえは自分の親父と同じ目に逢いてえっつうのか」「嫌です。絶対に嫌です、許してください」「だったら、親父の損失分を埋め合わせないと駄目じゃないのか。己の運命のせいで今こうなっていることを自覚しろよ」沙耶は血液が混ざった涙をぬぐいながら立ち上がった。恐らく昨夜と今朝電話が来ていたのは、この丸顔の女性からだろう。「藤沢亮。お前は小野からメイド喫茶を開くためにプロデューサーになることを提案されたよな」自然と首が縦に動く。俺自身の夢を追いつつも彼女の役に立てる良い案だ。「小野がメイド喫茶を開くなんていう夢は全くの出鱈目なんだよね」口の中で舌が丸まって喉に詰まる。沙耶は両手で顔を覆っている。「あれって嘘だったの」「違う、嘘じゃない。本当に高校生の時にやっていたメイド喫茶のお仕事が好きで、自分でも店を持ちたいって思っていた」彼女は両手で顔を押さえながら、首を何度も横に振って涙で掠れた声で絶叫する。「また嘘を吐くんだね。お前には将来なんてないんだよ。一生私たちのコマでしかないんだよ」「嫌です。こんな人生望んでいなかった」「お前の父親を怨むんだな」父親とは雛人形を作る会社の社長だろうか。だが、話を聞いた限り違うようだ。唯織の予測通り社長令嬢という話も虚構のようだ。だが、騙されていたとかはどうでも良い。今まで楽しかったのは事実であり、今更俺の中に溜まるプラスの感情を覆すつもりはなかった。「藤沢亮、沙耶と名乗っていた小野がどうしてこんな目に逢っているのか察しがつくか」ただ首を横に振る。「小野は中学生の時に、私の父の会社が運営していた『小中学生立ちんぼ倶楽部』を駄目にした罪人なんだよ」どこかで聞いたことのある名前だと気づいた。すぐに唯織が調べていた「生きとし生けるもの合同会社」関連の名
last updateLast Updated : 2026-01-30
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崩壊した甘い顔、その様は。

   ♢ 唯織退勤時間になり、ロッカールームに戻ってスマホに電源を入れると大量の不在着信の履歴が残っていた。全て亮からのライン電話だ。今日の昼、自称山本の旦那が来て化け物が亮に接近していると告げて帰った。何かあったに違いない。急いで亮に電話をかける。彼はすぐに電話に出た。出た瞬間、むせび泣く声が聞こえた。情けない亮とはいえ、こんなに泣いている声を今まで聞いた経験はなかった。「明日のお昼の十三時に会って話したいことと、一緒に来てもらいたいところがある」涙を飲みながら苦しそうな声が聞こえる。「何があったの。全然分からないんだけど」「ごめん、今は心の整理がついていなくて、まともに説明できないと思う。明日全て教える」一方的に電話を切られた。なぜ明日話したいのに何度も電話をかけたのか。誰かの声を聞いて安心したかったのか。なぜ相手は沙耶ではないのか。沙耶に電話できない事件が起きたのか。翌日の十三時、亮から指定された病院の前にある駐車場のベンチに集合した。丁度大きな樹木の木陰になっており、暗い中に亮が座って待っていた。「無理に呼んじゃって、ごめん」「何でこんな場所に集合にしたの」初めて病院の前を待ち合わせにした理由を明かされた。沙耶がこの病院の中にいると言う。亮の隣に腰かけて彼が昨日体験した話を聞いた。話を聞いている最中から、恐怖と一緒に興奮が止まらなくなった。足がそわそわし、体が浮いたような感覚に襲われる。「沙耶と名乗っていた小野美里は『生きとし生けるもの合同会社』の社員だったってことね」調査を開始してから、ようやく合同会社が実在すると発覚した。合同会社は噂通り昔、「小中学生立ちんぼ倶楽部」を事業の一部にしていたみたいだ。「結局、その集団って言うのはどこに行ったの」重要な点だ。彼らの行方が分かれば今後の調査の進め方が決まる。「ごめん、その後睡眠薬を飲まされて、眠っている間にどっかに行っちゃって」「目覚めた時は一人だったの」「沙耶、いや、小野さんだけがいて」「小野さんが入院しているってことは、まだ生きているの」亮は俯き、残った左目に影を落としてゆっくり首を縦に振った。「亮は殺されずに済んだのは何でなんだろう」亮も分からないと言う。彼をそのまま野放しにしたの
last updateLast Updated : 2026-01-31
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