LOGIN産科の看護師として勤める唯織の自宅に、腐敗した赤子の死体を放置される。 犯人はすぐに見つかるも、「子供を授かるつもりはなかった。ただ恋物語を購入しただけだ」と意味不明な言葉を残す。 唯織は同居する歌手の亮にも依頼し、恋物語の購入とは何か調査を開始する。 だが亮の前に謎の美女の沙耶が現れ、彼は自らの顔面を破壊するまでに至る。 唯織は沙耶の背後に恋物語を売る謎の集団の存在を察知するが、彼女の前に夢人葵という全身包帯まみれの男が現れ、物語はあらぬ方向へと転がってしまい……。 彼らの行く先には何が待ち構えているのか? 令和の時代に更新された唯美主義的ミステリーをぜひ堪能してください。
View More♢ 唯織
外廊下の照明が明滅しそろそろ寿命だと主張している。
一匹の赤茶色の蛾が羽ばたき、カサカサと寂し気な音を立てる。
二十一時、
帰宅すると自宅のドアノブに見たことない大き目のデパートの紙袋が提げてあった。
袋は中に入っている物によってこんもりとし、
表面に皺を作っている。
黒の油性ペンで「本間唯織様へ」と書いてある。
同居人の亮宛でなく私宛のようだ。
部屋の中で内容物を確認してみようと手に取ると異様に重量があった。
重みが余計に正体不明な物体に不気味さを与える。
自室の椅子に腰かけて中を確認すると黒いゴミ袋が何かを包んでいた。
ゴミ袋に覆われた謎の物体に恐る恐る手を伸ばすと、
ニュッと指が何の抵抗もなく食い込んだ。
個体と液体の中間のようで気持ち悪く急いで手を離した。
大きなヒルに触れたみたいだ。
不愉快な気分と同時に、
何が入っているのかと好奇心も沸く。
不快感と不安と興奮による体温の上昇から汗を首筋に流す。
一度呼吸を整えて慎重に紙袋からゴミ袋を取り出す。
黒いゴミ袋の中にも黒のゴミ袋が見え、
中の物体は何重にも包まれていた。
袋を外すたびに甘さと酸を含んだ粘性の強い刺激臭が漏れ出た。
焦燥と恐怖が鳥肌になって二の腕に現れる。何かが腐っている臭いだ。
一つの最悪な可能性が頭に浮かぶ。
まさかそんな訳ないだろうと悪い予想を否定しながら袋を外していく。
一枚外すごとに鼓動は早まる。
遂に最後の一枚になった。
途中我慢できなくなり、
マスクを三重に装着した。
激しく震える手で袋の口を慎重に開け中を覗き込む。
思わず声が出た。
何匹もの黒くて小さなハエが袋から飛び出て来た。
茶色くテラテラした謎の液体が揺れる。
液体を正体不明な固体がまとわりつかせる。
目の神経までも蹂躙するような強靭な腐敗臭に苦しみながら瞼を開き、
固体の正体を確かめる。
袋の底を手で持ち上げて塊を詳察する。
塊の表面は赤い葉脈のような線が浮かび、
全体は青紫色の草臥れた茄子みたいな色。
表面を覆うオブラートと羊皮紙の中間みたいな薄茶色のゼリー状の膜が剥がれ落ち、
茶色い液が流れる。
何匹もの蛆と交るように、
塊から細くて小さい骨が突出しているのを発見した。
驚嘆が喉の奥に引っかかって息ができない。
私の抱いていた最悪な予想が当たった。
どう見ても塊は人間の腐乱死体だ。
大きさから考えると生まれたての赤ん坊が妥当だ。
全身に悪寒が走る。
鼓動がますます激しくなり耳の中でゾッゾッと暗い音を立てる。
体の震えが止まらない。
現実を拒絶したい気持ちと受け入れて耐えようとする自尊心が衝突する。
なぜ私の自宅に赤ん坊の死骸など放置されたのか。
産科の看護師として働いているので、
何かの因果がある気がする。
何かしただろうか。
腐敗臭と飛び交うハエに我慢できなくなり、
物体を何枚もの袋で包み直す。
虫や死体と一緒の空間に居るのも気分悪く、
足をふらつかせながらベランダに出た。
六月の湿気の多い空気の中、
滲むように光る住宅の窓が目に染みる。
手で目元を拭うと無意識に涙が流れていた。
なるべくショックを受けないようにと自己暗示をかけていたが体は正直だった。
しばらく涙が止まらずベランダで蹲っていた。
何でせっかく生まれてきてくれた赤ん坊が、
こんな悲惨な姿で死なないといけないのか。
誰かに殺されたに違いない。
犯人を絶対に許さない。
この事件を一人では抱えられず、
誰かに話して少しでも楽になりたかった。
ようやく涙が落ち着いたのでスマホで宮田さんに電話をかけた。
「宮田さん、
今お時間良いですか。
ちょっと事件がありまして」
私よりも三つ歳上で二十八歳の先輩ナース宮田さんは、
いつも冷静で仕事ができて頼れる女性だ。
温い風が吹いて冷や汗をかいた額を乾かす。
声が震えていたようで宮田さんから落ち着いて話すように言われる。
「実は今、
うちの玄関のドアノブに赤ちゃんの腐乱死体を放置されたのです」
帰宅から今までの状況を説明すると余計に異常さが客観的に理解できた。
「警察には連絡したのですか」
動転しすぎて警察に連絡する必要を忘れていた。
「まだです」
「とりあえず警察に連絡してください。今から私も本間さんの家に行くから」
通話を切ると一抹の安心感からその場で座り込んだ。
やはり宮田さんは頼りになる。
同居している亮とは大違いだ。
亮は売れない歌手で恐らく今もスタジオにいるはずだ。
学生の時同じ教室で過ごしていた頃からいつもオドオドし、
何か役に立つとは思えないが同じ恐怖を感じずに呑気に過ごしている現実に腹が立つ。
警察や宮田さんを待つ間、
ベランダで温い風に当たっていると少し冷静さを取り戻した。
誰が犯人なのか。
考えていると一人心当たりのある人物がいた。
──山本優香。
つい二ヶ月前に見た彼女の我が子に向ける敵意に満ちた赤黒い視線は記憶にこびり付いている。
だが、
子供への愛情のなさだけではなく、
看護師である私の家にわざわざ放棄する恨みの源は何か。
ふらふらと立ち上がり、
ベランダの手すりに両腕を乗せて目を瞑る。
嫌に静かでジメジメした夜だ。
傍にいた探偵がおもむろに膝から倒れた。うつ伏せになった探偵の鼻にゴッホ男が香炉を添える。探偵の脇腹にパレットナイフが突き刺さっていた。「艶撫亮さん、何をしているのですか」夢人葵がこちらに近寄り、ステージにあるマイクを取る。「今から俗の世界からの侵入者に対して裁きを下します。この者が何者かは不明ですが、聖の世界に土足で踏み込む招かれざる客以外には考えられません。穢れはこの空間に最も似つかわしくございません」幻想に憑かれているような観客たちは急に騒ぎ出す。夢人の言葉に感化され、嬉々とした表情が黄金色に燦燦とする。「艶撫亮さん、この俗からの侵入者に対して追悼の意を込め、歌を送ってあげて下さい。胎児である亮さんが死を迎える人間に引導を渡す瞬間です。死と生が交差する、最も神聖な儀式を行うのです」夢人はマイクスタンドにマイクを戻し、包帯の中から鋭い視線を飛ばして俺の体を刺す。普段物腰の柔らかい男の、芯の通った意志の力は途轍もない。夢人の無形の力に引っ張られ、ステージ上に立たされる。反抗するのは得策ではない。ギターを奏で、輪廻転生の喜びと涅槃に向かう悲哀をテーマにした曲を披露する。歌いながら横目で倒れた探偵を確認する。ゴッホ男は別の香炉を鼻に近付ける。香を嗅ぎ続ける探偵の体は徐々に萎れていくように見える。サビに入る頃には、ボロ布みたいに体は骨の芯からぐったりしていた。頃合になったのか、ゴッホの男は去り、今度は大巫女の操る幻影集団が彼を囲った。無抵抗の探偵を幻の男女が歓声を上げながら足蹴にして集団リンチを始める。実体を持たないので痛みはないだろうが、精神的にはどうなのか。人間ではない人型の者たちに攻撃される恐怖は経験がないため免疫などなく、純度の高い恐怖を与える気がする。まだ意識はあるのか、幻影の足か振り下ろされるたびに探偵の体はビクついている。暴力が延々と続く中、曲が二番に入ると観客の一部からハモる声が聞こえる。お経みたく抑揚がなく、少し気味の悪いハモリだ。ハモろうとしてハモっているのではなく、俺の声に無意識に釣られて口ずさんでいるようだ。人々はトランス状態に入り、自我さえも失っているのか。大きな窯からお香の青紫色の煙が燻る。俺の鼻は破壊されており、微かにしか香りは分からな
♢ 唯織「今度、特別なライブがあるんだ」渋谷の街を一望できる高層マンションの十七階の部屋で、夢人と二人きりでいた。今日、彼の住居に初めて来た。ケーキ職人として相当儲かっているのか。特に金があるから惹かれるわけではないが、今まで売れない歌手の亮と同棲していたため感心を覚える。「特別なライブって何をするの」「私の所属している芸術家集団『日本ルネッサンス会』で合同ライブを行うんだ。ケーキだけではない、多くの要素から刺激を得られて面白いと思う」「何それ面白そう。どんなメンバーでやるの」「来て見てからのお楽しみ。サプライズもあるかもしれないし」夢人が椅子に座り体を微かに上下させていた。笑っているようだ。そんなに面白いライブになるのか、自然と期待が高まり当日が楽しみで仕方なくなる。ライブ当日、川崎駅から少し離れた風俗店のある通りを歩く。目的の建物に着くと階段を降り、重たい扉を開けた。仄暗い空間に色とりどりの電飾と真っ赤なカーペットが眩しい。黒いステージの上に人が立ち、その者は既視感のある顔を持つ。火傷した頭皮。右は潰れて左は瘤に覆われた目元。穴だけになった鼻。口周りに蜘蛛の巣状にできた傷。艶撫亮が円柱型の漆黒のステージの上にギターを担いで立っている。呆然としていると、亮も私に気が付いたようで、瘤の下の左目が見開いた。 ♠ 亮円形の漆黒なステージに立ち、紅色のカーペットが客席に敷かれている様子を確認する。カーペットの上にこちらを向いている者も、別の方向を向いている者もおり、バラバラな印象を受ける。ある者は夢人が作った装飾過多なケーキを食べていた。ある者は香炉を鼻に近づけて聞香を楽しんでいる。ある者は空間で繰り広げられる幻影の人々の演じるショーを観覧している。これが三浦主宰のライブだ。ルネッサンス会のメンバー、俺含めて四人がそれぞれの分野で魅惑的なパフォーマンスを行っている。夢人葵は会場の壁際に調理台を用意し、大胆なパフォーマンスでケーキを作る。腕を振り舞い、続々とケーキを誕生させる。顔をゴッホの肖像画に似せて整形して耳まで削ぎ落した男は、人が必要としている香りを読み取り、調合して練ったお香を香炉に入れて渡している。大巫女と自称する一生老けない体へと整形した女子中
♠ 亮「調査の結果を報告します。今からお話する内容は落ち着いて聞いていただきたいため、心の準備をしておいてください」夢人のパフォーマンスのあった日から一か月近く経過し、探偵が途中経過を報告しに自宅へ来た。探偵の男もなぜか緊張しているようで震えている。「まずはこの写真の男についてです」PCの画面に二枚の写真が表示されている。一枚は俺が撮影したグレースーツを着た男。もう一枚は、筋骨隆々で体の大きい男が眉間から血を垂らしながら、リングの上に立っている様だ。「彼の名前は清水淳。現在、四十五歳。十七年前まで地下格闘家として活動されていた経歴のある男です」「今は格闘家ではないんですね」「彼は地下格闘技界からも追放された身なのです。十七年前、彼は人を殺しています」初っ端からとんでもない話が飛び出た。彼はファンの女子高生を家に連れ込み飲酒を強い、酒の中に多量の薬物を仕込んだようだ。その子がオーバードーズを引き起こして死亡したという顛末だった。「彼は執行猶予なしで懲役五年を言い渡され、その後刑期を終えると『小中学生立ちんぼ倶楽部』というものにハマるのです」思わず手を固く握りながら話を聞いていた。「清水はそこで小野美里という先日自殺した女性と親しくなります。恐らく立ちんぼ倶楽部という名前から、やっている内容は大体想像がつきましょう。小野は当時十歳で小学五年生でした。だが、その後何年後かに立ちんぼ倶楽部は解体します。その後の清水の足取りはまだ調査途中です」集団のリーダーである丸顔の女性が言っていた内容と合致する。小野の担任の先生によって立ちんぼ倶楽部は発見されて解体に追い込まれる。「次はこの男になります」PCの画面は切り替わり、今度は全身包帯で包まれた夢人の写真が現れた。彼の写真はホームページに載っていたものだ。「表向きはケーキ職人ですが、仰っていただいた通り過去に訳アリの人間でございました」探偵はPCを操作して画像にもう一枚別の写真を表示した。一人の男の顔写真だ。外人みたいに濃い二重瞼で目と眉の距離も近く、鼻も高くて顎もしっかりしている。いわゆる堀の深いイケメンだ。「この男の本名は新木葵。『小中学生立ちんぼ俱楽部』の統括という立場だった人間です」名前を聞いて遠い記憶がよみがえった。
♢ 唯織仕事を終えた夜の二十時半、自宅に向かって歩いていた。夢人や優美カフェのマスターのおかげで私は無事に仕事に戻れた。彼らの言葉から私の強みを意識でき、私にしかできない仕事からやりがいを今まで以上に感じている。宮田さんからも復帰後、顔色が良くなったと褒められた。優美カフェを勧めてくれたという意味で宮田さんのおかげでもある。この前の夢人のライブから多幸感も溢れており、何だか生活自体が充実している気がする。合同会社については何も分からないままという点だけが気がかりだ。自宅のアパートに到着した時、誰かが私の名前を呼んだ。声のした方を振り返ると、ジーンズにグレーのスウェットを着た中年の男が立っていた。男は私の前に近付きながら、痰の絡まった声で有名週刊誌の記者を名乗った。「ちょっとお話聞きたいことがあるのですが、よろしいですか」もしかしたら「生きとし生けるもの合同会社」関係かもしれないので承諾した。夢人の期待にも応えたいという気持ちもあるので、何が何でも突き止めたい。「山本優香さんの件なのですが、山本さんが留置場内で自殺されたことはご存じですか」全く知らず、絶句した。結局昨年の赤子殺しは山本さんも共犯で逮捕されたところまでしか知らなかった。「何で自殺なんかしたんですか」「遺書が留置所内で見つかったようでして、そこに理由も記載がありました」記者の男は野卑な笑みを浮かべ、黄ばんだ歯列が覗く。顔中に皮脂が浮かび、毛穴も目立つ。身綺麗にしていない中年男の下品な笑いには不快さで溢れている。「どんな内容なのですか」「本間さん、あなたについてたくさん書かれていたのですよ」近くを軽自動車が通る。ライトが一瞬男の右半分を照らした。冬なのに日焼けして皮脂で光る肌がゴキブリに似た黒を感じた。この男から離れて行きたいが、遺書については気になる。山本さんは「生きとし生けるもの合同会社」に何らかの関係を持っていたはずだ。そんな彼女が私について何を遺したのか。「本間さんは山本さんの恋人だったような内容ですよ」男はより口を広げて笑い始めた。上の前歯の隙間に小さいネギが挟まっていた。「そんな事実はありません」山本さんとは看護師と患者の関係以上になった試しがない。「遺書内ではかなり細かく描写されていた