All Chapters of 艶撫亮~embryo~: Chapter 11 - Chapter 20

43 Chapters

第四章 山本優香、再び。災厄をもたらすか。

   ♢ 唯織亮が出て行ってから四か月経った。職場の産院の近くにある東戸塚駅すぐのアパートに引っ越して新しい生活にも慣れた。1Kの狭い部屋でも全く問題なく過ごせている。むしろ亮がいなくなり苛立つ瞬間が消え、赤子の死体を発見した記憶も薄れて行き、以前よりも気持ちに余裕のある生活を送れていた。毎日の仕事の忙しさもあり、赤子死体放置の調査は一向に進まなかった。つい二か月前に亮が戸塚のペデストリアンデッキ上の広場のステージでライブを敢行している姿を見た。相変わらず分不相応な恋愛ソングを歌っていた。観客の中に立ちんぼ倶楽部に所属していそうな女子小中校生の姿はなかった。一人だけ若くて可愛らしい女性の姿もあったが、ライブの途中で去って行った。きっと偶々足を止めただけだろう。亮の歌手活動は続いており、特に仕事を辞めさせられてはいないようだ。彼が「生きとし生けるもの合同会社」の餌食になったという予想は思い過ごしなのか。完全に行き詰まり、毎日の仕事の疲れもあって調査ができない。今日も昼勤が終わり、二十一時前に帰宅した。引っ越してからは、また見知らぬ紙袋が置かれているのではと嫌な想像をする日はなくなった。限られた人にしか引っ越し先の住所を教えていない。自転車を停めて郵便受けを確認すると、保険会社からのハガキとカード会社からの封筒に交じって、差出人の記載のない茶封筒が一つ入っていた。自宅の中に入って誰からなのか気になって最初に差出人不明の茶封筒を開けた。B5サイズの紙に直筆で文字が書かれていた。〈本間唯織様ご無沙汰しております。お元気にしておりますか。私は相も変わらず元気です。急にお手紙が来たことにとても驚いているでしょう。本間さんはお引っ越しされてから殆どの人に新しい住所を知らせず、知っているのは親や仕事関係の人に限られていますからね。その中でも直筆の手紙を書く者と考えると、もう誰も思い浮かばないのではないでしょうか。当然でしょう。私は直接あなたから住所を聞いたわけではないのですから。心当たりがなくて当たり前です。それに関して今は一旦置いておきましょう。今回手紙を書かせてもらったのは、私のことを思い出していただきたかったという意味だけなのです。覚えていますか。半年程前、思い出しただけでも憎くて
last updateLast Updated : 2026-01-09
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グロテスク、開花。後戻りはできない

   ♠ 亮唯織と別れ、沙耶と一緒になって四か月が過ぎた。もうすぐクリスマスの時季で街は赤いリボン、緑の電飾、白いモフモフが前後にも左右にも溢れていた。隣には桃色に輝く笑顔の沙耶が寄り添ってくれる。みなとみらいでディナーを食べ、和田町の自宅へ二人で並んで歩いている。ディナー代金は沙耶の方で用意してくれた。俺は結局バイトも辞めて音楽活動しかしていない。「今日のステーキ美味しかったね。また行こうね」和室に二人向かい合って座り、缶チューハイで乾杯する。一口飲み、お互いに微笑み合う。二人でクリスマスイブの日は何をするか計画を出し合って談笑する。カーテン越しに冷気が染み込む。少しだけ寒いが気にならないほど楽しく心も温かくなっている。「実は今日さ、他にも言っておきたいことがあるんだよね」沙耶は正座をし、急に姿勢を正して真剣な表情になった。何か気に入らない言動をしたかなと思い焦った。沙耶とは一生一緒のつもりだ。絶対に嫌われるような言動はしたくない。不安な気持ちをよそに夢があるのと彼女は真剣な顔で語り出す。「将来メイド喫茶を開きたいってずっと思っているんだよね。高校時代にメイド喫茶でバイトしていた時期があるんだ。当時流行ってもいたし、楽しそうだからメイド喫茶を選んだんだけど、今でも楽しい記憶が残っていて天職なんだなって思っているんだ」唐突な夢語りで驚いたが、酔いも手伝って打ち明けてくれたのだろう。メイド服を着た沙耶はさぞ似合っていただろう。彼女は幼い顔立ちと百六十台前半くらいの身長を持っており、少女感と美人な女性の雰囲気を同居させている。加えて垂れ目気味のつぶらな瞳が儚さも演出している。「今はお父さんの会社で働いているけど、中々資金が集まらなくて。お店開くのってやっぱ大変なんだなあって思っているの」畳の表面を指でなぞる。相当酔っているのか唐突に声を出さずに涙をホロホロとこぼす。彼女の涙を見ていると俺の生活費のせいではないかと自責の念を抱く。どす黒くて重量のある罪悪感が胃の中で発生し苦しい。あわあわとだけ言葉が出る。生活費はもう送らなくて良いと言おうかと迷う。だが、沙耶からの支援がないと今の俺は食い扶持がなくなり餓死する。またバイトの面接からになるが、再び受かるなど考えられない。
last updateLast Updated : 2026-01-09
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艶撫亮を作る

卓袱台の上には鋸包丁が二挺、錐が一本、水酸化ナトリウム水溶液二五〇ミリリットルの入った瓶が一つ、砂利一掴み分がビニール袋に入って置いてある。午前中に揃えて来た。平日の十三時、カーテンを三重にして何枚もの敷布団や掛け布団を窓の前に層を作るように重ね、音が洩れないようにした。そんな部屋に一人きり。沙耶は艶撫亮になる未来を想定して、角部屋で上や隣に居住者のいない部屋を契約したのかもしれない。念のため壁や天井にも段ボールをガムテープで貼り付け、プチプチと呼ばれている気泡緩衝材で覆う。タオルを丸めて猿轡のように噛み、準備は完了だ。だが、まだ心は準備ができていない。実行の時間になっても案の定、踏ん切りが付かない。沙耶を繋ぎ留めておく目的のためには手段を問わないつもりだが、艶撫亮になるのはどうしても抵抗を覚える。もちろん今のまま活動を続けても売れるのは厳しい現実も理解している。ラインを開いて改めて共有されたファイルを開く。「艶撫亮へのなり方」には徹底して顔面を無残に破壊する方法が淡々と記載されていた。なぜ顔面を破壊しないといけないのか。「艶撫亮の意味」の冒頭に書かれていた。〈embryoつまり胎児は人間の未完成の状態だ。胎児と同等の未完成になるため完成された人間から離れる必要がある。人間から離れるために目鼻口が揃った顔を手放すのだ。未完成の存在を体現する艶撫亮は皆の鏡像と同等だ。なぜなら人は皆完璧ではないからだ。未完成な人類は同じく未完の芸術的存在である艶撫亮に共感して心惹かれる。未完の存在の艶撫亮と自身とを重ね合わせて自分自身のように鑑賞する。皆、艶撫亮の完成を願い、見守り続ける〉この理論が正しいか判断するには俺自身がまず顔を破壊しないと始まらない。深呼吸をすると畳と段ボールの匂いが鼻腔を満たす。自室はこんな良い匂いがする場所だったのか。卓袱台の上にある水酸化ナトリウム水溶液の瓶に手を添える。平日の昼間、外は静寂。誰もいやしない。大丈夫だ。スルリと穏やかな空気を裂くように瓶を頭上へ向かって持ち上げる。丁度目線の高さまで掲げる。瓶の中の液体が緊張と恐怖によって震える。本当にこれで良いのかと何度も頭の中で繰り返し、ゆるゆると瓶を手にした左手を頭上に持って行く。一気に緊張が絶頂へ達し、
last updateLast Updated : 2026-01-10
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甘ったるい餡子のような匂いを放ち、私を捕らえる

   ♢ 唯織自宅の布団の上で胡坐をかいたまま、スマホを持って絶句していた。一瞬自分が何を見ているのか分からなかった。亮の公式ユーチューブチャンネルの名称が変わっている事実に今日気が付いた。──艶撫亮。公式チャンネル一体何があったのか気になって確認すると、新曲のプロモーションビデオがアップされていた。──「頽廃と新生」ミュージックビデオサムネは黒地に白い文字で曲名とアーティスト名が書かれているだけだった。ミュージックビデオの内容は、最初は真っ黒のシルエットしか映されていない男が真っ白の空間で歌っていた。歌声は確かに亮のものだった。徐々にシルエットから顔が浮かび上がり、最後には真正面からの彼の顔がアップで映し出された。徐々に浮かび上がる艶撫亮の顔に最初の視聴の時、恐怖と衝撃で最後まで観られなかった。あの顔は亮なのか。声は本人なので確実に亮なのだろう。布団の上に寝転がり、動画から受けた衝撃を時間をかけてゆっくり受容する。私と同棲していた頃の亮はありきたりな何の特徴もない曲を披露していた。今回の艶撫亮としての新曲は今までの亮では絶対に作れない曲だ。誰かが亮に何らかの影響を与えたとしか考えられない。では、誰がどんな影響を与えたのか。私の頭の中には亮が新たに好きになった女性の存在が際立っている。彼が変わったのはその女性と出会ってからだ。原型を留めないほどに破壊された彼の顔は一つ連想させられるものがある。「小中学生立ちんぼ倶楽部」のやり口として、女の子に依存し始めた男たちは体に女の子の名前の入れ墨を彫るなどし、身体に何らかの細工をして依存度を高められていたようだ。他の女性に意識を持って行かれないようにするためだ。亮もう艶撫亮として生きるしか道がなくなったと言っても過言ではない。艶撫亮は顔が人間のものではなくなっているので、他の女性と深い関係になる未来はないはずだ。動画で見ただけでも悲惨と分かる顔を見て合同会社の陰を感じる。気のせいだとは思えない。何か女性の情報がないかと手あたり次第で艶撫亮の情報を調べてみたが何も出なかった。だが、気になるSNSでの投稿を発見した。──二月〇日〇時 横浜KKスタジオ ワンマンライブ開催決定今まで路上ライブばかりしていた亮にとって初めてのライブハウスではないか。
last updateLast Updated : 2026-01-11
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艶撫亮の意味

艶撫亮のライブ当日、ライブハウスの中には今までの藤沢亮のライブでは考えられないほどの人数が来ていた。顔面を破壊した猟奇的で摩訶不思議なアーティストとして艶撫亮は、一部の人たちの間で話題になっていた。「頽廃と新生」のミュージックビデオも三十万再生に届いていた。他にもいくつか新曲を発表していたので、合計だと百万再生は優に越えているだろう。周囲を見渡すと意外と若い女性が多かった。誰が亮の恋人なのか判別できない。以前戸塚のライブにいた可愛らしい女性は見当たらない。開演時間になり会場全体が暗くなる。顔面を跡形もなく破壊した艶撫亮が初めてステージに現れるため周囲の緊張感も高まる。暗く禍々しい雰囲気のSEと一緒にステージ上に人影が現れた。照明は点いておらず、ひょろ長い人間の影だけがステージの中央に見える。人型を見て間違いなく亮だと思う。まだ顔は見えない。SEが止まるとアコースティックギターを激しく掻き鳴らし、ライブが幕開けした。一体どんなライブをするのか。荒くなくしっとりでもなく、ねっとりとした旋律が特徴的なイントロで始まる。「頽廃と新生」だ。──生み落とされることはなく/ねじり引き摺り出された罪なき罪人/不完全な私の卵はモズの巣へと/口なき口へミミズの死骸が落とされて/母は外から笑う/花の蜜の臭いが漂い私を狂おすAメロとBメロの間に照明が点いて亮を照らす。見るも無残な人間の残骸のような顔が浮かび上がる。彼の顔を見た観客たちは悲鳴と絶句、絶叫、号泣の全てを混ぜた音を発した。動画で見ていたが、やはり実物はとても見られるものではなかった。焼け爛れたような頭皮、潰れた目元、穴だけになった鼻。傷だらけの頬。亮本人は周囲の反応を気にせずに何やら台詞を述べる。「embryo、俺は胎児になり変わった。胎児とは五体満足の人間になる前の未完成な存在。そんな未完のものは常に完成を目指すものであり、既成の作品のように古くなって過去のものにはならない究極の作品である」彼は何を言っているのか。亮が自分自身で考えた理屈とは思えない。メロディーのうねりが大きくなっていく。大蛇がせせらぎの浅瀬でネロネロのたうち回っているような曲調のままBメロに入る。──母は俺が生きることこそ罪と言う/爪を立て、脳みそを掻き
last updateLast Updated : 2026-01-12
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第五章 苦しみは人生を腐敗させる

   ♠ 亮ライブ後楽屋に戻る途中、スタッフすら誰も寄って来なかった。俺の体とギターがぶつかってアコギの中の空洞でコンコンと何でもない音が響く。「どうしよう」楽屋に入って震えながらパイプ椅子に座り、独り言を発する。ドロリと心労にコーティングされた絶望の塊が胃の中でちゃぱちゃぱしているようだ。電気も点けずにぼんやりしていたため、間違ってスタッフが一人楽屋に入って来た。彼は俺に気付くと、あっと言って慌てて去って行った。その一音には何が意味されているのか。気まずさの他にもお前みたいな人間にならないで良かったという優越感もあるだろう。とりあえず電気を点けてから今後について考えよう。ミュージックビデオの再生回数も今までにないほど稼いでいたので、売れっ子道を突き進めると楽観していた。だが、今日のライブは惨憺たる結果だった。女性は炎が爆ぜたように怒り、男は冷笑するような目つきで見ていた。沙耶は艶撫亮になれば売れると言った。彼女のメイド喫茶の夢もあるので嘘ではないはずだ。では、沙耶もこんなに女性たちが怒ると予想していなかったのか。同じ女性としてそんなことがあるだろうか。今日は沙耶に会えていないので真相が聞けていない。ライブ前に楽屋にも来てくれず、ステージ上からホールを眺めても沙耶らしき人物は見当たらなかった。とにかく彼女に今回のライブの失敗を知らせないといけない。今後については、それから一緒に考えるしかない。今日はたまたま上手く行かなかっただけの可能性もある。ラインの通話ボタンを押してから長い時間出てくれなかった。ようやくつながった頃には少し苛立ちも覚えていた。どうして初ライブの日にすぐ電話に出ないのか。本当は俺に興味ないのか。艶撫亮になることを渋った時に、すぐに俺を捨てようとした姿が頭の中に残っている。「もしもし、今どこにいるの。どうして今日来てくれないの」「ごめん用事があって遅くなった。今横浜駅にいてこれから向かうところだよ。ってかライブ中じゃないの。どうしたの」「駄目だった」俺の言葉に電話の向こうにいる沙耶も黙った。群衆の話し声や車の走行音が聞こえる。クラクションや信号機の鳩の鳴き声も混じる。「どっ、ど、どどどどうしよう」我慢できなくなって弱音が流れ出る。溜め込んだ涙
last updateLast Updated : 2026-01-15
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世間は艶撫亮など求めていない

翌朝、布団の上で一人古ぼけた天井を見つめていた。右目を潰しているため、以前よりも狭くなった視界で木目の模様を追っていた。結局、昨日の通話以降、沙耶から連絡は来ていない。俺が心配ではないのか。普通好きな男が電話越しに泣いていたら心配して連絡くれないだろうか。もしかしたら本当に俺を好きではないのか。艶撫亮になれる都合の良い存在だとしか思っていないのか。不安な気持ちがどうしても頭から離れない。一切心配してくれる様子が見えないとなると、実は俺を好きではなかったとしか考えられない。とにかく沙耶の気を惹かないといけない。彼女に心配されるような身にならないと駄目だ。今はバイトもしていないので、もし俺がバイトでも働き出したと知ったら沙耶は何を思うのか。以前ラブホの仕事に行こうとしたら辞めるように勧めた。あの時と気持ちが変わっていなければ、俺が働きに出ようとしたら止めるだろう。正しい判断かは分からないが行動するしかない。スマホで単発バイトの募集情報を検索かけた。一週間後に一件人材派遣会社の説明会の予約を入れた。実際に行動に移すと焦燥感がよりリアルに感じられて布団の上で震え続けた。世間ではバレンタインの日、未だに沙耶から連絡は来ない。何度も俺から送ろうかと考えたが、返信がなかった場合が怖くて結局送れなかった。派遣会社の説明会のため会場のオフィスに到着した。受付の三十代くらいの女性は眉根を寄せて不信感を隠す素振りすら見せない。「帽子とマスクを外してもらって良いですか」息が止まりそうになる。この言葉を予想できなかったわけではない。だが、わざと考えないようにしていた。今更外さないわけにはいかない。言われたならば仕方がない。一呼吸置いて恐る恐る頭部を覆っていたニット帽とマスクに手を伸ばして外していく。気づいた時には悲鳴と怒声と奇声の渦が周囲に広がっていた。立ち眩みを起こすほどの刺々しい音だ。ふらついているとそのまま追い出された。同じフロアの別のオフィスから出て来た人々の視線が針の筵だ。ナニアレ、イヤダ、という言葉が耳に入り、余計に辛い。今まで沙耶に言われた通りに動き、沙耶の視線だけを気にしていれば良かった。だが、一歩外に放り出されたら全く異なる世界が待っている。その後外出すらもやめた。スマ
last updateLast Updated : 2026-01-16
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唯織と沙耶、遂に直接対決へ①

   ♢ 唯織二月末、夜の寒さもより厳しい季節になった。ライブの大失敗以降、艶撫亮は全く活動をしている気配がない。ライブ後に送ったメッセージにも返信はなく、もしかしたら彼は失意から自殺をしたのではと少し心配していた。あれから山本さんも現れずに比較的平穏な生活は送れているものの、不安がゼロになったわけではない。どこで「生きとし生けるもの合同会社」が潜んでいるか分からない。仕事終わり、夜の冷気は鋭利。自室に入る前に郵便受けを確認すると既視感のある茶封筒が見えた。今回も差出人の記載がない。完全に平和な生活となっていなかった。鼓動が激しくなり胸の内側の肉を圧迫する。呼吸は荒く、茶封筒を急いで雑に開けた。〈明日、横浜駅の相鉄ジョイナス前の広場にて艶撫亮がライブを行います。時刻は十五時前後。本間さんの参加を心から望みます〉前回と違って短い文章のみ。差出人の名前も書かれていない。私の住所を知っており茶封筒で手紙を渡す人物といえば山本さんの顔が浮かぶ。スマホで亮のホームページやユーチューブ、SNSを確認したが、明日横浜で路上ライブをする告知はなかった。何か目的があって横浜駅前に私をおびき寄せようとしている。手紙の差出人と合同会社は関係があるはずだ。何を目論んでいるのかは分からない。印刷された短い文章を椅子に座って眺めながら色々考える。結局行ってみないと何も分からなさそうだ。丁度明日は休みなので十五時に横浜には行ける。恐怖は当然あるが、何もせずに怯えているわけにはいかない。翌日、十四時半過ぎに相鉄ジョイナス前の広場に到着した。だが、亮の姿は見当たらなかった。古着屋や個室ビデオ屋があるビルの裏側にいるのかと思ったが、そこにもいなかった。実際は亮がここに来る事実などなく、私を呼び寄せる目的だったのか。まだ、十五時にはなっていないので三十分ほど時間を潰して戻った。変わらず路上ライブをやっている亮の姿はなかった。不満を抱きながら徘徊していると、喫煙所のパーテーションの脇に蹲る不審者の影を発見した。痩せ細って長いナナフシのような体の男は間違いなく亮だ。頭を黒のニット帽でしっかり隠しているが何となく分かる。「藤沢亮。あんた何やってんのさ」黒のニット帽に覆われた頭が振り向いた。マスクで鼻から
last updateLast Updated : 2026-01-17
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唯織と沙耶、遂に直接対決へ②

読みながら、よくこんなもの受け入れたと恐れを抱き背中に変な汗が流れた。艶撫亮という名前は胎児を意味するという点を発端に幾つかの意味を含むようだ。一つ目は、胎児は未完成で完成へ向けて進むものという意味。未完成の存在は人々から完成を期待される存在だと言う。人は自身の人生の完成と重ね合わせて未完の者(艶撫亮)をいつまでも観察するそうだ。二つ目の意味は、生命の端緒としての胎児は人々に心の中の郷愁を呼び起こすという。生命の完成直後の赤子は、ものを考えることはできないが思考の芽を持つ。赤子は常に愛らしく人々を惹き付けるが、誰もが経験している。最も普遍的な存在だそうだ。次の三つ目は、艶撫亮のように人為的に作った未完は一度死の淵を歩いたものだと言う。艶撫亮は生死の世界に最も近い存在で、生死を司る世界は人間の目からは見えないブラックボックスの領域だ。ブラックボックスは人の期待を生成し、艶撫亮自身を神聖にさせると書かれている。最後は、堕胎という行為があるように、胎児(未完のもの)は人間によって運命を握られているという意味だ。人間の際限ない支配欲を満たし、艶撫亮は一度売れても延々と人の心を掌握し続けるとされていた。「こんなので納得できたの」何度か読み返したが、納得できない。読んだ結果、やはり沙耶という女性が拵えた案ではないと確信は得た。堕胎について言及して、人間の支配欲云々と言えるのは男性しかあり得ない。私自身、読んでいて嫌悪感を抱いた。「これ読んだ時に、沙耶という女性に対して疑いの気持ちを抱かなかったの」「抱けなかった。俺はもう沙耶なしの人生なんて無理だと思ったから」どういう意味か聞くと、今住んでいるアパートの賃料や引っ越し費用も、生活費の全てに至るまで沙耶が工面してくれていると言う。私に別れを切り出し、すぐに引っ越しできた背景がようやく理解できた。インタビューの内容と完全に一致もしている。沙耶が合同会社関連の人間だとますます確信を深めた。「そもそもメイド喫茶を開くっていう夢があるのに、何で亮の生活費を面倒見ているの。矛盾しているでしょ」亮もそのあたりは疑問に思っているようで何も言い返さない。ただ頭を落として黙考している。「その沙耶っていう女性は何の仕事をしているの」「何か雛人形を作る
last updateLast Updated : 2026-01-18
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美が醜を飲み込む。狂っていく

   ♠ 亮唯織は沙耶を怪しい女と言っていた。公園から自宅に帰り、和室で大の字になって倒れて考え事をしていた。唯織の言い分も理解できる。今まで疑問に思っていたが、沙耶への思慕を持続させるために無視し続けてきた点がたくさんある。特に金銭に関する矛盾だ。なぜメイド喫茶を開店させたい人が俺の生活費を出すのか。未だに完璧な回答を俺自身も出せない。佐々木姓の雛人形を作る会社の社長が存在しないという唯織の言葉が頭の中に残っている。公園で沙耶と唯織の会話に聞き耳を立てていたが、いつもの沙耶の声とは思えなかった。綿菓子のような柔らかさはなく、鉄鋼でできた鉄くずの塊みたいに冷たく無機質だった。沙耶を信じて良いのか。一度寝転び起き上がれなくなった。うつらうつらしているとインターホンの音が耳に入った。ようやく起き上がって覗き穴に目を当てると、沙耶がいた。さっき唯織から、沙耶から連絡来たら絶対に連絡するようにとラインのメッセージが来た。確かに沙耶の正体に不安を抱いた今となっては、唯織に連絡入れた方が良いと分かる。だが、最後まで信じたいという俺もいる。沙耶が現れてからの生活は確実に幸せだ。今は艶撫亮が受け入れられずに幸福度が低迷していてもいつかは上昇すると希望を抱ける。沙耶と仲睦まじく生活していれば陽の力が漲り、困難も打開できると期待できる。唯織に連絡せずに扉を開けた。「亮君。心配したんだよ。会えて良かった」扉が開いた瞬間、沙耶の円らな目が輝き涙が溢れ出た。棒立ちしていると両腕を俺の首に巻き付け密着した。彼女が着ている白のステンカラーコート越しに柔らかな肉を感じ、辛うじて残った鼻孔から髪の毛の良い香りを吸収する。何が起きたのか一瞬分からなかった。「今まで連絡できずにごめんね。でも、ずっと亮君とのこれからのことばっかり考えていて、連絡できなかったの。だから、許して」沙耶の哀願するような言葉を聞き、体が蕩けそうな心地となる。唯織がどんなに怪しいと言おうが俺には沙耶しかいない。彼女の正体が何であろうとどうでも良い。彼女だけが俺を認めてくれる。だから、俺は彼女だけを愛する。彼女と抱き合いながら部屋の中に入り扉を閉めた。三和土に立ち、お互いに一旦離れて見つめ合う。ダークブラウンの瞳を目にし
last updateLast Updated : 2026-01-20
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