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《断ち切るのは我が意》全部章節:第 211 章 - 第 220 章

324 章節

第211話

「来希、危ないから、まずそこから下りて。死んだって、何も解決しない。あなたが死んだら、お母さんはどうする?怜はどうなるの?二人を残して、それで本当にいいの?」来希は萌花を見た。声が震えて、ほとんど泣き声のようだ。「萌花……俺はもう終わりだ。完全に終わったんだよ。苦しくて、もう生きていけない」「来希、あなたが終わらせたいのは、その苦しみであって、命じゃないはずよ」来希の指先に、力がこもった。「そうでしょう?来希、本当は死にたいわけじゃないんでしょう?」萌花は、探るように静かに言った。来希は否定しなかった。彼はまた顔を背け、眼下に広がる底なしの闇を見つめた。その闇は、まるで深い淵のように彼を引き込もうとしている。ここに立ってからずっと、来希の頭の中では二つの声がせめぎ合っていた。一つは、飛び降りればすべて終わると言っていて、もう一つは、まだ死にたくないと叫んでいた。けれど、生きたところで、今の自分にすべてを受け止める勇気があるのか分からない。希望というものを、来希はもう完全に失っていた。彼は首を振った。「萌花、俺にはもう何もないんだ。何もないどころか、とんでもない借金まで背負ってる。返せないんだ。どうしたって、返せるわけがない」その顔には、深い悔恨がにじんでいる。「俺がこの人生で一番後悔しているのは、おまえを傷つけたことだ。もしもう一度やり直せるなら、きっと大切にする。萌花、最後にもう一度おまえに会えただけでも、俺はまだ神様に見捨てられていなかったのかもしれない」「来希!」萌花は、彼の名前を強く呼んだ。「来希、まだやり直せる。私は信じてる。あなたなら、もう一度立ち上がれるって」萌花は、来希という人間をよく知っている。彼は昔から、挫折するとすぐに悪いほうへ考えてしまう癖がある。起業していた頃も、危機は何度もあった。そのたびに、萌花が励まし、来希はまた立ち上がってきた。来希には長所もある。苦しさに耐える力があり、やると決めたことをやり抜く行動力もある。来希の目に、かすかな光が戻ったように見えた。「……俺を信じてくれるのか。本当に?」萌花はうなずいた。「信じてる。あなたなら、もう一度やり直せる。ほら、昔だって何もないところから始めたじゃない。あれから
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第212話

周りの人々も次々と来希のそばへ集まって、慰めたり、励ましたりし始めた。萌花は人垣の向こうに、少し離れた場所に立っている時雄を見つけた。彼の顔はひどく冷えていて、瞳の奥まで薄い氷をまとったように見える。萌花は、そんな時雄を見たことがなかった。やがて時雄は、くるりと背を向けて立ち去った。萌花は追いかけようとしたが、その腕を来希につかまれた。「萌花……少しだけ、話せない?」結局、萌花はその場を離れず、来希と一緒に近くのカフェへ向かった。来希は、長い時間話し続けた。このところ自分に起きたこと、はなの態度が豹変したこと、尚子の終わらない愚痴や責め言葉や怜のどうしようもなさなど、話しているうちに、来希は最後には涙を流し、何度も自分を責めた。「俺にはもう、あんなことを言う資格なんてない。それはちゃんと分かってる。萌花、俺みたいな最低な男から離れたのは、おまえの人生でいちばん正しい選択だった。俺たちはふさわしくない。ここまで落ちたのも、全部俺への報いだ。報いなんだよ。昔成功したって、本当は全部おまえのおかげだった。おまえがいなければ、俺はここまで来られない。それなのに、俺はずっとそれを認めたくなかった。おまえの力で成功したなんて、どうしても認めたくなかったんだ。くだらない見栄にしがみついて……本当に、俺は自業自得だ」萌花は静かに言った。「気づけたら、いつからでも遅くない。人生は、思っているより何度でもやり直しがきくものよ。全てを否定しなくてもいい。あなたにも長所がある。頭もいいし、努力もできる。だから、きっとまた立ち上がれる」来希は顔を上げ、しばらく萌花をじっと見つめた。「萌花、俺たちには……もうやり直す道は残っていないのかな」萌花の表情は穏やかである。彼女は首を横に振った。「私たちは、もう終わったの。あなたに必要なのは、私ではなく、新しい人生よ」来希は小さく笑った。「聞いてみただけだ。分かってる。幸せになってくれ。今度は、本心からそう思ってる」萌花はうなずいた。「あなたも。諦めないで」「さっきは、一瞬、何も見えなくなっただけだ。今はもう分かってる。俺は努力する。もう一度、立ち上がってみせる」萌花は来希と別れたあと、すぐに時雄へ電話をかけた。けれど、時雄は出なかった。これは初
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第213話

萌花は深く息を吸った。「ここは私の家でしょう。帰らないわけないでしょう?」萌花はできるだけ穏やかに言ったつもりで、責めるつもりも、言い争うつもりもない。顔にも少し笑みを残している。けれど、今夜の時雄には、それすら届かなかった。「てっきり、今夜は来希のところに泊まるのかと思った」萌花は眉をひそめた。それでも、できるだけ落ち着いて説明した。「目の前で人が死のうとしていたのよ。見殺しになんてできない。なんでそんなに怒っているのか、私には分からないわ」「なんで怒っているかって?君がまたあいつに振り回されたからだよ。本気で死ぬつもりなら、あんなところにあれだけ長く立っていられるわけがない」萌花も言い返した。「でも、実際に彼はあそこに立っていた。だったら、手を伸ばすべきでしょう。あんなふうに追い詰めるようなことを言うべきじゃなかった」あの時、時雄が口にした言葉を萌花ははっきり覚えている。来希の中から最後の未練まで消えかけて、本当に飛び降りてしまうのではないかと感じた。「あんなクズ、生きてるところで何の意味がある。死にたいなら、死なせておけばいい」萌花は表情がすっと冷え、見知らぬ人を見るような目で時雄を見つめた。「どんな人でも、命は命でしょう。なんでそんなに冷たいことが言えるの?」時雄も立ち上がった。「あいつの命が、君にはそんなに大事なのか。それとも君は、最初からあいつを完全には忘れていないのか」「そんな言い方はやめて。今日あそこに立っているのが誰であっても、たとえどうしようもない悪人だったとしても、手を伸ばしたと思う。まして……」時雄は薄く笑った。「まして、君の元夫で、君が一度は愛した男だから。そうだろう?」「そうよ」萌花は、時雄がなぜそこまで怒っているのか本当に分からない。あの場で見過ごせば、来希は本当に死んでいたかもしれない。そんな状況で、何もしないという選択は萌花にはできない。「君は本当にお人好しなんだね」「何がお人好しなの?少し励ましただけでしょ。何か約束した?お金を渡した?ただ、生きることを諦めないでと言っただけでしょう。どこが間違っているの?私は彼を見殺しになんてできない。あなたなら分かってくれると思っているのに、そこまで冷たい人だとは思わなかった」時雄は冷た
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第214話

その日一日、萌花は会社にいてもどこか上の空だった。隼人でさえ、その様子がおかしいことに気づいた。「チーフ、どうしたんですか?」萌花は首を振った。「別に、なんでもないです」「何もないって顔じゃないですよ。今日のチーフ、顔に何かありましたって書いてあります」隼人は人懐っこくて、どこか大型犬みたいな雰囲気がある。ふわふわした髪も相まって、萌花は時々、彼を見ると大きな犬を思い出してしまう。隼人は少し遠慮がちに尋ねた。「チーフ、今の感じ……ちょっと失恋した人みたいです」萌花は小さく笑った。「変なこと言わないでください」隼人は唇を結んで、また口を開いた。「チーフ、今夜って時間あります?」萌花は彼を見た。「何か用事があるのです?」隼人は赤くなった耳をかきながら言った。「いえ、大したことじゃないんですけど……今日、姉が帰国するんです。それで食事に誘われてて。満や竹内正至(たけうち まさし)たちも行くんで、チーフも気分転換に来ませんか」ちょうどそばにいる満も、すぐに乗ってきた。「チーフ、一緒に行きましょうよ。隼人のお姉さんなんて、普通はなかなか会えない人ですから」萌花は少し興味を引かれた。「なかなか会えない人って、お姉さん、機密技術でも扱ってるのですか?」満が大げさにうめいた。「チーフ、本当に頭の中が技術のことばっかりですね。隼人のお姉さんは大女優ですよ。陸崎紗夜(りくざき さや)です」萌花は一瞬きょとんとして、それから「ああ」とだけ言った。満は疑わしそうに彼女を見た。「まさか、知らないんですか?」萌花は本当に知らなかった。芸能界のことには、まるで関心がなかったのだ。隼人が話をまとめるように言った。「じゃあ決まりです。今夜は雲居に行きましょう」萌花は本当は残業するつもりだったが、結局半ば引っ張られるようにして、雲居へ向かうことになった。雲居は、海城ノ浦で最も豪華なクラブというわけではない。むしろ、外から見れば驚くほど控えめな場所である。完全会員制で、客層は限られている。政財界の有力者や芸能人が好んで使うのも、その徹底したプライバシー管理のためだ。萌花は隼人たちについて中へ入った。廊下を歩いている途中、不意に胃の奥がむかむかと波打って、吐き気がこみ上げる。
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第215話

その声は、驚くほど美しい。澄みきっていて、どこか現実味がない。萌花は一瞬、それが本当に人間の声なのか分からなくなった。まるで地獄の底から這い上がってきた何かが、人の心を絡め取ろうとしているようだ。その瞬間、萌花の胸がどくんと跳ねた。声の主がどんな顔をしているのか、どうしても確かめたくなる。彼女は思わず一歩、前へ出た。その拍子に、つま先が扉に触れ、小さな音を立てた。「誰だ?」萌花は反射的にその場を離れ、身を翻して廊下の角を曲がり、そのままエレベーターへ駆け込んだ。扉が閉まってからも、胸の鼓動はなかなか収まらない。萌花は、ふいに自分に問いかけた。——どうして逃げたの?いつもの自分なら、きっと扉を開けていたはずだ。中にいるのが誰なのか、自分の目で確かめずにはいられなかったはずなのに。萌花は少し後悔した。それでも、今の一瞬で、彼女の中に小さな疑念が生まれた。時雄は、普段自分の前で見せている時雄だけではない。彼には秘密がある。そして、その知らなかった一面が、巻物をほどくように少しずつ萌花の前に広がり始めているような気がした。ほどなくして、隼人から電話がかかってきた。隼人は萌花を見つけると、そのまま個室へ連れていった。けれど、そこへ向かう間も、萌花はずっと上の空だ。個室の中は、かなりにぎやかである。紗夜が歌っていて、そばに何人もの人が並んで座り、ひっきりなしに拍手を送っている。入口の気配に気づくと、皆が一斉にこちらを見た。隼人は萌花を連れて、紗夜の前まで歩いていった。「姉さん、チーフの二条さんだ」紗夜はマイクを置いて、萌花を上から下までゆっくり眺めたあと、気だるげに片手を差し出し、形だけ握手をした。「二条さん、ですね。きれいですね。隼人が毎日のように話すわけですよ」隼人の顔が、一瞬で真っ赤になった。「姉さん、何言ってるんだよ。俺、いつそんなに話した?」「だって、好きなんでしょう?」隼人は慌てて萌花のほうを向いた。「違いますから。真に受けないでください。恋愛ドラマばっかり撮ってるせいで、頭の中までドラマになってるんです」隼人は明らかに動揺している。萌花は上品に笑った。「紗夜さんにお会いできて嬉しいです。陸崎さんのことは、私も弟のように思っています。陸崎さんはとて
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第216話

萌花は眉をひそめ、振り返って入口のほうを見ると、紗夜が時雄を迎えに行くところだった。紗夜は彼を、時雄と呼んだ。さっき個室の前で聞いた声は、実のところ、はっきり聞き取れたわけではない。ただ、ひどく澄んだ、耳に残る声だった。けれど、あれはおそらく紗夜ではない。あの場から、こんなに早くこの部屋へ戻ってこられるはずがない。萌花は、入口に立つ時雄をじっと見つめた。今の彼は、まるで全身に薄い黒いヴェールをまとっているようで、どこか掴みどころがなく、何かを隠しているように見えた。時雄はいつものように笑っていない。紗夜がそばまで行くと、彼はようやく無理に笑みを作った。「帰ってきたのか」紗夜はごく自然に、時雄の腕に自分の腕を絡めた。「私のこと、少しは思い出してくれた?会いたかったの」時雄は、それを軽く笑って受け流した。紗夜は時雄の腕を取ったまま皆の前へ連れて、そこにいる人たちを一人ずつ紹介していく。個室には、紗夜の友人が多く集まっていて、世界的に知られた映画監督や、プロデューサーの姿もある。時雄は礼儀正しく挨拶をした。最後に、彼の視線が、部屋の隅でデザートを食べている萌花と隼人に止まった。時雄はゆっくりとそちらへ歩いていって、紗夜に尋ねた。「こちらは?」隼人は思わず首をかしげた。二人は、知り合いではなかったのか。以前、シャドウの先輩が来た時に、もう顔を合わせているはずだった。それに萌花は今、パーセクテックの研究開発本部長だ。その人事は、時雄自身が決めたものでもあるから、知らないはずがない。紗夜が笑って答えた。「こちらは二条さん。隼人の上司よ。あなた、社長のくせに、会社の社員も知らないの?」時雄は、望んでいた答えを聞けなかったようだ。「隼人がわざわざ君に紹介するくらいだから、ただの上司というわけでもなさそうだな」萌花にも、その言葉に含まれた別の意味が分かった。彼女は顔を上げ、時雄を見た。視線がぶつかって、二人とも驚くほど穏やかな顔をしている。そこで紗夜が、ようやく楽しそうに笑った。「隼人も大人になったのよ。二条さんは、隼人の好きな人よ」紗夜は何のためらいもなくそう言った。彼女の目には、実際そう見えているからだ。この何年もの間、隼人は根っからの技術オタクだ。昔から、
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第217話

隼人がそう言った瞬間、個室の中がしんと静まり返った。技術部の数人も慌てて近くへ寄ってきたが、あまりの驚きに言葉が出ない。満は萌花の腕をつかみ、ぶんぶん揺さぶった。「チーフ、本当に結婚してるんですか?」ほかの者たちも、萌花と隼人を複雑な顔で見比べている。隼人なら、今にも泣き出しそうな顔をしている。普段は技術のことしか頭になく、世間の噂にもまるで興味を示さず、毎日のように残業しているあのチーフが、すでに結婚しているなんて。紗夜も、明らかに驚いた。目の前の萌花は、どう見ても大学生のように若く見える。紗夜は口を開いた。「二条さん、もう結婚して三年になるなんて、意外ですね」萌花は、ただ淡く笑っただけで、時雄を見た。時雄の顔には、これといった表情は浮かんでいない。けれど、機嫌が悪いことだけははっきり分かる。視線がぶつかった瞬間、時雄がようやく口を開いた。「そうか。二条さんは、結婚して三年になるのか」「三年」という言葉だけ、やけに重く響いた。萌花は視線を下げ、何も答えずに、またデザートを食べ続けた。時雄に出会った時、萌花はようやく自分を分かってくれる人に出会えたのだと思っていた。面倒な感情で自分を縛らず、好きな仕事に向かわせてくれる人。そう思っていた。けれど、今となっては、それも違ったのかもしれない。そもそも、最初から忘れていた。時雄と結婚したのは、技術の世界へ戻るためで、パーセクテックという足場を借りるためだ。そこに、感情など持ち込むべきではなかった。萌花が何の反応も見せないのを見て、時雄の胸にも鬱屈したものがたまった。彼はそのまま紗夜や数人のプロデューサーたちと一緒に、麻雀卓へ向かった。萌花はデザートを食べ終え、口元を軽く拭いて、隼人に尋ねた。「陸崎さん、お姉さんと社長って、どういう関係なんですか?」隼人はまだどこか上の空だ。「小さい頃からの知り合いです。幼なじみ、みたいなものですね。十代の頃に、こっそり付き合っていた時期があったらしいです。でも、そのあと別れました」萌花は少し意外に思った。「十代の頃?」「詳しくは知りません。ただ、その時に姉さんが帰ってきて、ものすごく泣いていたんです。ずっと時雄さんの名前を呼んでいたから、失恋したんだろうなって思いまし
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第218話

萌花は部屋に入った。「今日は残業なかったわ」小春は萌花の顔を見るなり、ぱっと嬉しそうな顔をした。「ちょうどいいところに来たね。もしかして、私が今日ちょっと奮発して、宅配ピザを三枚も頼んだって知ってた?」そう言ったそばから、ちょうど出前が届いた。小春は本当に、三種類のピザを注文した。マルゲリータに照り焼きチキン、シーフード。それにポテトとナゲットまでついていて、テレビの前のローテーブルはあっという間にいっぱいになった。萌花は少し呆れた。「こんなに頼んでどうするの。一人で食べきれる?」小春は当然のように答えた。「今夜は徹夜でドラマを見るつもりだから。これでも足りないくらいだよ」萌花は小春の隣に腰を下ろすと、遠慮なくピザを一切れ取った。「急にそんなに気合い入れてどうしたの。徹夜でドラマって、明日仕事じゃないの?」小春の目は、興奮で輝いている。「推しが出てる新作ドラマなの。海外でも大ヒットして、主演男優賞を三つも取ったんだよ。今日やっと国内配信が始まったんだから、これは見届けるしかないでしょ」萌花は、小春が誰のことを言っているのかすぐに分かった。玉城蓮(たまき れん)。十年近く第一線で活躍し続けている人気俳優だ。小春は中学生の頃から、ずっと蓮のファンである。当時、蓮はデビューしたばかりで、恋愛ドラマに出演するやいなや、一気に人気に火がついた。その後、海外の名監督の目に留まり、ここ数年は海外を拠点に活躍している。出演した映画はいずれも評価が高く、興行的にも成功を収めた。日本人俳優としては、唯一アカデミー主演男優賞を手にした人でもある。萌花はふと顔を上げた。画面には、ちょうど蓮の顔が映っている。玉城蓮という名前のとおり、その顔立ちは玉のように整っている。中性的で、男とも女ともつかない美しさがある。小春の言葉を借りるなら、どんな女性でも彼の前に立てば、自信をなくしてしまうほどだ。あの顔は、まさにスクリーンのために生まれてきたような顔である。萌花は、あまりに芸術性の強い映画やドラマにはそれほど興味がない。それにかなり疲れていて、見ているうちに、だんだん眠気が押し寄せてきた。一方、小春は画面に釘づけになり、涙をぼろぼろこぼしながら見入っている。結局、小春は本当に
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第219話

萌花の胸には、ここ最近ひとつの可能性が引っかかっている。けれど、それが本当なのかどうか、まだ確かめる勇気はない。受付を済ませ、採血を受けた。検査結果を手にした瞬間、萌花は頭が真っ白になった。検査票には、妊娠していることがはっきり示されている。それを見て、萌花の胸がどくどくと音を立てた。予感は当たった。時雄とはいつも避妊していた。ただ、一度だけ例外がある。二人が初めて結ばれたあの夜だ。診察を受けたあと、萌花の中にある疑いはすべて確信に変わった。妊娠八週目、胎児は順調に育っている。ただ、子宮の中に出血のあとが少し残っていると言われた。以前は生理だと思い込んでいた出血もそのせいだ。その血腫については定期的に経過を見ていく必要があるが、おそらく自然に吸収されるだろうとのことだ。ただし、これ以上無理をしてはいけない。精神的にも、できるだけ穏やかに過ごすようにと医師言われた。萌花は検査結果や診察資料をすべてバッグにしまい、産婦人科をあとにした。気持ちはどうしても落ち着かない。この子を産むのかどうかについてもきちんと考えなければならない。病院のロビーまで下りてきたところで、萌花は尚子と怜と鉢合わせた。尚子は車椅子に座っている。萌花は考え事をしていたせいで、危うくその車椅子にぶつかりそうになった。尚子は顔をしかめ、文句を言おうとしたが、顔を上げた瞬間、萌花だと気づいた。「萌花……本当に萌花なのね」尚子は神様でも見たかのように、いきなり萌花の腕をつかんだ。「本当に萌花だね。私よ、お義母さんよ。萌花、お願い、助けてちょうだい」萌花は眉をひそめて、尚子の手から静かに腕を引き抜いた。「尚子さん、私はもう来希さんとは離婚しています。離してください」けれど尚子は、萌花の言葉など耳に入っていないようで、溜まりに溜まっていたものを吐き出すようにまくし立て始めた。「萌花、やっぱりあなたが一番よ。私が悪かったの。あのとき、あなたにあんな仕打ちをするんじゃなかった。あんな女を家に入れるんじゃなかったのよ。知ってる?あの女の子ども、来希の子じゃないの。それなのに今じゃ家で毎日ふてくされて、私たちに当たり散らして、私にまで暴力を振るうようになったのよ。もうこんな暮らし、一日だって耐えられないわ」尚子は
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第220話

その言葉を口にしたとき、萌花の頭に浮かんだのは、時雄が不機嫌そうに顔をしかめる姿である。前回は来希の命がかかっていたから、どうしても放っておけなかった。けれど今、尚子のことにまで首を突っ込んだら、時雄はきっと怒るだろう。いつの間に、時雄の顔色をこんなにも気にするようになっていたのだろうと萌花は、自分でも驚いた。尚子は萌花の返事を聞いた途端、顔色を変えた。「萌花、本気で私たちを見捨てるつもりなの?曲がりなりにも、家族だったじゃない」やはり、本性を現した。萌花はこんな人間とこれ以上言い合う気にはなれなく、そのまま背を向けて立ち去ろうとした。しかし尚子がそれを許すはずもない。彼女は車椅子から身を乗り出すようにして立ち上がり、次の瞬間、萌花の片脚にしがみついた。そして、周囲に聞こえるような声で泣きわめき始めた。「みんな、見てよ!これがうちの嫁よ!私は病気になって、いつ死んだっておかしくないっていうのに、この女は知らん顔して逃げようとしてるんだよ!息子が金を持ってたころは、散々いい暮らしをしておいて、いざ破産したら手のひら返しだよ!どこまで薄情なんだか!こんな冷たい女、見たことある?家族を見捨てて、自分だけ幸せになれると思ったら大間違いだからね!」周囲の視線が、いっせいに萌花へ向けられ、ひそひそと囁く声も聞こえてくる。尚子が事実をねじ曲げて騒ぎ立てることには、萌花ももう慣れているから、わざわざ弁解する気にもならない。ただ、一刻も早くこの場を離れたい。けれど尚子は、萌花の脚にしがみついたまま離れない。どれだけ引き離そうとしても、びくともしない。怜は恥ずかしくなったのか、とっくに離れた場所へ隠れている。萌花はスマホを取り出して、警察を呼ぶべきか、それとも来希に電話するべきかと考えているとき、ひとりの人影が、こちらへ向かって駆けてきた。その人は勢いよく尚子を蹴り倒すと、次の瞬間には萌花の手をつかみ、そのまま外へ向かって走り出した。萌花は何が起きたのか、まったく理解できない。それでも、ほとんど反射的にその人のあとを追うように走った。外へ出た瞬間、さらに訳がわからなくなった。病院の正面玄関を出たばかりだというのに、無数の記者が一斉に押し寄せてきた。その勢いは、まるで二人をのみ込もうとしているかのようだ。
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