Semua Bab 断ち切るのは我が意: Bab 231 - Bab 240

324 Bab

第231話

ほどなくして、萌花と紗夜は時雄のオフィスの前に立っていた。萌花はそこで足を止め、指先に思わず力が入った。紗夜の言葉はそれほどまでに萌花の心を揺さぶった。もし紗夜の話がすべて本当だったら、もし時雄が自分と結婚したこと自体、最初から周到に仕組まれたものだったら、自分は、あまりにも滑稽である。紗夜は迷わなく扉をノックした。ドアを開けたのは時雄の秘書で、扉の前に立つ二人を見て、明らかに驚いた顔をした。「陸崎さん、二条さん……社長はただいま会議中で、あと十分ほどで終わります」その一言で、萌花の胸に嫌な予感がさらに濃く広がった。秘書は明らかに、時雄と紗夜の関係を知っている。以前、萌花を見たときには必ず「奥様」と呼んでいた。なのに今日は違う。紗夜の前だから、そう呼ぶのを避けたのだろう。なぜ避けるのか、考えれば考えるほど、背筋が冷えた。紗夜はまるで、昔からそこに出入りしていた人のように遠慮のない口調で言った。「水原さん、悪いけどちょっと二人にしてもらえる?」秘書はすぐに部屋を出ていった。紗夜はオフィスに入ると、まっすぐ時雄のデスクへ向かい、その椅子に腰を下ろして萌花を見た。「時雄のオフィスに来たことはあります?」萌花は眉を寄せた。そういえば、時雄のオフィスには一度も来たことがない。時雄からは何度か誘われたことがあるが、萌花は、社内で余計な噂が立つのを避けたくて、足を運ばなかった。一緒に帰っても、たいてい地下駐車場で時雄を待っていた。紗夜は静かに言った。「この人の引き出しに、誰の写真が入っていると思います?」そう言うと、紗夜は腰をかがめ、時雄のデスクの一番下の引き出しを開けて、そこからひとつのフォトフレームを取り出した。紗夜はその写真をしばらく見つめていて、指先でそっと写真の表面をなぞる。うつむいたままの彼女の長いまつげが目元を隠し、その奥にある感情は読み取れない。やがて紗夜は、その写真を時雄のデスクの上に置いた。萌花にも、ようやく写真が見えた。そこに写っているのは三人である。まだ少年の面影をしている時雄、その隣で笑う紗夜と蓮。三人の関係が、たった一枚の写真からはっきり伝わってきた。三人とも、今よりずっと幼い。あどけない顔で、同じユニフォームを着ている。真ん
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第232話

「あなたがやりすぎたの。早くけじめをつけて。放っておいたらどうなるか、あなたならわかっているでしょう」そう言うと、紗夜はデスクの上からバッグを取った。「二条さんにはちゃんと話してあげて。先に帰るわ」紗夜はヒールの音を響かせながら出ていき、気を利かせたようにドアまで閉めた。その瞬間、広いはずのオフィスが急に息苦しいほど狭く感じられた。空気まで重くなり、うまく呼吸ができない。二人はしばらく、どちらからも口を開かなく、互いに相手の言葉を待っているようだ。長い沈黙のあと、ようやく時雄が口を開いた。「萌花。ごめん」「何に対して謝っているの?」時雄の目には、痛みが滲んでいる。「全てだ」萌花の胸に、重い石を押し込まれたようだ。「説明することはないの?」「ごめん」「紗夜さんが何を話したのかも知らないのに、もう認めるの?」「彼女が何を言ったとしても、嘘ではない」時雄は、何かを必死に押し殺しているようだ。それでも萌花は、まだ諦めきれなかった。どうしても、本人の口から聞かなければならないと彼女は思う。「じゃあ、私は紗夜さんの身代わりなの?私と一緒にいるのは、紗夜さんに似た子どもを作るためなの?」時雄の指が強く握り込まれ、体がかすかに震えている。「彼女は、そんなふうに教えたのか」萌花にも、二人の間にもう取り返しのつかない亀裂が入ってしまったことはわかった。それでも心のどこかではこの男に否定してほしい。そんなはずはないと、言ってほしい。そうでなければ、あまりにも残酷すぎる。萌花も指先をきつく握りしめた。「本当なの?」時雄は黙っていた。その沈黙のあいだ、萌花はまるで火の上に置かれているようで、逃げ場のない熱と痛みが全身をじりじりと焼いた。そして最後に、時雄の答えがはっきりと耳に届いた。「……本当だ」萌花は一歩前に出て、次の瞬間、乾いた音がオフィスに響いた。時雄は避けなかった。頬にはすぐに、くっきりと指の跡が浮かんだ。「どうして、そんな平気な顔で私をだましていられたの?あの頃私は、離婚したばかりだったのよ。そんな私を狙って、そこまで仕組んだの?よくそんなことができたね。十年も想い続けていたとか、ずっと前から愛していたとか、全部ただの汚い計画だったんじゃない。なる
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第233話

会社を出ると、萌花はガードレールに手をつき、その場で激しく吐いた。胃の奥が焼けるように熱い。吐き終えて車に乗ると、萌花はしばらく黙り込み、ただ前を見つめている。時雄のオフィスにはまだ明かりがついている。その光を見ながら、萌花は自分のこれまでの人生を振り返った。結局、自分が甘かったのだ。ひとつの地獄からようやく抜け出したばかりだったのに、また結婚をした。どんな理由があったにせよ、今の状況を招いた責任は自分にもある。相手の悪意を責める気持ちもあるが、自分の愚かさも責めずにはいられない。たった二か月。その代償は、もしかすると前の結婚よりも大きいのかもしれない。萌花はそっと下腹部に手を当てた。ごめんね。この世界を見せてあげることはできそうにない。萌花は白蘭邸へ帰って、すぐ荷物を整理し始めた。佳代は萌花が帰ってきたのを見て、嬉しそうに迎えた。「奥様、晩御飯は何になさいますか。温かいおしるこでもお作りしましょうか」萌花は顔を上げた。「大丈夫、佳代さん。今夜ここから出ていくから」佳代は顔色を変えた。「出ていくって……奥様、どうしてですか」萌花は詳しく説明しなかった。ただ、初めてここへ来た日に佳代が話していたことを思い出した。十年も想い続けていたとか、萌花が結婚した日に時雄が酒に酔って病院へ運ばれたとか。きっとあれも全部、よくできた芝居だったのだろう。萌花が何も言わないのを見て、佳代はひどく慌てて、時雄へ電話をかけた。萌花が荷物を半分ほどまとめた頃、時雄が帰ってきた。彼は入り口に立ったまま、荷造りをしている萌花を見つめていて、顔色は暗く沈んでいる。萌花は、彼が帰ってきたことに気づいたが、それでも顔を上げず、そのまま荷物を詰め続ける。ベッドの前を通ったとき、壁に飾られた二人の写真が目に入った。そこでようやく、萌花は口を開いた。「この写真、捨てておいて」そして何気ない口調で皮肉を添えた。「あなたも大変だったね。私をだますために、嘘をつくだけじゃ足りず、小道具までいちいち用意したんだから」時雄は何も言わなく、ただ萌花のスーツケースの前まで歩いていって、中に入っている服や荷物をひとつずつ外へ取り出し始めた。萌花は立ち上がった。「何してるの?」「まとめなくていい
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第234話

事情のすべてを聞いた小春は、しばらく言葉を失った。時雄がそんな人間だなんて、まったく想像していなかった。小春は呆然と椅子に座ったまま、ぽつりと言った。「でも、学生の頃、彼が萌花のことを好きだったのは、本当だったじゃん」 萌花は乾いた笑いを漏らした。「あの頃は、ちょうど紗夜さんと離れていた時期だったんでしょ。私が紗夜さんに少し似ていたから、余計に気になっただけなんじゃない」小春は拳を握りしめた。「最低。来希よりひどいじゃん。雷にでも打たれればいいのに」萌花は頭が痛くて、ソファに横になり、虚ろな目で天井を見つめた。あまりにも惨めで、泣きたいのに涙は出ない。あまりにも馬鹿げていて、笑いたいのに、笑えば泣いているよりひどい顔になりそうだ。萌花は口を開いた。「小春、お願いがあるの。明日、私の代わりに時雄と離婚の話をしてきて。離婚協議書に署名してもらいたい」小春はうなずいた。「わかった。明日、休みを取って行く」そこで小春は、ふと思い出したように言った。「そういえば、あなたたち、婚前契約してないよね。本気で離婚するなら、かなり取れると思うけど」萌花は静かに答えた。「向こうが払うと言うなら受け取って。でも、争うつもりはない。私はただ一刻も早く離婚したいだけなの」時雄は最低だけど、来希のような金に執着する男ではない。償いと言えば、惜しみなく差し出してくるだろう。上に立つ人間は、罪悪感を埋めるための金銭や物には、きっと惜しみなく応じる。けれど萌花にとってそんなことはもうどうでもいい。間違えたら、そこで終わらせればいい。もともと一年後には別れる可能性が高い。今はただそれが少し早まるだけだ。ただひとつ想定外なのは、お腹の子供のことだ。小春が尋ねた。「明日、一緒に行かないの?」「明日は病院を予約してある」小春には、その言葉の意味がすぐにわかった。「もう決めたの?」「決めた」この子は産めない。最初はたとえ産まないと決めても、時雄に話すつもりでいたが、今は、もうその必要すらない。「一人で行くの?」萌花は答えた。「心配しないで。先生とはもう話してある。日帰りじゃなくて、念のため入院の手続きも済ませた。付き添いの人も頼んであるから」小春は唇を噛んだ。「こっちが終
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第235話

けれど時雄は結局その書類にサインせず、そのままそれを自分の引き出しにしまい込んだ。そして低く冷えた声で言った。「俺は小林グループの代表だ。萌花と結婚するとき、婚前契約は結んでいない。財産分与となると少し面倒になる。取締役会が終わってから、改めて話そう」小春の胸の中にはすでに怒りが煮えたぎっている。それでも、どうにか堪えて口を開いた。「お二人の結婚は公にはなってないよね。最初から誰にも知らせずに結婚したんだから、今ここで静かに離婚したところで、小林グループの株価に影響なんて出ないと思うけど。それに、まず中身を見て。この書類には財産分与の話なんて入ってない。萌花が望んでいるのは、あなたと離婚することだけなの。あなたの財産なんて、彼女は少しも欲しくないんだって」小春としては、この男から何も取らないなんて納得できない。けれど萌花は、ただ早く終わらせたいだけだ。時雄は静かに言った。「彼女が望まなくても、俺には渡すつもりでいる。財産関係を整理したうえで、改めて署名する」小春は時雄をじっと見て、とうとう堪えきれずに声を荒らげた。「まさかとは思うけど、離婚したくないから時間稼ぎしてるわけじゃないよね?」時雄は顔を上げて小春を見詰める。その目には、言葉にできない重さがある。けれど、彼は認めることも否定することもしなかった。小春はもともと気が短く、思ったことをそのまま口にする性格である。「時雄、一体どういうつもりなの。まさか今さら本気になって、手放したくないの?ずいぶんご立派な純愛ね。心の奥底で大事にしてきた初恋の女が泣いても平気なの。それとも男として、あっちもこっちも手元に置いておきたいってこと?悪いだけど、萌花は他の誰かの男には興味ない。そんなもの、触るだけで汚いって言ってるの」小春は一気にまくし立てた。ところが時雄の顔には、怒りがまったく浮かばない。むしろ水のように静まり返っている。まとっている刺々しい空気まで少し薄れたように見える。まさか、罵られてすっきりしているわけじゃないだろうなと思うと、小春はますます腹が立った。「今日は署名してもらうわ。萌花の意思は変わらない。この離婚は、もう決まったことだから」「萌花を呼んでくれ。直接話したい」小春は鼻で笑った。「依頼人は忙しいの。あなたと話すこ
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第236話

どういうわけか、それが今日になって一面記事になっている。小春は氷のように冷え切った顔をしている時雄を見て、体が怒りで勝手に震え出した。ついさっきまで、時雄は罪悪感から萌花に会いたがっているのだと思っていた。まだ萌花を手放せないからだと、ほんの少しでも思った。けれど違った。彼は問い詰めるためで、萌花をさらに傷つけるためだ。小春の怒りは一気に限界を超えた。もともと気の短い彼女は、もう自分を抑えられなく、手元の新聞をつかむと、そのまま時雄の顔めがけて叩きつけた。紙の鋭い角が時雄の顎に細い傷をつけ、そこからゆっくりと血が滲んでくる。その赤が、彼の整った顔をかえって妖しく見せた。時雄は動かなかった。まばたきすらしない。その様子はまるで狂気を孕んだ人間のようだ。「時雄、あんた本当に最低ね。こっちは、あなたも少しは反省して、萌花に謝りたいのかと思ってたんだよ。なのに何? 責めたいだけ?傷つけたいだけ?あなたに、萌花のことを問い詰める権利なんてないでしょ。来希だって相当なクズだけど、あなたはその百倍もひどい。自分が萌花に何をしたかわかってるの?あれだけ人を利用しておいて、今さら彼女が誰といようが、あなたがどうこう言える立場じゃないでしょ。嫉妬だなんてきれいな言葉で片づけないで。ただの独占欲じゃない。たった二か月結婚しただけで、萌花があなたの所有物になったと思ってんの?本当に、神様に感謝したいくらいわ。あなたみたいな男、地獄から出てきた鬼みたいなものよ。二か月で正体がわかってよかった。子どもが産まれてからじゃ、本当に取り返しのつかない地獄なのよ」小春は知的で落ち着いた弁護士らしい体裁もかなぐり捨て、思いきり罵った。言い終えた瞬間、心臓が嫌な音を立てた。しまった。勢い余って口を滑らせ、子どものことを言ってしまった。いや、時雄には聞き取れていないはずだ。小春は冷や汗をかきながら、恐る恐る時雄を見た。「子どもが産まれてからって、どういう意味だ」しまった。小春は、自分の口をふさぎたい気分だ。本当に口が軽すぎる。なぜ今子どもの話なんか出したのか。それでも小春は、どうにか表情を崩さずに踏みとどまった。「時雄、萌花に子どもを産ませて、大事な初恋の女に差し出すつもりだったんでしょう? その
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第237話

小春は心の中で、しまった、と叫んだ。この男の鋭さには正直ぞっとした。しかし認めるわけにはいかないから、小春はあえて笑ってみせた。「妊娠?時雄、都合よく考えすぎじゃない?神様だって、そこまで目が節穴じゃないよ。あなたみたいな悪魔に、子どもなんて残させるわけないでしょう」小春は思いつく限りきつい言葉を並べて、どうにか時雄を怒らせ、意識をそちらへ逸らしたかった。けれど、時雄の中ではもう答えが出ている。彼は萌花へ電話をかけ始めた。しかし、何度かけてもつながらなかった。小春はなおも横からまくし立てた。「時雄、今すぐ署名したほうが身のためよ。これ以上応じないなら、こちらは家庭裁判所に調停を申し立てる。そうなれば、小林グループの取締役会だって黙っていないでしょうし――」小春が言い終える前に、時雄は軽く手を上げた。そばで控えている水原秘書が、すぐに歩み寄った。時雄は表情ひとつ変えずに言った。「小春先生をお帰しして」水原秘書は小春の前に立った。「小春先生、社長はこれから別件がございます。本日はお引き取りください」小春はその場に居座るつもりで声を張った。「別件って何?今日署名するまで、私は帰らないから」この男はもう何かに気づきかけていると小春にはわかる。今日のうちに離婚協議書へ署名させられなければ、今後は離婚するだけでも相当厄介になる。小春は頑として動こうとしない。すると時雄は、電話で小春の先生である賀来悠真(かく ゆうま)を呼び出した。悠真がオフィスに入ってくるのを見るなり、小春は今にも泣き出しそうな顔になった。「先生、この人、私をいじめるの」小春は普段、悠真に弱みを見せることなどめったにない。それだけに、今日は本当に相当こたえているのだとわかった。まるでいじめられた子ライオンのようだ。悠真は小春のそばへ行き、なだめるように背中を軽く叩いた。「いったん帰ろう。この件は、少し整理してから考えたほうがいい」小春は引かなかった。「今日、どうしてもこの離婚協議書に署名させたいの。先生も手伝って」悠真の目にも、困惑の色が浮かんだ。「小春、これは思っているほど単純な話じゃない」「今日片づけてくれたら、私、先生の彼女になってもいいよ」悠真の目が、明らかに揺れた。「悠真先生
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第238話

時雄には今、もう考えている余裕などなく、ほとんど本能で動いている。彼はパソコンで市内の医療情報システムに侵入し、ほどなくして萌花の情報が見つかった。首都大学医学部附属病院、産婦人科。午前十時、人工妊娠中絶の処置。時雄の目が大きく開いた。心臓が激しく脈打ち、胸の奥から飛び出してしまいそうだ。そのとき、画面に表示されていた時刻はちょうど十時を指していた。手のひらが冷たい汗で濡れ、頭の中が一瞬真っ白になった。けれどすぐに、時雄は無理やり自分を落ち着かせて、携帯を取り出した。首都大学医学部附属病院。萌花はすでに一通りの検査を終え、手術着に着替えて手術室へ運ばれている。今回は局所麻酔で行う処置である。医師や看護師たちはそばで忙しく動き、器具や手順の最終確認をしている。萌花は手術台の上に横たわり、天井の無影灯を見つめた。眩しい光に、目を開けているのもつらい。その瞬間、いろいろなことが頭に浮かんだ。記憶の中の場面が、走馬灯のように次々と巡っていく。広いマンションのキッチンで、何年も自分をすり減らしていた日々。パーセクテックの技術部で過ごしたいちばん楽しかった時間。そして、学生時代のあの日。雪の中で途方に暮れていた萌花の前にあの人が現れた瞬間。考えはまとまらない。ただ、涙だけが知らないうちに頬を伝っている。医師がそばへ来て、萌花が涙を流しているのに気づき、静かに尋ねた。「二条さん、本当にこれでよろしいですか。今なら、まだやめることもできます」萌花は一度、目を閉じた。そして再び開いたとき、その目にはもう迷いはなかった。「もう決めています。このまま進めてください」医師はそれ以上何も言わず、麻酔科医に準備を促した。麻酔が始まろうとしたそのとき、手術室のドアが突然開いた。医師は驚いて入口のほうを見る。若い看護師が、慌てた様子で駆け込んできた。医師は顔をしかめた。「今、手術中です。許可なく入らないでください。どこの部署ですか」「先生、今すぐ中止してください」看護師は医師のそばまで駆け寄って、手に持っているスマホを差し出した。「院長からです」医師は不機嫌そうに看護師を一瞥し、それでも結局電話を受け取った。通話を終えると、医師の表情はすっかり硬くなっている。彼はスマホを
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第239話

萌花が固まったのはほんの一秒で、次の瞬間、彼女は反射的に向きを変え、逆方向へ走り出した。追いかけてきた時雄も一瞬だけ足を止めたようだが、すぐに眉を引き締め、さらに速度を上げる。エレベーターを待っている余裕などないから、萌花は非常階段へ飛び込んだ。時雄もそのまま階段を追ってくる。二人の足音が荒く響いた。逃げる萌花と追いかける時雄。病院の階段でまるで正気とは思えない追跡劇が始まった。けれど結局、二階の踊り場で、時雄の手が萌花の腕をつかんだ。勢いを失った萌花はバランスを崩し、そのまま時雄の胸に倒れ込んだ。時雄は逃がさないと言わんばかりに彼女を抱え込んだ。萌花の額が時雄の顎にぶつかり、痛みで一瞬目の前がちらついた。時雄の顎も赤くなっているのに、本人はまるで痛みを感じていないようだ。彼はただ、萌花を食い入るように見つめている。「妊娠しているのに、あんな走り方をして……転んだらどうするんだ?」萌花は冷たく笑った。「知っているなら話が早い。最初から産むつもりなんてないもの。何かあったら、むしろ都合がいいんじゃない?」もちろんそれは本心ではない。時雄を傷つけるためにわざと言っただけだ。案の定、時雄の顔色が一気に変わって、嵐の前の空のように暗くなった。それでも、萌花を抱え込む腕の力は少しも緩まなかった。萌花は力を込めて身をよじったが、抜け出せない。「時雄、離して」「嫌だ」声は低いが、その言い方はあまりにも子どもじみていた。こういう時の時雄がどれほど意地になるか、萌花は知っている。だから彼の腕をつかんで、そのまま思いきり噛みついた。手加減などしなく、この数日間に溜まりに溜まった悔しさも、怒りも、失望も、その一噛みにぶつけた。すぐに、口の中へ鉄の味が広がった。それでも時雄は避けようとしない。結局、先に口を離したのは萌花だった。時雄の腕にははっきりと歯形が残っており、そこから血が滲み出した。時雄の声からは、怒っているのか苦しんでいるのか、何も読み取れない。「少しは気が済んだ?」萌花は顔を上げた。「被害者みたいな顔をしないで。おかしくないの?」時雄はようやく萌花を離した。萌花はすぐに数歩後ろへ下がり、彼との距離を取る。まるで、彼に触れることさえ嫌だと言うように。
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第240話

萌花は時雄の目を見つめたまま、一瞬、抵抗することすら忘れた。彼はいつものような気だるげで余裕のある表情ではなく、その目は赤く血走り、目尻まで痛々しいほど赤に染まっている。たった二、三日のあいだに、顔つきまでひどく痩せたように見える。どこか壊れかけていて、すべてを使い果たしたあと、最後の体面だけをどうにか保っているような顔である。けれど萌花には、目の前の男がいくつもの顔を持っているように思えた。今見せているのも、結局は哀れなふりなのだろう。「頼んだって無駄よ。何があっても、あなたの子どもを産まない」萌花は時雄を見て、冷たく笑った。「見る目がないわ、私。人に利用されてばかりの、どうしようもなく運の悪い人間だと思う。それはもう認める。でもね、だからって同じ目に遭う子をこの世に生んで、あなたたちの都合に振り回される人生を背負わせるほど愚かじゃない。時雄、あなたは自分の目的のためなら人の気持ちまで利用して、こんな卑怯なことができる人間よ。こんな人に子どもを持つ資格なんてない。人を育てる資格もない。あなたみたいな人間は、地獄に落ちればいい」萌花の胸は激しく上下している。胸の奥に、吐き出しても吐き出しても尽きないほどの怒りと恨みが溜まっている気がした。来希を相手にしたときはあれほど冷静でいられたのに、時雄の前ではどうしても同じようにはいかない。頭ではわかっているのに、つい相手を傷つける言葉をぶつけてしまう。結局、まだ心のどこかで気にしているのだろう。萌花は、自分が少し感情的になることを許した。ただし、今日だけだ。今日を過ぎたら、時雄への感情をすべて断ち切る。時雄は、じっとその場に立っていて、片手はまだ萌花の腕をつかんだままだ。彼の声は低く、ほとんど独り言のようだ。「俺は、最初から地獄にいたんだ」萌花には、そのつぶやきがはっきり聞き取れなかった。「何て言ったの?」次の瞬間、時雄の表情が変わった。目に宿る光が一気に冷たく鋭くなり、声も刃物のように冷えている。「萌花。この子は、産んでもらう」萌花は半ば強引に時雄の車へ押し込まれた。まさか時雄が、四人ものボディガードを連れてきているとは思わなかった。運転手が車を出し、萌花と時雄は後部座席にいる。萌花は怒りで頭が真っ白にな
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