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《断ち切るのは我が意》全部章節:第 221 章 - 第 230 章

324 章節

第221話

ハンドルを握る男は、少し意外そうに眉を上げた。「へえ。俺のこと、知ってるんだ」萌花は改めて目の前の男を見た。整った目元をしていて、うまく言葉にはできないが、どこか透き通った雰囲気のある人である。ガラスケースにしまわれた水晶の少年みたいで、あんなに明るく笑っているのに、どこか脆そうにも見える。萌花の視線は、彼の目尻にある小さな傷跡で止まった。花びらのような小さな痕が、目尻から斜め上へ流れている。不思議と醜くはない。桃の花びらのようでもあり、羽を広げた蝶の片翼のようでもある。むしろ、その端正な顔に、どこか妖しい色気を添えた。萌花は淡々と答えた。「今朝、知ったばかりです」今日は宝くじでも買ったほうがいいのかもしれない。朝、小春のところで彼の映画を見たばかりなのに、午後にはその本人の助手席に座っている。小春に話したら、嫉妬で殴られかねない。萌花はさらに尋ねた。「さっきはどうして助けてくださったのですか?」こんな有名人が、あんな無茶をしていいのだろうか。明日の一面を飾ることになるかもしれないのに。蓮は軽く肩をすくめた。「胃薬をもらいに病院へ来た。出ようとしたら、あのおばさんが君に絡んでるのが見たからさ。困ってる人を見たら、放っておけないだろ」あまりにも出来すぎた偶然だった。萌花には、少し現実味がないようにも思えた。それでも、深く追及するつもりはない。「今日は本当にありがとうございます。そこで降ろしてもらえますか、自分で帰りますから」蓮は、あからさまに白けた目を向けてきた。けれど顔が整いすぎているせいか、そんな表情でさえ、どこか甘えているように見える。「え、俺、けっこう大きな貸しを作ったと思うんだけど。せめて飯くらい奢ってくれてもよくない?」そして、前方を指す。「あの白嶺、ちょうどいいんじゃない?」白嶺は店の名前であり、オーナーシェフの名前でもある。海城ノ浦でもっとも謎めいていて、もっとも贅沢なレストラン。料金も桁違いで、夜のコースは一人十万円を超えることも珍しくない。萌花は眉を寄せた。「白嶺って、予約なしじゃ入れないんじゃありませんか?」蓮は口の端を上げた。「予約ならしてある。本当は自腹のつもりだったけど、今日は奢ってもらおうかな」萌花は言葉に詰まっ
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第222話

蓮は萌花のグラスに水を注ぎながら、ふっと口元を緩めた。その笑みに合わせて目元までやわらかく細まり、目尻の浅い傷跡もかすかに動く。蝶の翅がそっと揺れたようだ。「萌ちゃん、そんなに決めつけなくてもいいんじゃない?縁ってさ、来るときは本当に来るんだよ。初めて君を見たときから、俺たち、何かある気がしてたよ」蓮には、不思議なところがある。嫌な感じはしないが、その奥に、得体の知れない危うさが潜んでいる。以前の萌花なら、少しはその正体を探ってみようと思ったかもしれない。けれど今日は、そんな余裕がない。考えなければならないことが多すぎるから、余計なことは考えず、この食事が終わればそれで別れるつもりでいる。食事のあと、萌花は蓮の車には乗らず、自分でタクシーを拾い、もう一度病院へ戻った。そこに置いている自分の車を取り、白蘭邸へ帰った。家に帰ると、萌花はそのまま眠った。泥のように深く眠った。このところ、心を乱されることがあまりにも多かった。気持ちが限界に近づくと、彼女はただひたすら眠りたくなる。萌花は、騒がしさに目を覚ました。いや、確かにキスで起こされた。目を開けた瞬間、萌花は息をのんだ。熱を帯びた唇が首筋から耳元へと這うように動いている。彼女は本能的に上にのしかかる相手を押し返そうとしたが、腕が強く押さえ込まれた。次の瞬間、唇がふさがれ、降り注ぐようなキスに、萌花は息もできなくなりそうだ。しかし意識ははっきりしてきた。この匂いも、この気配も、あまりにもよく知っている。時雄である。萌花は少し抵抗したが、動けないとわかると、それ以上は無理に逆らわず、彼のキスを受け入れた。ひとしきり気が済めば、彼も離れるだろうと思っている。しかし、時雄はすぐにそれだけでは満足しなくなった。彼がさらに踏み込もうとした瞬間、萌花はようやく本気で抵抗した。今日の時雄は、いつもと違っていて、妙に強引で、抑えがきかない。萌花は、お腹の中に宿った小さな命を思い出した。「やめて、時雄」ようやく唇が離れ、萌花は声を出すことができた。けれど、萌花が拒めば拒むほど、時雄の動きは荒くなっていく。シャツは乱暴に引き開けられ、大きな手が彼女の下腹部に重く押し当てられる。萌花はぞっとした。あまりにも乱暴である。萌花は力い
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第223話

時雄の口元に、はっきりとした嘲りが浮かんだ。「萌花、俺に死んでほしいのか」萌花は一瞬息をのんだ。けれど彼女は、目の前の男をまっすぐ見つめたまま言った。「そんなこと、思ってない。でも、私は誰かに力ずくで従わされるのだけは嫌。たとえあなたでも、それは許せない」萌花は、自分がこれまでどれほど息苦しく生きてきたかをわかっている。愛という名前を借りた執着に縛られ、抜け出せなくなって、ようやく、自分を閉じ込めていた心の檻から出られた。もう二度と、簡単に戻るわけにはいかない。相手が誰でも同じだ。時雄が低く言った。「俺にはそんなに容赦がないのに、あのクズには十年も耐えられたんだな」萌花の瞳が、少しだけ暗くなった。「それは違う」しばらく時雄を見つめてから、萌花は静かに口を開いた。「時雄、私は、来希との結婚をもう一度繰り返すために、あなたと結婚したわけじゃない」時雄は萌花の目をじっと見て、まるで刃物でこじ開けるように、その奥にあるものを無理やり探り出そうとしているみたいだ。けれど、彼はなにも見抜けない。萌花の目は静かな水面のように落ち着いていて、そこからは何の欲も読み取れない。長い沈黙のあと、時雄はようやく萌花を解放した。それでも時雄の目には、隠しきれない落胆がにじんでいる。「昨日の夜、帰ってこなかったな。どこにいた」萌花は眉を寄せた。「そういう問い詰め方、嫌いよ」「じゃあ聞き方を変える。来希に会ったのか」目を覚ましたばかりだというのに、萌花はひどく疲れている。「小春のところにいたの。お願いだから、もう勝手な思い込みで私を責めないで。来希が飛び降りようとしたからって、私が揺らぐと思う?彼のところに戻るなんて、ありえないでしょ。あの日、彼を助けたのは、ただ人として当然だと思ってたから。目の前で人が死のうとしているのを黙って見ているなんてできないし、まして背中を押すようなことをしたら、それこそ人殺しと何が違うの。何に腹を立てているのか本当にわからない。説明できることは、もう全部説明したつもり」萌花は、辛抱強く話していた。彼女には彼女なりの価値観があり、世界の見方がある。自分がどうすべきかもよくわかっている。それ以上、自分の気持ちを押し殺してまで譲るつもりはない。そうしてま
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第224話

萌花は、胃の奥から何かこみ上げてくるような感じがして、思わず口にした。「時雄、部屋の中で煙草を吸うのはやめてくれない?」子供を産むかどうかは、まだ決めていない。それでも、この小さな命がまだ自分の中にいる以上、自分には守る責任があると萌花は思っている。時雄は、乾いた笑いを漏らした。やはり、彼女は気にもしていない。煙草なんて些細なことのほうが、彼と紗夜の関係よりもよほど大事なのだ。時雄は煙草をもみ消して、萌花を見た。「君は一度でも、本気で俺を気にかけたことがあるのか。それとも、君にとってこの結婚は、ただテック業界に戻るための足がかりか、退屈しのぎの遊びでしかないのか」萌花は静かに時雄を見つめて、胸の中には言いようのない苛立ちが渦巻いている。「時雄、この結婚は最初から、あなたが強引に進めたものでしょう。あなたが周到に仕組んだことでもある。最初の約束、覚えている?あなたの言う通りよ。この結婚が私にとって足がかりになることは、最初から話してた。だから今さら、それを責める材料にされても困るわ。退屈しのぎの遊びだと言うなら、その点ではお互い様でしょう。結局、私たちはお互いに都合がいいから一緒にいるだけでしょう。もうそう思えなくなったなら、そこで終わりにすればいい。一年の約束にこだわる必要もない」時雄の顔色はひどく悪かった。胸の内では荒波が立っているはずなのに、表情は水面のように静まり返っている。その静けさがかえって怖い。萌花は部屋に残った煙草の匂いに耐えられなくなって、時雄が黙ったままでいるのを見て、そのまま部屋を出た。夜になって、萌花はまた小春のところへ行った。ここ数日で二度目だ。しかも、彼女の顔色が見るからに悪い。大ざっぱな小春でさえ、さすがに何かあったのだと気づいた。「どうしたの。あの絵に描いたような素晴らしい旦那様とケンカでもした?」小春の中では、時雄はほとんど完璧な夫である。結婚してからの萌花は以前とは明らかに違っていて、大切に手をかけられて、見違えるほど咲き誇った薔薇のように、全身から生気があふれている。それに時雄は、萌花の仕事をきちんと応援していて、来希のように彼女を家の中だけに閉じ込めるような男ではない。萌花はひどく疲れた顔で、ぽつりと言った。「小春、私……妊娠したの」
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第225話

さすがの小春も、これは簡単に口を出せる問題ではないと思った。「そういえば、たしかに時雄、このところずっと演じてた可能性もあるかもね」小春は少し考え込んだあと、現実的な口調に戻った。「時雄とこの先うまくやっていけるかどうかは、今すぐ決めなくてもいいと思う。でも子供のことは早めに決めたほうがいいね。もし産まない方向で考えるなら、あまり先延ばしにしないほうがいいと思う」萌花はしばらく黙ってから、小さくうなずいた。「三日だけ考えさせて」小春は言った。「でもさ、時雄とのことは別として、子どもは産んでもいいんじゃない?私たち二人で育てるっていいし。だって、お二人の遺伝子だよ?」萌花は首を横に振った。「もうこれ以上ややこしくしたくないの。本当に離れるなら、子どもまで巻き込みたくない。それに、もしこの子を産んだら、小林家が黙っているはずがない」確かに、須恵は毎日のようにひ孫の顔を見たがっている。本当に子どもを産んだとして、果たして自分の手元で育てられるだろうか。母子を引き離される苦しみを味わうくらいなら、最初から産まないほうがいいのかもしれないと萌花は思う。小春は静かに言った。「どんな決断をしても私はあなたの味方だから。必要なことがあったら、何でも言って」その夜も、萌花は小春の家にそのまま泊まって、翌日、時間どおり会社へ向かった。プロジェクトはちょうど大事な局面に差しかかっていて、今日は大事な会議もあり、欠席するわけにはいかない。ただ、この二日ほど、萌花は食欲がすっかり落ちており、仕事のほうも立て込んでいて、気づけば、体つきまで少し細くなっていた。以前は毎日普通に食事を取っていたのに、この数日はほとんど箸が進まない。満や隼人でさえその様子に気づいた。「チーフ、最近何かあったんですか。全然食べてないじゃないですか」萌花は薄く笑った。「ちょっと疲れてるだけで、大丈夫です」萌花は、昼になるとたいていオフィス内のカフェテリアへ行って、昼食を済ませることが多い。席に着いたところで、スマホが鳴った。画面に表示されたのは見覚えのない番号である。それでも萌花は電話に出た。耳に届いた声はやけに心地よい。その瞬間、誰なのかすぐにわかった。蓮である。「萌ちゃん、俺のこと覚えてる?」萌花
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第226話

ファンが今の彼を見たら、きっと大騒ぎになるに違いない、と萌花は真っ先に思った。蓮は、萌花が持っている飲み物とケーキにすぐ気づいて、ぱっと目が輝いた。「本当に買ってきてくれたんだ」そう言って手を伸ばした。「萌ちゃん、優しいね」けれど萌花は一歩後ろへ下がり、袋を渡そうとはしなかった。「先に私のものを返してください」すると蓮は、急に少し意地の悪い顔をして、片手をドア枠にかけ、逃げ道をふさぐように立った。「そんなに急がなくてもいいでしょ。入って」そう言うと、彼は玄関の扉を大きく開けたまま、自分だけさっさと中へ入っていった。萌花は指先に力を込めた。それでも結局、家の中へ足を踏み入れた。中は広く、思ったよりも温かみのある空間である。木目を基調にした内装で、部屋のあちこちには観葉植物が置かれている。青々と茂る緑のおかげで、室内全体にどこか生き生きとした空気が漂っている。萌花は買ってきた飲み物とケーキをテーブルに置いた。「玉城さん、私のものを返してください」けれど蓮は少しも急ぐ様子がなく、ラグの上にあぐらをかいて、飲み物を手に取った。一口飲むと、うっとりしたように目を細めた。「うわ、マンゴーラッシーだ。これ、俺いちばん好きなんだよね。ケーキまでマンゴーにしてくれたんだ。萌ちゃん、もしかして俺の好みわかってる?」蓮はケーキの箱を開けると、大きくすくって口に運んだ。その顔は本当に幸せそうで、子どもみたいに素直に喜んでいる。そんな彼を見ていると、萌花まで一瞬、つられてしまいそうになって、思わず尋ねた。「あなたみたいな有名人が、そういうもん、食べてもいいのですか?」萌花は芸能界に詳しいわけではないが、芸能人が画面映りのために体型管理を徹底していることくらいは知っている。実際、目の前の蓮はかなり細くて、映画で見たときより、実物のほうがずっと華奢に見える。蓮はごくごくと音を立てる勢いで一杯飲み干した。そして、二杯目に手を伸ばしている。「本当はだめに決まってるでしょ。今ちょうどオフだから、数日くらいは好きなもの食べてもいいかなって。マネージャーには内緒だよ」萌花は深く息を吐いた。「もういいでしょう。返していいですか。会社に戻らないといけませんから」そのとき、蓮がふいに顔を上げ、きら
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第227話

萌花は足が止まって、その場に縫い止められたように体が動かない。彼女はゆっくり振り返った。「私の検査結果、見ました?」蓮は悪びれた様子もなく、少し笑った。「ごめん。見ちゃった」萌花の目に、かすかな嫌悪がよぎった。「誰に言われて私に近づいたのですか?」蓮が偶然を装っていることくらい、彼女はもうわかっている。「目的は何ですか?」目の前の男に、何か別の思惑があることだけはわかるが、その中身がまるで読めない。そもそも、これまで萌花は蓮と何の接点もない。だからこそ、彼の狙いがまったく見えてこない。蓮は料理をひと切れつまみ、口に入れて、親指を立てて言った。「これ、めちゃくちゃうまい」萌花は眉を寄せた。そこでようやく蓮が言った。「座って、話すから」萌花は迷わず彼の向かいに座った。「これで話せるでしょう」蓮は口を開いた。「そんなに怖い顔しなくてもいいよ。俺、君に悪いことをするつもりはないから。むしろ、けっこう気に入ってる」「あなたの言う彼って、まさか夫の時雄のことですか?」萌花が思い当たる人は時雄しかいない。蓮は笑った。「妊娠してるのに、どうして彼に言わないの?」やっぱり。萌花は目の前の男を見据え、その視線にははっきりと警戒がにじんでいる。「それは私たち夫婦の間の問題でしょう。あなたに関係あります?」「俺にはあるよ」萌花は、だいたい察した。この男が自分に近づいてきたのは、おそらく時雄が理由だ。「時雄とは、どういう関係ですか」その瞬間、蓮の目の奥に鋭い色が走り、二人をまとっている空気まで一気に冷えた。その瞳ににじんだ深い憎しみに、萌花は思わず背筋が冷えた。蓮は顔を上げ、冷えた目で萌花を見た。「宿敵、ってやつかな。どっちかが消えるまで終わらない、みたいな」萌花は眉をひそめた。すると蓮は、ふっと吹き出した。「冗談冗談。時雄とは幼なじみ。ほら、親友みたいなものかな。でもあいつ、俺の彼女を取ったんだよ? なら俺が彼の奥さんに少しくらい手を出しても、おあいこじゃない?」「時雄が、あなたの彼女を奪ったってことですか?」萌花の頭が素早く働いた。「彼女ってもしかして紗夜さんですか?」紗夜に恋人がいるという話は、隼人から聞いたことがある。
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第228話

だから、あの勢いに流された一夜のあとも、萌花は時雄との関係がそこから続いていくとは思っていない。たとえ時雄の思惑どおりに結婚することになっても、最初からこの結婚に深く期待していたわけではない。一年という期限を決めたのも、いざというときの逃げ道を残しておくためだった。それでもこの二か月は楽しかった。これまでにないほど、心が安らいでいた。萌花は確かに時雄に惹かれていた。彼と過ごす時間は楽しく、今まで知らなかった安心感さえある。だからこそ、彼が見せてくれていた優しさや余裕が、もしすべて作り物だったのだとしたら――そう考えた瞬間、時雄が急に知らない人のように思えた。萌花の中ではもう答えが出ている。恋を人生の中心に置くつもりはもうない。人は出会い、寄り添い、そして離れていく。それも受け入れられる。人生には、ほかにも大切にしなければならないものがたくさんあるのだから。「玉城さん、これは私たち夫婦の問題です。子どものことも、話すべき時が来たらちゃんと話します」時雄との問題は二人で向き合うべきことで、誰かの仕返しに利用されるつもりはない。「あなたと紗夜さんのことに口を出す立場ではないと思います。でも、これだけは言わせてください。こんな幼稚なやり方で相手に仕返しをしても、何の意味もありません。もしあなたを大切に思っている人なら、深く傷つけられるだけです。もし何とも思っていないなら、そんなことは彼女にとって、ただの笑い話にしかなりません。言いたいことはこれだけです。あとは自分で考えてください」萌花はそう言い終えると、検査結果を手に取って出ていった。蓮はテーブルいっぱいに並んだ料理を見つめ、箸を置いて低くつぶやいた。「くそ……うますぎだろ」萌花は会社へ戻った。仕事に集中していると、時間はあっという間に過ぎていった。気がつけば、もう夜になった。それなのに、オフィスには誰一人帰ろうとする人がいない。その光景に萌花の胸には思わず熱いものが込み上げた。この部署の一人ひとりが、このプロジェクトにまっすぐな熱意を注いでいる。食事も忘れるほど没頭し、壁にぶつかっても、そのたびに何度も立ち向かってきた。萌花は当初、このプロジェクトの完成には少なくとも一年はかかると思っていた。けれど今の調子なら、半年も経たないうち
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第229話

ところが、紗夜は少しも気を悪くした様子もない。むしろにこやかで飲み物を一杯手にして萌花の前まで歩いてきた。「二条さん、よかったらどうぞ」萌花はそれを受け取り、短く礼を言った。「ありがとうございます」けれど、紗夜はその場を離れなかった。「実は今日、二条さんに会うために来たんです」萌花は椅子に座ったまま、目の前の女性を見上げた。紗夜は美しい。ただ整っているだけではなく、華やかで、明るく、育ちのよさまで感じさせる美しさである。そのとき、萌花の頭にふと蓮の言葉がよぎった。――あいつが俺の彼女を取ったんだよ?なら俺が奥さんに少しくらい手を出しても、おあいこじゃない?萌花はわずかに眉を寄せた。「紗夜さん、私に何のご用ですか?」紗夜は周囲を見回した。「ここだと落ち着いて話せないので、ちょっと外へ行きましょうか」隼人はさっきから二人の会話に聞き耳を立てている。紗夜のその言葉を聞くなり、慌てて立ち上がって、顔には焦りと気まずさが浮かび、耳まで赤くなっている。「姉さん、チーフに何の用だよ。何度も言っただろ、俺たちは何でもないって。勝手にくっつけようとするの、もうやめてくれよ」紗夜は飲み物のストローを一本取り、隼人の頭を軽く叩いた。「別に、あんたの話をしに来たわけじゃないから」隼人はぽかんとした顔で固まった。萌花と紗夜は会議室へ移動した。扉が閉まると、萌花はすぐに切り出した。「紗夜さん、話があるなら言ってください」紗夜も、遠回しな言い方はしなかった。「時雄が私に黙って、あなたと結婚していたことは知っています」萌花は表情を変えなかった。「そんなこと、紗夜さんに隠す必要があるんですか。時雄が結婚することと、あなたに何の関係が?」紗夜は少し笑った。「二条さんは、本当に痛いところを突くんですね。たぶん、時雄は私のことを話していないでしょう?」萌花は静かに紗夜を見た。「紗夜さん、遠回しな話は好きではありません。一体何が言いたいんですか」「そんなに急がないでください。まずは、私の昔話を少し聞いてもらえますか」紗夜はゆっくりと話し始めた。「陸崎家と小林家は、昔から家族ぐるみの付き合いでした。私たちは生まれたときから、将来結婚するものとして扱われていたんです。両家はよく
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第230話

紗夜は一度言葉を切り、少し間を置いてから続けた。「時雄は、ほかの女性と子どもを作ると言っていました。そしてその子を、私たちの子として育てればいいって。そうすれば、その越えられない溝もなくなるから、と」その言葉を聞いた瞬間、萌花は心臓がさらに強く潰されたような感覚に襲われた。胸の奥で何かが弾け、血も肉も飛び散ったような痛みが広がる。そのとき、萌花の頭にあまりにも恐ろしい考えが浮かんできて、顔から血の気が引いた。紗夜はそんな萌花を見つめた。「今、あなたが何を考えているか、わかります。ええ、その通りです。二条さん、気づきませんでしたか。私たちは顔立ちがよく似ているんです」萌花には、紗夜の言いたいことがわかる。つまり時雄が自分と結婚したのは、ただ子どもを産ませ、その子を自分たちのものにするためだ。なぜ自分が選ばれるというと、自分が紗夜に似ていたからだ。紗夜に似た顔立ちの子どもが生まれれば、その子はますます二人の子どもらしく見える。そういうことなのだろう。萌花は紗夜を見つめた。くっきりとした目元、高い鼻筋、花びらのような唇。たしかに、二人にはどこか似たところがある。彼女は胸の奥が鋭く痛んだ。もし紗夜の話が本当なら、時雄が彼女にそう告げた時期と、自分たちの結婚が始まった時期はちょうど重なった。そう考えた瞬間、自分を十年も想い続けているという時雄の言葉まで、すべてがひどく滑稽に思えた。それ以上に萌花を苦しめたのはあまりにも皮肉な現実だ。最初の結婚では、来希は心に別の女を抱えたまま、自分に指一本触れようとしなかった。妻としてではなく、ただ家のことを任せられる都合のいい存在として扱われていただけだった。二度目の結婚ではまったく逆で、時雄は毎日のように激しく彼女を求めた。けれどそれもまた別の女のためだ。彼にとって自分は、子どもを産ませるための道具にすぎない。あるいは、身代わりだったのかもしれない。全てはあまりにも馬鹿げていて、あまりにも皮肉である。それでも、萌花は紗夜の言葉をすべて信じたわけではない。「紗夜さんの恋愛話は、ずいぶん劇的で、ずいぶん都合よくできているんですね。玉城さんが聞いたら、どう思うのでしょう」蓮の名を出した瞬間、紗夜の表情がわずかに変わった。「もう蓮に会ったん
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