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第251話

車はほどなくして高速道路へ入った。蓮はすっかり上機嫌で、「やったー!」と声を上げると、すぐに音楽をかけた。流れてきたリズムに合わせて、座席の上で体を揺らし、楽しそうに踊りはじめた。萌花は運転しながら、ずっとルームミラー越しに後方を気にしていた。ボディガードたちが追ってきていないとわかって、ようやく胸をなでおろした。蓮の顔には、まだ興奮の色が残っている。「いやあ、最高だ!」萌花は横目で蓮を見る。「怖くないのですか?時雄が」蓮は声を立てて笑った。「怖いのは、あっちのほうでしょ」萌花はしばらく黙ってから、静かに口を開いた。「今日は本当にありがとうございます」蓮はひらひらと手を振った。「いいって。別に君のためってわけじゃないし。時雄が悔しがる顔を見たいだけさ」そう言ってから、蓮は彼女に尋ねた。「で、これからどうするつもり?」萌花はすぐには答えず、代わりに実家に電話をかけた。電話に出たのは家の執事で、両親はまた海外旅行に出ているという。通話を切ったあと、萌花は蓮に向き直った。「玉城さん、知り合いに医者はいません?できれば産婦人科の先生で」蓮はその一言で、萌花が何を考えているのか察して、さっきまでの軽い表情が消え、顔つきが真剣になった。「もう決めたんだ?本当に産まないつもり?」萌花の答えに迷いはなかった。「決めたんです」自分の子どもを誰かの思惑のための道具として生ませるわけにはいかない。まして、母親である自分のそばを離れて育つようなことは、絶対にさせたくない。蓮は少し考えてから言った。「本気でそうしたいなら、海外に行くしかないと思う。国内の病院は、公立でも私立でも、引き受ける勇気なんてないはずよ」それは時雄が言っていたことと同じだ。萌花は唇を引き結ぶ。「時雄には絶対に知られたくないです」「知られずに済むと思う?時雄は学生時代にペンタゴンへ侵入したっていう、とんでもないハッカーよ。医療機関のシステムくらい、彼にとってはどうってことないだろ」萌花は言葉を失った。そうだ。そうでなければ、時雄があれほど早く彼女のいる病院を突き止められるはずがない。蓮はさらに言った。「だからこそ海外なんだ。海外に行ったことは知られても、どの国へいるかまではすぐにはわ
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第252話

萌花はそこで初めて、この場所が海城ノ浦からずいぶん離れた、Y市の山あいにある小さな村・日向村と知った。車はさらに村の奥へと進み、やがて一軒の小さな別荘の前で止まった。別荘といっても、周りの家と大きく趣が違うわけではない。ただ、ほかの家より少し広く、少し今風で、庭もひと回り大きい。車はそのまま門をくぐり、庭の中へ入っていく。萌花は車を降りるなり、あたりを見回した。「ここはどこですか?」蓮も車から降りてにこにこと笑った。「ようこそ、我が家へ」「あなたの家?」蓮の説明を聞いて、萌花はようやく事情を理解した。蓮は芸能界で名の知れた人で、どこへ行ってもすぐに気づかれてしまう。だから三年前、思い切ってこんな山奥の小さな村で家を建てたのだという。休みが取れると、蓮は一人でここへ来て、誰にも邪魔されずにのんびり過ごすらしい。蓮に言わせれば、ここは不便ではあるが、景色だけは文句なしに美しい。この村に暮らす人たちは少数民族で、気質は素朴で穏やかだ。生まれてから亡くなるまで、この小さな山村を出ずに一生を終える人も少なくない。自分たちで畑仕事をして、必要なものを分け合いながら暮らしている。飾り気がなく、親切で、まるで本当に世間から切り離された桃源郷のような場所である。萌花は山の向こうには、大きな夕日が沈みかけているのを見ている。やわらかな残照が村全体に広がり、二階建ての家々も、庭先の木々も、小川の水面も、淡い金色に染まっていた。まるで映画の世界が、そのまま現実になったみたいだ。美しい。ただただ美しい。「よくこんな場所を見つけましたね」蓮は少し得意げに笑った。「老後はここで暮らすつもりだからね」そう言って、蓮は家のほうへ向き直った。「入ろう」萌花は蓮について中へ入った。外観こそ山村の家になじんでいるが、中の造りは都会の住まいとほとんど変わらない。設備は新しく、家電もそろっていて、ところどころスマート化されている。家具はナチュラルな木目調で統一され、全体にあたたかく、清潔感があって、山の中にひっそり建っている小さなリゾートホテルのようだ。蓮は家の中をざっと案内した。寝室は四つあり、どの部屋もきれいに整えられていて、居心地がよさそうだ。蓮が言った。「とりあえず一週間、ここで過ご
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第253話

夕食は、萌花が選んだ隣の家でごちそうになることになった。萌花がどうしても遠慮してしまうのに対し、蓮はまるで自分の家に帰ってきたような顔で、ためらいなく庭へ入っていった。二人が門をくぐると、すぐに家の人が出てきた。蓮の顔を見るなり、その人はぱっと嬉しそうな表情になった。「あら校長先生、いつ帰ってきたの?」この家は六人家族で、老夫婦に、若い夫婦、そして男女の双子の子どもがいる。このあたりの人々は、日の出とともに畑へ出て、日が沈めば家に戻るという、昔ながらの田舎の暮らしをしていて、家にはテレビもない。電気でさえ、五年前に行政の整備でようやく通ったばかりだという。外の世界との唯一のつながりは山の外れにあるバス停だ。そこから無料のバスに乗ることはできるが、山の麓にある清水村まで出るには、それでも三時間かかる。収穫した穀物やとうもろこしを清水村へ売って、代わりに日用品を買って帰る。そんな暮らしが、今もここでは続いている。以前の日向村は、外との行き来も少なく、学校もなかった。三年前、蓮がこの村に学校を建てた。今では、数十人の子どもがそこで学んでいる。行政からも定期的に支援の教師が派遣されるようになった。村の人々は、その学校を蓮が建てたことを知っているからこそ、彼に深く感謝している。蓮の姿を見ると、誰もが親しみを込めて「校長先生」と呼ぶのだ。萌花と蓮は、あたたかく家の中へ迎え入れられた。ちょうど夕食の支度が終わったところだったらしい。老夫婦はすぐにお嫁さんへ、もう二品ほど作るよう声をかけた。蓮は「もう十分だよ」と言っているが、老婦人のもてなしには勝てず、結局、豚バラと里芋の煮物、それに川魚の澄まし汁まで追加で用意されることになった。料理ができるまでのあいだ、萌花と蓮は双子の子どもたちと遊んでいた。女の子は芽衣、男の子は健太という。二人ともとても愛らしく、黒目がちな瞳は、夜空にきらきら光る星のようだ。子どもたちは何にでも興味津々で、目に映るものすべてが珍しいらしい。健太が蓮を見上げて言った。「今夜、先生の家で銀河ヒーロー見てもいい?」芽衣と健太の家にはテレビがない。それでも以前、蓮の家でテレビを見たことがある。この村にはインターネットが通っていない。蓮は映像をたくさん持ち込んでいて、家で映
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第254話

萌花がそんなことを考えたのは本当に初めてである。けれど、萌花はすぐに首を振るようにして、その考えを振り払った。産むつもりもない子のことを考えたところでどうなるというのだろう。蓮の家へ帰ると、芽衣と健太は待ちきれない様子でリビングのテレビの前に座り込み、蓮がアニメを流してくれるのを今か今かと待っていた。萌花は一人、リビングの外にある小さなバルコニーへ出た。彼女はこのバルコニーがことのほか気に入った。そこからは、村の家々も、ゆるやかに曲がりながら流れる小川も、遠くの滝までも見渡せる。空気は驚くほど澄んでいて、ひと息吸い込むだけで、体の中にたまっている重いものまで、すうっと薄まっていくような気がする。バルコニーには古めかしい竹の椅子が置かれている。それを見た瞬間、萌花は幼いころ、祖母の家の庭で夕涼みをしながら、冷えたすいかを食べた記憶を思い出した。そのまま横になると、今度は目の前に広がる夜空に息をのむ。空いっぱいに星が散っていて、まるで天の川そのものが降り注いできたかのようであり、無数の銀のかけらが夜空にこぼれ落ちたようでもある。言葉を失うほど美しい。しばらくすると、蓮もバルコニーへやってきた。ふわりと、濃く甘い香りが一緒に漂ってくる。蓮はコーヒーが二杯持って、そのうち一杯を萌花へ差し出した。「飲んでみて」萌花はカップに口をつける前に、香りだけを確かめた。「パナマゲイシャ」蓮は片眉を上げる。「本当に、何でも知ってるんだね」萌花は小さく笑い、ほんの少しだけ口に含んだ。たしかに香りがよく、味も深い。蓮はというと、ためらいなく大きくひと口飲んだ。「自慢じゃないけど、コーヒーを淹れる腕にはけっこう自信があるんだ。豆もいろいろそろえてるから、好みがあれば言って。そこらのカフェよりうまい一杯を淹れてあげるよ」萌花もコーヒーは好きで、これまでに希少な豆もそれなりに味わってきた。それでも蓮の淹れたコーヒーは、今まで飲んだ中でもかなりおいしい部類に入る。ただ、萌花は一口飲んだだけで、それ以上は手をつけなかった。「こんな時間にコーヒーを飲んで、今夜眠れますか?」蓮は冗談めかして言った。「俺は眠らなくても平気だから」そのとき萌花は、ただの冗談だと思っていた。しかしその後の二日
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第255話

次の瞬間、蓮は反射的に身を起こし、萌花の喉元へ手を伸ばしていた。その瞳は墨を流し込んだように黒く、底が見えない。「何をしている」声はひどく冷たい。けれど、蓮の体は小刻みに震えている。指は確かに萌花の首にかかっているのに、力はほとんど入っていない。その目にあるのは怒りではなく、恐怖と、どうしようもない絶望である。萌花も息をのむほど驚いた。「玉城さん、どうしたんですか?」名前を呼ばれた瞬間、蓮ははっと我に返ったようで、全身が大きく震え、ようやく瞳にわずかな光が戻った。それでも、そこに滲んでいる恐怖も絶望も消えるわけではない。蓮の瞳がかすかに揺れた。喉を鳴らすように唾を飲み込み、萌花の首にかかっていた手を、ゆっくりと下ろしていく。一歩後ろへ下がったかと思うと、そのままソファに崩れるように腰を落とした。蓮は何も言わなかった。ただ両手で頭を抱え、目を閉じている。萌花もその場から動けなかった。しばらくして、ようやく蓮が口を開いた。その声はまだ震えていて、かすかな悔いが滲んでいる。「ごめん。悪い夢を見た」萌花は、まだ震えの収まらない彼を見つめ、手にしていた毛布をそっとそばに置いた。蓮がどんな夢を見ていたのか、萌花にはわからない。ただ、さっきの蓮は本当に別人のようだった。その目に浮かんでいた絶望を、萌花はどこかで知っている気がした。昔、誰かの目にも同じようなものを見たことがある。「大丈夫です」萌花は静かに言って、自分の部屋へ戻った。しかし胸のざわめきは、なかなか収まらなかった。眠りについたのが明け方の四時ごろだったせいだろう。翌朝、萌花がようやく目を覚ましたころには、外はすっかり明るくなっていた。起きてから、何か食べるものを探そうとキッチンへ向かった。この数日で、近所の人たちは「校長先生」が帰ってきたことを知り、それぞれ家のとっておきを持ってきてくれた。採れたばかりの野菜や果物、下処理された山の幸など、食材には困らない。そのため、この二日ほどは近所の家へ食事をもらいに行くこともなくなった。料理の支度は萌花が引き受けている。蓮はそのたびに、彼女の料理を大げさなくらい褒めた。萌花としては、ここまで助けてもらっている以上、それくらいは当然だと思っている。昨夜は、きの
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第256話

「おはよう」蓮は短く返したが、その表情がどこかぎこちないように見える。萌花はスープをよそうため、キッチンへ向かった。食卓に戻ると、蓮は一度こちらを見て、何か言いかけたまま口をつぐんだ。萌花が席につくと、蓮はやはり黙っていられなかったように言った。「昨夜は……本当にごめん」萌花は静かに答えた。「悪い夢を見ることくらい、誰にでもあります。怪我もしていませんから」それを聞いて、蓮はうつむいた。萌花はふと顔を上げ、話を変えるように尋ねた。「スープ、飲みます?ここのきのこ、すごく香りがいいんです」蓮は小さくうなずいた。萌花は彼にスープをよそい、海老とズッキーニのふんわり焼きもいくつか皿にのせて持ってきた。彼がなぜあれほど激しく反応したのかを聞かなかった。蓮も自分からは何も言わない。正直に言えば、萌花にとって蓮は、もう信じてもいいと思える友人になりつつある。それでも、まだ出会ってから数日しか経っていない。誰にだって他人に踏み込まれたくない場所はある。朝食を終えるころ、芽衣と健太が跳ねるようにやってきた。萌花は二人にも料理をいっぱい盛ってやった。二人は待ちきれない様子で勢いよく食べ始めた、健太は口いっぱいに頬張りながら蓮に言った。「先生、最近はずっと、こひつじポポとオオカミくんだったでしょ。今日は銀河ヒーローの番だよね?」蓮の顔に、いつもの笑みが戻ってきた。「今日はテレビなし。みんなで山を下りて、町まで遊びに行こうか」町へ行くと聞いた途端、芽衣と健太は全身で喜びを表した。二人にとって、町へ出るのは年に一度か二度あるかないかの大きな出来事だ。そこには、見たことのないものがたくさんある。おもちゃもあって、アイスもある。萌花も、少し外へ出て気分を変えるのは悪くないと思った。ここは美しく、素朴で、心が洗われるような場所だが、インターネットは通じない。長くいると、どうしても世の中から切り離されたような感覚になる。朝食を片づけると、四人は町へ向かった。もちろんバスには乗らなく、蓮は自分で車を出した。普段ならバスで三時間かかる山道も、車なら一時間少しで着いた。蓮は、町でいちばん人の集まる市の手前に車を停めた。町といってもかなり昔ながらの場所で、萌花の目には、時
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第257話

萌花は飴を受け取り、何でもないふりをして静かに言った。「大丈夫です。玉城さんの言うとおり、この子にも少しくらい甘い味を知ってもらっていいのかもしれません」そう口にした瞬間、胸の内側に細い針が無数に刺さるような痛みが走った。この子には、何の罪もない。ただ自分の体に宿ったというだけで、この世界を見る権利さえ与えられない。萌花はもともと子どもが好きで、特にこの数日、芽衣と健太と毎日のように一緒に過ごしていて、二人の愛らしい顔や、聞いているだけで心がほぐれるような笑い声に触れるうち、萌花の心は揺らぎ始めた。けれど、その迷いも一時のものだ。この子を産んだとしても、親権で時雄に勝てるはずがない。生まれた瞬間から引き離されるくらいなら、まだ命として形を持つ前に手放したほうがいい。萌花は飴を口に入れた。ひどく甘いはずなのに、胸の奥では苦いものがゆっくりと広がった。それから、四人はしばらく市を歩いた。途中で蓮が電話をかけてくると言って、少しその場を離れた。この町には一応電波が入るが、通信状況はかなり悪い。萌花は何となくスマートフォンを取り出し、SNSのニュースを眺めると、時雄に関する記事が目に入った。「小林グループ社長、交通事故で緊急搬送」心臓がどくんと嫌な音を立てて、萌花は慌てて記事を開いた。それは数日前のニュースだ。時雄が自宅へ戻る途中、前方の車に追突し、救急搬送されたと書かれている。萌花はすぐ時雄に関する情報を検索した。しかしどの記事も「病院へ搬送された」というところで止まっていて、その先の情報は、すべて伏せられた。代わりに根拠のない噂ばかりがいくつも出てくる。中には、時雄は事故現場で亡くなったなどというものまである。萌花の顔から血の気が引いた。なぜなのか、自分でもわからない。心臓が激しく脈打ち、今にも胸を突き破って飛び出しそうだ。市場のにぎわいが耳のすぐそばで渦巻いているのに、萌花はその場に立ち尽くしていた。その一瞬、今すぐ飛んで帰りたいという衝動さえ湧き上がった。「萌花お姉ちゃん、これが欲しい」健太が萌花の手を揺らしながら、そばにあるおもちゃの露店を指さした。萌花の意識は、まだ遠くへ行ったままで、ただ機械的に財布を出し、店の人にお金を渡した。「好きなものを選んでい
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第258話

芽衣と健太は、今日はいつにも増してご機嫌だ。「校長先生、ゲームしようよ」家に入るなり、健太は買ってもらったばかりのおもちゃを見せたくて仕方がない様子だ。蓮は、二人の子どもにはいつも驚くほど根気よく付き合っている。「いいよ。健太は何して遊びたい?」「どろけい。僕がおまわりさんで、先生が泥棒ね」そう言って、健太はおもちゃの手錠を取り出し、蓮の手首にかけようとした。それは今日、萌花が健太に買ってやったものだ。子ども向けのおもちゃにしては妙に作りが細かく、銀色の金属の質感までそれらしくできている。その手錠を目にした瞬間、蓮ははっとしたように手を引いた。次の瞬間、健太の手からそれを奪い取り、床へたたきつけた。手錠は音を立てて壊れた。健太はその場で固まり、次いで火がついたように泣き出した。蓮の目つきが、みるみる変わった。彼は自分の両手を見下ろした。指先がひどく震えた。その目に浮かんでいたのは、あの夜と同じく押し寄せるような恐怖と絶望である。「出ていけ!出ていけ!」蓮が突然、健太に向かって怒鳴った。健太はあまりの剣幕に怯え、泣くことさえ忘れたように声を止めて、逃げ込むように萌花の胸にしがみついた。「出ていけ、みんな出ていけ!」蓮は後ずさりしながら、半ば錯乱したように叫び続けた。近くにあるものを手当たり次第に払い落とし、床へ投げつける。完全に自分を制御できていないようだ。やがて蓮は二階へ上がっていって、ほどなくして、彼の部屋のドアが激しく閉まる音が響いた。萌花にも、何が起きたのかまったくわからなく、ただその場に立ち尽くした。芽衣と健太もすっかり怯えきっていて、二人とも萌花の腕の中に身を寄せ、泣くことすらできずに震えている。しばらくして、健太のしゃくり上げる声が聞こえた。「萌花お姉ちゃん……先生、どうしたの?」萌花にも本当のところはわからない。それでも二人をなだめるように背を撫で、できるだけ落ち着いた声で言った。「少し様子を見てくるね」萌花は二階へ上がり、蓮の部屋の前まで行くと、ドアは固く閉ざされている。彼女はそっとノックしたが、中から返ってきたのは蓮の荒れた怒鳴り声だ。「君も出ていって!」萌花は、それ以上無理に踏み込むことができず、いったん階下へ戻った。芽衣と
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第259話

萌花は部屋の中をひと回りしたが、蓮の姿はどこにもない。さっき戻ってきたときにも、彼を見かけなかった。外へ出たのだろうか。しかし、車はまだ庭に停まっている。この山の中で、徒歩で遠くまで行けるはずもない。萌花はバルコニーへ出て、周囲を見渡した。けれど、あたりには人影ひとつない。彼女はますますわからなくなった。蓮はまるで煙のように消えてしまったみたいだ。萌花が部屋を出ようとしたそのとき、室内のどこかでかすかな物音がした。萌花が足を止めて耳を澄ますと、しばらくして、またかすかな物音がした。今度ははっきりわかった。音はクローゼットの中から聞こえている。萌花は息をひそめ、音のするほうへ近づいて見ると、やはり、クローゼットの奥からかすかな気配が漏れている。萌花は一度息を止め、思い切って扉を開けた。その瞬間、目の前の光景に息をのんだ。蓮が、クローゼットの隅に身を丸めてうずくまっていて、行き場をなくした子どものように小さくなっており、全身が恐怖で抑えきれないほど震えていた。部屋の明かりがいきなりクローゼットの中へ流れ込んできて、その光に触れた瞬間、蓮の目に浮かぶ恐怖がさらに濃くなった。彼は悲鳴を上げ、頭を抱え込んだ。まるで何かに強く追い詰められた人のようだ。萌花はすぐにクローゼットの扉を閉めた。それから、部屋の明かりも消した。少しして、ようやく蓮は静かになった。けれど今度は、中から一定の間隔で鈍い音が聞こえてくる。蓮が、額をクローゼットの扉に打ちつけている音だ。萌花の胸に、言いようのない感情が広がった。蓮は、いったい過去に何を経験したのだろう。どうして、ここまで追い詰められてしまったのだろう。萌花はもう一度クローゼットの前まで歩いていき、扉を開けずに、その外側へ静かに腰を下ろした。できるだけやわらかい声で話かけた。「玉城さん、怖がらないでください。私がここにいますから、大丈夫ですよ」中から返事はない。「歌を歌いましょうか」萌花はそっと歌い始めた。彼女の声はとても澄んでいて、まるで山の奥から吹いてくる涼しい風に、透明な響きが混じっているような声だ。子どものころ、学校の発表会で歌ったとき、芸能事務所のスカウトに声をかけられたことがある。その人は、萌花の声には人の心を
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第260話

萌花は思わず目を見開いた。「どうやって入ってきたんですか?」スーツの女性はまっすぐ萌花の前まで歩いてきた。落ち着いた物腰で、口調もひどく事務的だ。「二条さんですね。蓮のマネージャー、湯川真紀(ゆかわ まき)です」蓮のマネージャー。それなら、この家の鍵を持っていても不思議ではない。萌花は軽くうなずいた。「はじめまして、湯川さん」ただ、萌花は真紀の視線にどこか違和感を覚えた。彼女は初対面のはずの萌花を最初から知っているような目で見ている。後ろにいた若い女性も一歩前に出る。真紀が簡単に紹介した。「こちらは蓮のアシスタントの笹木千佳(ささき ちか)です」若い女性は丁寧に頭を下げた。「はじめまして。笹木千佳です」真紀はすぐに本題へ戻った。「蓮はどこですか?」「部屋にいます」そう言われると、真紀は表情を変えないまま二階へ向かおうとした。萌花は思わずその前に立った。「今は、行かないほうがいいと思います」蓮はきっと、クローゼットに隠れている自分の姿を他人に見られたくないはずだ。萌花の表情から何かを察したのだろう。真紀は少しも動じず、淡々と尋ねた。「また発作が起こったんですね」萌花は芸能界のことには詳しくないが、芸能人にとってマネージャーは家族以上に近い存在になることがあると聞いたことはある。どうやら、それは本当らしい。萌花は小さくうなずいた。真紀はそのまま二階へ上がっていって、今度は萌花も止めなかった。部屋に入ると、真紀は迷うことなくクローゼットへ向かい、ゆっくりと扉を開けた。その迷いのない足取りだけで、彼女が蓮の状態に慣れていることはわかった。中では蓮が眠っていて、先ほど萌花が見たときのように膝を抱えていなく、体は丸まったままだが、ちゃんと横になっている。こわばりも少し抜けていて、少なくともさっきよりはずっと楽そうに見えた。真紀は音を立てないように静かに扉を閉めた。萌花も部屋に入ってきたのを見て、真紀は低い声で言った。「このまま眠らせておきましょう。彼がこんなに深く眠れたのは、本当に久しぶりです」蓮はもともと眠りが極端に浅く、少しの物音でもすぐに目を覚ましてしまい、普通の睡眠薬もほとんど効かないのだという。真紀でさえ、蓮がここまでぐっすり眠っ
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