Home / 恋愛 / 断ち切るのは我が意 / Chapter 271 - Chapter 280

All Chapters of 断ち切るのは我が意: Chapter 271 - Chapter 280

324 Chapters

第271話

そのころ、時雄のオフィスでは、秘書が慌ただしく駆け込んできた。「社長、奥様が聖和総合病院の庄司先生を予約されていました。それから、先ほど確認したところ、奥様が病院に入られてから三十分ほどで、庄司先生が緊急手術に入ったそうです」時雄の顔から、瞬く間に血の気が引いた。「何だと?」「申し訳ありません。今、確認が取れたばかりで……」時雄はすぐに病院へ向かい、息を切らしながら庄司の診察室の前まで一気に駆け上がった。診察室に入ると、庄司の姿はない。廊下には診察を待つ患者が何人も座っていて、時雄のただならぬ様子を見て、そのうちの一人が声をかけた。「庄司先生なら、緊急の中絶処置に入られましたよ。まだ戻っていません」時雄は即座に尋ねた。「誰の手術ですか」別の患者が口を挟んだ。「たぶん、二条さんって方じゃないですか。あの方の番号が呼ばれたあと、庄司先生がそのまま行かれたので」時雄は顔を上げた。診察室の外には呼び出し用の表示モニターがあって、そこには診察中の患者と待機中の患者の名前が順に表示されている。そして「診察中」の欄に、萌花の名前がはっきりと表示されていた。本当に萌花だ。その瞬間、時雄は雷に打たれたように動けなくなり、全身から力が抜け落ちていった。足元が崩れるようで立っていることすらできない。そばにいる中年の女性が慌てて席を譲った。「大丈夫ですか?」時雄は何も答えなく、ただその席に腰を下ろし、片手を握りしめて額に押し当てたまま、長い間動けなかった。本音を言えば、時雄はまだ諦めきれていない。萌花にこの子を産んでほしいという思いは、どれだけ押し殺しても消えない。けれど萌花は、あまりにも強く拒んでいて、苦しんでいて、そのうえ、蓮とまで関わるようになっている。だから時雄は、手を放すしかないと思った。萌花を、これ以上自分との関係に縛りつけて苦しめたくなかった。それでも心のどこかにはまだわずかな期待が残っていた。たとえ萌花が子どもを産んでも自分は親権を完全に放棄するということを離婚協議書にも明記する。そう言えば、萌花がほんの少しでも、この子を残す可能性を考えてくれるかもしれない。そんな身勝手な望みをまだ捨てきれずにいる。しかし、萌花は翌日にはもう手術を受けた。時雄にも予感はあ
Read more

第272話

「彼女は……大丈夫なんですか?」来希は一瞬、意味がわからないという顔をした。けれど、時雄の視線が病室のほうに釘づけになっているのを見て、来希はふと何かに気づいたような顔をした。「小林さん。それ、あなたには関係ないんじゃないですか」時雄がわざわざ怜を心配して病院まで来るはずがないと来希にもわかっている。しかし、目の前の時雄はまるで心が灰になってしまったような顔をしている。来希はそこで、時雄が勘違いしているのだと気づいた。つまり彼は病室で横になっているのが萌花だと思っているのだ。そう考えれば、すべて辻褄が合う。来希は細かいところまでは知らないが、この数日のニュースは全部見てきた。時雄と萌花のあいだで何かが起きているらしい。しかも、芸能界の有名俳優と萌花の噂まで出ている。来希は時雄と萌花の関係がうまくいっていないのだと見て取った。それは彼の想像どおりでもある。愛情のないまま始まった結婚など、土台からして脆い。そんな関係なら、まだ自分とのほうがましだったのではないかとさえ思えた。時雄は来希へ視線を移した。「彼女があなたを呼んできたんですか?」来希はうなずいた。「ええ」そう言って、わざとスマートフォンを取り出し、通話履歴を時雄の前に差し出した。「見てくださいよ、小林さん。何かあったとき、彼女が真っ先に頼るのは、結局俺なんです」時雄はスマートフォンの画面に目を落とした。そこに表示されているのは確かに萌花の番号である。胸の奥を鈍い拳で思いきり殴られたような痛みが走る。来希は時雄が完全に人違いをしているのだとほぼ確信した。だからこそ、今ここでさらに突き刺してやりたくなる。「小林さん。萌花とは十年の付き合いです。学生時代から始まって、結婚までしました。俺が最低だったことは認めます。彼女を裏切りました。でも、あなたも俺と大して変わらないんじゃないですか。恋愛に関して言えば、あなたも俺と同じ、どうしようもない敗者ですよ」時雄は否定しなかった。もう反論する力さえ残っていないようだ。「……彼女に会わせてください」そう言って、彼は病室のほうへ歩き出そうとする。来希はすぐにその前へ立ちふさがった。「彼女は今、あなたに会いたくないはずです。あそこまで追い詰めておいて、今さ
Read more

第273話

萌花はこの数日小春の家で泊まっていて、気持ちはもうずいぶん落ち着いた。この子を産んで、自分で育てる。パーセクテックも辞め、先輩に頼んでカラリスで新しく仕事を始める。離婚の手続きがすべて終わったら、そのままカラリスへ行くつもりだ。小春が事務所を辞めてからというもの、悠真は毎日のように彼女のマンションへやって来て、謝り続けていた。しかし小春はまったく取り合わなかった。萌花は、小春がその指導役である悠真との関係を、実はだいたい知っている。悠真は小春より十歳年上で、彼女の先輩でもある。三年前、小春が法律事務所に入ってから、悠真はずっと彼女の面倒を見てきた。悠真は仕事一筋の人間だが、毎日肩を並べるように働くうち、二人のあいだには自然と恋愛感情が芽生えた。表向きはいかにも誠実で品行方正な人に見えるが、小春に言わせれば、彼は相当なむっつりらしい。小春も本当は悠真のことが好きだった。二人はすでにただの上司と部下、先輩と後輩という関係ではなくなっている。それでも小春はずっと踏み切れずにいた。悠真は離婚歴があり、子どももいて、しかもその子は自閉スペクトラム症がある。小春は言っていた。「いきなり継母になる覚悟なんて、まだできてないよ。しかも、特別なケアが必要な子の継母だなんて」萌花は尋ねた。「じゃあ、このまま悠真さんとは終わりにするの? 本当にそれで平気?」小春はサンドイッチをひと口かじり、あっさりと言った。「平気に決まってるでしょ。ねえ萌花、私も一緒にカラリスへ行こうかな。ちょうど向こうで小さな法律事務所を開いた同級生がいて、前に一緒にやらないかって誘われてたの。そのときは断ったけど、今なら悪くない気がする」小春は身寄りがない。国内にどうしても離れられない家族もいない。彼女にとって、かけがえのない友人は萌花だけだ。二人で少し話し合うと、すぐに決めた。一緒にカラリスへ行って、子どもを産み、仕事も立て直す。そうすれば、時雄のことも、国内で続いている厄介ごとも、いったん全部置いていける。それに、萌花の父はカラリスにも投資会社を持っていて、一年の半分はカラリスで過ごしていた。萌花にとっても、向こうへ行くのは最も現実的な選択である。小春が言った。「今いちばん大事なのは、とにかく早く離婚
Read more

第274話

しかしあのとき家の中にいるのは萌花と蓮だけだった。萌花の胸の奥で暗い雲のようなものが少しずつ広がっていく。頭の中にはいくつもの可能性が浮かんだ。時雄なのだろうか。昔、時雄はたしかに蓮を一晩で潰すこともできると言っていた。しかし、萌花はすぐに違うと思った。時雄があの写真や動画を持っているはずがない。そもそも、あの映像がどこから出てきたのか萌花にはまったく見当もつかない。萌花は立ち上がって、蓮に電話をかけた。しかし、電話はつながらない。何度かけてもすぐに話し中のような音に切り替わる。着信を拒否されているときの反応だ。彼女は胸の上にまた重い石を置かれたような気がした。一番恐れていたことが起きてしまったのかもしれない。蓮はあの写真や動画を流したのが自分だと思っているのだろうか。真紀に連絡を取りたいが、あいにく萌花は彼女の連絡先を知らない。しばらく考えた末、萌花は蓮に会いに行くことにした。この件だけは、どうしても直接説明しなければならない。誤解されたくないからではない。もし自分が濡れ衣を着せられたままになれば、本当に裏で動いている人が隠れてしまう。それは蓮にとってもさらに不利になるはずだ。まず思いついた行き先は、前に一度だけ訪れた蓮の自宅である。しかし到着してみると、その周囲には無数の記者が張り込んでいた。敷地の外はほとんど取り囲まれていて、警備員が追い払おうとしても、まるで効果がない。萌花が中へ入れる状況ではない。それどころか、危うく記者たちに見つかりそうになった。仕方なく、萌花はその場を離れた。萌花の胸には不安ばかりが募った。なぜこんな動画が流出したのか、いくら考えてもわからない。蓮がこの報道をきっかけに、また発作を起こしてしまうのではないか。そんな不安が頭から離れない。車は目的地もないまま走り続けた。気づけば、小林グループ本社ビルの前で止まった。萌花は車の中で長い間座ったまま動かなかった。それでも最後には車を降り、時雄に会いに行くことにした。考えれば考えるほど、今回の事件に時雄がまったく関わっていないとは思えない。萌花はビルへ入り、上階へ向かった。しかし、そこにも時雄はいない。秘書によると、時雄はもう何日も会社に来ていないという。萌花は違和感を覚えた。「じ
Read more

第275話

結局、扉を壊す前に、佳代が予備の鍵を持ってきた。これまで何度か勝手に開けようとして、そのたびに時雄は激しく怒ったらしい。けれど今日は萌花がいて、佳代ももう迷っている余裕はない。扉が開いた瞬間、むっとするほど濃い酒の匂いが流れ出した。部屋の中は真っ暗で、カーテンは隙間なく閉め切られ、外の光はほとんど入ってこない。暗がりの中、萌花はベッドにもたれるように床に座り込んでいる人影を見つけた。時雄だ。彼はベッドの縁に背を預け、片脚を投げ出し、もう片方の脚を曲げている。その膝に片腕をだらりとのせ、手にはボトルを握っている。頭は少しうつむいていて、眠っているのか、それとも何かを考えているのか、判然としない。扉が開いた音にもまったく反応しなかった。萌花は手探りで壁のスイッチを押そうとしたが、明かりはつかない。佳代が小声で説明した。「若様は、ひどく落ち込まれると光を嫌がるんです。以前、執事がうっかり明かりをつけてしまって……そのあと、ご自分で照明を外してしまわれました」萌花は眉をひそめて、そのまま部屋へ足を踏み入れた。カーテンを開けるつもりだったが、数歩進んだところで、背後の扉が閉まる音がした。佳代が外から扉を閉めてしまった。廊下から差し込んでいたわずかな光まで消え、視界は一気に黒く塗りつぶされた。萌花はしばらくその場に立ち止まり、目が闇に慣れるのを待っていて、それからもう一度カーテンへ向かおうとした。そのときだった。いつの間に起き上がったのか、時雄がもう目の前に立っていた。暗闇に慣れてくると、すぐそばにある時雄の顔がようやく見えた。相変わらず整った顔立ちなのに、その目だけはいつもの冷たさを失っている。まるで長い間待ち続けて、ようやく主人を見つけた犬のような目である。萌花が反応するより早く、時雄は彼女を強く抱きしめて、そのまま彼女の肩にすがり、顔を首筋に埋めた。そして、子どものようにしゃくり上げた。「……会いたかった」萌花は突然のことに頭が真っ白になった。体はこわばって、動くことすらできない。時雄は本当に小犬のように、彼女の首元へそっと頬をすり寄せてくる。その声は、捨てられた迷い犬みたいに頼りなく、ひどく哀れである。「好きだ。ずっと好きだったんだ……一緒にいたい。どうしても、君
Read more

第276話

そのときになって、時雄はようやく目の前にいる相手をはっきり見えた。彼の目の奥に、いくつもの驚き、戸惑い、信じられないという色が一瞬でよぎる。そして、酔いの中に浮かんでいた喜びが少しずつ消えていった。その反応を見て、萌花はようやくわかった。時雄がさっき抱きしめたいのは自分ではない。酒に酔い、見間違えていただけなのだ。それに気づいたのか、時雄はすっと目を伏せた。声も、いつもの冷えた調子に戻った。「何しに来た」さっきまでとは打って変わって冷たくなった時雄を見て、萌花は思わず笑いそうになった。だが、もうそんなことはどうでもいい。萌花はまっすぐ切り出した。「時雄、玉城さんのあの記事、あなたが流したの?」蓮の名を聞いた瞬間、時雄の顔が一気に曇る。彼はベッドの縁に腰を下ろした。「あいつのことになると、ずいぶん必死なんだな。記事が出て二時間も経たないうちに、俺を問い詰めに来るとは」その言い方で、萌花の疑いはほとんど確信に変わった。そうでなければ、何日もこの部屋にこもって酒に溺れていたはずの時雄が、どうして芸能ニュースの動きまでそんなに詳しく知っているのか。「時雄、どうしてそんな卑劣なことをしたの?」萌花は一歩、彼に近づいた。「あの動画、どこから手に入れたの?玉城さんがクローゼットの中に隠れていた映像なんて、どうしてあなたが持ってるの?」考えれば考えるほど、萌花は背筋が冷たくなった。日向村のあの家には、あのとき萌花と蓮しかいなかった。あの動画が外に出れば、真っ先に疑われるのは萌花だ。実際、今は蓮に電話をかけてもつながらない。蓮のほうでも萌花から流したと思っているのは明らかだ。萌花は、身に覚えのない罪を押しつけられたも同然だ。しかも時雄がそれを仕組んだのだとすれば、本当に恐ろしいのは、あの映像をどうやって手に入れたのかという点である。あれほど私的な映像を、彼がどうやって手に入れたのか。日向村にいたあいだ、自分たちはずっとどこかから見張られていたのではないか。そう考えた瞬間、萌花は足元から冷えていくような気がした。時雄は冷たく言った。「蓮が今こんなことになっているのは君のせいだ。最初からあいつに関わらなければ、あいつと日向村へ行かなければ、あんなふうに一緒にいるところを撮られな
Read more

第277話

時雄は意外なほどあっさりとうなずいた。「いいだろう。今言ったことは全部やる。だが、俺には何の得がある?」「時雄、恥ずかしくないの?」あんな卑劣なことをしておいて、それを材料に取引を持ちかけてくるなんて、萌花には呆れるほかなかった。時雄は薄く笑った。「そこまで俺に罪をかぶせるなら、いっそその通りにしてやる」萌花も冷たく笑い返した。「その言い方だと、まるで濡れ衣みたいに聞こえるけど」「濡れ衣とまでは言わない。俺はもともと正々堂々とした人間じゃないからな」時雄は萌花を見た。「三日間、俺のそばにいろ。そうすれば、ネット上の噂も動画も、全部消してやる」そして、少し間を置いて続ける。「その後、俺たちはもう他人だ」萌花が承諾するはずもない。「私はあなたの愛人でも、都合よく呼びつけられる女でもない。そんなふうに侮辱しないで」「だが今はまだ、俺の妻だろう」時雄の声は低い。「何かをしろとは言わない。ただ三日、そばにいればいい。それだけだ。話す必要もない」時雄がなぜこんな条件を出すのか、萌花には理解できない。彼が本当に大切にしているのは紗夜ではないのか。「紗夜さんは?彼女が気にするとは思わないの?」「最近は海外のファッションウィークに行っている」萌花は笑った。「そんなに離れていられないの?ほんの数日いないだけで、代わりが必要になるんだ」時雄は言い返さなかった。萌花もそれ以上は拒まなかった。その沈黙を承諾と受け取っていいということだ。萌花が承諾すると決めたのは、蓮の件を片づけるためだけではない。時雄のそばにいれば、あの動画をどうやって手に入れたのか、そして彼がほかに何を隠しているのかを探ることができる。萌花には、どうしても確かめなければならないことがあった。ここに残れば、その手がかりも見つかるかもしれない。「わかった。三日だけここにいる」萌花は時雄を見た。「ただし、主寝室を使う。他の部屋は落ち着かないから。あなたは客室で寝て」時雄はすぐに答えた。「わかった」萌花はそれだけ言うと、部屋を出た。扉を開けると、佳代と孝浩がそろって廊下に立っている。萌花は佳代に言った。「佳代さん、主寝室をきれいに整えてください。三日間、ここに泊まるから」それを聞くなり、佳
Read more

第278話

萌花の肌は白く、化粧気のない顔は殻をむいたゆで卵の白身のようになめらかである。ちょうど窓の外から陽が差し込み、結んだ髪は淡く光って見える。時雄は自分の胸の内にも、細い光が差し込んだような気がした。湿った暗がりも、胸にこびりついていた陰りも、その光に少しずつ乾かされていくようだ。けれど時雄は、その温もりが長く続くものではないこともわかっている。萌花がここにいるのは自分を許したからではない。これは、ほんの短いあいだだけ許された錯覚のような時間にすぎない。そう思った途端、失われたと思い込んでいる子どものことが胸を刺して、心臓をえぐられるような痛みがまた奥から込み上げてくる。萌花はすぐに食事を終え、時雄には一度も目を向けず、そのまま部屋へ入った。佳代はちょうど主寝室を整え終えたところで、萌花の姿を見るなり、顔に隠しきれない喜びが広がった。「奥様、ご存じですか。若様がこの三日でお部屋から出てこられたのは、今日が初めてなんです」萌花は淡々と言った。「そんなことはどうでもいいの。佳代さん、聞きたいことがあるわ。それから、私のことは萌花と呼んでほしい」佳代の顔に、落胆と痛ましさがかすかに浮かんだ。奥様は、本当にもう若様のことを気にかけていないのだろうか。結婚してからの二人はいつも離れがたいほど仲睦まじかったのに、どうして、こんなふうになってしまったのだろう。「奥様、何でもお聞きください」萌花は、もう呼び方を訂正する気にもなれなかった。「佳代さん。紗夜さんの十四歳の誕生日に、いったい何があったの。それから、前に言っていた鬼面っていうのは誰のこと?」その疑問はずっと萌花の胸に残っている。なぜか、時雄と紗夜の関係は表に見えているほど単純ではない気がした。二人のあいだには複雑に絡み合ったものがあり、そこにはまだ何人もの人間が関わっている。萌花はどうしてもその答えを知りたい。けれど、それを聞いた瞬間、佳代の顔色が変わって、視線が明らかに泳いでいる。「奥様、若様の様子を見てまいります」「佳代さん、教えてください」萌花は佳代の前に立ち、行く手を遮った。「奥様、私には言えません。若様からも、あの方を悪く言うことは許されていないんです」萌花は眉を寄せた。「あの方って、誰?」佳代の目には
Read more

第279話

床に落ちてきたのはどれも古い写真である。萌花は思わず息をのんで、その場にしゃがみ込んだ。写真は、十年ほど前の古いデジタルカメラで撮られたものらしく、一枚一枚の下に日付が入っている。そこに刻まれた年月を追っていくうち、萌花は気づいた。前後三年ほどにわたっている。ちょうど、自分が高校に通っていたころだ。そして、そこに写っている人は全て自分だ。額縁が大きかったせいで、中に隠されていた写真の数も多い。ざっと見ただけでも、数百枚はありそうだ。体育の授業でグラウンドにいる写真。学校の売店で買い物する写真。学食で昼食を取っている写真。自転車で家へ帰る途中の写真。もう過ぎ去ったはずの、きらきらとした高校時代の断片が、竹籠から豆がこぼれるように一気に床へ散らばった。これで萌花にもはっきりした。壁に掛けられていたあの受賞記念の写真は、十年前のものだ。佳代の言っていることは本当だ。この写真は、時雄の寝室に十年ものあいだ飾られている。けれど萌花にはどうしてもわからない。好きでもなければ、十年も同じ写真を飾り続けるだろうか。自分が紗夜に似ているから、紗夜が事故に遭って海外へ行ったあと、時雄は自分を紗夜の代わりにしたのだろうか。けれど、萌花の直感はそれを否定した。けれど、佳代の話では、紗夜と時雄のあいだに恋愛感情はない。二人はせいぜい、気心の知れた幼なじみのような仲だという。萌花にはそれが本当のように思える。だとしたら、時雄と紗夜は一体どういう関係なのか。そして、二人の間に何があったのか。萌花はベッドの端に腰を下ろし、しばらく動けずにいた。少しして、時雄がやって来た。部屋の中には入らずに、ただドア枠にもたれたまま、静かに萌花と床に散らばった写真を見ている。萌花も彼を見上げる。二人は、しばらく黙ったまま見つめ合った。「時雄、いったい何を隠しているの?」時雄の目がかすかに揺れたように見えた。けれど彼は萌花の視線を避けた。「何もない」そう言い残すと、時雄はそのまま立ち去った。どうしても、話すつもりはないらしい。萌花の胸の奥に冷たいものが沈んでいった。理由が何であれ、そこまで自分に隠すということは、結局、彼は萌花の気持ちなど考えていないだろう。萌花は深く息を吸った。も
Read more

第280話

萌花はもうすべてを正面から受け止めようと思っている。全てをなかったことにするのはできない。ならば、その痛みごと受け止めて、前へ進むしかない。四日目の朝、萌花と時雄は、いつものようにダイニングで朝食を取っていた。そのときの萌花の心は以前とは少し違っていて、ほとんど穏やかと言っていいほど静かだ。萌花は落ち着いた声で時雄に言った。「私、あとで出ていくから」時雄の体が、ほんのわずかにこわばったように見えた。「……わかった」「離婚協議書、いつ渡してくれる?」時雄はもう引き延ばそうとはしなかった。「最近、小春のところにいるんだろう。午後、水原に届けさせる。ちょうど小春は弁護士だろ。内容を確認してもらって、直したいところがあれば言ってくれ」二人とも驚くほど静かだ。時雄の中でも何かが変わったことは萌花にもわかる。このところ、時雄は何度も引き止めようとし、そのたびに二人の間はさらにこじれていった。けれど今の彼は、ようやく手を放すつもりになったようだ。しかしようやく、時雄も萌花との関係を本当に終わらせる覚悟を決めたらしい。これでいい。そのほうがいい。萌花は心の底から息をついた。ただ同時に、どこか胸の奥が少しだけ空いたような、言いようのない寂しさもある。朝食を終えると、萌花は席を立った。「時雄、もう会うこともないね」そう言って、そのまま出ていこうとした。時雄の横を通り過ぎようとしたとき、彼がふいに手を伸ばし、萌花の腕をつかんだ。萌花は眉をひそめた。「また気が変わったの?」時雄もゆっくり立ち上がった。その顔色はいつもと違っていて、血の気がなく青白いのに、頬だけが不自然なほど赤い。しかも、萌花の腕をつかむ手は焼けるように熱い。その瞬間、萌花にはわかった。時雄は熱を出している。かなり高い熱だ。案の定、口を開いた時雄の声は発熱しているとき特有のかすれ方をしている。「萌花……俺のことを、憎まないでくれ。少しでいい。ほんの少しでいいから、俺のいいところだけ覚えていてくれないか」萌花は彼の目を見た。それは何日も眠っていないような目で、ひどく充血しており、左目の白目には血が溜まったような赤い斑まで浮かんでいる。萌花の声は静かだ。「憎まないよ。忘れるだけだ」少し間を置いて
Read more
PREV
1
...
2627282930
...
33
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status