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第281話

佳代はすっかり取り乱していた。「そんな……どうしてこんなことに。ここ数日は、若様もずいぶん落ち着いていらしたのに。奥様が戻ってきてくださったから、もう大丈夫だと思ってたのに……どうしてこんなにひどく」萌花は短く言った。「佳代さん、彼は高熱で倒れただけで、病院へ連れていくのが先よ」「そうですね、そうでした。私ったら、何をしているんでしょう……奥様、一緒に来てください。一人では、とても……」萌花は抵抗を覚えた。今日からはもう、時雄とは一切関わらないつもりだったが、あいにく孝浩は買い物に出ていて不在で、佳代は車を運転できない。涙ながらに助けてほしいと頼まれ、萌花は結局車を出して二人を病院へ連れていくしかなかった。病院に着くと、時雄はすぐに救急処置室へ運ばれた。萌花はそのまま帰るつもりでいたが、佳代に引き止められたうえ、医師からも、状態が思わしくない可能性があるため家族は外で待機してほしいと言われた。それから三十分ほど待った。萌花は、高熱なら大きな問題にはならないだろうと思っていて、検査結果が出て、命に別状がないとわかれば、自分も安心して帰れる。そう考えていた。しかし、検査結果は予想よりずっと悪かった。心筋酵素の数値がかなり高く、劇症型心筋炎の疑いがあるという。確定には、さらに詳しい検査が必要だ。萌花はその場で力が抜けたように椅子へ腰を落とした。劇症型心筋炎という病気がどれほど危険なものか、萌花は知っている。急に悪化することが多く、処置が遅れれば命に関わることも少なくない。ただの高熱だと思っていたのに、どうしてそんな重い病気になるのか。佳代は萌花の顔色を見て、ただ事ではないと察したらしい。「奥様……劇症型心筋炎とは、どんな病気なのですか。そんなに悪いものなのですか」萌花はしばらく呆然としていて、頭の中が真っ白になった。心臓まで、急に動きを止めたような気がした。力がすっかり抜けていって、ようやく口を開いたとき、声は自分でも驚くほど頼りない。「……かなり危険で、命を落とすこともあるの」その言葉に佳代の顔から血の気が引いた。次の瞬間、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。彼女はどうしていいかわからず、落ち着きなくその場を行ったり来たりした。「どうしましょう……どうしたらいいんでしょう……
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第282話

「それに、大奥様が本当に若様の味方だと思いますか。あの方は、誰よりもえこひいきの強い方です。若様の一生をめちゃくちゃにしてしまったんです」そこまで言うと、佳代はまた泣き崩れた。その泣き声に胸の内までかき乱されていくようで、萌花は結局その場を離れられなかった。処置は二時間ほど続いて、ようやく医師と看護師が救急処置室から出てきて、時雄もストレッチャーに乗せられて運び出された。彼は目を閉じたまま、ぴくりとも動かない。顔色がぞっとするほど白い。「二十八番の患者さんのご家族はいらっしゃいますか」萌花は立ち上がり、前へ出た。「私です」主治医は萌花を見て、確認するように尋ねた。「患者さんとのご関係は?」萌花は一瞬、唇を噛んだ。「妻です」主治医はうなずいた。「では、まず入院手続きをお願いします。手続きが済んだら、もう一度こちらへ来てください。これからの治療について詳しくご説明します」萌花はどうしても先に聞かずにはいられなかった。「先生、時雄は大丈夫なんですか。劇症型心筋炎だったんですか」主治医は落ち着いた声で答えた。「今はひとまず危険な状態を脱しています。劇症型心筋炎ではありません」その言葉を聞いて、萌花はようやく息をついた。違うなら、それでいい。少なくとも命は助かった。けれど、医師の次の言葉で、萌花の胸は再び強く締めつけられた。「ただし、患者さんには先天性の心疾患があります。心拡大も見られます。今回は原因不明の心室細動を起こしていました。急性発作の場合、死亡率は非常に高く、劇症型心筋炎よりも危険な状態になることがあります。今回は処置が間に合ったので、何とか持ち直しました。ただ、同じ発作がまた起きた場合、次も救えるとは限りません」萌花の顔からまた血の気が引いた。医師は萌花の表情を見て、少し声をやわらげた。「ただ、今の時点で悪い方向にばかり考える必要はありません。今回は幸い、命は取り留めました。これからは病状に合わせて、きちんと治療していくことになります。手術が必要なら手術を、薬が必要なら薬を使います。管理がうまくいけば、状態を安定させることはできます。まずは入院手続きをお願いします」そう言って、医師はその場を離れた。萌花は佳代のほうを向いた。「時雄には、先天性
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第283話

萌花は一瞬、言葉を失った。自分が泣いていることにまったく気づいていなかった。萌花はベッドに横たわる時雄を見た。血の気を失った顔は、痛々しいほど白く見える。何か言おうとしても言葉が出てこない。本当は自分に心臓病があることを知っているのかと聞きたい。この先、五年も生きられないかもしれないと知っているのか。しかし結局、萌花は何も聞かなかった。時雄はかすれた声で言った。「泣くな。俺は大丈夫だ」萌花は頬の涙を拭った。「時雄、これからは何があっても、こんな無茶はしないで。自分の体を大事にして」今の時雄はまるで叱られた子どものようだ。「わかった。君の言うとおりにする」その素直な返事に萌花の胸は少し痛んだ。「時雄、ちゃんと大事にして。もう行くから」これ以上、ここに残ってはいけないと彼女は思う。どんな事情があろうと、自分はもう時雄と線を引いた。彼がこれから一年生きるのか、五年生きるのかなど、もう自分が抱え込むことではない。それに、今の萌花にはもう、時雄の人生を背負う立場も資格もない。彼のこれからを案じ、そばで支えるべき人がいるとすれば、それは自分ではなく紗夜だ。実際、時雄が目を覚ます前に、萌花はすでに隼人から紗夜の電話番号を聞いて、紗夜に連絡し、できるだけ早く時雄のそばに来てほしいと伝えた。だから、紗夜が来る前にここを出なければならない。時雄は手を上げ、萌花の腕をつかもうとしたが、力が入らないのか、途中で腕が落ちた。萌花はそれを見なかったことにして、そのまま立ち上がり、病室を出た。時雄は最後まで引き止めなかった。彼はドアのほうを見ることさえせず、ただ目を閉じた。その目尻から涙が静かにこぼれ落ちた。病室を出ると、萌花は佳代に、今後気をつけるべきことを手短に伝えた。佳代は萌花の手を握り、泣きながらすがるように頼んだ。「奥様、若様がこんなふうになったんです。どうか、しばらくそばにいていただけませんか」萌花は首を振った。「紗夜さんがすぐに来ます。彼女が時雄のことをきちんと見てあげるはずです」「紗夜様が……?なぜ紗夜様がいらっしゃるんですか」佳代は戸惑ったようだ。萌花はそれ以上説明せず、そのまま病院をあとにした。車は病院の外にある屋外駐車場に停めてある。萌花が車に乗り
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第284話

萌花はやはり放っておけなかった。時雄はまだ完全に危険を脱したわけではなく、しかも心臓に持病がある。そんな状態で蓮と顔を合わせ、少しでも感情を乱せばまた発作を起こしかねない。そう思うと、萌花は結局、車を降りて病院へ引き返した。それに、蓮がこのタイミングで時雄に何の用があるのかも気になった。萌花は迷わず時雄の病室へ向かった。ここは特別病棟で、入院している患者は多くない。時雄がいる最上階には、彼以外の患者はいない。廊下もひどく静まり返っている。萌花は足音を立てないように病室の前まで行った。扉は少しだけ開いていて、細い隙間が残っている。中から聞こえてきたのは蓮の声だ。「時雄、お前のほうが俺よりひどい顔してるじゃない」続いて、時雄の落ち着いた、けれど弱々しい声が聞こえた。「俺を笑いに来たのか」蓮の声は軽い。そこには、隠しきれない愉快そうな響きさえある。「そうだよ。お前がここまで落ちてる姿なんて、そう見られるものじゃないからな。そんなに彼女が好きなのか?俺たち、これだけ長い付き合いだけど、お前がここまで壊れたところなんて見たことがない。そんなに手放したくないのか」時雄は蓮に視線を向けた。顔にはいつもの冷たさが戻っていて、何を考えているのかは読めなかった。「もう十分だろう。これ以上、彼女に近づくな。頼む」蓮は笑った。「それは無理だな。まだ遊び飽きてない」「蓮」時雄の声にかすかな怒りが混じった。蓮の声も、そこで少し冷えた。「時雄。お前には、俺に返すべきものがあるだろ」少し間を置き、蓮はさらに低い声で言った。「俺は一生、お前を許すつもりはない。あのときの報いは、まだ終わっていない」蓮がそう言ったあと、時雄は何も返さなかった。萌花はますますわけがわからなくなった。蓮が言う「彼女」とは、紗夜のことなのだろうか。つまりこの二人は、結局まだ紗夜をめぐって争っているということなのか。そこまで言わせるほど、二人の間には深い因縁があるということなのか。蓮が言う「あのとき」とは、いつのことなのだろう。昔、二人の間でいったい何が起きたのか。萌花はこれまでずっと、時雄は三人の関係の中で優位に立つ側だと思っていた。しかし今、こうして二人のやり取りを聞いていると、そうではない気がした。むし
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第285話

そう考えると、萌花の中ではすべてがつながった気がした。蓮と時雄は、表でも裏でも張り合い、互いに傷つけ合っている。その根っこにあるのは、二人が同じ女性を想っているということだ。初恋の相手というものは、それだけで厄介なのに、まして幼いころから一緒に育った相手ならなおさらだろう。結局、鍵を握っているのは紗夜だ。そこまで考えたところで、萌花はふと、自分がずいぶん余計なことに頭を使っていることに気づいた。そうだ。男二人が一人の女性をめぐって勝手に泥沼にはまっているだけなら、自分には関係のない話だ。結局、自分は彼らの過去に巻き込まれただけの部外者だ。そんな人たちのことを気に病むくらいなら、まず自分のほうを心配したほうがいい。萌花は心の中でため息をつき、その場を離れようとした。ところが振り返った瞬間、紗夜がこちらへ歩いてくるのが見えた。どうやら紗夜もかなり前から萌花に気づいていたらしい。萌花はなぜか一瞬だけ後ろめたさを覚えた。けれどすぐに気持ちを立て直し、何事もなかったようにエレベーターのほうへ歩き出した。このままただ立ち去るつもりだったが、紗夜の横を通り過ぎようとしたとき、彼女のほうから声をかけてきた。「二条さん、今の話を立ち聞きしていたんですか?」萌花は否定しなかった。「もともと好奇心が強いんです。ただの野次馬ですよ。聞こえてきた話を聞いただけで、責められることでもないでしょう」紗夜は静かに尋ねた。「それで、何を聞いたんですか?」萌花は笑った。「二人の男が紗夜さんのために正気を失って、共倒れしそうになっている話です」萌花は、紗夜の美しく整った顔を見た。「紗夜さんは、ある意味、女の勝ち組ですね」そして少し間を置き、声を落とした。「ただ、三人とも幼なじみなんでしょう。ならばはっきり選んだほうがいいんじゃないですか。紗夜さんだって、二人がこのまま傷つけ合うのを見たいわけではないでしょう」紗夜は何も言わなく、ただ、じっと萌花の目を見つめている。やがて、彼女もまた笑った。「では、二条さんは、私がどちらを選ぶべきだと思いますか?」そのどこか投げやりで、しかも自信に満ちた視線に、萌花はどうしようもない嫌悪感を覚えた。声が、一段冷たくなった。「それは紗夜さんの自由です。心のままに選
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第286話

「あなたたちは勝手に泥沼を続けていればいいんです。お願いですから、もう他人を巻き込まないでください」「……ずいぶんな言い方ですね!」紗夜は怒りのあまり、上品ぶる余裕もなくしたらしい。声が一気に高くなった。そのとき、病室の扉が開いて、萌花の背後に、蓮が姿を見せた。「萌ちゃん、少し話ししない?」萌花は振り返りもしなかった。「そんな必要ありません」そう言い捨てると、萌花はそのまま歩き出した。これ以上、この複雑すぎる三角関係に巻き込まれる気はなかった。だが蓮はそのまま引き下がらず、萌花のあとを追ってきた。萌花は気づかないふりをして、さらに歩調を速めた。本当なら、蓮に聞きたいことも、伝えたいことも山ほどある。最近どうしていたのか。あの暴露記事は自分とは無関係だと、きちんと説明もしたい。彼の仕事やこれからのことも、気にならないわけではない。しかし蓮がここに現れた瞬間、萌花はもう何も言わなくていいと思った。蓮は見たところそれほど大きな打撃を受けているようには見えない。結局、自分は三人の都合に振り回され、利用されていただけだ。蓮がどれほど優しくしてくれても、そこには別の目的があって、友人としての純粋な好意ではない。誤解されているなら、それでもいい。もう誤解されたままで構わない。どうせ、この先彼と関わることもないのだから。萌花はかなり速く歩いていて、それでも蓮が駐車場までついてきた。萌花が車に乗り込むと、蓮もすぐに助手席のドアを開け、当然のように座った。萌花は呆れて彼を見る。「何をしているんですか」「そんな顔しないでよ。俺たち、別に敵同士じゃないだろ。少し話したいだけだ」萌花は目を閉じ、どうにか気持ちを落ち着けた。「玉城さん、この前もう会うことはないと言いましたよね」蓮は静かに言った。「本当は、もう君を巻き込みたくなかった。でも、運命っていうのは嫌なところで人を引き戻すんだな」萌花は数秒、黙った。「何を話したいんですか」「ひとつ、頼みたいことがある」「何ですか」「時雄が入院している間、退院するまででいい。そばで見てやってほしい」萌花は思わず笑った。「あなたのことが本当にわかりません。そんなお願い、あまりにも身勝手だと思いませんか。どういう立場で私
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第287話

「でも、もうとっくに巻き込まれてるだろ。十年前から、ずっとそうだった。逃げられないよ」その言葉を聞いた瞬間、萌花の中で怒りがこみ上げた。「もういい加減にしてください。あなたたち三人のこじれた関係に関わる気なんてありません。できるだけ遠くに離れたいんです。三人で勝手にやってください。お願いですから、もう他人を巻き込まないでください」萌花の声は冷えている。「あなたたちは、そんなことをして楽しいんですか。人生が順調すぎて退屈なんですか。一人の女性をめぐって、男同士で命を削るように張り合うのは勝手ですが、他人まで巻き込まないでください」そこで、萌花はさらに冷たく笑った。「もっとも、そんな争いも長くは続かないでしょうけど。どうせ時雄は、もう先が長くないんですから。だったら、あなたが少しくらい譲ってあげたらどうですか。時雄がいなくなれば、紗夜さんにはあなたしかいないんですから。ほかに選びようもないでしょう。時雄が五年ももたないなら、せめて最後くらい、紗夜さんを時雄に譲ってあげたらどうですか」萌花は、自分の言葉がどれほど残酷か、もちろんわかっている。それでももう構わないと彼女は思う。どうせ誰も自分の気持ちなど考えてくれないのなら、自分だけ正しくあろうとする必要もない。相手の一番痛いところを突くことがこんなにも簡単で、こんなにも胸のすくことだとは思わなかった。それを聞いて、蓮の顔色はその瞬間に変わって、反射的に萌花の手をつかんだ。「時雄が五年ももたないって、どういう意味だ」「今回どうして時雄が入院したと思っているんですか。時雄には重い心臓病があります。このままだと、五年ももたないそうです。助かる方法があるとすれば、心臓移植くらいだと聞きました」萌花は蓮を見た。彼の目には、隠しようのない衝撃が浮かんでいる。その表情を見て、萌花のほうが先に少し冷静さを取り戻した。「このまま憎み合っても、誰も救われないでしょう。あなたたちが幼いころから深く関わってきたことはわかってます。でも、だからといって、ここまで互いを追い詰める必要はないでしょう」蓮は一瞬だけ目を揺らしたが、すぐにその動揺を押し込めた。「萌ちゃん。俺は前に一応君を助けたつもりだ。その結果、仕事も世間の評価も大きく傷ついた。それを恩に着せるつも
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第288話

萌花は記憶をたどった。そしてふと、芽衣と健太におもちゃを買うときのことを思いした。あのとき、眼鏡をかけていて、キャップを目深にかぶった若い女が、確かに一度ぶつかってきた。萌花はあの時反射的にその女を支えた。まさか、その一瞬に服に超小型カメラを貼りつけられたとは思わなかった。つまり、カメラは萌花の服についたまま、蓮の部屋まで入り込んでいたことになる。萌花がクローゼットを開けた瞬間、そこに隠れていた蓮の姿がそのまま映ってしまった。萌花は、まるで氷の張った湖に頭から押し込まれたような感覚に襲われた。真実はこんなことなのか。時雄は最初から真実を知っている。蓮の映像が流出したのは萌花のせいだと時雄は言った。あの言葉は、脅しでも言いがかりでもない。萌花はしばらく言葉を失った。蓮が口を開いた。「俺と時雄の関係は、君が思っているほど最悪じゃない。でも、仲がいいわけでもない。今回はあいつに助けられた。だから俺も、返せるうちに返しておきたい。お互いに貸し借りなしにしたいんだ」萌花は、あまりのことに笑いそうになった。「私を清算に使うつもりですか。私は、あなたたちの都合でやり取りされる物じゃありません。それに玉城さん、私たちって、そこまで親しい関係でしたか? あなたが時雄に何か返したいからといって、どうして私が差し出されなきゃいけないんですか」萌花の声は冷えている。「そもそも悪いのはあのファンでしょう。私に責任を押しつける話じゃありません」蓮は静かに言った。「萌ちゃん。時雄のいちばん大切な秘密を知りたくない?」萌花は黙った。「時雄が退院するまで、そばにいてやってほしい。そうしてくれたら、全部話す」蓮は萌花の目を見た。「時雄の過去も、俺たち三人の過去も、隠さずに話すから」結局、萌花は自分の好奇心に負けた。もちろん、理由は好奇心だけではない。時雄を疑い、責めてしまったことへの後ろめたさも、彼の病状を知ってしまった今となっては、どうしても無視できない。それから数日、萌花は頻繁に病院へ顔を出すようになった。夜は白蘭邸に泊まっていて、佳代が食事を用意し、それを萌花が病院へ持っていく。とはいえ、萌花はほとんどの時間、病室で仕事をしているだけだ。カラリスに行くことはもう決めている。それ
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第289話

「時雄、私があなたを心配して病院にいると思ってるの?勘違いしないで。玉城さんに頼まれただけよ。時雄に助けられた分、少しでも返したいから、退院するまでそばにいてやってほしいって言われたの。それだけだから、変なふうに受け取らないで」時雄の顔が少し暗くなった。「蓮に頼まれたら引き受けたのか。あいつが俺への埋め合わせをするために、君に俺の世話をしてほしいってこと?君とあいつは、いったいどういう関係だ」萌花は、蓮の名前を出せば時雄がどう反応するか、よくわかっている。だからこの数日、あえてその話には触れなかった。萌花は淡々と言った。「私にも私の目的があるだけ。玉城さんが別にいい人じゃないことくらい、もうわかってる」時雄の表情はさらに暗くなった。「どんな目的だ」萌花は時雄をじっと見て、わざと答えた。「それは教えない」「萌花」「何?」「何度も言ったはずだ。蓮には関わるな。あいつは別の狙いがある」萌花の声はかえって投げやりになった。「それはわかってるよ。あなたたちにとって、私は結局、都合よく使える人間でしかないんでしょ。あなたは私を紗夜さんの代わりにした。紗夜さんは私を子どもを産ませるための道具みたいに見ている。玉城さんは玉城さんで、時雄への埋め合わせに私を差し出そうとしている。まさか自分がここまで便利に使われるとは思わなかった」時雄は黙った。その表情はみるみる暗くなり、病室の空気まで彼の沈黙に引きずられるように冷えていく。これこそが、時雄の本当の姿なのだと萌花は思った。陰気で、冷たくて、どこか壊れたように危うい。これまで見せていた温かさ、軽薄なほどの明るさは、すべて演じていただけだろう。まるで二つの顔が一つの体の中に住み、交互に表へ出てくるようだ。「それなら、俺たちから離れろ。誰にも関わるな」時雄は背を向けた。その声には、もう冷たさしか残っていない。「萌花、帰れ。もう世話はいらない。離婚協議書は午後に届ける。あとの手続きは弁護士に任せる。たぶん、俺たちはもう会うことはない」萌花は、時雄がここまであっさり突き放してくるとは思っていなかった。腹立たしさがこみ上げたが、言い返す気にもなれず、黙ってノートパソコンを閉じた。「私だって、好きでここにいるわけじゃない」荷物をまとめ
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第290話

「……本当に、どうしてそんなに可愛いんだろうね」蓮はそう言うなり、萌花の頬に手を伸ばしてきた。萌花は反射的に身を引いて、その背中がちょうど誰かの胸にぶつかった。いつの間にか、時雄が萌花の後ろに立っている。ぶつかった瞬間、時雄は彼女の腕を支えるように手を伸ばした。その姿は、まるで萌花を自分の腕の中にかばっているようにも見えた。「蓮、いい加減にしろ」時雄の声は氷を含んだように冷たい。蓮がわざとやっていることは、萌花にもわかる。彼は時雄を刺激するために、芝居じみた振る舞いをしている。ただ、萌花には理解できない。そんな芝居をするなら、利用する相手は自分ではなく紗夜のはずだ。二人の視線がぶつかって、萌花には、その目がどちらもぞっとするほど冷たいのに、同時に火花を散らしているように見えた。先に折れるのは蓮のほうだ。「実は、昼飯をたかりに来ただけなんだ。今日は近所でCM撮影があってさ。こんな時間までかかって、もう腹が減って死にそう」蓮はくるりと背を向けると、病室の中で食べ物を探し始めた。ちょうど昼食の時間だ。佳代はもう食事を届けているが、萌花も時雄もまだ手をつけていない。蓮は弁当箱を次々とテーブルに並べた。「豚の角煮、白身魚の酒蒸し、海老とうにの雑炊。何だよ、俺の好きなものばっかりじゃないか」そう言うと、蓮はもう椅子に腰を下ろした。「一食くらい、ごちそうになってもいいだろ?」そう言って、彼は返事を待つ気もないらしく、自分で茶碗と箸を取って平然と食べ始めた。食べながら、萌花にも声をかける。「萌ちゃんも早く座りなよ。これ、かなりうまい。佳代さんの料理、久しぶりだな。あの人、俺のこと疫病神みたいに扱うから、なかなか食べさせてもらえないんだよ。でもなあ、正直言うと、腕は萌ちゃんのほうが少し上かもね。前に作ってくれた海老の旨煮、今でも忘れられないさ」病室で蓮だけが一人しゃべり続けている。萌花は呆れた顔をし、時雄の表情はどんどん冷え込んだ。萌花はテーブルのそばへ歩き、自分のバッグをつかんだ。「時雄は明日退院します。玉城さん、頼まれたことは果たしました。約束の話は、あとで聞かせてもらいます」そう言って、萌花はバッグを肩にかけ、そのまま病室を出た。翌日。萌花を呼び出したのは蓮のほう
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