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All Chapters of 断ち切るのは我が意: Chapter 301 - Chapter 310

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第301話

小春は部屋の中を行ったり来たりしながら、ぶつぶつとしゃべり続けている。あれこれと言い並べるその様子は、まるで自分自身を納得させようとしているようにも見えた。けれど萌花には分かっていた。小春は本気で悠真のことを想っている。その息子さんのこともまるで自分の子どものように大切にしている。この三年間、あの子にいちばん時間を使ってきたのは、もしかすると小春だったかもしれない。週末になるたびに特別支援学校の療育へ付き添っている。あの子の服も、おもちゃも、ほとんど小春が買ってあげたものだ。小春は口は悪いが、誰よりも優しい。萌花は口を開いた。「小春。前に一緒にカラリスへ行くって言ってたのは、心配してくれてるからでしょう。でもそれだけじゃなくて、悠真さんとの将来が見えなかったからでもあるんだと思う。でも今、悠真さんは結婚しようと言っているんでしょう。だったらちゃんと考えてみたほうがいい。本当にもう彼とは終わりでいいのか、それともまだ一緒にいたいのか。どちらを選んでも、私は小春の味方だから」小春は笑った。「いいの。男なんて、結局みんな似たようなものよ。萌花の結婚を二回も見てきたんだよ? あれで懲りないほうがおかしいでしょ。男に振り回されるなんてつまらない。私は仕事に生きる」萌花はそれ以上何も言わなかった。彼女も心のどこかでは小春の考えに近い。恋はあれば人生に彩りを添えるもので、なくても生きていける。しかし仕事は自分を裏切らない。午後、萌花は会社へ向かった。今、萌花はパーセクテックの株を十五パーセント保有している。時雄が自分の持ち株の半分を彼女に譲った。ほとんど押しつけるような形だった。それが時雄の出した離婚の条件で、受け取らないなら離婚には応じない。そう言われてしまえば、彼女に拒む余地はなかった。萌花は口元をわずかに上げた。元夫としては時雄はなかなか立派だ。午後、株式の名義変更を確認するための臨時株主総会が開かれた。もっとも、萌花が想像していたような反発はまったく起きなかった。パーセクテックの株主は、そのほとんどが技術部のエンジニアたちで、自分たちのチーフが会社でいちばん多くの株を持つことになったと知ると、彼らは喜んで机を叩いた。彼らにとって大事なのは、持ち株比率がなぜ変わったのかではな
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第302話

そのとき、隼人が時雄を呼び止めた。「社長、今夜、一緒にどうですか」時雄は言った。「俺は遠慮しておく。今夜は用があるんだ」会議が終わると、技術部の人々は一斉に動き出した。技術部の連中は、いわゆる技術オタクばかりで、普段からたいした趣味もない。忙しい仕事が一段落したあと、皆で集まって飲んだり食べたりするのが、彼らにとって数少ない息抜きだ。満はいつの間にか、社内ラウンジを使えるよう手配している。夕方になると、ラウンジのテーブルには紙皿や飲み物が並び、持ち寄った惣菜や軽食も次々と広げられた。食材を並べる者、飲み物を配る者、萌花の手伝いをする者。それぞれが勝手に動きながらも、妙に手際がいい。萌花は給湯室の簡易キッチンを借りて、スペアリブの甘辛煮を作った。甘辛い香りが漂い始めると、皆が自然と集まってくる。満は真っ先に一切れつまみ、熱さに顔をしかめながらも、すぐに両手の親指を立てた。日が暮れるころには、皆はラウンジの長いテーブルを囲み、缶ビールやソフトドリンクを片手に、焼きたての肉や萌花の料理をつまみながら笑い合っている。不意に、満が立ち上がった。「チーフに乾杯しましょう。チーフが来てくれたこの三か月、俺にとっては最高に楽しい三か月でした」ほかのメンバーも次々に立ち上がり、声を合わせる。「チーフ、これからもずっと俺たちを引っ張ってください」「俺、一生チーフについていきます。みんなでパーセクテックをもっと大きくして、もう一回伝説を作りましょう!」「チーフは、俺が今まで見た中で一番すごいエンジニアです。今の俺の中ではチーフが一位で、シャドウは二位です」萌花は酒を飲まなかった。ジュースのグラスを手に、皆にもっと食べるよう促した。けれど、楽しそうにはしゃぐ彼らの顔を見ていると、胸の奥が重くなっていく。皆がパーセクテックの未来に期待を寄せているのが、痛いほど分かる。萌花はまだここを離れることを誰にも話していない。本当は、満と隼人を連れていきたい気持ちもあり、以前、それとなく聞いてみた。二人は胸を叩いて、ずっとチーフついていく、と言った。しかし、パーセクテックは彼らが汗をかきながら、少しずつ形にしてきた会社でもある。ここにどれほどの思い入れがあるのか、萌花にはよく分かっている。だからこそ、簡単
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第303話

萌花はその見出しをタップしようとした。しかしアクセスが集中したのか、SNSはまったく読み込めなくなった。何度更新しても、画面は動かない。萌花の胸に、嫌な予感が広がった。前に蓮の発作の件を暴露したのは愛莉という熱狂的なファンで、今回も同じ人物なのではないかと萌花は真っ先に考えた。というのも、真紀が以前、何気なく言っていた。愛莉には何かしらの後ろ盾があるらしい。前に蓮の件を暴露したあとも、すぐに釈放されていたという。しかも相手は外国籍で、こちらで法的責任を追及するにも難しい部分が多く、今も双方の弁護士が交渉を続けているそうだ。今も双方の弁護士が交渉を続けている最中である。萌花がようやくSNSにつながるようになったころには、蓮と男性の関係をめぐる投稿は、すべて消されている。時雄が手を回したのだと萌花にはすぐ分かった。彼の力で、話題そのものを強引に封じ込めたのだろう。しかも、その話題に触れるような投稿は出したそばから消されるようだ。けれど、ここまで強引に押さえ込めば、世論の不満はかえって水面下に溜まっていく。いつか爆発したときには、今よりはるかに激しいものになるはずだ。その夜、萌花が帰ると、小春はこの件について話し始めた。「ネットって本当にひどいよね。言うだけなら一瞬なのに、否定する側はどれだけ大変だと思ってるんだろう。玉城さんが男性好きだなんて、そんなデマを流した人、本当に許せない。誰がやったのか分かったら、破産するまで訴えてやる」小春は蓮の大ファンで、蓮が小春の青春そのものと言ってもいいほど、彼女にとって特別な人だ。だから萌花は、蓮と時雄の関係を小春には話さなかった。小春の中にあるその憧れを、壊したくない。それに今の萌花は、蓮を責めるよりも、ただ胸が痛んだ。蓮のしてきたことのすべてを正しいとは思わない。けれど、その多くは彼自身が望んで選んだものではない。傷つけられ、追い詰められた末に、そうせざるを得なかったと思える。あれほど傷つけられ、心の底まで暗い影に覆われた人間が、この汚れた世界へ狂ったように復讐することもなく、最後には刃を自分の胸へ向けた。そんな人を、どうして責められるだろう。小春が二枚のチケットを取り出した。「明日は絶対に会場へ行く。誰かが一言でもデマを言ったら、その場で
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第304話

時雄は芸能界の人間ではない。それでも、芸能界のトップ女優や歌姫たちがこぞって結婚相手に望む男である。時雄はほどなく自分の席に腰を下ろした。観客席にいる萌花には、気づいていないようだ。少しして、紗夜も会場に姿を見せた。今日の紗夜は、スモーキーグレーのチュールドレスに身を包んでいる。淡く冷たい色合いと抑えたメイクが、彼女の清楚で近寄りがたい雰囲気をいっそう際立たせている。まるで雨上がりの霞の中に立つ人のようだ。ただ、萌花が会場を見回しても、蓮の姿はどこにも見当たらない。やがて、招待客も観客もすべて席に着いた。司会者が登壇し、授賞式が正式に始まった。最初に発表されるのは今年度の最優秀主演男優賞で、ノミネートされている四人はいずれも映画界で名の知られた実力派ばかりだ。蓮もまた、候補者の一人として名を連ねている。司会者はマイクを手に、カードへ視線を落とした。「それでは発表いたします。今年度の最優秀主演男優賞、受賞者は――『デンマークの風』アルノー役、玉城蓮さんです。おめでとうございます。玉城さん、どうぞステージへ」その結果に、会場の誰も大きく驚かない。蓮のその作品は、すでに海外の映画賞をいくつもさらっている。少し前に国内でも公開されたばかりで、作品への評価こそ賛否が分かれているものの、彼の演技に異を唱える者はほとんどいない。そのとき、萌花はようやく蓮の姿を捉えた。蓮は客席にはおらず、舞台袖から直接ステージへ現れたようだ。今日の蓮は、黒のベルベットのオーダースーツに身を包んでいる。照明を受けると、生地には控えめな暗い模様が浮かび上がった。その胸元には、真紅のバラのブローチが一つついていて、闇の中に咲く、命の花のようだ。星のような光が降り注ぐ中、蓮は舞台へ向かって歩いていく。一歩進むたびに、会場中の呼吸まで彼に支配されていくようだ。萌花の耳に、どこか嫉妬を含んだ男優たちの声が届いた。「なんであいつ、影まで計算してるみたいに見えるんだよ」観客席には蓮のファンもいて、本人が姿を見せた瞬間、彼女たちは一気に沸き立ち、拍手と歓声が会場を満たした。蓮はステージに立ち、司会者と言葉を交わしているときだった。どこからか、ミネラルウォーターのペットボトルが飛んできて、まっすぐ蓮の体にぶつかった。続いて、耳
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第305話

その光景を見て、小春も驚きと怒りで目を見開いた。「萌花、あいつら絶対に許さないから」小春が萌花のほうを振り向いたとき、そこに萌花の姿はもうない。「萌花?萌花!」春は慌てて辺りを見回し、萌花の姿はもうどこにも見当たらない。小春が舞台へ目を戻したときには、時雄はもう蓮のそばにいた。彼は脱いだスーツの上着を広げ、無言で蓮の体を覆った。その瞬間、無数のフラッシュが二人に向けられた。その瞬間、無数のカメラが二人に向けられ、フラッシュが一斉に弾けた。全ての人の視線が時雄と蓮に釘づけになる。あまりにも予想外の光景に、誰も声を出せない。なぜこのタイミングで、小林グループのトップが舞台に上がるのか。あちこちでささやき声が広がっていく。「嘘、噂は本当だったってこと?蓮って本当に男が好きなの?」「昨夜、蓮と男の写真が出た直後、数分もしないうちにSNSがつながらなくなったじゃん。あれ、普通じゃないでしょ。どう見ても、誰かが裏で止めたんだよ」「昨日、消される前に投稿を見たんだ。蓮と男のツーショットだ。横顔だけだけど、小林グループの社長にかなり似てるよね」ざわめきが広がる中、突然、会場の照明が何度か明滅した。次の瞬間、ホール全体が暗闇に沈んだ。 暗闇の中、あちこちで悲鳴が上がった。何が起きたのか分からず、会場は一気に騒然となる。「何?停電?」「授賞式、始まったばかりなのに、このまま中止?」「全部蓮のせいでしょ。あの人がいなければ、こんな厄介な連中も来なかったのに」「蓮を責めるのは違うでしょ。こんな騒ぎを仕掛けた連中のせいじゃないの?」客席ではあちこちから違う声が飛び交っている。それでも照明は一向に戻らない。舞台の上では、蓮の様子が明らかにおかしくなっている。体はこわばり、呼吸は荒く、暗闇の中で何かに追い詰められているように震えている。蓮が声を上げかけた瞬間、時雄はとっさにその口を手で塞いだ。理性を失った蓮は、その手に思いきり噛みついた。時雄は眉をわずかに寄せただけだ。そのとき、暗闇の中から声がした。「こっちだ。外へ出すから」時雄は一瞬、意外そうに目を向けた。萌花の声だ。本当は、萌花が今日この会場に来ていることに、時雄はとっくに気づいたが、ずっと見ないふりをしていた。も
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第306話

今回の授賞式は生中継で、会場で起きたことはすでにネット上で一気に広がり、騒ぎは収まるどころか、ますます大きくなっていて、そう簡単に抑え込めるものではないようだ。時雄は言った。「俺が対処する」萌花は続けた。「玉城さんがあれを見たら発作を起こすと知っていて、誰かがわざと会場に持ち込んだんだと思う。偶然じゃない。かなり前から準備していたはずだ。そこまで知っている人間は限られているから、前に玉城さんのことを暴露した愛莉というファンを調べてみて」「ああ」萌花はそれ以上、何も言わなかった。「じゃ、気をつけて」「ああ」萌花は背を向けて歩き出そうとしたとき、手がつかまれた。時雄に片手を強く握られている。萌花は振りほどこうとしたが、彼の指にはさらに力がこもった。その瞬間、萌花の体がこわばった。時雄が必死に自分を抑えていることは分かる。けれど同時に、理性の壁を越えてしまったあとの、頑なで執着にも近いものも感じた。泥の中に沈みかけた人間が、ようやく一本の枝をつかんだように、どうしても手放そうとしない。萌花は振り返らなかった。それでも、時雄の手に巻かれた包帯が赤く染まり始めているのだけは分かった。その手は、蓮に噛まれてひどく傷ついて、掌の腱膜にまで損傷が出ていると聞いている。「放して」萌花の声は静かで、そこにはほとんど感情がこもっていない。時雄の指から少しだけ力が抜けた。萌花はその隙に手を引き抜いて、振り返らずに歩き出した。もう二度と、時雄との関係に引き戻されるつもりはない。それでも運命というものは、見えない手で、ふとした瞬間に彼女の背中を押してくる。翌日、事態は萌花の予想どおりになった。ネットでは、時雄と蓮をめぐる噂が一気に広がっている。二人は同性愛者で、何年も前からひそかに交際していたという話。蓮は資本に脅され、逃げ場のない鳥籠に閉じ込められていた。そのせいで心を病み、錯乱したのだという話。ネット上には、ありとあらゆる憶測が飛び交っている。ただ、気づけば世論は、時雄を責める方向へと傾いていて、最終的には、どの話も時雄に不利な方向へと向かっていく。その影響で、その日の小林グループ株はかつてないほど急落し、時価総額はわずか一日で数千億円規模も吹き飛んだ。その衝撃は株式
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第307話

萌花には分かっていた。理香子は心配しているふりをしているだけで、本当はこの状況を面白がっていると。気の毒がるような口ぶりも、ただの嫌味にしか聞こえなかった。萌花はわざと尋ねた。「時雄が、どんな人だと言うんですか?」理香子は、萌花がわざわざこんなふうに聞き返してくるとは思っていなかった。そこまで言わせたいのなら、望みどおり言ってやればいいと彼女は思った。「女にとって一番つらいのは、夫に女として見てもらえないことでしょう?時雄さんは本当は男性が好きなのに、あなたと結婚しました。つまり萌花さんは、世間体のために選ばれただけの妻だったということじゃありませんか?本当に気の毒ですね」萌花は淡々と言った。「時雄は、パーセクテックの株を十五パーセント、譲ってくれました。年間の配当だけでも、数百億円規模にはなるでしょう」理香子がいちばん敏感に反応するのはお金の話だと萌花はよく知っている。表向きは小林家の奥向きを任されているように見えても、実際に家のことを決めるのは須恵だ。しかも長男は会社経営に一切関わっていないうえ、弘武は毎年かなりの金を慈善事業に使っている。そのため、長男一家に回ってくる金は決して多くない。理香子はそのことをずっと不満に思っている。案の定、萌花が何の苦労もなくパーセクテックの株を十五パーセント手に入れ、毎年数百億円規模の配当を受け取ると聞いた瞬間、理香子の顔がひきつった。奥歯を噛み砕きそうなほど悔しさをこらえているようだ。たかが数か月の結婚で、萌花はこれほど大きな利益を手にした。それなら、小林家で何十年も苦労してきた自分は何なのか。それでも理香子は無理やりその怒りを飲み込んで、かろうじて笑みらしきものを作った。「お金だけあっても仕方がないでしょう。女にとって一番大事なのは、夫に大切にされることじゃありませんか。お金がいくらあっても、夫に愛されなかった寂しさまでは埋められませんもの。萌花さんだって、本当はつらいでしょう?」萌花は微笑んだ。「それなら、弘武さんはきっと理香子さんをとても大切にしていらっしゃるんですね。だからこそ、理香子さんはお金のことなんて少しも気になさらないはずです。お友達も皆さん、いいご主人に恵まれて羨ましいと思っているでしょうね」弘武の名前を出された瞬間、
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第308話

案の定、萌花の顔色が変わったのを見ると、はなはさらに畳みかけてきた。「女としては、本当に惨めですね。最初の結婚では夫に見向きもされず、三年も夫婦だったのに一度も触れられませんでした。二度目の相手は、よりによって本当は男が好きな人です。私まで気の毒になりましたよ」萌花は不意に口を開いた。「はなさん、人の心配をする余裕があるなら、先にお金を返してくれません?」はなの顔色がわずかに変わって、すぐに否定した。「お金なら、前にもう振り込んだでしょう?」あの二億円は、もともと来希が出した金だ。はなは、萌花がまだそのことを知らないと思っている。そう考えると、はなの胸には小さな優越感が広がった。萌花は言った。「それじゃありません。そのあと、動画と録音を消してほしいって言って、あなたが書いた借用書のほうですよ。二億円。覚えているでしょう?」もちろん、はなは覚えている。萌花は削除すると約束した録音を実際には消しておらず、肝心な場面でまた持ち出して、はなを脅した。あの時、幸林テクノロジーがまさに上場を控えていて、愛人だと騒がれるわけにはいかない。そこで萌花は、もう二億円払えば動画を消すと言った。当時のはなは、幸林テクノロジーが上場すれば自分もすぐに億単位の資産を手にできると思っていて、二億円などまるで惜しくないから、その場で借用書を書いて、萌花が録音を削除するところまで確認した。けれど借用書を書かせたあと、萌花は返済を迫るどころか、その話を持ち出すことさえなかった。だから、はなもすっかり油断していた。「萌花さん、あの借用書を書いたのは、あなたが音声を流したら、幸林にも私の評判にも傷がつくと思ったからです。でも今、幸林テクノロジーはもうありません。私も来希のことなんて、とっくにどうでもよくなっています。今さらあなたがあの録音を持っているところで、私は痛くもかゆくもありませんから、払うつもりもありません」幸林テクノロジーはすでに潰れている。今さら録音を持ち出されても、はなにとって大した痛手にはならない。萌花が本気で二億円を取り立てるつもりだとは思えず、払わずに済ませられると、はなは高をくくっていた。萌花は静かに言った。「はなさん。そのお金は、あなたが払わないと言えば済むものじゃありませんよ。借用書はまだ私の手
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第309話

その言葉に、はなは怒りで顔を真っ赤にして、ヒールの音を響かせながら、数歩で来希の前まで詰め寄った。「ふざけないで。その二億円、もとはと言えばあなたのせいでしょ。だったら、あなたが払ってよ」来希は、もう開き直ったような顔をしている。「今の俺は、ただの配達員だぞ。二億円なんて、返せるわけないだろ」来希とはなは、今ではほとんど他人同然になっている。二人が離婚しないのは、小林家から毎月支給される生活費のためだ。家族の人数に応じて金額が決まるため、はなと離婚すれば、その分、長男一家に入る金が減ってしまう。一人につき、月に四千万円。理香子が、はなの離婚を認めるはずがない。しかもその一方で、毎月はなに四千万円を渡しているはずだと来希は思っている。来希は言った。「理香子さんから毎月四千万円もらってるんだろ。あの小さなマンションだって売れば数千万円にはなる。二億円くらい、かき集めれば何とかなるんじゃないのか」来希が完全に他人事のように言うのを見て、はなは怒りで全身を震わせた。理香子が反対していなければ、はなはとっくに来希と離婚している。来希は、理香子が毎月四千万円を渡してくれると思っているらしい。しかし実際には、その人数分の金はすべて理香子の懐に入っている。彼女ははなには、たまにブランド品を与えて機嫌を取るだけだ。「来希、言っとくけど、私はもうすぐ小林グループに入るの。そうなれば、小林家の長女として表に出ることになる。将来、小林グループが誰のものになるかなんて、まだ分からないでしょ。今のうちに私に頭を下げておいたほうがいいんじゃない?そのとき気が向いたら、あなたにも食べていけるくらいの仕事は回してあげるから」「はな、夢を見るのもほどほどにしろ」「来希、見ていなさい。小林家は、いずれ私のものになるから」萌花は廊下で少し足を止めた。下では、はなと来希が身内同士で噛みつき合っている。ただ、萌花ははなの言葉に妙な違和感を覚えた。はなは小林家の中ではずっと端に追いやられた存在で、いつも顔色をうかがいながら生きてきた。そんな彼女が、まるで自分も小林グループの後継争いに加われるかのような口ぶりをするのは、明らかにおかしい。ただ、萌花は深く考えずに、そのまま須恵の書斎へ向かった。書斎の前まで来ると、中から
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第310話

「何を言っているの。まだ若いのに、結婚しないなんて。もう十年以上も前のことでしょう。そろそろ前を向きなさい」光代には、若いころ恋人がいた。相手は化学博士で、家柄も釣り合っている。誠実で、背が高く、見た目もよく、気遣いのできる穏やかな人だった。須恵も当時、その縁談には賛成していた。ところが、婚約を目前に控えたころ、彼は研究室で起きた爆発事故に遭い、そのまま命を落とした。それ以来、光代は恋愛からすっかり遠ざかり、会社のことだけに心を向けるようになった。須恵にとって、そんな光代の姿は見るたびに胸が痛むものだった。しかもその胸の痛みには、誰にも言えない負い目が混じっている。その時、ノック音が響いた。萌花が叩いたのではない。振り向くと、時雄が彼女のすぐ後ろに立っている。萌花はさっきまで話に聞き入っていて、彼がいつの間に来ていたのかまったく気づかなかった。須恵と光代は同時に扉のほうへ目を向けた。萌花と時雄の姿を見ると、須恵は光代に言った。「先に出ていなさい。あなたのことは、またあとで話すわ」光代は幼いころから海外で育ち、この弟とも、もともとそれほど親しい間柄ではない。彼女は二人をちらりと見ただけで、そのまま部屋を出ていった。「入りなさい」須恵は書斎机の向こうに腰を下ろし、数珠をゆっくりと繰っている。萌花は中へ入るなり、すぐ尋ねた。「私の両親はどこですか?」須恵は答えた。「まだこちらへ向かっている途中で、もうじき着くでしょう」萌花は、遠回しな言い方をするつもりはない。「大奥様、時雄とはもう離婚しています。今日、両親も来るのなら、この件をきちんと終わらせたいと思っています。離婚の理由については、大奥様もご存じのはずです。私の気持ちも分かっていただけると思います」須恵は何も言わずに立ち上がって、時雄の前まで歩いていく。次の瞬間、乾いた音が響き、時雄の頬がはじかれた。萌花は思わず言葉を失った。須恵の冷えきった声が、書斎の中に落ちる。「時雄。男と一緒になることだけは、私は絶対に認めない。小林家はそんな恥に耐えられない。会社も同じだ。亡くなったお父さんが知ったら、どれほど怒ることか」時雄はわずかに顔をそむけた。額にかかる髪が乱れ、その一筋が目元を覆っている。彼の声もまた冷
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