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《断ち切るのは我が意》全部章節:第 351 章 - 第 360 章

373 章節

第351話

時雄はしばらくマンションの下に立っていた。萌花の部屋に明かりがついたのを確認してから、ようやく帰ろうとした。そのとき、見覚えのある姿が目に入った。「悠真?どうしてここにいるんだ」悠真は大きなゴミ袋を手にしていて、全身ほこりまみれで、どう見ても掃除を終えたばかりの姿だ。悠真と時雄は昔からの知り合いだ。仕事上の付き合いもあり、小林グループは悠真の法律事務所と何度も取引している。悠真はゴミ袋を捨てると、手を軽く払った。「引っ越したんです」「引っ越し?ここに?」時雄は思わず眉を上げた。悠真はもともと、住む場所にも身の回りのものにも妥協しない人間で、以前住んでいたのも海城ノ浦でも指折りの高級住宅だ。「ここで暮らせるのか?」悠真はため息をついた。「小春の近くにいるためなら、これくらい我慢するしかないです」その一言で、時雄はすべてを察した。「小春と一緒に住むことになったのか?」「一緒に住ませてもらえれば、の話ですが」悠真は肩をすくめた。「今は向かいの部屋を借りました。近くにいれば、少しは顔を合わせるきっかけもできますから」時雄はふと、何かを思いついたような顔をした。「隣、空いているのか?」悠真はすぐに時雄の考えを見抜いた。「四部屋あって、隣なら、まだ空いているはずですけど」そう言って、彼はにやりと笑った。「何だ。小林さんもここへ越してきて、隣人になるつもりですか?」翌朝。その朝、萌花は珍しく少し遅くまで眠っていた。ところが、外からがたがたと物を運ぶような音がして、とうとう目が覚めてしまう。何事かと思って出てみると、向かいの部屋へ新しい家具が次々と運び込まれている。萌花は首をかしげた。向かいには、昨日悠真が越してきたばかりだった。まさかもう一部屋借りたのかと怪訝に思っていると、家具を運ぶ人たちの向こうに、見慣れた顔が見えた。時雄である。彼は紙袋を手にしている。「朝食を買ってきた。食べる?」萌花は眉をひそめた。「朝から何をしているの?」「別に。ついでに買ってきただけだよ」「ついで?」時雄は少し笑った。「まだ言ってなかったね。俺もここに越してきたんだ」そう言って、萌花の向かいの部屋を指さした。「今日からここで暮らす」萌花の顔
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第352話

今の萌花と誠司は、NanoSynapseを共に進める仕事上のパートナーだ。プロジェクトはまだ立ち上げの段階にあり、二人はチームづくりから始めている。誠司はカラリスでつながりのある研究者たちに声をかけ、先端分野の人材を集めていた。萌花もパーセクテック時代から信頼しているメンバーを呼び寄せ、チームは少しずつ形になっていった。こうしてプロジェクトの準備は、当初の予定よりも早く進み始めた。当然、萌花もまた忙しくなり、夜九時まで会議が続くことも珍しくない。その日も会議を終え、萌花が帰ろうとしたところで、誠司が立ち上がった。「二条さん、今日は送りますよ」「天野さんに送ってもらいますから、大丈夫です」萌花は体が重くなってきたこともあり、今は隼人と満が交代で運転をしてくれてる。とはいえ、萌花にしてみれば、車の運転を控えているだけで、それ以外は普段どおりに過ごすつもりだ。むしろ最近は気持ちが安定しているせいか、体調も思ったより落ち着いていて、眠りも以前より深くなっている。誠司は少し考えてから言った。「よろしければ、少し食事に付き合っていただけませんか。二条さんに、ちょっと話したいことがありまして」誠司が連れていったのは、夜遅くまで開いている落ち着いた和食ダイニングだ。個室に通され、軽い料理がいくつか並ぶころには、萌花もちょうど空腹を覚えた。牛肉の炙り焼きを一口食べてから、彼女は誠司に尋ねる。「さっき、話したいことがあると言っていましたよね。何ですか?」誠司は珍しく、言葉を選んでいるようだ。いつも落ち着いていて、何事にも迷いを見せない人だ。そんな彼が口ごもるのを見て、萌花は少し意外に思った。「私でよければ聞きますよ。遠慮しないでください」萌花は、新しいプロジェクトの持ち株比率か何かの話だと思っていたが、誠司は意外なことを言い出した。「二条さんにしか頼めないことがあるんです」萌花は首をかしげた。「何ですか?」「この前、私が東堂長官のお宅に招かれた話は、聞いていますよね」誠司は先端技術の提供を通じて、政府系の研究機関とも関わりを持つようになっている。それで東堂宗一郎(とうどう そういちろう)に気に入られ、私邸に招かれたらしい。「それがどうかしましたか?」東堂長官には、絵理という孫娘がいて
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第353話

誠司は萌花の目を見つめた。「お願いできますか」萌花は少し考えてから尋ねた。「しかし、もし嘘だと知られたら、余計に面倒なことになりませんか」「京浜と海城ノ浦は離れてますし、今後も深く関わることはほとんどないと思います。今回は、どうしても断りきれなかっただけなんです」萌花はしばらく黙っていたが、やがて小さく息をついた。「分かりました。幸田さんの頼みですから、一度だけ手伝います。その代わり、あとでちゃんと埋め合わせしてくださいね」誠司はようやく笑った。「もちろんです。必ず埋め合わせします」食事を終えると、誠司は萌花をマンションまで送った。萌花が指紋認証で鍵を開けようとしたところで、向かいの部屋のドアが開いた。時雄が顔を出して、何気ないふりで声をかけた。「ずいぶん遅いね」萌花は適当に答えた。「残業よ」「残業で、あの店に行くんだ」萌花は振り返り、目を細めた。「何それ、尾行?」時雄は、萌花の手にある小さな紙袋を指さした。「尾行しなくても分かるよ」萌花は一瞬、言葉に詰まった。店を出るとき、妊婦だからと渡された小さなギフトボックスだ。紙袋には、店のロゴが入っている。萌花は何も言わずに中へ入ろうとした。ところが時雄は、そのまま後ろからついてくる。「また何?」「萌花。あの誠司という人とは、あまり親しくならないでほしい」時雄が突然そう言った。「彼は仕事のパートナーよ。毎日一緒に仕事をしているんだから、顔を合わせるのは普通でしょう」萌花は冷静に続けた。「それに、誰と親しくしようと、元夫のあなたには関係ないはずだけど」時雄の声も、少し低くなった。「君が誰と付き合うかは、たしかに俺が口を出すことじゃない。でも、俺の子どもに父親代わりを作るなら、話は別だ」萌花はむっとした。「時雄、そんなの勝手に決めつけないで。私、そんなこと一度も言ってないでしょう」「それに、離婚して子どもまでいる私を、幸田さんがそういう目で見ると思う?」萌花の目が冷たくなる。「頭の中が下品なことでいっぱいの人には、何でもそう見えるのね」時雄は少し声をやわらげた。「そこまで言わなくてもいいだろう。ちょっと焼きもちを焼いただけだ」萌花はますます腹を立てた。「何に焼きもちを焼
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第354話

「時雄、毎朝こうして朝食を持ってこなくていいから」時雄は平然と言った。「君のためじゃない。赤ちゃんのためだよ」そう言って、慣れた様子で部屋へ入ってくる。そこでリビングに置かれているスーツケースに気づいた。「どこかへ行くのか?」萌花は午後から京浜へ行くことになっている。今夜は向こうのホテルに泊まる予定なので、スーツケースには一泊分の着替えだけを詰めてある。説明するのも面倒で、萌花は短く答えた。「今日は出張よ」「どこへ?」「あなたに関係ある?」時雄の目がわずかに暗くなった。「そういえば、俺も今日から三日ほど京浜に行く。仕事でね。だから、しばらく顔を出せない」萌花は少し驚いた。時雄も京浜へ行くというのか。けれど、彼女はそこであえて突き放すように言った。「お願いだから、もうこういうことはやめて。正直、そういう気遣いをされても困るだけ。私たちは友達でいるくらいがちょうどいいの」結局、二人の会話は気まずいまま終わった。萌花があえてきつい言い方をしたのは、時雄の気持ちが見えているからだ。だからこそ、これ以上近づかせたくない。短い結婚ではあったが、そこで消耗したものはあまりにも大きい。もう一度同じ場所へ戻る気にはなれない。萌花が京浜のホテルに着いたのは午後三時だ。今夜、宗一郎の孫娘の誕生日会が、このホテル最上階の宴会場で開かれる。萌花は部屋で少し休んだ。六時になる少し前、ドアをノックする音がした。開けると、誠司が穏やかな表情で立っている。「二条さん、そろそろ行きましょう」その日の萌花は、白いリネンのロングワンピースを着ていた。お腹を締めつけないよう、ゆったりしたデザインを選んだものだが、彼女が着ると柔らかく上品に見える。誠司が一瞬目を留めたのに気づき、萌花は少し気まずそうに言った。「もうすぐ妊娠八か月なので、フォーマルなドレスは着られなくて。メイクも控えめなんですけど……失礼にならないでしょうか」化粧をしていなくても、萌花の顔は透き通るようにきれいだ。誠司は小さく笑った。「二条さんはこのままで十分ですよ」萌花は誠司の腕に手を添え、会場へ入った。二人が姿を見せると、すぐに周囲の視線が集まった。誠司の立場を考えれば、それも当然だ。誠司は今回の帰国をきっかけに、
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第355話

一方、はなも萌花に気づいて、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにこちらへ歩いてきた。だが近づくにつれ、萌花の隣にいる男の顔を見て、はなの表情がわずかに変わった。はなは萌花ではなく、先に誠司へ笑顔を向けた。「幸田社長、帰国してからまたお目にかかれるなんて思いませんでした」誠司は隣の人物と話していたが、はなの声に気づいて振り向いた。相手の顔を見た途端、表情がわずかに冷える。「ああ」萌花は少し意外に思った。誠司がはなを知っているとは思わなかったからだ。はなの隣にいる中年男も驚いたようだ。「はな、幸田社長とお知り合いなんだ」はなは微笑んだ。「大学でお世話になった教授が幸田社長とお知り合いで、そのご縁で一度だけご挨拶させていただいたことがあるの」だが誠司は、はなの言葉に合わせる気などまったくないようだ。「その先生とは、何度か仕事で顔を合わせただけです。今はもう関わりもありません。もっとも、学生に不適切な行為をした件で逮捕されたと聞いてますが」はなの顔色が一瞬で変わった。「え……そうだったんですか。全然知りませんでした。学生のころは、とてもそんな方には見えなかったので……」はなは、ひどく驚いたような表情を作った。誠司はそれ以上相手にせず、返事もしなかった。はなは仕方なく、今度は萌花へ視線を向ける。「萌花さん、どうしてこちらに?」誠司の表情にも、少し意外そうな色が浮かんだ。「お知り合いですか」はなは、萌花が答えるより先に口を開いた。「もちろんです。萌花さんとは、昔からいろいろありましたので」そのとき、会場の視線が一斉に入口のほうへ流れた。今日の主役である絵理が宗一郎の腕にそっと手を添え、こちらへ歩いてきた。「誠司さん、来てるんですね」宗一郎に声をかけられ、誠司は礼儀正しく挨拶した。「東堂さん、お元気そうで何よりです。絵理さん、お誕生日おめでとうございます」絵理の顔に、明るい笑みが広がった。「誠司さんのプレゼント、とても気に入りました」そう言い終えたところで、絵理の視線が萌花に止まって、表情がはっきりと変わった。「誠司さん、こちらは?」誠司が答えるより先に、宗一郎が穏やかに口を開いた。「誠司さんの奥さんだ。昨日話しただろう。誠司さんはもう結婚されてる
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第356話

はなは、わざと萌花のほうを見た。「皆さん、見てください。幸田社長の奥さまにそっくりではありませんか」萌花には、はなが何を狙っているのかすぐに分かった。この場に来る前から、身元を疑われる可能性は考えた。この前、萌花はメディアに出ている。しかしそれは数か月前の海城ノ浦でのことで、京浜とは人脈も空気も違う。だから、はなが写真を持ち出すまで、誰もそこに気づかなかった。はなが写真を見せたことで、周囲の人々が次々と集まってくる。「本当にそっくりですね」「どういうこと?小林家といえば海城ノ浦でもなかなかの名家だろう。小林社長の奥さまと幸田社長の奥さまが、ここまで似ているなんて」「小林グループとは仕事で付き合いがあるが、離婚したなんて話は聞いていないぞ。まさか、二股ということはないだろうな」「お腹を見てください。もうすぐ生まれそうじゃありませんか。もしこの方が小林夫人なら、それは誰の子なんでしょう」はなが何を狙っているのか、萌花にはよく分かっている。けれど、ここで慌てる必要はないと彼女は思った。会場にいる人たちはもともと自分の素性を知らない。はなが出したのも、本人だと断定できる証拠ではなく、ただの写真にすぎない。萌花は静かに口を開いた。「何か誤解されているようですね。写真の方とは、たしかに少し似ているかもしれません。でも、私はその方ではありませんし、小林社長という方も存じ上げません」萌花は最初から、認めるつもりなどない。蓮との噂が出たときもそうだった。決定的な証拠がないなら、こちらが慌てて認める必要はない。どうやらはなは、萌花がその場でしらを切るとは思っていなかったらしい。「萌花さん、本当に否定するんですか。恥ずかしくないんですか」その瞬間、誠司の表情が冷えた。「はなさん、そんな失礼な言い方はお控えください」萌花も芝居を続けた。「萌花さん?それ、どなたのことですか。誠司、この方はどうやら人違いしているようです」すると、周囲からも声が上がり始めた。「さすがに人違いでは?小林社長の奥さまと幸田社長の奥さまが同一人物なんて、あり得ないでしょう」「このはなって、どういうつもりでこんな話を持ち出したんでしょうね。噂を流すのは簡単でも、否定する側はどれだけ大変か分かっていないんでしょうか」「幸田
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第357話

絵理のその言葉に、周囲がまたざわめき始めた。宗一郎が口を開いた。「たしかに今技術案件で小林グループとはいくつか話が進んでいる。数日前、小林さんが京浜へ出張するついでに挨拶に来ると言っていたので、こちらから招待状を出しておいたんだ」宗一郎は腕時計を確かめ、「そろそろ着くころだな」と言って入口へ目を向けた。すると、ちょうどスーツ姿の男が会場へ入ってくる。宗一郎の表情がぱっと明るくなった。「噂をすれば、だ」その瞬間、会場中の視線が一斉に入口へ向いた。すらりと背の高い男が、落ち着いた足取りでこちらへ向かってくる。端正な顔立ちのせいか、彼の周りだけ空気が変わったように見えた。会場には華やかに着飾った人々があふれていて、それでも時雄が姿を見せた瞬間、周囲の視線は自然と彼へ吸い寄せられる。端正な顔立ちに、隙のない立ち姿。落ち着いた身のこなしからは、良家の出らしい品のよさがにじんでいる。萌花は時雄の姿を見た瞬間、胸が小さく跳ねた。時雄まで、ここに来るとは思っていなかった。時雄は一同の前まで来ると、宗一郎に丁寧に挨拶した。その途中で、視線が一瞬だけ萌花をかすめた。けれど彼は何も見なかったかのようにすぐ宗一郎へ向き直った。宗一郎は機嫌よく言った。「時雄さん、ちょうどよかった。今まさに、あなたの話をしていたところなんだ」時雄は少し驚いたような顔を作った。「そうでしたか。どうやら何か面白い場面を逃したようですね」そう言いながら、何気ないふりで萌花と誠司のほうへ視線を流した。はなは、萌花の表情が一瞬揺れたのを見逃さなかった。その瞬間、胸の奥で冷たい笑みが広がる。さっきまで萌花にしらを切られ、どう追い詰めるか迷っていたところに、よりによって時雄が現れたのだ。これ以上の好機はない。自分の妻が、別の男の妻としてこの場に立っているのを見て、時雄が平然としていられるはずがない。萌花の芝居も、これで終わりだ。絵理が我慢しきれずに口を開いた。「先ほど、あちらの方が、こちらの方は小林さんの奥さんだと言ってたんです」絵理は萌花のほうへ視線を向けた。時雄はそこで初めて、堂々と萌花を見た。はなは、期待を押し殺すように時雄を見つめている。時雄が萌花を妻だと認めた瞬間、彼女の芝居は終わる。もう逃げ場
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第358話

しばらくすると、会場の照明がゆっくり落とされた。ケーキカットの時間になったらしい。大きなバースデーケーキが運ばれてくる。会場の中央には人が集まり始めていたが、萌花はその輪には入らなかった。誠司に声をかけて、宴会場の端にある螺旋階段を上がった。螺旋階段を上がった先には、休憩用の部屋がいくつか用意されている。萌花は少しひと息つくつもりで、そのうちの一室に入ろうとした。扉を開けた瞬間、足が止まった。ソファには時雄が座っている。腕を組み、暗い目をしたまま、まっすぐ萌花を見ている。その視線だけで、部屋の空気が一気に重くなった。萌花は眉をひそめ、別の部屋へ移ろうとしたとき、時雄が先に口を開いた。「そんなに俺に会うのが怖いのか。後ろめたいのか?」その言い方に萌花は足を止め、部屋の中へ入ると、できるだけ平静に言った。「後ろめたいことなんてない。説明する義務もない」時雄の顔から怒りが引いていく。代わりに浮かんだのは、悔しさとも痛みともつかない、ひどく苦しげな表情だ。「萌花。君がほかの男のそばにいるのを見るだけで、俺は耐えられないんだ」その言葉に、萌花の心は一瞬だけ揺れた。それでも、彼女はすぐに自分を抑えた。ここで流されるわけにはいかない。「時雄、先に手を離したのはあなたでしょう。あなたは私に本当のことを言わなかった。たとえそれが、誰かへの罪悪感からだったとしても、私が深く傷ついたことに変わりはない」萌花は静かに続けた。「見捨てられなかったから助けた。憎み続けたくなかったから許した。でも、だからといって、もう一度やり直すわけじゃない」彼女の表情は落ち着いている。「もう、恋で苦しむのは嫌なの。だからお願い。自分の気持ちくらい、自分でなんとかして」嫌いになれたわけではない。だからこそ、もう同じ場所へ戻りたくない。一度は、揺れる気持ちに負けて時雄のそばに戻った。その結果、どれほど傷ついたかよく知っているから、もう同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。この一年のことを思い返すと、萌花はひどく疲れた気持ちになった。時雄は感情を必死に抑え込んでいる。その顔を見て、萌花はさらに突き放すしかないと思った。「それに、あなたは……あと五年しかないって言っていたでしょう?」時雄の表情が固まった。
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第359話

時雄の顔色が変わった。「でも、まだ八か月です」医師の表情は厳しかった。「胎盤早期剥離の可能性があります。このままでは母子ともに危険です」時雄の指先が震えて、次の瞬間、彼はその場に膝をついた。「お願いします。助けてください……どうか、二人とも助けてください」医師は短く答えた。「全力を尽くします」そう言い残し、手術室へ入っていった。手術が続いているあいだ、時雄はずっと手術室の前で膝をついたままだった。その姿を見て、誠司も思わず目頭が熱くなった。彼は時雄のそばへ行って、そっと肩に手を置いた。「二条さんも赤ちゃんも、きっと大丈夫です。必ず助かります」それは時雄を励ますための言葉で、誠司自身にも確信があるわけではない。むしろ今は、萌花を誕生日会に連れてきたことを誰よりも悔やんでいる。身重の彼女を、わざわざ遠くまで来させるべきではなかった。しかし今さらどれだけ後悔してももう取り返せない。三時間後、ようやく医師が手術室から出てきた。続いて、看護師が赤ちゃんを抱いて出てきた。時雄はすぐに駆け寄った。「どうなりましたか。妻は……妻は無事なんですか」医師は言った。「母子ともに命に別状はありません。ただ、赤ちゃんは早産ですので、しばらく保育器で経過を見ます」その言葉を聞いた瞬間、時雄はその場に崩れるように座り込んだ。誠司も壁に手をつき、ようやく息を吐いた。「よかった……本当に、よかった」時雄は顔を上げた。「妻はどこですか」「まず入院手続きをしてください。奥さんは手術を終えたばかりです。転落による負担もありますので、しばらくは安静にしてください」夜になって、萌花はようやく意識を取り戻した。まだ目を開ける前から、誰かが自分の手を強く握っているのが分かった。その手はひどく冷たく、かすかに震えている。萌花の指先が少し動いた瞬間、そばにいる時雄がはっとして立ち上がり、彼女の顔をのぞき込んだ。「どうだ、痛いか?」萌花が真っ先に聞いたのは、赤ちゃんのことだ。「赤ちゃんは……赤ちゃんはどうなったの?」時雄は慌てて声をやわらげた。「大丈夫。無事だよ。少し早く生まれたから小さいけど、今は保育器に入っていて、看護師さんがずっと見てくれてる」萌花はようやく息を吐いて、そっと目を閉じ
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第360話

時雄の顔も一気に険しくなった。「どういうことだ」萌花は静かに答えた。「誰がやったのか、だいたい見当はついてる。私に任せて」時雄にもだいたい察しはついたが、萌花の目に一瞬よぎった冷たい光を見て、それ以上は聞かなかった。「今は他の事を考えなくていい。まずはちゃんと休むことだ」それから時雄は毎日のように病院へ通い、萌花のことを何かと世話しようとした。最初のうち、萌花は正直それを負担に感じた。病院にはスタッフもいるし、時雄がそこまで入り込む必要はないと思うからだ。けれど一緒にいるうちに、時雄の世話が驚くほど細やかなことにも気づいた。スタッフが何人いても気づかないようなことに、彼はすぐ気づいた。まるで萌花の考えていることが読めるみたいに、彼女が少し手を上げたり、目を向けたりするだけで、時雄はすぐに何をしたいのか分かる。時雄が当たり前のようにそばにいる日が続くうちに、萌花もいつしか強く拒まなくなっていた。赤ちゃんはしばらく保育器に入っていた。予定より一か月早い出産ではあったが、発育状態は思ったよりよく、経過も安定していた。萌花は体調が許すかぎり、赤ちゃんに会いに行っていた。やがて医師から「もう保育器を離れても大丈夫です」と告げられた。萌花は娘と一緒に、産後ケア施設へ移った。腕の中でやわらかく眠る小さな娘を見ていると、萌花は毎日、胸が満たされるような幸せを感じた。まるで世界のすべてが、この腕の中にあるようだ。産後ケア施設には次々と人が訪れ、聡子も萌花に付き添って施設に泊まり込んでいる。小さな孫娘を見るたびに顔がほころび、すっかり夢中になっている。忠久は相変わらず厳格な父親らしく、皆の前では落ち着いた態度を崩さない。ところがある日、人目のないところで、忠久が赤ちゃんを抱き、普段からは想像もつかないほど甘い声であやしているところを萌花は偶然見た。「じいちゃんの宝物。世界でいちばんきれいなお姫さまだね。ああ、かわいい、かわいい、かわいい」その声を聞いた瞬間、萌花は全身に鳥肌が立った。生まれてこのかた、忠久があんな声で話すのを聞いたことがなかった。小林家のほうはさらに大変だ。須恵は初めて赤ちゃんを見たとき、興奮のあまり倒れそうになった。医師からも、しばらくはあまり刺激しないようにと言わ
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