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All Chapters of 断ち切るのは我が意: Chapter 341 - Chapter 350

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第341話

愛莉は、世界中の誰に嫌われても、醜いと言われても構わない。ただ、蓮だけは違う。蓮だけは、自分をそんなふうに見てはいけない。蓮だけが、自分の暗い世界に光をくれた。誰もが容姿で自分を避ける中、蓮だけは変わらず優しくしてくれた。「蓮、あなたももうぼろぼろじゃない。そんなあなたが、私を嫌える立場だと思っているの?私たちは同じよ。人とも化け物ともつかない、同じ壊れた存在なの。どちらも傷だらけで、汚れている。だったら一緒に地獄で暮らせばいい。そこを、私たちだけの楽園にすればいいの」「ふざけるな。俺は君とは違う」「何が違うの?あなたは私よりきれいだとでも思ってるの?あの時のこと、忘れてたみたいだね。思い出させてあげようか」愛莉は言った。「蓮、あなたは自分がどんな人間だったか、もう忘れたのね。承諾しないなら、徹底的に壊してあげる。もっと汚して、もっと惨めにして、この先一生、顔を上げて生きられないようにしてあげる」蓮の胸に、嫌な予感が走った。「……何をするつもりだ」愛莉が軽く手を振った。すると、大柄な男が四人、部屋に入ってきた。「こういう男たちって、あなたみたいなきれいな顔の男が大好きなのよ。蓮、もう一度、男に弄ばれる気分を味わってみる?」死んだような蓮の目に、一瞬で炎が燃え上がった。怒り。痛み。絶望。そして、吐き気するほどの嫌悪。「君……何を考えているんだ」愛莉は背を向けた。「たっぷり可愛がってあげて」愛莉は蓮の心を完全に折るつもりで、徹底的に痛めつけ、徹底的に屈服させたい。人は徹底的に傷つけられ、逃げ場を奪われれば、やがて自分を傷つけた相手にすがるようになると彼女は信じている。蓮も、もっと汚れればいい。もっと惨めになればいい。自分と同じところまで堕ちてしまえば、もう自分を拒む資格も、見下す資格もなくなる。今夜が終われば、蓮はきっと、自分に従うだけの恋人になる。愛莉はそう確信している。重い鉄の扉が閉まった。その向こうから、蓮の怒号が響き渡った。「近づくな!出ていけ!」一方、救援指揮所の空気は日に日に重くなっている。蓮たちが連れ去られてから、すでに三日になったが、いまだに居場所につながる手がかりはつかめていない。分かっているのは、彼らがこの地球上のどこかにいると
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第342話

全員の視線が萌花のパソコンに集まった。三日前、萌花が書いた通話元を追跡するための新しいコードについに結果が出た。それは、技術的には画期的な成果だ。しかし今は、そんなことを喜んでいる場合ではない。ほぼ同時に、萌花は愛莉の防壁も破った。別の経路から割り出した位置情報が画面に浮かび上がり、先に出ていた通話追跡の結果とぴたりと重なった。二つの結果が同じ場所を指している以上、もう疑う余地はない。蓮たちは、そこにいる。その場にいる全員も抑えきれない興奮に包まれた。しかし萌花だけは、表情を曇らせたままだ。ありとあらゆる技術的な壁を越え、限界を突破して、ようやくここまでたどり着いた。それでも、すでに三日が過ぎている。この三日間、何が起きたのか。蓮が今、どんな状態にあるのか。萌花には分からない。位置情報が確定した瞬間、指揮所の空気が変わった。関係機関へ連絡が飛び、救援部隊がただちに動き出した。萌花も同行しようと立ち上がったが、三日間ほとんど眠っていない体は、もう限界だった。皆が彼女を止め、萌花はその場に残された。時雄と紗夜は救援部隊とともに現地へ向かうことになり、二時間足らずで島の周辺空域まで到着した。そのころ、島では、警報が鳴り響いた瞬間、愛莉も強い衝撃を受けた。彼女はもともと蓮が痛めつけられる様子を自分の目で確かめるつもりだったが、激しい警報音を聞いて、戦闘態勢に入らざるを得なくなった。長い年月をかけて作り上げた自分だけの楽園が、こんなにも早く見つかるとは思っていなかった。とはいえ、愛莉もただ手をこまねいていたわけではない。島には、彼女が長年かけて集めた武装した男たちが待ち構えており、高性能の武器や爆薬もそろっている。救援側の機体が海岸に近づいた瞬間、激しい銃撃が始まった。こちらも最新鋭の機体で臨み、救出にあたるのはファルコンと呼ばれる精鋭チームだ。それでも、島の守りを突破するのは簡単ではない。島側には、精密な迎撃システムと通信妨害装置があり、武装した男たちも専門的な訓練を受けている。攻防は二時間に及んだ。大きな損害こそ出ていないが、救援側はいまだ島の防衛線を突破できずにいる。紗夜は焦りに耐えきれなくなった。「晴加って、どこまで手を回してるの?やっと見つけたのに、着陸するこ
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第343話

萌花はその光景を見た瞬間、涙があふれ出した。泣くつもりなんてなかった。それでも、ずっと張りつめていたものが一気にほどけて、どうしても止められない。蓮は生きている。その事実だけで、胸の奥に残っていた不安が少しずつ崩れていった。間に合った。自分がしたことは、無駄ではない。一方、時雄の襟元につけた小型カメラが地下室の惨状を映し出した。床には男たちが倒れている。その血の海の中で、蓮だけが立っており、顔は血にまみれ、体は今にも崩れ落ちそうだが、手にしたナイフだけは離していない。床に倒れている四人の男は、そのナイフで喉を切られて動かない。地下室は、血の色に染まっている。それでも蓮の服は乱れていない。萌花が出発前に渡したあのスーツのジャケットを今も身につけている。胸元の薔薇のブローチにも血がついて、赤い花はいっそう鮮やかに見えた。その場にいる全員が目の前の光景に言葉を失った。あれほど傷つき、立っているのもやっとの蓮が、どうやって四人の男たちから逃れ、逆に彼らを倒したのか。皆がすぐには理解できない。しかし萌花には分かる。分かっているからこそ、彼女も震えるほど衝撃を受けた。蓮に渡したあのジャケットはただの服ではない。愛莉に対抗するため、萌花があらかじめ手を加えておいたものだ。裏地には新しく開発した特殊素材が仕込まれていて、服全体に細い線のように張り巡らされている。普通の検査機器ではまず見つからない。その起動スイッチになっているのが、胸元の薔薇のブローチだ。ブローチを押せば、その素材が一気に電流を流し、触れた相手を一瞬で動けなくする。あの服はつまり武器でもある。ただし、その素材はまだ開発されたばかりで、性能は安定していない。一度強い電流を流せば内部が焼き切れてしまい、二度目は使えない。だからこそ、萌花はすぐこの光景を理解した。男たちが電流で意識を失ったあと、蓮は彼らの喉を切ったのだ。蓮は血の中に立ち尽くしていた。静かで、どこか狂気じみている。それなのに、その目だけはこれまでになく澄んでいる。彼が倒したのは、目の前の男たちだけではない。長いあいだ蓮を縛ってきた、過去の悪夢でもある。蓮は今この瞬間、自分の手であのときの獣たちを葬ったように感じられた。あのとき何もできず、ただ絶望の中でもが
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第344話

萌花は妊娠六か月を迎えている。ゆったりした服を着ていても、お腹のふくらみはもう隠しきれない。この三か月で、あまりにも多くのことが起きた。三か月前、蓮は頭に銃撃を受けた。現場に医療チームが同行していたおかげで、すぐに処置され、緊急手術にも間に合った。その結果、命だけは取り留めた。だが、蓮が目を覚ますことはなかった。医師から告げられた診断は、脳死だった。それから三か月、蓮は病院のベッドで眠り続けている。島から戻って以来、時雄はほとんど口をきかなくなった。紗夜もまた、あの日から心だけを置き去りにされたようだ。芸能界からの引退を発表し、毎日病院で蓮に付き添っている。そのあいだに、萌花と時雄は離婚届を出した。これからは友人として付き合っていくよう約束した。正直なところ、萌花は時雄を恨んでいない。来希のときとは違って、今回は、誰か一人を責めれば済む話ではない。萌花にも、どうしても消えない悔いが残っている。できることはすべてやったはずなのに、蓮を救いきることはできなかった。この三か月、蓮のこと以外にもいろいろな変化があって、予定しているカラリス行きは、いったん見送ることになった。菅田教授の病状が悪化し、先輩がカラリスから帰ってきたためだ。小春のほうも、起業に誘ってきた同級生の話が、結局は詐欺だと分かった。そのせいで、カラリスで仕事を始める話もいったん立ち消えになった。とはいえ、悪いことばかりではない。小春は法律事務所を辞めたあと、法律解説のネット配信とオンライン相談を始めた。それが思いのほか軌道に乗り、三か月で、フォロワーは百万人を超えた。今では、彼女はちょっとしたインフルエンサーになり、収入も法律事務所にいたころの十倍になっている。萌花はこの三か月のあいだに、自分の会社「ノヴァテック」を立ち上げて、自分が本当に取り組みたい事業を探している段階だ。一方で、萌花が開発を主導しているパーセク3は正式にリリースされ、大きな反響を呼んだ。これを受けて小林グループの株価も大きく上昇した。パーセク3の研究開発とアップグレードを率いた技術責任者として、萌花も一気に注目を集めるようになり、海外の有名テック企業からも次々と誘いが来た。だが萌花はすべて断った。その後、萌花が会社を立ち上げたことが知
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第345話

萌花の胸にも、言葉にできないものがこみ上げた。すると紗夜は、ふっと笑った。「今のままでいいの。毎日、希望を抱えていられるから。人って、結局その希望のために生きているんじゃないかな」萌花は、それ以上何も言わなかった。やがて医師が病室へ入ってきて、紗夜が医師と話しているあいだ、萌花はそっとベッドのそばへ歩み寄った。病床に横たわる蓮の顔は、今日も静かだ。「玉城さん、目を覚ましてください。美味しい料理を作ってあげますから」萌花は小さな声でつぶやいた。独り言のような、祈るのような声だ。そのときだった。蓮のまつげがかすかに震えた。萌花の心臓が、ぎゅっとつかまれたように跳ねる。「紗夜、紗夜、こっちに来て!」その声に、紗夜が急いで駆け寄ってきた。確かに、蓮のまつげが小さく震えている。萌花は息をのんだ。「これ……目を覚まそうとしているんじゃ……」だが、紗夜の顔に浮かんだ期待は、すぐに落ち着いたものへ変わった。「筋肉の動きよ。蓮は、時々こうなるの」そう言いながらも、紗夜の胸にも落胆はある。萌花の声を聞いた一瞬だけ、本当に蓮が目を覚ましたと思ったからだ。萌花も言葉を失って、それでも視線は蓮の顔から離せなかった。そして次の瞬間、蓮が目を開けた。萌花は息をすることさえ忘れた。何か言わなければと思うのに、喉の奥が凍りついたようで、声が出ない。瞬きもできない。少しでも動けば、目の前の光景が幻のように消えてしまいそうだ。紗夜も同じだ。ほんのさっきまで、まつげの震えはただの反応だと説明していたのに、次の瞬間には、蓮の目が本当に開いている。二人は信じられなくて、息をすることさえ忘れており、病床のそばに立ったまま、ただ蓮を見つめていた。蓮は目を開けると、ゆっくりと視線を動かした。萌花と紗夜のあいだを行き来したあと、最後に萌花のふくらんだお腹で止まった。蓮の視線は、最後に萌花のお腹で止まった。しばらく見つめたあと、彼は唐突に口を開いた。「それ、俺の子なの?」その一言に、場の空気が止まった。萌花は一瞬固まった。まさかそんなことを聞かれるとは思っていなかった。「ち、違います」蓮は「ふうん」と言って、また二人の顔を見比べる。「君たち……誰?」目を覚ましたという喜びが
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第346話

まさに、奇跡としか言いようがない。時雄は蓮がベッドに座っている姿を見た瞬間、目の奥が熱くなった。彼は駆け寄って蓮の肩を強く抱きしめた。「目が覚めたんだな……よかった。本当に、よかった」萌花は、時雄がここまで感情をあらわにする姿を初めて見た。「おい、おい、離せって」蓮が慌てて身をよじって、時雄はようやく手を離した。「男同士で抱きつくなよ。みっともないだろ」蓮は本気で嫌そうに顔をしかめた。そのあまりにも素っ気ない反応に、萌花も紗夜も一瞬言葉を失う。以前の蓮なら、時雄にそんな言い方をするはずがない。やはり、彼は本当に何も覚えていないようだ。時雄の表情も、わずかに変わった。萌花から電話で、蓮が目を覚ましたあと記憶を失っているらしいとは聞いたから、心の準備はしていた。それでも実際に目の前でそれを感じると、やはり信じがたい。その後、二人は専門医たちから説明を受けた。蓮が目を覚ましたのは、医学的に見ても奇跡に近い。どれだけ検査を重ねても、はっきり説明できないことはあるのだという。記憶喪失についても、あれほどの状態から目を覚ましたことを考えれば、取るに足りない後遺症だと言われた。しかし萌花は、それが後遺症ではなく、神様が蓮に与えた贈り物なのかもしれないと思う。蓮がつらい過去を忘れたことは、救いなのかもしれない。あの痛みも、屈辱も、今は彼を縛ってはいない。かつて蓮が時雄に向けていた感情は、純粋な好意というより、若いころに受けた傷の中で形を変えてしまったものだったのかもしれない。けれど今の蓮は、その痛みごと忘れている。だからこそ、時雄に対する執着も、もう彼の中には残っていない。蓮はその後、病院にさらに半月ほどいて、回復は驚くほど早かった。紗夜は依然として毎日、蓮のそばにいる。ある日、萌花は二人が話しているところに出くわした。「どうしてそんなに俺に優しいんだ?もしかして、俺のこと、好き?」紗夜はちょうど、蓮の枕元を整えているところで、それを聞いた瞬間、手にしているタオルで蓮の額を軽く叩いた。「何度も言ってるでしょ。私たちは幼なじみ。家族みたいなものなの」蓮は額を押さえながら、不満そうにぼやいた。「もう、叩くことないだろ」萌花には、紗夜の気持ちが分かるような気がした。
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第347話

紗夜は萌花を抱きしめた。「萌花、ずっと前から言いたかったの」「何?」「ありがとう。本当に、ありがとう。あなたは、私たちを救うために、神様が遣わしてくれた天使みたいな人よ」萌花は小さく笑った。「人は結局、自分で自分を救うものだと思う。私は、たいしたことはしていないよ」紗夜の目にはまた涙が浮かんでいる。「これまで私のしたこと、許してほしい」「もういいって。女優なのに、どうしてそんなに泣き虫なの」紗夜は涙を拭った。「でも、時雄のこと……もう一度考えてみる気はないの?」萌花の表情は穏やかだ。「私たち、もう離婚したから」紗夜は今でも、そのことを気にしている。「あのとき二人の間をかき回さなければ、こんなことにはなってないのかもしれない」萌花はもう、そのことを受け入れている。「これも運命だと思う。今は友達となって、別に憎み合っているわけじゃない。それで十分だよ」紗夜の視線が、萌花のふくらんだお腹に落ちた。「この子には、時雄が父だって教えるの?」萌花はうなずいた。「うん。だって、あの人は本当にこの子の父なんだから」紗夜は少し笑った。「よかった」主治医の姿を見つけると、紗夜は別れの挨拶をして走っていった。萌花も病室を出ようとしたとき、すぐ近くに時雄が立っていることに気づいた。時雄は機嫌がよさそうだ。蓮が目を覚ましてから、彼の様子はすっかり変わった。以前のような陰りは消え、目元まで柔らかくなっている。時雄は萌花のそばまで来ると、自然に彼女のお腹へ視線を落とした。「今日は、おとなしくしてるのか?」萌花のお腹の子はかなり元気で、毎日のようによく動いている。数日前の夜中には、急に背中のあたりが痛み出し、萌花は一人で家にいて、少し不安になった。小春に電話してもつながらない。迷った末に時雄へ連絡すると、彼はすぐに駆けつけ、そのまま病院まで連れていってくれた。病院で診てもらって、ようやく分かった。赤ちゃんが元気に動きすぎて、肋骨のあたりを強く押していたらしい。萌花は子どもの性別が知らないが、あまりに活発なので、周りはみな、きっとやんちゃな男の子だろうと言っている。「今日はわりとおとなしいよ」と萌花は答えた。「このあと、一緒に食事でもどうだ」萌花は首を横に振った
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第348話

小春もさすがにうんざりしているが、今の彼女は仕事に夢中で、悠真のことなど相手にしていない。すると悠真は、最後の手段とばかりに、聡太をそのまま小春のところへ連れてきた。「悠真さん、どうして引っ越すことになったの?」萌花は、悠真が海城ノ浦でも指折りの高級マンションに住んでいることを知っている。「知らないわよ、そんなの」小春は不機嫌そうに言った。「午後は聡太を療育に連れていかなきゃいけないの。だから、教授のところには一緒に行けないわ」「大丈夫。タクシーを使えばすぐだから」小春は今、萌花のことを子どものように気にかけている。少しでも時間があれば、必ずそばについていようとする。萌花は、貝殻を一つずつきれいに並べている聡太を見て、小さく息をついた。「こんなにかわいい子なのに……」小春も聡太を見た。「せめて父にお金があるのは救いよね。あの人がいつか再婚したとして、継母にひどい扱いをされないか、それだけが心配よ」小春は、悠真はいずれ必ず再婚すると思っている。彼女からすれば、男なんて結局みんな似たようなものだ。悠真ほどの男なら、これまでも周りに女性が絶えないはずだ。この三年は、小春がそばにいたから、恋人としても生活の面でも不自由しなかった。けれど今二人はもう別れている。小春は、悠真がそのうち別の女性を見つけるに違いないと思っている。萌花は少しからかうように言った。「悠真さんとはもう終わりって言いながら、結局、聡太くんが継母にいじめられないか心配してるんだ」小春は困ったようにため息をついた。「だって、聡太は三年もそばにいるのよ。こんな状態だし、言葉もしゃべれない。悪い人に何かされたって、助けてって叫ぶこともできないんだから」聡太は今年五歳になる。小春が悠真の事務所に入ったころ、聡太はまだ二歳だった。悠真は仕事が忙しく、最初は小春が彼のアシスタントだったこともあって、そのまま聡太の世話を手伝うようになった。小春は聡太の頭をそっと撫でた。「聡太、いつになったら話してくれるのかな」そのときだった。聡太が、ふいに手を止めて、小春の腕にしがみつき、小さな頬を彼女の腕にすり寄せた。次の瞬間、ぽつりと声が落ちた。「ママ……」萌花も小春も、その場で固まった。とりわけ小春は、息
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第349話

萌花は礼儀正しく誠司と握手を交わした。「幸田社長、お名前はかねがね伺っております」身なりの整った中年の男は穏やかに笑った。「二条さんは私のこと、ご存じでしたか」「ユニバース社の代表ですから。この業界で、幸田社長を知らない人はそう多くないと思います」幸田誠司業界で知らない者がいないほどだ。天才と称える者もいれば、危険な理想主義者だと警戒する者もいる。カラリスでは、未来を一人で動かそうとする男として、半ば伝説のように語られている。少年時代に独学でプログラミングを学び、十九歳で決済サービス大手「ユニペイ」を創業。金融業界の常識を塗り替えたあと、宇宙開発へ進出し、「ディープスペース」を立ち上げて、再使用型ロケットによって人類の宇宙開発の歴史を変えた人物でもある。その後も、彼は自動車、ロボット、ブレイン・マシン・インターフェースなど、次々と新しい分野へ手を広げていった。世間は、彼を偏屈で、傲慢で、理想主義的だと言った。まるで狂人のように巨額の資金を投じ、未来のためだと言っては常識の外へ突き進んでいく。支持者は彼を救世主のように崇め、反対する者はテック業界の独裁者だと呼んだ。誠司は穏やかな口調で言った。「将大とは昔からの付き合いでしてね。二条さんのことも、以前からよく伺っていました。カラリスで学んでいたころは、彼と同じ研究室にいたので、将大の後輩となれば、私にとっても他人とは思えませんね」萌花は誠司と驚くほど話が合った。とりわけ、新しいテクノロジーの話になると、二人の会話は尽きない。誠司と話しているうちに、萌花の中でぼんやりしていたものが少しずつ形を取り始めた。萌花の中で、次に取り組むべきものが少しずつ見えてきた。生体チップ。それが、ノヴァテックの最初の柱になるかもしれない。二人は昼から日が暮れるまで話し続けたが、それでもまだ話し足りないほどだ。しまいには、そばにいる将大が口を挟んだ。「あなたたち、そろそろ食事にしない?」誠司は笑いながら立ち上がった。「二条さんとは本当に話が合います。では、そういうことで決まりですね。ノヴァテックには三分の一出資します。NanoSynapseは共同開発という形にして、二条さんにお願いしたいと思います」将大が横から言った。「そのプロジェクト、僕
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第350話

しばらくすると、窓の外に花火が上がった。色とりどりの花火が夜空に広がり、川面にも淡い光が映り込んでいる。萌花はしばらく言葉もなく見入っていた。五分ほどの花火は、すぐに終わった。萌花が名残惜しそうに視線を戻すと、いつの間にか、時雄がテーブルのそばに立っているのが見えた。誠司も眉をひそめた。「どちら様ですか」時雄の手には、小さなギフトボックスが提げられている。中に何が入っているのかは分からない。時雄はそれを萌花の前に置いた。「今日、近くで会食があってな。通りかかったら、君がこの店のアーモンドサブレを好きだったのを思い出して、買っていこうと思ったんだ。まさか、君もここにいるとは思わなかった」萌花はテーブルの上の箱に目を落とした。たしかに、この店のアーモンドサブレが好物で、妊娠してからは特に食べたくなるのだ。時雄も以前、一度買ってきてくれたことがあった。萌花は箱を受け取り、短く言った。「ありがとう」萌花の返事は、あくまで礼儀正しく、普通の友人に向けるものと変わらない。それでも時雄は表情を崩さず、今度は誠司へ視線を移した。「お友達?紹介してくれないか?」萌花は淡々と答えた。「そんな必要はないでしょう」それでも時雄は、何もなかったように笑っている。「分かった。食事の邪魔をして悪かった。これで失礼するよ」そう言って、時雄は誠司にも礼儀正しく会釈し、その場を離れていった。時雄が去ったあと、誠司が少し不思議そうに尋ねた。「今の方は?」萌花は隠すことなく、自然に答えた。「元夫です」誠司は特に驚いた様子も見せなかった。食事を終えたあと、誠司は約束どおり萌花を送り届けた。車は、萌花の住むマンションの前で静かに停まった。「こちらに住んでいますか」萌花は笑った。「友達と一緒に住んでいるんです」「その方に迎えに来てもらいますか」「大丈夫です」萌花は誠司に礼を言い、車を降りた。誠司の車が見えなくなってから、萌花はマンションのエントランスへ向かった。入口の前まで来たところで、思わず足を止めた。時雄はまるで彼女を待っていたかのように立っている。萌花は眉を寄せた。「どうしてここに?」時雄は言った。「アーモンドサブレ、口に合った?」「おいしかっ
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