《義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる》全部章節:第 321 章 - 第 330 章

438 章節

第321話

律は彼女の手をそっと握りしめた。「親戚の連中が何を騒いでも、これ以上心を痛めないでほしい。面倒事は全て私が処理するから。……いっそ、会社の実権なんて伯父さんたちに渡してしまっても構わないんだ。私に未練などない。おばあちゃんが望むなら、どんなことだってするよ」微かに震える声が、本心であることを物語っていた。「私はね、会社を継ぎたいわけでも、拝島家の財産が欲しいわけでもないんだ。ただ、おばあちゃんには一日でも長く……元気で私の傍にいてほしいんだよ」その切実な願いに、志津は目を細め、幾重にも刻まれた目尻の皺をさらに深くして優しく微笑んだ。「お前が財産なんてこれっぽっちも欲しがっていないことくらい、おばあちゃんが一番よく分かっているよ。……でもね、会社はお前に任せたいんだ。お前以外の人間に拝島グループを託して、安心して目を閉じることができるものかい。血の繋がらないお前に、これだけの重圧と理不尽な苦労を背負わせているのは本当に申し訳なく思っている。だけどね……どうか、おばあちゃんを助けると思って、この難局を乗り越えておくれ」志津の言葉は静かだが、強い確信に満ちていた。「会社は私が一代で築き上げたものだ。それを誰に託そうと私の自由だし、私の決意は揺らがない。この先、何があってもだよ」あの二人の息子がどれほど騒ぎ立てようと、彼らに会社や遺産を渡す気は毛頭なかった。自分の腹を痛めて産んだ子だからこそ、その身勝手さと無能さを誰よりも知っているのだ。彼らに会社を任せなどすれば、数年と経たずに骨の髄までしゃぶり尽くされ、拝島の看板はあっけなく地に落ちるだろう。自分の生涯をかけた血と汗の結晶を、あの息子たちに無惨に踏みにじられるのだけは絶対に我慢ならなかった。「……分かりました。おばあちゃんがそこまでおっしゃるなら、もうこの話はしません。会社は、私が責任を持って守り抜きます」律は静かに頷き、その決意を言葉に込めた。「でも、さっきの約束だけは絶対に守ってくださいね。親族のいざこざなんて気にせず、今はご自身の体を第一に考えてください。どうか、これ以上無理をなさらないで」律の胸の奥には、熱いものが込み上げていた。自分が拝島家の血を引いていないと知らされた時、彼は激しい痛みに襲われた。もう、この大好きな「おばあちゃん」の孫でいられなくなるのではないかという恐怖があったか
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第322話

自宅に戻った律の沈んだ様子を見て、紫音はそっと彼に寄り添った。「律。志津様のことで心を痛めているのは、凄くよく分かるわ。ご自分の体を削ってまであなたや私を守ろうとしてくれている姿を見ると、本当に胸が締め付けられるもの。……でもね、今の志津様の体力を思えば、やはり手術を見送ったのは正しい選択かもしれないわ」紫音は穏やかに、彼を包み込むように語りかけた。「それに、志津様ご自身がおっしゃっていた通り、最近は顔色もずっと良くなってるじゃない。あなたが懸命に探し出した専門医の先生や、お薬の治療が確実に効いている証拠よ。だから、そんなに思い詰めなくて大丈夫」紫音は少しでも彼の心を軽くしようと必死だった。隣に立つ律の姿が、今にも押し潰されてしまいそうなほど脆く見えたからだ。律がここまで思い詰めるのは、自分が拝島家の実子ではないにもかかわらず、志津が全ての信頼と財産を彼に託そうとしてくれているからに他ならない。これほどまでの恩情を受けながら、自分は彼女の命を救うこともできず、親族たちの醜い争いを完全に排除して安心させることすらできていない。そんな自分自身の無力さに、彼は深く苛立ち、傷ついていたのだ。「紫音……昨日のこと、聞いたよ」律はふと顔を上げ、厳しい表情で口を開いた。「君が一人でおばあちゃんのところへ行った時に、伯父さんたちが押しかけてきて色々と難癖をつけてきたそうじゃないか。君が一人だと分かっていて標的にするなんて、連中も本当に見境がなくなってきたようだな。……君にまで嫌な思いをさせて、本当にすまない。あの連中には、今回の件で必ず落とし前をつけさせるから」あの後、本家の使用人から昨日の顛末について詳細な報告を受けていたのだ。律が不在であることをこれ幸いと、正人と早苗が一人で訪ねてきた紫音に理不尽な暴言を浴びせたという事実は、彼の逆鱗に触れるには十分だった。自分がいる時はある程度猫を被っていても、不在と見るや否やあの態度の豹変ぶり。どれほど性根が腐っているのかと、怒りで血が沸き立つ思いだった。「気にしていないわ。あの方たちが私たちをどう思っているかなんて、端から分かりきっていることだもの」紫音は首を横に振り、彼の怒りをなだめるように優しく微笑んだ。「それにね、志津様があんなに弱ってしまった一番の原因は、やっぱりあの人たちにあると思うの。もし親
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第323話

律の言葉には、抑えきれない怒りが滲んでいた。「君に理不尽な思いをさせるような真似は、二度とさせない。彼らにはきっちり分からせてやる。私の一番大切な女性に指一本でも触れたらどうなるかということをね」紫音はあの親族たちに何一つ害を与えていない。それどころか、ただ純粋な善意から手助けをしているだけだ。それを、自分たちの貪欲さゆえに一方的に敵視し、あまつさえ集団でよってたかって攻撃するなど、律にとっては到底看過できるものではなかった。「もういいのよ。あんな人たちのことで、私たちが腹を立てて気分を害するなんて馬鹿らしいじゃない」紫音は律の強張った腕にそっと触れ、宥めるように微笑んだ。「私たちがすべきことは、ただ志津様を大切にして、少しでも体調を安定させてあげることよ。それだけで十分。……それにね、志津様が頑なに手術を拒んでいるのって、リスクの話だけじゃなく、きっと手術した『後』のことも気がかりなんだと思うの」 「後のこと……?」「ええ。もし皆が心から志津様の回復を願って温かく見守ってくれる家族だったなら、志津様だって『この家族のためにもう少し長生きしたい』って前向きになれたはずよ。でも現実は違う。手術を乗り越えても、待っているのは遺産目当ての醜い争いと冷たい言葉ばかり。そんな状況で無理に命を長らえたところで、果たして自分は幸せなのか……そう考えてしまっているんじゃないかしら。そういえば、さっきお兄ちゃんから連絡があってね。今夜、二人で一緒に食事でもどうかって誘われたの。私たち4人で集まるのも久しぶりだから、一緒に行かない?」紫音は話題を変えるように、ふと思いついた提案をした。今日のお兄ちゃんの言葉を思い出したのもあるが、何より陰鬱な空気を纏っている律の気分を少しでも晴らしてあげたかったのだ。「ああ、それはいいな。喜んでご一緒させてもらうよ」律は頷き、少しだけ表情を和らげた。「二人とも無事に復縁できたと聞いているよ。最近の州の顔色は見違えるほど良くなったし、仕事への意欲も凄まじい。州が担当しているプロジェクトは順調そのもので、今は私が口出しする必要が全くないくらいだからね」州が有加里の件で自暴自棄になっていた時期、彼が放り出したプロジェクトの実務は、全て律が一人でカバーしていた。いずれ家族になる相手なのだから、自分が苦労を被ることなど律にと
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第324話

夜になり、紫音と律は約束通り四人での食事の席へ足を運んだ。「有加里さん!前のダンススクールには戻らないで、もっと大きなスタジオに移ったって聞いたよ。本当に良かったね!」 店に着いて有加里の顔を見るなり、紫音はぱぁっと顔を輝かせて駆け寄った。「私、有加里さんがステージで踊る姿がすごく好きなの。だから、また機会があったら絶対に誘ってね」過去のわだかまりが解け、互いの秘密もすべて共有し合ったからだろうか。紫音の目から見ても、今の州と有加里の纏う空気は以前と比べ物にならないほど軽やかで、すっかり憑き物が落ちたように穏やかだった。「ええ、もちろんよ」有加里はふわりと嬉しそうに微笑んだ。「今度のスタジオはね、州のお友達が経営しているところなの。規模も前よりずっと大きくて。実は最初は、負担も大きそうだし、お断りしようかと思っていたのよ。昇級試験を控えた生徒たちのクラスを受け持っているから、責任も重大だしね。でも、生徒たちがすごく慕ってくれて。少しずつだけど、ようやく新しい環境にも慣れてきたわ」話しながらも、有加里の表情には確かな充実感が滲んでいた。「それにね、今は私自身も大きな試験の準備をしているの。これに受かれば、もっと大きな舞台に立てるチャンスがあるから、すごく楽しみで」そう言って、有加里は紫音に温かな視線を向けた。「でも、私が今一番嬉しいのは、こうしてあなたと一緒に笑い合って、すっかり仲良くなれたことかもしれないわね」有加里は明るい笑顔で、紫音たちにここ最近の二人の様子を語ってくれた。この間ずっと連絡がなかったのは、どうやら完全に甘い二人の世界に浸りきっていたかららしい。一度はすれ違い、別れを経験したからこそ、互いの存在の大きさを痛感したのだろう。無事に復縁を果たした二人は、以前にも増して強い絆と情熱的な愛情で結ばれてるようだった。「二人が幸せそうに笑ってるだけで、私まで嬉しくなるよ。最近ずっとラブラブなのはお見通しだったから、あえてお邪魔虫はしなかったんだ」からかうように笑ってから、紫音は改めて自身の兄へと視線を移した。「お兄ちゃん。有加里さんはこれまで本当に辛い思いをしてきたんだから、絶対に大切にしてよ。一生かけて守り抜く価値がある人なんだからね。……まあ、野暮なお説教はこれくらいにしておく。とにかく、二人にはずっと幸せでいてほしいの
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第325話

今では些細な空き時間さえあれば互いに連絡を取り合うほど甘い日々を送っており、彼はようやく手に入れた「本物の幸せ」を決して手放しはしないと固く誓っているようだった。「さあ、グラスを合わせようか」 律が穏やかな声で場の空気を引き継ぎ、優雅な仕草でグラスを持ち上げた。「二人が無事にやり直せたこと、そしてこれからの未来がより多くの幸福で満たされることを祝って。……それから、私たちのプロジェクトが無事に第一歩を踏み出せたことへの乾杯でもある」 そう言って、律は州、そして隣に座る紫音に深い感謝の視線を向けた。「拝島家がこれほどの騒動の渦中にあるというのに、君たちの協力がなければ、私は今の立場を保てていなかったはずだ。取引先が私を信用し続けてくれているのも、君がそばで支え、信用を担保してくれているからだよ。本当に感謝している」普段の律は、決して気の利いた美辞麗句を並べるような男ではない。不器用なほど感情を表に出さず、誰が自分に恩義を施してくれたかを心に深く刻み込みこそすれ、それを口にすることは滅多になかった。そんな彼が、今日は珍しく雄弁だった。血の繋がりすら利用される泥沼のお家騒動の中で、律が経営者として踏み止まっていられるのは、間違いなくパートナーである『京極家』の存在があるからだ。京極家との大きなプロジェクトを抱えているという事実こそが、拝島の取引先を繋ぎ止める最大の切り札であり、今の律にとって何よりの揺るぎない支えとなっているのだった。「水臭いこと言うなよ。俺たちはもう家族みたいなもんだろう?」州は照れ隠しのように軽く笑い飛ばした。「俺がしたことは全部、妹を思ってのことだ。お前はもう俺の義弟にも等しいんだから、どうしたって二人には幸せになってほしいんだよ。お前の足場が安定すれば、結果的に紫音の幸せにも繋がる。だから、俺に恩義なんて感じる必要はない」そこまで言うと、州は一転して真剣な眼差しを律に向けた。「ただ、俺から一つだけ条件がある。拝島の連中がお前に会社を任せるかどうかとか、お家騒動の行方なんて、俺にとっては正直どうでもいいんだ。会社にどうしても残れと強要するつもりもない。ただ……何があっても、紫音のことだけは大事にしてやってくれ」言葉の語尾に、兄としての深い情愛が滲む。「こいつは昔から、京極家の宝物なんだ。家族全員で大事に大事に育てて
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第326話

そもそも州たちは、あの騒動さえなければ、とっくに両親への挨拶を済ませて結婚の話を進めているはずだった。京極家の両親も、息子がこれほど一人の女性を深く愛している姿を見るのは初めてだったため、未来の息子の妻となる有加里の来訪を心待ちにしていたのだ。「うん、行く!本当に長いこと顔を出してなかったしね」紫音は嬉しそうに頷いた。「最近ずっと会社や家のことでバタバタしてて、お母さんとゆっくり話もできてなかったの」「今度帰ったら、何日か実家に泊まって、その分いっぱいお母さんに甘えようかな。きっと寂しがってるはずなのに、私が忙しいと思って遠慮して連絡を我慢してくれてたんだろうし」過去のわだかまりが解けて以来、紫音は母親と過ごす時間を何よりも大切にするようになっていた。多忙な日々を送る今となっては、母のそばにいる時こそが一番心安らぐ、幸せな時間だと骨の髄まで痛感している。だからこそ、母が心から嫌悪し、あんなにも猛反対していた男――かつての婚約者との関係に、なぜ昔の自分はあそこまで意固地になって執着していたのか。過去の過ちを、紫音は今更ながらに深く後悔しているのだった。「実は父さんと母さん、最近まで夫婦水入らずで海外旅行を満喫してたんだよ。だからお前のことなんて気にかける暇もなかったんだろうな。でも帰国した途端、『紫音に会いたい』ってうるさくてさ。お前のために山ほどお土産を買ってきたらしいから、楽しみにしてな」州はわざとらしくため息をつき、大袈裟に肩をすくめてみせた。「まったく、あの二人は昔から愛娘のお前ばっかり贔屓して、息子の俺なんて完全に蚊帳の外だよ」拗ねたふりをする兄の態度に、紫音はくすくすと笑い声を漏らした。口では文句を言いながらも、彼自身がこの和やかな家族の絆を誰よりも喜ばしく思っていることは、紫音にも痛いほど伝わっていた。「当然でしょ。私はお兄ちゃんのたった一人の可愛い妹なんだから!お父さんやお母さんと同じくらい、お兄ちゃんも私のこと大好きだって知ってるよ。本当に、世界一のお兄ちゃんだもん」からかうように笑う紫音は、今、この瞬間の温かな時間を心の底から愛おしく思っていた。外の過酷な世界と戦う日々の中で、家族の無償の愛情に触れられるこの場所だけが、彼女にとって真に安らげる一番の避難所だった。「当たり前だろ!お前も俺の自慢の、世界
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第327話

兄として拝島家の身内のもめ事に直接口出しするわけにはいかず、彼にできるのは、ビジネスパートナーという裏方から二人の基盤を支えることだけだったのだ。もどかしさを抱えながらも、州はただ不器用に妹を励ますことしかできなかった。「わかってるよ、お兄ちゃん。私のために裏で色々動いてくれてるのも、最近のゴタゴタでお兄ちゃんがたくさん助けてくれてるのも全部。口には出してないけど、ちゃんと気づいてるし、すごく心強いよ」「わかったわかった。兄妹でこれ以上水臭い挨拶はなしだ。俺たちは家族なんだから、いざという時に助け合うのは当たり前だろう」紫音の言葉に、州は照れ隠しのように笑いをこぼした。普段なら気恥ずかしくてこんな本音を真っ直ぐにぶつけ合うことなど滅多にないが、今夜は不思議と、お互いに心の奥底にある嘘偽りのない思いを交わし合うことができた。四人での食事会は終始和やかに進み、紫音にとっても久々に心からリラックスできる時間となった。張り詰めた日々の中で、なにより兄がこうして愛する人と笑い合っている姿を見られたことが、彼女の心を安らかに満たしていた。食事が終わり、二組のカップルはそれぞれ帰路についた。州は有加里を助手席に乗せ、現在二人で同居しているマンションへと車を走らせていた。復縁して以来、有加里の通勤は州が毎日こうして送り迎えをしているのだ。「……ねえ、州。紫音さん、ここ最近すごく疲れてるように見えなかった?」帰り道の車中で、有加里はふと心配そうな声を出した。「やっぱり拝島家のトラブルが多いせいよね。ねえ、私たちで何か手伝えることはないのかしら。私、今の紫音さんを見てるとなんだか辛くて……初めて出会った頃の彼女は、あんなに疲れた顔なんかしてなくて、もっと明るく笑っていた気がするの」「ああ……拝島家の身内のゴタゴタが相変わらず酷いんだよ。最近のことはお前も知ってるだろ?」州はハンドルを握ったまま、重いため息を吐いた。「問題はまだ何一つ解決してないどころか、連中の嫌がらせはエスカレートしてるみたいだしな。おまけに、律のお婆さんの手術の件もある。本人がガンとして首を縦に振らないらしくて、紫音たちも本人の意思を尊重して無理に説得するのは諦めたみたいだ」赤信号で車を停め、州はやりきれない表情で街灯の光を見つめた。「俺にできるのは、ビジネスパートナーとして大
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第328話

有加里は隣から優しく語りかけながらも、やはり表情を曇らせていた。今日の紫音は気丈に振る舞ってはいたが、端々に隠しきれない不安や疲労の色が滲み出ていたからだ。紫音のように優しく、誰からも愛されるべき聡明な人が、あんな泥沼のような環境ですり減っているのを見るのは、有加里にとっても辛いことだった。「よし、二人の話はこれくらいにしておこう。あの家のゴタゴタは底なし沼みたいに泥沼化してるし、いつ解決するかもわからない。俺たちが心配したところでどうにもならないし、あとは律がなんとかしてくれると信じて任せるしかないさ」本来であれば、律は拝島家において絶対的な発言権を持っており、家の問題もすべて一人でねじ伏せるだけの力があった。しかし、彼の血筋の秘密が露見した今、状況はすっかり変わってしまった。反対派の親族たちが徒党を組み、今の律は何をするにも大きな制約を受けている。大黒柱である祖母の志津は完全に律の味方だが、彼女自身の命の灯火が消えかけている今、矢面に立つ彼を外部の刃から守り切る力は残されていなかった。「そうね、暗い話はここでおしまいにして、明るい話をしましょう」有加里はふっと表情を和らげ、明るい声を出した。「ねえ、今度ご両親への手土産を買いに行くの、付き合ってくれない?ご挨拶に伺うのは初めてだし、ご両親がどんなものを喜んでくださるか分からないから、一緒に選んでほしくて」有加里は細やかな気配りができる女性だ。初めての訪問で失礼のないよう、そして未来の義両親と少しでも良い関係を築けるようにと、今は一生懸命だった。だからこそ、両親の好みを熟知している州にアドバイスを求めたのだ。「そんなに気を使わなくていいって。母さんからも『絶対に手土産なんか買わせるな』って念を押されてるんだ。お前が手ぶらで遊びに来てくれるだけで十分嬉しいってさ。それに、これから家族になるんだから、そんな水臭い気遣いは一切不要だ」州は優しく微笑んだ。彼女に余計な気を使わせたくなかったし、いずれ本当の家族として食卓を囲むのだから、表面的な形式など必要ないのだ。「そういうわけにはいかないわよ!初めて実家にお邪魔するのに、手ぶらで行くなんて非常識だわ。もし手土産を買わせてくれないなら、私、今回は行くのやめるからね」有加里はきっぱりと言い放った。彼女の性格上、初めての挨拶で礼儀
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第329話

——そして、あっという間に週末の顔合わせの当日がやってきた。州たちは同じ市内に住んでいる紫音と合流し、同じ車で京極家の実家へと向かった。車中では絶えず楽しげな笑い声が響き、道中も和やかな空気に包まれていた。ただ一つ残念だったのは、今日の食事会に律が参加できなかったことだ。午後からどうしても外せない重要な重要会議と契約締結が重なってしまい、どう調整しても間に合わなかったのだ。律本人は「仕事が片付き次第、すぐに後から駆けつける」と申し訳なさそうに言っていた。しかし紫音は、今の彼がどれほど崖っぷちの重要な局面にあるかを痛いほど理解していた。ようやく漕ぎ着けた大型契約であり、ここでわずかでも隙を見せたり相手の機嫌を損ねたりすれば、すべてが泡と消えかねない。「だから仕事に集中して。私の実家に顔を出すなんて、後からでもいくらでもできるんだから」紫音はそう言って、なんとか無理をしてでも駆けつけようとした律を実家へ向かう前に強く引き止めたのだ。自分のことは心配せず、とにかく無事に彼自身の足場を固めてほしかった。「母さん、紹介するよ。俺の彼女の有加里だ。以前から話はしてたけど、色々あってなかなか挨拶が遅れちゃって。で、有加里、こっちが俺の父さんと母さん」実家に着くなり、州は少し照れくさそうに双方を紹介した。京極家の両親はすでに写真で有加里の顔を見て知っていたが、こうして直接対面するのは今日が初めてだった。「初めまして。小坂有加里と申します。こちら、心ばかりですが……お二人の好みが分からなかったので、良ければお納めください」有加里は緊張の面持ちで丁寧に頭を下げると、用意していた手土産を差し出した。「まあ、有加里さん。手ぶらでいらっしゃいって州に言っておいたのよ?私たちはあなたが来てくれただけで本当に嬉しいんだから、そんな気を使わないで。これからは家族になるんだから、どうか水臭いことは抜きにしましょうね」琴音はそう言いながらも、満面の笑みで贈り物を受け取った。息子から、有加里がこれまで一人でどんな過酷な人生を歩んできたかを聞かされていた琴音は、彼女の健気な気遣いに胸を打たれ、この細腕で持ってきた手土産がいかに重みのあるものかを察して優しく言葉をかけたのだ。「いいえ、本当に大したものではありませんから。初めてご挨拶に伺う私の、ほんの気持ちです」有加里はや
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第330話

幼い頃から孤独な人生を歩んできた彼女にとって、これほどまでに無条件の愛情と気遣いをもって迎え入れられる経験など、今まで一度もなかったからだ。「家族の温もり」というものを、彼女は今日、生まれて初めて肌で感じているようだった。愛する人と共に生きるということは、こんなにも心が満たされるものなのだと。「有加里さん、これからはもっと頻繁に遊びにいらっしゃいな。この年になると二人きりの家は退屈でね。紫音も州も仕事に追われて忙しそうだけど、あなたたちの仕事は比較的時間の融通が利きやすいんでしょう?」琴音は心底嬉しそうに有加里に語りかけた。「私なんて毎日家で暇を持て余してるんだから。初めて会った時から、あなたとはすごく気が合いそうな気がしていたのよ。だから、これからはぜひ私の相手をしてちょうだいね!」琴音は有加里を一目見た瞬間から、彼女の纏う素直で善良な空気感をすっかり気に入っていた。京極家は元々、家柄や血筋で相手を値踏みするような俗っぽい家風ではない。息子が心から愛し、笑顔でいられる相手であれば、それで十分だった。かつて紫音の元婚約者との結婚を両親が猛反対したのは、決して家柄が理由ではなく、あの男が決定的に誠実さを欠き、娘を幸せにできる器ではないと見抜いていたからに他ならない。「ちょっとお母さん!有加里さんが来た途端、私が一番じゃなくなったみたいじゃない。心変わりが早すぎてひどーい!」わざと口を尖らせてすねてみせる紫音。冗談めかして文句を言いながらも、彼女の心は深い安堵と喜びに包まれていた。母が有加里を心から歓迎してくれていることが何より嬉しかったし、その様子を見守る兄の嬉しそうな顔を見られただけで、紫音にとっては十分すぎるほどだった。実は州は、有加里を実家に連れてくるにあたって、彼女の過酷な生い立ちの大まかな事情だけを事前に両親に伝えてあった。詳細な過去——彼女が受けてきた凄惨な虐待の傷跡やトラウマについてまでは伏せている。余計な心労や不安を両親に抱かせたくはなかったし、なにより有加里本人のトラウマをほじくり返すような真似は絶対にしたくなかったからだ。ただ、「両親から愛情を受けられず、劣悪な家庭環境で育ったこと」「現在に至るまで実の親とは完全に絶縁状態であること」だけは正直に話しておいた。その話を聞いた時、琴音はひどく心を痛めて同情を
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