All Chapters of 義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる: Chapter 621 - Chapter 630

806 Chapters

第621話

颯馬は、自分がこの国のビジネスの最前線――その息の詰まるような速いペースと、血で血を洗うようなドロドロとした環境には向いていないと痛感していた。彼には、あの海外での穏やかなペースの方がずっと性に合っていたのだ。実は、彼は長年、自分が本当にやりたいことを見つけられず、ただ漠然と努力を重ねるだけの毎日を送っていた。しかし、律と接するようになってから、まるで目の前の霧が晴れたように、自分の進むべき研究の方向性がはっきりと見え始めたのだ。この短い期間で得たものは計り知れない。律は、颯馬にとって争うべき敵などでは決してなく、暗闇を照らし、進むべき道を教えてくれた偉大な先導者(メンター)だった。「もしお前がどうしても向こうへ戻りたいと言うなら、父さんは賛成するよ。お前にはお前のやるべきことがあるって分かっているからな。これ以上、こんなことで言い争う必要なんてない。確かに、最初のおれの考えが少し間違っていたことは認める。だが、今さらそんなことを議論したところで何の意味もないだろう」「世の中、必ずしも利益ばかりに振り回されて生きる必要はない。どうしてこんなくだらないもののために、わざわざ自分たちから不愉快な思いをしなきゃならないんだ?おれは今の生活で十分満足しているし、こうして家族が一緒にいられるだけで幸せだ。だから、こんな骨肉の争いなんて、まったく必要ないと思っている」「ただ、おばあちゃんの方に関して言えば……もしお前が、本来おれたちが手にするはずだった権利を取り戻したいと思うなら、それも応援する。おれたちにとっても悪い話じゃないし、父さんとしても、お前にはもっといい暮らしをしてほしいと願っているからな。でも、お前がそれを望まないのなら、無理強いは絶対にしないよ」宏という男はそういう人間だった。兄である正人とは、まるで正反対の性格をしている。利益しか目にない兄とは違い、宏の目に映るのは、ただ波風の立たない平穏で堅実な日々だけだ。昔から他人と争うことをひたすら嫌う。なぜなら、ただ単に『面倒くさい』からだ。それに、自分のやりたくないことは絶対にやらない主義でもあった。もし彼に少しでも野心というものがあったなら、そもそも最初から海外へなど行かず、ずっと母親の傍にへばりついて、会社の実権を自らの手中に収めようと立ち回っていたはずなのだ。
Read more

第622話

父親の無責任な態度に激しい怒りを覚えると同時に、母が不憫でならなかったのだ。自分にはどうすることもできない歯がゆさを抱えながらも、今の父の態度を見てはっきりと悟った。父はただ、自分が面倒事を抱え込みたくないだけなのだ。だが、愛する妻のために行動を起こすのは、当然のことではないのか。それが男としての責任というものではないのか。もし自分なら、愛してもいない相手とはとうの昔に縁を切り、心から愛する女性に温かい家庭を与えているはずだ。颯馬は、自分の父親がここまで自己中心的で、何をするにも自分の保身しか考えていない人間だとは思ってもみなかったのだ。「おれにはおれなりの考えや段取りってもんがあるんだ。お前にわざわざ説教される筋合いはない!」宏は苛立たしげに手を振り払った。「母さんに正妻の立場を与えないなんて、一言も言ってないだろう。そもそも、この何年も、海外でおれたちは十分幸せに暮らしてきたじゃないか。たかが『名分』なんてものが、そんなに大事なのか?どうしてそこまで、そんな肩書きみたいなものにこだわるんだ?お前たちの考えていることは、おれには本当に理解できないよ」そう口には出したものの、宏の内心には焦りが生じていた。志保も颯馬もここまで強硬な態度に出ている以上、自分一人でさっさと海外へ逃げ帰ったところで、二人を決して納得させられないだろう。いくら面倒でも、何かしら手を打つしかないのか――そんな嫌な予感が彼の頭をよぎっていた。「僕たちは、父さんを無理に追い詰めているわけじゃない。これは、父さんがやらなきゃいけないことなんだよ!」颯馬は一歩も引かずに言い返した。「夫としての責任、そして父親としての責任だ。父さんは、母さんが望む平穏で確かな生活を、ちゃんと与える義務があるはずだ。それに……あまりにも自分勝手に生きるのはよくないと思う。自分の保身ばかりで他人を蔑ろにしていれば、いつか周りの人間はみんな離れていくよ。昔は、父さんがそんな人だなんて思いもしなかった。今日ほど、父さんが変わってしまったことに失望した日はな……」言い過ぎたとは思わなかった。颯馬はただ、父親の決定的な過ちを指摘し、もっと母親と向き合ってほしいと訴えたかったのだ。そうすれば、両親の関係もまた修復できると信じたかった。海外で暮らしていた頃は、ただ穏やかで、誰もが
Read more

第623話

息子がこれほどまでに悲痛な表情を浮かべ、自分たちに対して完全に失望しきっている姿を目の当たりにして、志保はどう言葉をかければいいのか分からなかった。本国へ戻ってきてからというもの、自分たちの考え方はすっかり歪んでしまい、本来の自分たちの本心すら見失ってしまったかのように思えた。「母さん……僕が一番望んでいるのは、みんなが心から笑って過ごせることなんだよ」颯馬は絞り出すように言った。「母さんも知ってるだろ?僕はこの家の財産なんか、これっぽっちも欲しいと思ったことはない。それは前にもはっきり言ったはずだよ。僕の気持ちはもう十分に伝えてあるのに、どうして僕にやりたくないことを強要するんだ?どうして自分たちのことばかりで、他の人の気持ちを思いやれないんだよ!」颯馬の声には、深い悲哀が滲んでいた。「おばあちゃんは、これまでずっと一人で大変な苦労を背負ってきたんだ。もうお年だし、体調だって万全じゃない。これ以上、おばあちゃんを追い詰めるのはやめてほしい。残りの人生を、心穏やかに過ごしてもらえば、それでいいじゃないか」颯馬はさらに言葉を継いだ。「これ以上、おばあちゃんの生活をかき乱さないでくれ。何年も離れて暮らしていて、お互いのことなんてよく分かってもいないのに、どうしてわざわざ波風を立てるような真似をするの?全部、自分たちの利益のため?正人伯父さんに洗脳でもされたの?どうしてあの人の言いなりにならなきゃいけないんだよ!」颯馬には本当に理解できなかった。なぜ母親がここまで強硬に権力に固執するのか、一体何をどうしたいのか、全く分からなかった。そもそも、父親がふらりと帰国しただけでも、祖母には多大な迷惑と心労をかけているのだ。それでも、あの気高く厳しい祖母は、心の底では久しぶりに帰ってきた息子の姿を見て、少なからず喜んでいたはずなのに――どうしてこんな恩を仇で返すような真似ができるのだろうか。「……ここ最近、私も色々と考えていたの。本当は私に、こんなことを要求する資格なんてないんじゃないかって。だって私には、『妻』という一番基本的な名分すらないのだから……これ以上何かを望むなんて、私にとっては過ぎた願いなのかもしれないわね」志保は自嘲するようにそう口にした。その言葉の裏には、言い知れぬ挫折感と不満が渦巻いていた。――どう
Read more

第624話

これ以上、この両親と話をしても無駄だ。颯馬はそう悟った。このままここに留まっても、果てしない口論が続くだけだ。両親が何を考えているのか、彼にはもう到底理解できなかった。特に父親に対しては、彼がこれほどまでに自己中心的で利己的な人間だったのかと、絶望に近い感情を抱いていた。ただこれまでは、こうした権力争いやしがらみと無縁の生活を送っていたため、父の冷酷な本質に気づけなかっただけなのだ。父親の世界には、自分自身しか存在しない。長年寄り添い、自分という息子を産んだ母親のことも、彼は少しも尊重していなかった。だが、冷静に考えれば当然のことかもしれない。自分を産んでくれた実の母親のことすら顧みず、その恩を平気で仇で返すような人間に、どうして長年連れ添った妻を大切にすることなどできようか。結局のところ、父は自分が一番可愛いだけで、他人の人生や感情などこれっぽっちも考えていないのだ。どれほど醜悪であろうと、彼が自分の血の繋がった父親であるという事実に変わりはない。だからこそ、颯馬はその残酷な事実にどうしようもなく打ちのめされ、ただ深い無力感に苛まれることしかできなかった。颯馬が部屋を後にする時も、両親はまだこの一件で言い争いを続けていた。どちらも一歩も譲る気配はない。特に宏は自分の言い分に固執しており、穏やかに話し合うことなど到底不可能な状態だった。だが、それでも颯馬としては母親の側に立ちたかったし、彼女に『正妻』という正当な名分を与えてやりたいと思っていた。何しろ、志保は長年影のように宏に寄り添ってきたのだ。これまで二人の関係は良好だったのに、本国へ戻ってきさえしなければ、こんな事態には陥らなかったかもしれない。重い足取りで歩きながら、颯馬の心は深く沈み込んでいた。一体どうしてこんなことになってしまったのだろう。両親が帰国して以来、平穏な日は一日たりともない。祖母である志津のことも酷く気がかりだった。少し様子を見に行こうか――そう考えた矢先、唐突にスマートフォンが震えた。画面には、兄である律の名前が光っていた。「おばあちゃんが急に心臓の発作で倒れた。かなり危険な状態だ。動けるなら、お前もすぐに病院へ来てくれ」律はその時、会社で重要な会議の真っ最中だった。しかし、屋敷の住み込みの家政婦から知らせを受けるや否や、全てを
Read more

第625話

一方、紫音は会社で山のように積まれた業務の処理に追われていた。怪我から復帰したばかりで、まだ片付けなければならない案件が山積しており、息つく暇もないほど焦燥した日々を送っていたのだ。しかし、律から志津が倒れたという連絡を受けるや否や、全てを放り出して病院へと車を走らせた。――どうして急にそんなことに。胸騒ぎが止まらない。きっとまた、あの拝島家の人々の醜い諍いが原因に違いない。彼らの身勝手な振る舞いが、確実に志津の心を削り、追い詰めたのだ。紫音、律、そして颯馬が次々と病院へ駆けつけると、志津はすでに救急救命室に運ばれ、緊迫した気配の中で処置を受けていた。中の様子は一切分からない。救命室の前で顔を合わせた三人は、皆一様に複雑な表情を浮かべていた。重苦しい沈黙が広がり、誰一人として口を開こうとはしなかった。「志津様の具合、どうして急に悪化したの?最近の点滴治療で容態は安定していたはずじゃない。それに、お抱えの主治医も特に異常はないって言ってたのに……どうしてこんなことに?」沈黙を破ったのは紫音だった。現状が呑み込めず、ただ戸惑うばかりだ。そして、目の前で打ちひしがれている兄弟二人を見て、彼女もまた胸を痛めていた。「……全部、僕の両親が原因です」颯馬が顔を伏せ、震える声で絞り出した。「二人が屋敷に押しかけて、母さんを認めるようにおばあちゃんに迫ったんです。僕は最初からずっと反対していたのに……一番恐れていたことが起きてしまった。こんなことになるなんて……こんなおばあちゃんの姿なんて、見たくなかった。でも、今更そんなことを言っても遅いんだ」颯馬は激しい自責の念に押し潰されそうになりながら、ただ懺悔のように言葉をこぼした。「おばあちゃんの体が万全じゃないことくらい、分かっていたはずだろ。どうしてあいつらを屋敷へ行かせた!」律の冷たく、刺すような声が廊下に響いた。「お前もこっちへ戻ってきてそれなりに経つんだ。おばあちゃんがどういう人か、まだ理解していなかったのか?それとも、お前もあの両親と同じで、何が何でもあいつらを受け入れさせようとしていたのか!」律の目は、颯馬への怒りと、あの強欲な一族への激しい憎悪に燃えていた。もしあの一家が帰国さえしなければ、こんな事態には決してならなかった。結局のところ、あいつらの目
Read more

第626話

律は静かに目を閉じ、深く息を吐き出した。これ以上、颯馬の悲痛な言い訳を聞き入れる気力はなかった。今、彼の頭の中にあるのはただ一つ、祖母が無事に一命を取り留め、また以前のように凛とした姿を見せてくれることだけだ。だが、この場にいる全員が、残酷な現実を痛いほど理解していた。以前、主治医から突きつけられた宣告が律の脳裏をよぎる。志津の心臓はすでに限界に近く、いつ発作を起こしてショック状態に陥ってもおかしくないほど危険な状態だった。もし次に発作が起きれば、以前のように持ち堪えることは到底できないだろう、と。かつて、心臓への負担を軽減するための大手術が提案されたことがあった。医師は「手術自体が極めて危険な賭けになるが、乗り越えられれば回復の見込みはある。だが、何もしなければ悪化の一途を辿るだけだ」と告げた。しかし志津は、その不確実な手術を断固として拒絶したのだ。この先どうなるかなど、誰にも予測はつかない。今はただ、重い扉の向こう側にいる医師たちが、彼女を死の淵から引きずり戻してくれるのを祈るしかなかった。唯一の救いがあるとすれば、病院への搬送が極めて迅速だったことだ。屋敷の使用人が倒れた志津をいち早く発見し、一刻の猶予も置かずに救急車を手配したため、手遅れになるまでのタイムロスは最小限に抑えられていた。「全部、僕が悪いって分かっています。こんなことになるなんて……実はおばあちゃんには、前もってこの話をしておいたんです。少しでも心の準備ができればと思って……でも、まさかここまで深刻な事態になるなんて思わなかった。信じてもらえないかもしれないけれど、僕も今、本当に辛いんです……」颯馬はこれ以上、二人にどう弁解すればいいのか分からなかった。今の自分はまるで大罪人のようで、何を言っても言い訳にしかならない。きっともう、彼らは自分を身内として見てはくれないだろうという絶望に打ちひしがれていた。「今ここで何を言っても、どうにもならないわ。私たちが一番望んでいるのは、志津様が無事に目を覚まされることでしょう。あの気丈な方なら、きっとまた元気な姿を見せてくださるはずよ。だから、今は静かに待ちましょう」紫音は、静かだが凛とした声で諭した。これ以上誰かの責任を追及しても無意味だ。果てしない自責と後悔の堂々巡りを聞いているのも忍びなかった
Read more

第627話

「実のところ、志津様の状態はずっと前から非常に不安定で、いつ何が起きてもおかしくない状況でした。前回ご提案した手術という選択肢も、最終的には見送られましたね。ですが、私はそのご判断が正しかったと思っています。あれほどの高齢のお体に、これ以上の過酷な苦痛を強いるべきではないと……」医師はゆっくりと、慰めるような声音で言葉を続けた。「だから律さん、どうかご自身を責めないでください。あなたがこれまで、志津様のためにどれほど尽くしてこられたか、誰よりもこの私が一番よく分かっています。我々医師にも、そしてご家族にも、どうにもならない運命というものはあるのです」「志津様は、本当に芯の強いお方でした。ご自身の誇りを何より重んじ、常に凛として生きてこられた。だからこそ……この最後の瞬間に、意味のない延命治療でその尊厳を傷つけるようなことはせず、どうか誇り高いまま見送って差し上げてください。もし志津様ご自身に意識があったなら、きっとそう望まれるはずです。それは、お孫さんであるあなたが一番よくご存知でしょう?」長年主治医を務め、律たちの事情や苦悩を深く理解している彼だからこそ、あえてここまで踏み込んだ言葉をかけてくれたのだ。医師は静かにそう言い残すと、深く一礼してその場を立ち去った。後に残された律は、まるで全身の血が凍りついたかのように、その場に立ち尽くしていた。事態がここまで一気に絶望的な局面へ転がり落ちるなど、到底受け入れられるものではない。あまりにも唐突すぎる宣告に、頭の芯が痺れて何も考えられなかった。声を発することすらできない。本当に、おばあちゃんはこれで終わってしまうというのか?どうしてこんなことに。なぜ、こんな残酷な結末を突きつけられなければならないのか。「どうして……」紫音もまた、この信じ難い現実を前にして、真っ青な顔で唇を震わせていた。いつも優しく、慈愛に満ちた眼差しで自分を包み込んでくれた志津様が、こんなにあっけなく倒れてしまうなんて。心の準備などできるはずもない。これからどうすればいいのか、全く分からなかった。ただ、医師の言葉の意味だけは痛いほど理解できた。今、酸素マスクを外し、投薬を止めてしまえば、それがすなわち志津様の死を意味する。これ以上無理に命を引き延ばすことは、彼女の気高い尊厳を奪う残酷な行い
Read more

第628話

律自身、今この瞬間、誰よりも冷静に状況を理解していた。祖母の身体がとっくに限界を迎えていることも、これ以上の延命が単なる自己満足でしかないことも、痛いほど分かっている。それでも、どうしても手放したくなかった。手放せば、それは永遠の別れを意味する。いつか必ずこの日が来ることは分かっていたし、祖母との別れの瞬間をこれまで幾度となく想像してきた。しかし、いざその時を目の当たりにすると、到底受け入れることなどできなかった。こんな現実を突きつけられるくらいなら、いっそ自分の持つすべてを投げ出してしまいたかった。そもそも、彼が拝島グループに留まり、トップとして会社を牽引してきたのは、ただひとえに祖母を安心させ、喜ばせるためだったのだ。そのおばあちゃんがいなくなってしまえば、彼がこの場に残り続ける意味などどこにあるというのか。親族の人間たちは皆、律が会社の権力を握るために祖母へ取り入っているのだと信じて疑わなかった。だが実際のところ、彼にとって会社などどうでもいい存在だった。莫大な財産も権力も、最初から彼の眼中にはなかったのだ。ただ、おばあちゃんに生きていてほしかった。それだけなのに。今はただ、どうすれば彼女を再び目覚めさせることができるのか分からず、律は深い絶望の淵に立ち尽くしていた。律たちがそんな悲痛なやり取りをしている最中、正人と宏の二人が報せを聞きつけ、慌ただしく病院へ駆けつけてきた。誰よりも血相を変え、焦りを見せていたのは正人だった。報せを聞くや否や飛んできたのは、彼の中にまだ『一縷の望み』があったからだ。もし志津の意識が少しでも戻れば、会社を『よそ者』である律から取り上げ、正当な血族である自分たちに引き渡すよう言いくるめることができるかもしれない。彼女の口からその一言さえ引き出せれば、自分にはまだ権力を握るチャンスがある――彼はそう信じて疑わなかったのだ。だが、今の志津が目を覚ますはずもなく、仮に奇跡が起きたとしても、決して正人の望むような言葉を口にすることなどあり得ないのだが。「おい、母さんの具合はどうなんだ!まだ息はあるんだろうな?今すぐおれを中へ入れろ。母さんに言っておかなきゃならないことがあるんだ。今確約させておかないと、手遅れになっちまう!」正人は周囲の重苦しい空気などお構いなしに、
Read more

第629話

「志津様はもう、これ以上持ち堪えることはできません。……医師の言葉通り、今繋がれている生命維持装置をすべて外せば、それが志津様の最期になります。ですから、私たちも早く覚悟を決めて、これからの手はずを整えなければなりません」紫音は、自分勝手な言い分をぶつけ合う正人と宏に向けて、毅然とした声で言い放った。拝島家は誰もが知る名門である。だからこそ、志津の最期は滞りなく、どこまでも立派に見送ってあげなければならない。志津は生涯を通じて気高く、自分の誇りと一族の体面を何よりも重んじてきた人だ。だからこそ、最期の瞬間は美しく、せめて表面上だけでも家族が調和している姿を見せて旅立ちたいと願っているはずだ。これ以上、他人に家内の醜態を晒すような真似は絶対に避けなければならない。今この期に及んで、個人の利権争いなどしている場合ではないのだ。紫音は志津のこれまでの苦労を思うと、胸が張り裂けそうだった。目の前にいる正人や宏の姿を見て、ただただ絶望と深い悲しみが湧き上がる。この一家の人間は皆、腹に真っ黒なものを抱え、己の利益しか頭にない。あまりの嘆ましさに、紫音は彼らにかける言葉すら見失っていた。いっそ今すぐ、律の手を引いてこのおぞましい場所から立ち去ってしまいたいとすら思う。そしておそらく――今回こそが、本当の意味での『決別』になるのだろう。志津という唯一の繋がりがこの世から消えてしまえば、紫音と律が、彼らのような強欲な人間たちと関わる義理はもう何もないのだから。もし律が「会社を手放す」と決断するなら、紫音は全面的に彼を支えるつもりだった。そもそも、律がこの泥沼のような拝島グループに留まり、矢面に立っていたのは、すべて志津の心を守るためだったのだ。彼女がいなくなってしまえば、彼がこの場所に残り続ける意味はどこにもない。仮に権力も財産もすべてを失ったとしても、また二人で一からやり直せばいい。彼らにはゼロから立ち上がる勇気も、新しい道を切り拓く確かな実力もあるのだから。こんな無益な権力争いに執着する必要など、最初からなかったのだ。執着すればするほど、自分たちを雁字搦めにし、重圧を増やすだけだ。どうして、自分たちまでこんな息苦しい生き方に付き合わなければならないのか。なぜ、これほどまでに血も涙もない連中のために、自分たちの貴重な人生の
Read more

第630話

律の低く冷ややかな声が、重苦しい空気を切り裂いた。本当なら、こんな形で彼らと真っ向から争うような真似はしたくなかった。だが、利益の亡者と化した彼らのあまりにも身勝手で醜悪な振る舞いを前にして、律の心には静かだが決して消えない怒りの炎が灯っていた。律自身もこれまで、拝島グループの発展のために計り知れないほどの努力と心血を注いできた。それなのに、この血の繋がっただけの親族たちの目には、金と権力しか映っていない。これまでの律が、正人たちの浅ましい挑発や嫌がらせを相手にせず、黙って耐えてきたのは、ひとえに志津の体を案じていたからである。自分が彼らと正面からいがみ合えば、志津に無用な心労をかけ、不安にさせてしまう。それが嫌だったからこそ、彼らと同じ土俵に立つことを避けてきたのだ。しかし、志津はもうすぐ彼らの前から永遠に旅立とうとしている。彼女がいなくなる以上、律がこのさもしい連中に対して、これ以上少しでも手加減や遠慮をしてやる理由は、もうどこにもなかった。「お前、最初は都合のいいことを抜かしていただろうが!口を開けば『すべてはおばあちゃんのためだ』とかなんとか言って、自分から会社の実権には執着しないような素振りを見せておいて、今更なんだその言い草は。笑わせるな!」正人は顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。「そもそもお前はこの家の血を引いていない、ただの『よそ者』だろうが。母さんがどうなろうと、お前がしゃしゃり出る筋合いはないんだよ。目障りだ、今すぐここから出て行け!」志津がもう助からないと分かった今、正人は表面上の遠慮すら完全に捨て去っていた。彼がこの世で最も憎悪している相手、それが律なのだ。何が何でも彼をこの場から追い出し、会社のすべてを掌握してやると、その態度はどこまでも強硬だった。「……私がここに残るかどうか、あなたが決める権利はありません」律は、激昂する正人とは対照的に、氷のように冷ややかな声で言い放った。「こんな場所で、あなたと同じレベルに落ちて無様に言い争い、恥を晒すつもりもない」これまで律が正人たちの浅ましい嫌がらせを黙殺してきたのは、すべて志津のためだった。だが彼女が死の淵にある今、この親族たちの良心の欠片もない振る舞いがただただ許せなかった。志津は女手一つで二人の息子を育て上げ、血の滲む
Read more
PREV
1
...
6162636465
...
81
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status