《義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる》全部章節:第 311 章 - 第 320 章

438 章節

第311話

二人は強く抱きしめ合った。この瞬間を、まるで途方もない長い時間待ちわびていたような気がする。一度すれ違い、失いかけたからこそ、互いの存在の尊さを心の底から噛み締めることができた。「ええ……約束するわ」すべてを打ち明け合い、塞ぎ込んでいたわだかまりを解いてしまえば、二人の間にある問題など実はちっとも複雑ではなかった。互いの心がしっかりと寄り添ってさえいれば、必ず幸せを築いていけるのだ。店を出た後、州はすぐに紫音へ【無事にやり直せたよ。近いうちに有加里の荷物も全部こっちに運び込むつもりだ】とメッセージを送った。ちょうどその頃、紫音は志津の元へ向かう道中にいた。スマホの画面に浮かんだ兄からの報告を見て、思わず安堵の笑みがこぼれる。ようやく、一つの出来事が無事に落ち着くべきところへ落ち着いてくれた。もし二人があのまま別れの悲劇を迎えていたら、きっかけを作ってしまった紫音は一生後悔の念に苛まれていたに違いない。ずっと胸を塞いでいた重い罪悪感が、ようやくすーっと消えていくのを感じた。だが、完全に肩の荷が下りたわけではない。紫音にはまだ、志津の手術という大きな問題が残されている。「二日間だけ考え直してほしい」と志津にお願いした約束の期限が、いよいよ目前に迫っていた。一刻も早い手術を望む律からはしきりに状況を気にする連絡が入っており、紫音自身も早く志津の最終的な答えを確かめたかった。それに、ここ数日は兄のことで駆け回っていたため、顔を見に行けていない。紫音は単純に、大好きな志津に会って、少しでも長くそばで寄り添ってあげたかったのだ。邸宅に着くと、志津はベランダに出て花に水をやっていた。花を愛する彼女の手で丹念に手入れされた鉢植えは、どれも青々と瑞々しい葉を広げている。「志津様、ただいま戻りました。今日は少しお加減が良いみたいですね。水やり、私も手伝います」紫音はそばに駆け寄って声をかけた。「いいのいいの、これくらい私の楽しみなんだから。……それより、紫音さん。今日来たのは、手術の返事を聞くためでしょう?」志津はジョウロを置くと、穏やかだがキッパリとした口調で言った。「あれからいろいろと考えたけれど、やはり手術は受けないことに決めたわ。もうこの歳だもの、これ以上体を痛めつけるようなことはしたくないの」「最近はずっと体調がすぐれないけれど
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第312話

「わかっているわよ。あなたたちが私のために、どれだけ必死に心を砕いてくれたか……」志津は優しく微笑み、紫音の手をぽんぽんと叩いた。「でもね、見てごらん。今の私はこうして元気じゃない。薬さえきちんと飲んでいれば、少しずつでも良くなっていくはずよ」「さあ、お庭の方へ散歩に行きましょうか。ここ何日かずっと部屋にこもりきりだったから、久しぶりに外の空気を胸いっぱい吸いたいの」志津に促されるまま、二人は連れ立って庭園へと歩き出した。色とりどりの花々を眺めながら静かに言葉を交わす、穏やかで温かい時間。だが、その平穏は唐突に破られた。「ちょっと、紫音さん!どういうつもりなの!」背後から突然響いた甲高い声に、二人は振り返った。そこには、顔を真っ赤にしてずかずかと歩み寄ってくる早苗と、その後ろで陰鬱な顔をした正人の姿があった。「お義母様を殺す気!?聞いたわよ、あなたが無理やり手術を受けさせようとしてるって!ご高齢のお義母様にメスを入れるのがどれだけ危険なことか分かってるの!?あなたたちの腹黒い魂胆なんて、お見通しなんだからね!」早苗は捲し立てるように批難の言葉を浴びせた。「お義母様があなたに遺産を譲るって言ったからって、早く死なせて財産を独り占めしようって魂胆なんでしょ!?いつから我が家の人間になったつもりか知らないけど、部外者のくせに、なんて恐ろしい女なの!」あまりに理不尽で一方的な罵倒に、紫音は一瞬言葉を失い、立ち尽くした。最悪なことに、せっかく顔色が良く穏やかだった志津の表情が、二人の顔を見た瞬間にサッと青ざめたのだ。志津は胸元をぎゅっと掴み、苦しそうに浅い呼吸を繰り返し始めた。「早苗さん、いくらなんでも言い掛かりが酷すぎます。私たちは本当に、志津様の体を心配して手術の道を探っただけです。そんな風に私たちを非難するなら、志津様がご病気で苦しんでおられる間、早苗さんたちは一体何をしてくださったんですか?」紫音は毅然と言い返した。本当なら、こんな人たちと同じ土俵に立って言い争いなどしたくはなかった。志津の目の前で揉め事を起こせば、彼女の心労を増やすだけだ。それに、この身勝手な夫婦にいくら正論を説いたところで、話が通じるとも思えない。しかし、彼らは事あるごとにあからさまな言いがかりをつけて難癖を作ってくる。そして怒りの矛先を、常に「部外者」である紫音に
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第313話

志津の言葉には、深い失望と怒りが滲んでいた。律と紫音が自分のためにどれほど心を砕いてくれているか、一番身近で見てきたのだ。それをいけしゃあしゃあと、何一つ手伝いもしなかった実の息子夫婦に泥を塗られるなど、到底我慢ならなかった。できることなら、この強欲な息子と嫁を二度とこの家の敷居を跨がせたくない。だが、血の繋がった家族である以上、門前払いしきれないのが歯痒かった。「出て行きなさい!今すぐ、私の顔の前から消えなさいっ!」志津は怒りで全身をわななかせ、二人を指差して叫んだ。せっかく気力も湧いて、穏やかな一日を過ごせるはずだったのに、この二人の顔を見ただけで、心臓の奥がどす黒く掻き乱されるのを感じた。「母さん、目を覚ましてくださいよ!こいつらが母さんを陥れようとしてるのを、黙って見過ごせるわけないでしょう。今日ばかりは、何を言われても絶対にここを動きませんからね。出て行くべきなのは、私らじゃなくてこいつらだ!」「そうですよ、お義母様!お義母様は私たちのたった一人の母親なんですよ、放っておけるわけないじゃないですか!それに、あんな危険な手術……本当に間一髪だったわ。もしあのまま騙されて手術台に乗せられていたら、二度と目を覚ますことはなかったかもしれないんですよ!?もし万が一生き延びたとしても、こいつらは別の手を使って、絶対に手術台から下ろさないように仕向けたはずよ!こいつらがどれほど恐ろしい企みを持っているか、お義母様はちっとも分かっていらっしゃらない!」二人は志津の怒りなど歯牙にもかけず、被害妄想とも取れる悪意に満ちた妄言を捲し立てた。志津はもう、この浅ましい息子夫婦の言葉を聞くのも限界だった。頭痛の種が増えるだけで、これ以上は何を聞いても耳障りなだけだ。とにかく今は、一人になって心を静めたかった。「正人さん、早苗さん。私はいつだって、自分を偽ることなく誠心誠意動いてきました。お二人がどう思われようと構いません。私たちの本当の想いを、志津様さえ分かってくださればそれで十分ですから」紫音は二人の罵倒には乗らず、静かにそう言い切った。そして、心配そうに自分を見つめる志津に向き直る。「志津様、私は会社に戻りますね。どうかお体だけは大切にしてください。あんな人たちの言葉で、これ以上血圧を上げないでくださいね」これ以上ここにいても、火に油を注
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第314話

「……早苗さん。私が『志津様の財産なんて最初から少しも狙っていない』と言ったところで、どうせ信じてはもらえないでしょうね。だから、これ以上言い訳するつもりはありません。私たちは早苗さんとは見ている世界が全く違うんですから、理解してもらおうとするだけ無駄です」紫音は真っ直ぐに早苗を見据えたまま、凛とした声で言葉を紡いだ。「でも、これだけは言っておきます。仮に拝島家の財産が手に入らなくたって、私たちは十分に自分たちで生きていけます。むしろ今よりずっと穏やかな生活が送れるでしょうね。早苗さんたちの見苦しい嫌がらせから解放されるんですから」「律の能力は、誰よりも優れています。他のどんな会社に行ってもトップに立てるし、自分で会社を立ち上げたって絶対に成功する。だから、会社を早苗さんたちに奪われたところで、私たちは痛くも痒くもありません。私たちが今も踏みとどまっているのは、ただただ志津様のため……それだけです」律を守るためなら、もう容赦するつもりはなかった。紫音の声には、普段の温和さからは想像もつかないほどの強い気迫がこもっていた。「律がこの会社のためにどれほど血の滲むような努力をしてきたか、分かっていますか?会社が幾度も直面した危機を救い、今の地位まで押し上げたのは彼です。その間、早苗さんたちは一体会社のために何をしてきたんですか?何もしていないくせに、今になって偉そうに律を責め立てるなんて、恥ずかしくありませんか」早苗の顔が屈辱に歪むが、紫音は構わず続けた。「今の律は一人じゃない。彼には私がいるし、私の背後には京極家がついています。これ以上、彼を不当に貶めようとするなら、私だって黙っていません。私は彼を守り抜く。これ以上、人のために尽くして疲弊している彼が、身内から心無い非難を浴びせられるなんて絶対に許さない!」「私たちが今まで早苗さんたちに反論せず黙っていたのは、すべては志津様の体を思ってのことです。志津様があれほど苦しんでおられるのに、どうしてその目の前で争いを起こせるんですか?早苗さんたちは、志津様に良くなってほしいという気持ちはないんですか?取ってつけたような大義名分を振りかざしていますが、いくら血の繋がった息子や嫁とはいえ……あなたたちの行いの方が、よっぽど恐ろしいわ」紫音は、胸につかえていた思いを一気に吐き出した。本来であれば、いくら
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第315話

「もういい、くだらん言い合いはよせ。母さんもあんな状態なんだから、少しは口を慎め。次からはお前一人で来い。あの様子じゃ、毎日俺たちを見ただけで頭の血管が切れかねないぞ。そんな姿は見たくないんだよ!」そもそも正人は、好んで本家に通い詰めているわけではない。毎回、遺産欲しさで焦る早苗に無理やり引きずり出されているのが実情だった。「私がこうして動いているのも、全部あなたのためでしょう!あなたに甲斐性がないから、こんなことになっているんじゃないですか。最初からお義母さんがあなたを信用して会社を任せてくれていれば、こんな惨めな思いは見なくて済んだのに。今日のお義母さんの様子、ご自身の目で見たでしょう。もし万が一のことがあれば、会社は本当に赤の他人の手に渡るのよ。あなた、それで本当に納得できるの?拝島家の産業を余所者にくれてやるつもり?あなたがさっさと会社を継いでさえいれば、うちだって毎日こんな風にご機嫌伺いになんて来ずに済んだのよ。私だって、あんなお義母さんと関わり合いになるのはまっぴらごめんよ。私がやってることは全部、あなたとこの家のためなんだから。お義母さんに何かあって、全てを奪われてからじゃ遅いの。私たちの息子の将来はどうなるのよ?あの子のことも少しは考えたらどうなの!」早苗は容赦ない言葉を次々と浴びせかけ、一歩も引く気配を見せない。ここ最近、遺産と会社の行く末に対する焦りから、夫婦の諍いは激化する一方だった。正人とて、病魔に蝕まれた母親の姿を見るのは忍びない時もある。だが、顔を合わせるたびに志津から冷酷な言葉をぶつけられると、まるで実の息子である自分を完全に切り捨てたかのような態度に深く傷つき、やり場のない恨みばかりが募っていた。その一方で、そうやって毒づいた後には激しい後悔に苛まれ、まともに母親の顔も見られなくなる情けない男でもある。それでも、先祖代々の会社が他人の手に落ちるのだけは、どうしても受け入れがたかった。この優柔不断な長男は、母への情と家督への執着の間で常に揺れ動き、いっそ母親などいなくなればいいとすら考える己の醜さに振り回されていた。結局のところ、弟の宏が帰国したところで、志津を説得できる見込みは薄かった。今回の志津の態度はあまりにもきっぱりとしており、彼らをまともに取り合う気など毛頭ない。会社の実権を完全に律に委
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第316話

早苗の罵倒は止まらない。実のところ、正人がまともに会社で働いた経験がないのは事実なのだ。根っからの怠け者で、常に母親の庇護に依存してきた。ビジネスのことなど志津に任せておけば、自分たちは何もせずともその果実だけを味わっていられると信じ込んでいたのだ。それがまさか、こんな事態に陥るなんて思いもしなかった。彼なりにこの状況は不本意ではあるものの、今となってはどうしようもない。「済んだことをグダグダ言うな。俺に甲斐性がないと思うなら、最初から結婚なんかするな!お前だって、俺の家柄と金目当てで嫁いできたんだろうが。今更そんなことを言って何になる!」二人の言い争いは次第にヒートアップしていく。ましてや場所は本家の門前だ。互いに一歩も譲らず、声のボリュームは近所迷惑なほどに大きくなっていた。怒鳴り合う声を聞きつけた使用人が、慌てて志津の元へ報告に走った。しかし志津は、息子夫婦のいざこざなど端から気にする素振りも見せない。そもそも、あの二人の仲が冷え切っていることなど百も承知である。互いの利益のために夫婦の形を保っているだけで、特に早苗の金に対する執着心は並外れている。もし正人が一文無しにでもなれば、あの女は顔色一つ変えずにこの家を捨てるだろう。躊躇いなど微塵も見せずに。結婚の動機からして、しょせんは利益ありきだったのだ。正人にこれといった取り柄はなく、怠惰で責任感もない。早苗がそんな男と結婚した唯一の理由は、拝島家という強大なバックグラウンドがあったからに過ぎない。「あの二人に伝えておくれ。喧嘩をしたいなら自分の家に帰ってやりなさいって。私の家の前でギャーギャー騒いで、これ以上私の気分を害さないでちょうだい」志津は心底うんざりした様子で言い放った。毅然とした口調には、もう彼らの顔など二度と見たくないという強い拒絶が込められていた。一方、本家を後にした紫音は、すぐにこの件を律に報告することにした。志津の容態は予断を許さず、律もここ数日ずっと気が気ではない様子だったからだ。「律、今日志津様のところへ行ってきたわ」紫音は彼と向き合い、静かに口を開いた。「実は数日前にも手術の話をしたのだけど、その時は断られてしまってね。少し考える時間が必要だと思ったから、今日改めて伺って結論を聞く約束にしていたの。……でも、志津様ははっきりと
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第317話

「……おばあちゃんは、必ずそうおっしゃると思っていたよ」律は静かに目を伏せ、落ち着いた声で応じた。「実際には昔ほどリスクは高くないし、負担の少ない低侵襲の手術なんだが……それでも、おばあちゃんの体力を思えば慎重にならざるを得ないね。これからのことは、少し私に考えさせてくれないか」志津が日々どれほどの痛みに耐えているか、この目で見てきた彼としては、到底諦めきれる話ではない。高齢の身で、息も絶え絶えになりながら胸を押さえて苦しむ姿を見るのは、律にとって身を切られるような思いだった。血の繋がりはなくとも、彼にとって志津は誰よりも深く愛し、恩義を感じている唯一の家族だ。このまま弱り果てていくのを黙って見過ごせるはずがない。「志津様の件は、あなたにお任せするわ。私にできることがあれば何でも言ってね。私だって、手術を受けて良くなってほしいと心から願っているもの。でも……志津様の苦しみや不安も痛いほど分かるから、ご本人の気持ちを無下にはできないのよ。それにね、これ以上無理強いすれば、周りの親族たちを刺激して、かえって事態をややこしくするかもしれないわ」紫音は、あえて冷静な視点から彼を諭した。いくら律が願っても、正人や宏といった実子たちの同意も少なからず必要になる。これ以上対立が深まれば、関係が修復不可能になるのは目に見えていた。語るべきことは全て伝え終え、二人はそこで電話を切った。紫音は会社に戻って残りの仕事を片付けようとしたが、スマートフォンを机に置いた途端、再び着信音が鳴り響いた。画面を見ると、アシスタントの蘭からだった。「紫音さん、塚山さんが入院されたそうです。何か手術も受けられたとかで……後でお見舞いに伺いませんか?」電話越しの蘭の声は、どこか切羽詰まったように焦っていた。「手術?」紫音は思わず動きを止めた。「どうしてそれを知ってるの?どこの病院に入院しているか分かる?」「先方の会社と契約の確認をしていた時、向こうのアシスタントさんが教えてくれたんです。塚山さん、もう何日も出社せずにずっと病院にいらっしゃるとか。病院の住所をメッセージで送りますね。あとで病院の前で待ち合わせしましょう」電話口でよほど慌てている様子の蘭に、紫音は思わず苦笑した。「わかったわ。住所を送って。すぐに向かうから」ここで断れば、蘭は一人で見
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第318話

「次からは本当に気をつけてよね。それにしても……」紫音はベッドの傍らに立つ蘭をちらりと見て、ある名案を思いついた。「看病してくれる人が誰もいないなら、うちの蘭を残していくわ。今、会社のプロジェクトも順調で彼女の手も空いているのよ」これぞ絶好のチャンスだ、と紫音は内心ほくそ笑んだ。家政婦やヘルパーに頼るよりも、蘭に身の回りの世話を任せたほうがずっといい。退屈な入院生活の中で毎日顔を合わせていれば、二人の距離も自然と縮まるはずだ。紫音は、密かに二人の仲を取り持とうと画策していた。「お気遣いなく。一人にはもう慣れっこだから、大丈夫だよ。そう簡単に歩けるようになるわけじゃないしね。折れた箇所がいくつかあって、一度の手術じゃ終わらないかもしれないんだ。しばらくは入院生活が続くと思う」浩一は穏やかな口調ながらも、きっぱりと固辞した。親友である紫音が何を企んでいるのかは、お見通しだったのだろう。こんな痛々しい状況でさえ、自分と蘭をくっつけようと世話を焼く彼女に、内心苦笑していたに違いない。紫音としては、この二人の関係をどう後押しすべきか答えを出せずにいた。今の浩一に急接近したところで、すぐに上手くいくとは思えない。それでも、蘭が浩一への想いを一途に抱き続けているのを知っているからこそ、つい背中を押したくなってしまうのだ。蘭のように細やかな気配りができる女性が寄り添ってくれれば、浩一だって間違いなく幸せになれるはずだ。どこからどう見てもお似合いの二人なのに、どうして頑なに一人でいようとするのだろうか。誰かの好意を受け入れるのが、そんなに難しいことなのだろうか。――たしかに、浩一には心に決めた特別な「誰か」がいるようだった。だが、いつまで経ってもその相手と結ばれる気配がないからには、何かよほど深刻な事情があるに違いない。付き合いの長い紫音だから分かる。浩一は一度想いを定めたら絶対に揺らぐことのない男だ。ただ指をくわえて待っているようなタチではなく、何としてでも恋を実らせようと動くはずである。それなのに現状維持を貫いているということは、よほど大きな懸念や壁がある証拠だ。それならいっそ、その難しい恋は脇に置き、新しいご縁に目を向けてみてもいいのではないか。目の前にいる蘭という存在を受け入れ、互いに歩み寄るチャンスを作ってみてもいいはずなのに、と紫音は少
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第319話

紫音のやつ、どうしてこうも俺と蘭さんをくっつけようとするんだ……どう考えても俺たちは似合わないのに。浩一は複雑な思いを飲み込み、無理に口角を上げた。「よかった、それなら安心だわ」紫音はホッと胸をなで下ろした。「会社の方は落ち着いているけど、私の方は家のことでちょっとバタバタしていてね。もしかしたらお義祖母様が手術を受けるかもしれないから、正直、毎日お見舞いに来るのは難しいの。でも、蘭がいてくれるなら心強いわ。何かあったら遠慮なく電話してね。困ったことがあれば、絶対に一人で抱え込まないでよ」紫音の言葉には、友人としての純粋な思いやりが溢れていた。浩一の一刻も早い回復を願うのはもちろん、この入院生活をきっかけに、彼と蘭の距離が少しでも縮まってほしいという大きな期待が込められている。「ああ、分かった。約束しよう」浩一はきっぱりと頷いた。紫音たちを前に、妙に真面目な顔つきになってしまう彼だったが、それ以上は気の利いた言葉を紡げず、ただ不器用な表情を浮かべるしかなかった。「さて、私はこれから用事があるから、ここでお暇するわ。怪我がそれほど酷くないと分かって安心したわ。一時はどうなることかと思ったんだから」紫音は早々に切り上げる構えを見せた。長居をしては二人の邪魔になる。今は一分一秒でも多く、彼らが二人きりで過ごす時間を作るべきだ。「大げさだよ。本当に大したことないし、何か深刻な事態だったら真っ先に君に知らせてるさ。俺にとって、君は一番大切な友人なんだから」浩一の紫音を見つめる眼差しは、ひどく穏やかで優しかった。今の彼にとって、ビジネスのパートナーとしてでも彼女の傍にいられるだけで十分だった。それ以上の何かを望むつもりはない。思えば、彼ら二人が以前のように気兼ねなく飲みに出かけたり、語り合ったりする機会はずいぶん減ってしまったように思う。彼女が一度目の結婚を経験して以来、二人の間には目に見えない隔たりができてしまった。互いにその境界を踏み越えようとはしなかったのだ。何より、今の紫音には拝島律という新しい存在がいる。自分の軽率な行動のせいで、彼女の幸せな生活に水を差すような真似だけはしたくなかった。「それじゃ、お大事にね」病室を出る間際、紫音は蘭に向かって悪戯っぽくウインクをした。――『せっかくのチャンスなんだから、しっかり
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第320話

病室を後にした紫音の足取りは、心なしか軽かった。あの二人の様子なら、まったく見込みがないわけではない。これからしばらく病室という密室で長い時間を共有すれば、否が応でも関係に変化が生まれるはずだ。紫音は、蘭の恋が静かに芽吹くのを確信していた。一方、律は会社を出てその足で、志津のいる本家へと向かっていた。どうしても手術の件を諦めきれなかったのだ。このまま何もせずに諦めれば絶対に後悔する。直接腹を割って話せば、もしかしたらおばあちゃんを説得できるかもしれないと、一縷の望みを託しての訪問だった。しかし、志津の態度はやはり頑なだった。「律。お前がここへ来た理由なんて、聞かなくても分かっているよ。手術のことでしょ?でもね、紫音さんにもはっきり言ったはずだよ。私は絶対にお断りだって」志津は静かに、けれど毅然とした声で語りかけた。「……今回の手術が、私にとってどれほどのプレッシャーかお分かりかい?そして、どれほどの苦痛を伴うか。この年になってまで、そんな大きなリスクを背負いたくないんだよ。これ以上、お前たちに負担をかけるわけにはいかない」「おばあちゃん、そんな……負担だなんて誰も思ってない!」すかさず言葉を挟もうとした律を、志津は穏やかに手で制した。「分かっているよ。お前がどれだけ私のことを想ってくれているか。会社のことでも家のことでも必死に私を守ろうとしてくれて……お前のその優しさに、どれほど救われたか分からない」志津は慈愛に満ちた目で律を見つめ、少しだけ声を落とした。「でもね、この歳になると、もう全てから解放されて楽になりたいと思う瞬間があるんだよ。これ以上の苦痛と折衝には耐えられない。……たしかに昔よりリスクは低くて、回復も早い手術なのかもしれない。でもね、人の体はそれぞれだ。私の体はもう、幾度もの大病や手術を経てボロボロなんだよ。これ以上、メスを入れる気力は残っていないんだ」胸の内に秘めていた本音を、志津は一つ一つ丁寧に紡いだ。彼女の決意は固く、もうこれ以上、若い二人に自分の命のために時間と労力を費やさせる気は毛頭ないようだった。ここ最近、拝島家ではあまりにも多くの揉め事が起きすぎた。正人たちの勝手な振る舞いや醜い権力争いのせいで、律と紫音にはただでさえ大きな重荷を背負わせている。自分の治療のことで、これ以上の厄介事を増やしたくなかったのだ。
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