病院で、江戸桐乃(えど きりの)は検査結果の用紙をぼんやりと見つめている――彼女は妊娠した。なんで今……なの。プロジェクトマネージャーにようやく昇進したばかりなのに。頭の中で、二人の小さな桐乃が言い争っていた。ひとりはキャリアと未来のために叫び、もうひとりは七年も愛し合った夫――陸川舟一(りくがわ しゅういち)との家庭を必死に守ろうと訴えていた。「昨晩、俺が力入れすぎちゃったかな?」聞き慣れた声が待合室の奥から聞こえてきて、桐乃は茫然とそちらを見上げた。舟一だった。一瞬で血の気が引き、全身の血液が凍りつくような感覚が走った。白くて冷たい蛍光灯の光の中で、舟一は背筋を伸ばして立ち、腕には見知らぬ女性を抱えていた。「ううん、舟一のせいじゃないよ」女性の声はこの上ない甘くて柔らかく、頬はほんのり赤らんで、目尻の泣きぼくろが妖しくて印象的だった。「でも次は優しくしてね、痛かったんだから」――ガサッ。検査結果の用紙が、桐乃の手の中でくしゃくしゃに丸められた。昨夜、舟一は仕事が忙しく、法律事務所で徹夜だと伝えてきたのに。世界は、一瞬で音も色も失った。舟一が目を伏せ、そっと腕の中の女性を見つめるその優しい眼差しは、まるで十年前の頃のようだった。大学の桜が満開に咲き誇る中、舟一は桐乃の手をぎゅっと握りしめ、澄んだ声で誓った。「桐乃、俺たちが結婚したら、しっかり稼いで、子どもを産んで、犬と猫も飼おう。みんなで、ずっと一緒にいよう」ピンクの花びらがひらひらと舞い落ち、桐乃の視界をかき乱した。怒りが一瞬で頂点に達した。彼女は飛びかかって舟一を平手打ちしたい。大声で問い詰めたかった。けれど、両足はとっても重く、一歩も前に進めなかった。桐乃は苦しそうに目を閉じ、二筋の涙が落ちた。再び目を開けた時、視界は涙でかすんでいたが、瞳だけはただ澄み切っていた。彼女は振り向き、足を進めて婦人科の受付カウンターへと向かった。「人工妊娠中絶手術の予約で、よろしいですね?」医師の声は事務的で、淡々としている。「……はい」桐乃の声はかすれていたが、そこに迷いは一片もなかった。同意書への署名、術前検査、手術の日取り決め――すべての手続きを、彼女は素早くこなした。まるで日常の業務書類を処理しているかのように。診察室を出ると、午後
続きを読む