嵐の後でも、愛を信じる のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

19 チャプター

第1話

病院で、江戸桐乃(えど きりの)は検査結果の用紙をぼんやりと見つめている――彼女は妊娠した。なんで今……なの。プロジェクトマネージャーにようやく昇進したばかりなのに。頭の中で、二人の小さな桐乃が言い争っていた。ひとりはキャリアと未来のために叫び、もうひとりは七年も愛し合った夫――陸川舟一(りくがわ しゅういち)との家庭を必死に守ろうと訴えていた。「昨晩、俺が力入れすぎちゃったかな?」聞き慣れた声が待合室の奥から聞こえてきて、桐乃は茫然とそちらを見上げた。舟一だった。一瞬で血の気が引き、全身の血液が凍りつくような感覚が走った。白くて冷たい蛍光灯の光の中で、舟一は背筋を伸ばして立ち、腕には見知らぬ女性を抱えていた。「ううん、舟一のせいじゃないよ」女性の声はこの上ない甘くて柔らかく、頬はほんのり赤らんで、目尻の泣きぼくろが妖しくて印象的だった。「でも次は優しくしてね、痛かったんだから」――ガサッ。検査結果の用紙が、桐乃の手の中でくしゃくしゃに丸められた。昨夜、舟一は仕事が忙しく、法律事務所で徹夜だと伝えてきたのに。世界は、一瞬で音も色も失った。舟一が目を伏せ、そっと腕の中の女性を見つめるその優しい眼差しは、まるで十年前の頃のようだった。大学の桜が満開に咲き誇る中、舟一は桐乃の手をぎゅっと握りしめ、澄んだ声で誓った。「桐乃、俺たちが結婚したら、しっかり稼いで、子どもを産んで、犬と猫も飼おう。みんなで、ずっと一緒にいよう」ピンクの花びらがひらひらと舞い落ち、桐乃の視界をかき乱した。怒りが一瞬で頂点に達した。彼女は飛びかかって舟一を平手打ちしたい。大声で問い詰めたかった。けれど、両足はとっても重く、一歩も前に進めなかった。桐乃は苦しそうに目を閉じ、二筋の涙が落ちた。再び目を開けた時、視界は涙でかすんでいたが、瞳だけはただ澄み切っていた。彼女は振り向き、足を進めて婦人科の受付カウンターへと向かった。「人工妊娠中絶手術の予約で、よろしいですね?」医師の声は事務的で、淡々としている。「……はい」桐乃の声はかすれていたが、そこに迷いは一片もなかった。同意書への署名、術前検査、手術の日取り決め――すべての手続きを、彼女は素早くこなした。まるで日常の業務書類を処理しているかのように。診察室を出ると、午後
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第2話

翌朝早く、桐乃は一人で冷たいベッドで目を覚ました。素早く身支度を整え、仕事用のスーツに着替え、出張用のスーツケースに荷物を詰め込み始めた。視線がベッドサイドを掠めた時、大きく飾られた結婚写真が彼女の目に突き刺さった。半年前、写真の中で二人は幸福そうに寄り添っていた。彼女は無表情で写真フレームを取り外し、スーツケースを引きながら寝室を出て、リビングを通り過ぎた。朝日が掃き出し窓から差し込み、二人が少しずつ築き上げてきたこの家をやわらかく照らしていた。高級な本革ソファは、彼女の昇進祝いに彼が贈ったものだ。壁に掛かった抽象絵画は、週末を一緒に画廊巡りして、やっと見つけた一枚。バルコニーの観葉植物は、彼が出張先でわざわざ買い、「空気をきれいにするんだ」と嬉しそうに運んできたものだった……十年間の思い出、そして五年間の共働き。二人は数えきれないほどの残業の夜を、互いに励まし支え合いながら乗り越えて、ようやくこの街に根を張った。ここにあるもの一つひとつのすべてが、かつては輝く未来への憧れで満ちていた。しかしこれら温かいはずの思い出が、今や無数の細い針となって、彼女の心臓を執拗に刺している。桐乃は玄関を出ると、結婚写真をゴミ箱に静かに投げ捨てた。そしてタクシーを拾い、空港へと向かった。プロジェクトの成功報酬は、あの空虚な約束や、たった一人で演じ続けた皮肉な恋愛劇よりも、よほど確かだ。幸いなことに、彼女は自分のキャリアを手放したことはなかった。たかだか「愛」のために、自分の人生そのものを捨てるような真似もしなかった。飛行機が海野市に着陸すると、桐乃はチームを率いて直取引先へと向かった。藤原キャピタルの会議室で、社長執行役員の藤原賢政(ふじわら けんせい)が上座にもたれかかっていた。ダークグレーのスーツが、彼の研ぎ澄まされた落ち着きを一層際立たせている。桐乃のプレゼンテーションが終わると、賢政は手にしていたファイルをそっと閉じた。「江戸マネージャーの全体像の把握は非常に明確だ」彼の声は低く穏やかだった。「しかし、現在の市場は厳しく二極化している。業界平均値をもって主要評価の根拠とするのは、説得力に欠けるのではないでしょうか」桐乃は胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じたが、表情は崩さず、アシスタントに画面を切
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第3話

スーツケースを引きながら主寝室に入って、桐乃はドアに鍵をかけた。分厚い木製のドアが、二人の世界を完全に遮断する音を立てた。リビングでは、舟一がゆっくりとソファに戻り、煙草に火をつけた。煙がもうもうと立ち込める中、彼の目には複雑で暗い感情が渦巻いていた。……翌日の午後、会社のオフィスはひんやりとしていた。重役会議室の空気は、鉛のように重かった。藤原キャピタルの一部機密顧客情報および初期交渉記録を含む文書が、藤原キャピタルの直接的な競合相手である赤日キャピタルに流出していた。プロジェクトの直接責任者である桐乃に、決定的な証拠はなかったが、責任を免れることは不可能だった。「江戸マネージャー、藤原キャピタル側は非常に強い不快感を示しており、速やかな説明と再発防止策を求めている」社長の表情は厳しい。「事態が完全に解明されるまで、あなたはすべての業務を一時停止し、社内外の調査に全面的に協力すること。あなたが現在担当している全てのプロジェクト、特に藤原キャピタル関連案件は、すべて一時的に移管する」停職調査の通知は、冷たく、唐突だった。会社からの正式文書を受け取った後、桐乃の社内システムへのアクセス権は即座に凍結された。彼女は数秒間沈黙した。そして、バッグとスマホだけを持ち、舟一の法律事務所へと直行した。フロントの制止を振り切り、彼女は舟一の個人オフィスのドアを押し開けた。舟一は窓辺に立ち、背中は重たげに見えた。「……あなたがやったんですね」ドアを閉め、桐乃の声は氷のように冷たかった。舟一はゆっくりと振り返った。顔にはあまり驚きはなく、ただ平静さだけが広がっていた。「藤原の資料を赤日に流したのは、あなたでしょう?」桐乃は両手をデスクに突き、その目つきは研ぎ澄まされた刃のようだった。「動機も、能力も、アクセス権限も持っているのはあなただけ。陸川さん、その程度の手口ですか?」舟一は彼女を見つめ、ゆっくりと煙を吐いた。「手口はどうでもいい。結果が全てだ。桐乃、俺は選択肢を与えた。君が自分で訴えを取り下げようとしなかったからだ」「あなたは愛人のために、私のキャリアを潰す気?」桐乃の胸は激しく上下したが、声はぎりぎりで平静を保とうとしていた。舟一の目に、一瞬、苦痛のような色が走った。「あの子は
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第4話

海野市、藤原キャピタル本社ビル。桐乃は社長執行役員室の前で、軽くガラス戸をノックした。「どうぞ」深く息を吸い込み、彼女はドアを押して中へ入った。賢政の視線はモニター画面に注がれたままで、その冷たい瞳の奥に、液晶の白い光が微かに反射していた。「座って」声は低く、彼女の正面の椅子を指さした。桐乃は、詳細な対応策を記したファイルを彼の前に差し出した。賢政の視線がゆっくりと彼女の顔に移る。「江戸マネージャー。停職調査から五日で蘇我市から海野市へ、新たな案を携えてこの椅子に座るまで。君は効率的だし、何より度胸がある」桐乃はその視線を真っ直ぐに受け止めた。「自分を信頼する人を待たせるわけがないですから。今回の情報流出は、私の夫、陸川舟一による個人的な犯罪行為です。証拠は確かで、警察も既に動いています。このことに対する私の管理責任は、一切回避しません。しかし、だからこそ私は、セキュリティ上の弱点がどこにあるかを誰よりも痛感し、藤原キャピタルにより強固な『防火壁』を構築するための、最も強い動機を持っていると確信しています」賢政は無言でファイルを開き、ページをめくっていった。十分ほど経っただろうか、彼はファイルを閉じ、背もたれに深く体を預けた。「損害額の推定は3%という結論の根拠は?」桐乃は即座にタブレットを手に取り、3Dの動的モデルを起動して見せた。「流出した接触記録の内訳は、主に業界の公開情報、御社の基本的な調査フレームワーク、非中核的な初期接触のタイムラインであり……」賢政の表情は読み取りづらい。「情報を流したのは、君の夫か」「はい」賢政の指先が、一度、デスクを軽く叩いた。「この件が片付いた後、君は今の会社にいられると思うか?」桐乃は率直に答えた。「全力を尽くして、結果で証明するつもりです」「個人的な問題はきちんと片付けてください」賢政は名刺入れから、真っ黒な私的名刺を一枚取り出し、デスクの端に押しやった。「藤原キャピタルには、君の能力をより活かせるポジションがある」「藤原社長、ありがとうございます」彼女は両手で名刺を受け取った。「半月で、問題を解決して返答をください」そう言うと、賢政の視線は既に次の書類に戻っていた。……桐乃がビルを出たその時、スマホが震えた。舟一からの着信だ。
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第5話

車は、慣れたマンションの地下駐車場に静かに滑り込んだ。舟一は車を降り、助手席に回ると、桐乃の抵抗や蹴りを無視して、再び彼女を抱き上げた。上昇するエレベーターの中で、彼は一言も発しなかった。自宅の玄関ドアを開けると、彼はまっすぐ寝室へと進み、動作は決して優しいとは言えず、彼女をベッドに寝かせた。「陸川、頭がおかしいんじゃないの!?」桐乃は体を起こし、目に怒りの炎を燃やして彼を睨みつけた。舟一はベッドの脇に立ち、胸がわずかに上下していた。声は低く、かすれていた。「桐乃……君が俺を恨んでるのは分かってる。子供は……またこれからできる。今は手術をしたばかりだから、まずはしっかり休養しなきゃいけない。他のことは……体が良くなってから話し合おう、いいか?」彼は彼女の頬に触れようと手を伸ばした。その指先には、かすかな震えがあった。桐乃は咄嗟に顔を背け、目には露骨な嫌悪が浮かんだ。「触らないで!」その時、寝室のドアが勢いよく開かれた。姑がスープ椀を持って入り口に立っていた。顔色は青白く、歪んでいた。「堕ろしただと?江戸桐乃、あの子は私の孫だったんだよ!なんでそんな残酷なことができるの!」その甲高い声は、ほとんど鼓膜を引き裂くようだった。「母さん!」舟一が即座に立ち上がり、振り返って桐乃の前に立ちふさがった。「まず出ていってください。桐乃は今、静養が必要なんです。静かな環境が……」ドアが再び閉められ、部屋は沈黙に包まれた。しかし、空気は以前にも増して重く、よどんでいた。舟一が桐乃を見つめる目には、苦痛が渦巻いていた。「この数日は……家でゆっくり休んでくれ。外には出ないでほしい」「これは不法監禁よ」桐乃の声は冷たく、一言一句、区切るように言い放った。「それに、営業秘密漏洩、脅迫、名誉毀損……陸川先生、自分で数えてみなさい。これらの罪で何年の懲役か。あなたの弁護士としてのキャリアは、もうおしまいよ?」舟一は顔を背け、声を低くして言った。「……それなら、君も出られるか、訴えられるかどうかだ、やってみればいい」カチッ。軽い金属音とともに、ドアは外側からロックされた。桐乃はベッドに座ったまま、部屋に残されたのは、彼女自身の呼吸音だけだった。……リビングから、かすかな口論の声が聞こえてくる。「本当に彼
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第6話

どれほどの時間が流れただろうか。ゲストルームの物音はようやく次第に低くなっていった。舟一の重々しい足音がリビングへと遠ざかり、姑も自分の部屋に戻ったようだ。夜深く、壁時計の秒針が刻む音だけが、静寂の中に鋭く響いている。ふと――寝室のドアが、微かに押し開けられ、そして、そっと閉められた。暗闇の中、細身の人影が入り口に立っていた。その息遣いには、かすかな震えが混じっている。「……江戸さん」心の声は、かすれていた。桐乃はゆっくりと目を開けた。「何の用?」心は二歩、前に進み出た。カーテンの隙間から差し込む月明かりが、彼女の顔をかすかに照らし、目元が赤くなっているのが見て取れた。「あなたが……ここから出るのを、手伝います」桐乃の瞳が、わずかに動いた。理解しきれない、という色だった。心は下唇を噛んだ。声はさらに低く、震えていた。「挑発に来たわけじゃありません。冷やかしに来たのでもありません。舟一がさっき言ったこと……あなたも聞きましたよね。私も、全部聞きました」彼女の声には、抑えきれない震えと、にじみ出る苦みがあった。慌てて手で目尻を拭う。「江戸さん……私の父はギャンブル狂いで借金を膨らませ、蒸発しました。母は半狂乱になり、妹は学校に行かなきゃいけません。私には学歴も後ろ盾もなくて……この顔と、まだ若い体以外、何も持ってないんです」桐乃は依然として黙ったまま、ただ彼女を見つめ続けている。心は自嘲気味に、かすかに笑った。「16の時から、夜の世界に身を置いてきました。風に吹かれる草のように生きてきて……ただ、ひとつだけ欲しかったものがあります。『家』が。だから……あなたがここを出るのを、手伝います」「条件は?」桐乃の問いは、簡潔だった。心は鼻をすすり、声が詰まった。「一つ目、私に対する不当利得返還請求訴訟……取り下げてほしいです。あの金のほとんどは、家の借金の穴埋めに消えました。残りももうほとんどありません。本当に、返せません。あなたがここを出た後、舟一のほとんどの財産はあなたのものになるでしょうから……私、また借金地獄に逆戻りしたくありません」心の目に、切実な願いが宿った。「二つ目は、あなたがここを出た後は……二度と、舟一に連絡しないでほしいです。彼が今でもあなたに罪悪感を持っているのは分かってます。
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第7話

朝の光がやや斜めに差し込み、舟一の横顔をまぶしく照らしていた。彼は眉間を揉んだ。昨夜の混乱からくる倦怠感と、その奥に潜むかすかな不安を、無理やり押し込めようとしていた。午前九時、公判前整理手続きは時間通りに始まった。依頼人は中堅の実業家で、多額の契約紛争に頭を抱えていた。舟一は代理人席に座り、目の前には分厚い書類が山積みになっている。手にはペンを握りしめ、視線は書類に向けられていたが、その文字は一つも脳裏に入ってこなかった。依頼人の声は遠く近く、まるで厚いガラスの向こうから聞こえるかのように、ぼんやりとした雑音にしか感じられない。舟一はまるで部外者のように、魂が肉体から抜け出て、空中に浮かび、自分とは無関係のこの芝居を、冷たく俯瞰しているかのようだった。頭の中では、昨夜の光景が、何度も繰り返される。桐乃の、氷で覆われたような、底冷えする嫌悪に満ちた目。彼女が冷笑を浮かべて「最低の男」と吐き捨てた口元の輪郭。ゲストルームから漏れ聞こえる、心の、壊れそうな抑えた泣き声。そして今朝、出かける際、固く閉ざされた主寝室のドア。中から聞こえた、かすかな物音――きっと、桐乃が寝返りを打った音だろう。「陸川先生?」依頼人の声が、少し強く呼びかけてきた。舟一ははっと我に返り、素早く表情を整えた。「申し訳ありません。少し……細部を考え込んでしまって。鈴木社長、続けてください。第三証拠の関連性について、ですね」彼は思考を事件に引き戻そうとした。しかし、注意力はどうしても一点にまとまらない。……会議の途中、十分間の休憩が入った。舟一は廊下の突き当りまで歩き、タバコの箱を取り出して一本に火をつけた。ニコチンが、こめかみのひきつるような痛みをわずかに和らげる。だが、胸の奥から湧き上がってくる、理由のない焦燥感と空虚感は、逆にはっきりと増幅していく。「舟一くん」落ち着いた声が背後から響いた。舟一は素早くタバコを消し、振り返った。そこには、法律事務所のシニアパートナーであり、彼をこの世界に導いた師匠、近藤明夫(こんどう あきお)が立っていた。明夫は、舟一のやや青白い顔と、目元に滲む血の気を見て、わずかに眉をひそめた。「さっきの会議で、君は三度、上の空だった」明夫の声は高くないが、非常に厳しかった。「依頼人が
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第8話

新幹線が海野市に到着したのは、ちょうど午後だった。桐乃はスーツケースを引き、駅前で手早くビジネスホテルを見つけ、チェックインを済ませた。部屋は清潔で機能的な造り、窓からは視界が開け、遠くに林立する高層ビルが眺められる。彼女はスマホでさっそく藤原キャピタル周辺の賃貸物件を検索し、条件に合うものを数件ピックアップし、翌日午後の内見をすべて予約した。その後、ノートパソコンを開き、ホテルのVPNに接続して、藤原キャピタルの公開資料と最近の業界動向を、隅から隅まで読み込んでいった。夕方、彼女は最寄りのショッピングモールへ出向き、最短時間で藤原キャピタルのドレスコードに合わせたビジネススーツ数着、必要最低限のスキンケア用品、シンプルな日用品を購入した。宝石店の前を通りかかった時、彼女の足は一瞬も止まらなかった。ただ、視線だけが静かに、あの煌びやかに輝くショーケースを一瞥した。無意識に、自分の体の横に垂れた左手を見下ろす。薬指に、冷たいプラチナの輪が、小さな一粒のダイヤモンドをしっかりと抱えている。そして、モールの蛍光灯の下、それは冷たく、刺すような光を鋭く反射している。これは半年前、親族や友人たちの祝福に囲まれ、舟一が少し目を赤くして、震える指で彼女にはめてくれた指輪だ。かつて彼は言った――これは永遠の印であり、二人の十年に及ぶ思いが結実した証だと。指輪は今も変わらず輝いている。だが、かつてそれが載せていた全ての誓い、期待、そして彼女が大切に守ってきた温かな瞬間の数々は、裏切りとあの数日間の監禁の中で、すでに腐敗し、変質していた。桐乃は足を止め、指輪を静かに外し、宝石店の入り口脇に設置されたゴミ箱へ、そっと投げ入れた。……月曜日の朝、桐乃は三十分早く藤原キャピタル本社ビルの前に到着した。見上げれば、ガラス張りのカーテンウォールが朝日に照らされ、冷たい光を反射しながら、雲を衝くように聳え立っている。彼女は深く息を吸い込むと、背筋を伸ばし、回転ドアの中へと足を踏み入れた。涼しいエアコンの風が顔を撫でる。それは、この街が持つ、効率的で冷徹なリズムそのものだった。フロントで身分確認を済ませ、仮の入館カードを受け取ると、人事部へと案内された。労働契約書への署名、個人情報の登録、社員証とオフィス備品の受け取り……「
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第9話

蘇我市留置場、取調室。白くて冷たい光が頭上からまっすぐに降り注ぎ、舟一は統一された囚人服を着て、椅子に座っていた。手錠の金属の冷たさが、薄い生地を通して手首に鋭く食い込んでくる。彼はうつむき、目はひどく充血し、顎には無精ひげが青々と生えていた。向かいに座る二人の刑事の表情は硬かった。「陸川舟一。藤原キャピタルの営業秘密を不正に取得し、漏洩させた件についてだが、証拠は揃っている」一人の刑事が、一枚ずつ資料を机の上に並べていく。「これは江戸桐乃さんのパソコンから復元した操作ログだ。あなたが彼女のアカウントで関連ファイルにアクセスし、コピーした記録がここにある。これはファイル転送経路の追跡記録。こちらは、藤原キャピタルが作成した被害見積もり報告書だ。何か言うことはあるか?」舟一の喉仏が、ごくりと激しく上下した。声はかすれていた。「……違います。それは誤解です。妻の仕事のファイルを……私が代わりに確認していただけです」刑事の声が、一気に鋭く、重くなった。「技術的手段で彼女のアクセス権限を迂回し、深夜にコア顧客情報をコピーした。さらに暗号化されたチャネルを通じて、藤原キャピタルの直接の競合相手である赤日キャピタルに送信した。これも、『代わりに確認していただけ』なのか?」さらに別の証拠が差し出された。経済犯罪捜査班が入手した通信とネットワーク記録だ。匿名メールアドレスとIPアドレスが指し示す先は、最終的に、彼が海外のプロキシサーバーを経由してアクセスしていた痕跡にたどり着いていた。舟一の顔は、さっと血の気が引いたように青ざめた。「自白は情状酌量の材料になる。抵抗は状況を悪化させるだけだ。犯行の動機、経緯、赤日キャピタルとの関係を、ありのままに話せ」刑事の声には、一切の感情がなかった。長い、重苦しい沈黙が流れた。やがて、舟一の肩が、力を失ったように崩れ落ちた。彼の声は、魂が抜けたようだった。――桐乃が心を訴え、頑なに離婚を要求したことへの逆上と怒り。彼女のキャリアを潰すことで屈服させ、家庭に縛りつけようとした企て。家庭内の隙を突いて資料を盗み出した手口。そして、隠されたルートで赤日キャピタル側の仲介者と接触を取った経緯。一言一句が、かつてのエリート弁護士としての自らのプライドを、自らの手で、残酷に剥ぎ
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第10話

半月後、大洋グループのPre-IPO案件は重要な現地デューデリジェンス段階に入った。賢政が自ら陣頭指揮を執り、桐乃を含むコアプロジェクトメンバーは港元市へと飛んだ。夜、ホテルの屋上テラス。夕風が港に浮かぶぼんやりとしたネオンの光を巻き上げ、川面で揺らめかせていた。桐乃は手すりにもたれ、頬を撫でる風に、古い日々から引きずっていた最後の疲労を吹き飛ばされていくのを任せていた。ポケットの中で、スマホが震えた。佐々木弁護士からのメッセージだ。写真が添付されている。【江戸さん、離婚届受理証明書はご指定の住所へ送付完了いたしました】写真は離婚届受理証明書で、桐乃と舟一が記されていた。桐乃は数秒間、画面を見つめた。指先が、かすかに冷たくなっていくのを感じながら、返信を打った。【受領いたしました。ご対応、ありがとうございます】画面が暗くなると、彼女はスマホをポケットに戻し、再び遠くの、煌めくがどこか冷たい光の海を見つめた。「風が強いぞ」低く、落ち着いた男の声が、すぐ近くで響いた。桐乃が軽く振り返ると、いつの間にか、賢政がテラスに立っていた。彼はスーツの上着を脱ぎ、上質なダークグレーのシャツ一枚。袖を肘までたくし上げ、手にはウイスキーのグラスを軽く持っている。夜色と街灯の灯りの中、その姿はやや荒々しく、またどこか飄々と見えた。「社長」桐乃は礼儀正しく会釈した。賢政は彼女を見ず、相変わらず遠くの海面を見つめている。「大洋社の須藤大洋(すとう たいよう)は、細部で圧力をかけるのが好きな男だ。明日、彼が提供する非公開データの扱いには、細心の注意を払え」「承知しました。一つ一つ、厳格に確認いたします」夜風が吹き抜け、より深い涼しさを運んでくる。彼女の頬の髪を揺らし、彼のシャツの裾も微かに靡かせた。眼下には賑わい続ける港元市、遠くには音もなく流れる川、頭上には藍色がかった墨色の夜空が広がっている。しばらくして、賢政はグラスに残ったウイスキーを一気に飲み干した。「明日朝、七時半。ロビーで」「はい、社長」……翌日午前、大洋グループ本社会議室。創業者兼最高経営責任者の須藤大洋自らが対応に当たった。技術チームのプレゼンテーション、工場の視察、財務データの勘定照合……流れは粛々と進んでいく。
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