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第3話

作者: 浅夜
スーツケースを引きながら主寝室に入って、桐乃はドアに鍵をかけた。

分厚い木製のドアが、二人の世界を完全に遮断する音を立てた。

リビングでは、舟一がゆっくりとソファに戻り、煙草に火をつけた。煙がもうもうと立ち込める中、彼の目には複雑で暗い感情が渦巻いていた。

……

翌日の午後、会社のオフィスはひんやりとしていた。

重役会議室の空気は、鉛のように重かった。

藤原キャピタルの一部機密顧客情報および初期交渉記録を含む文書が、藤原キャピタルの直接的な競合相手である赤日キャピタルに流出していた。

プロジェクトの直接責任者である桐乃に、決定的な証拠はなかったが、責任を免れることは不可能だった。

「江戸マネージャー、藤原キャピタル側は非常に強い不快感を示しており、速やかな説明と再発防止策を求めている」

社長の表情は厳しい。

「事態が完全に解明されるまで、あなたはすべての業務を一時停止し、社内外の調査に全面的に協力すること。

あなたが現在担当している全てのプロジェクト、特に藤原キャピタル関連案件は、すべて一時的に移管する」

停職調査の通知は、冷たく、唐突だった。

会社からの正式文書を受け取った後、桐乃の社内システムへのアクセス権は即座に凍結された。

彼女は数秒間沈黙した。そして、バッグとスマホだけを持ち、舟一の法律事務所へと直行した。

フロントの制止を振り切り、彼女は舟一の個人オフィスのドアを押し開けた。

舟一は窓辺に立ち、背中は重たげに見えた。

「……あなたがやったんですね」ドアを閉め、桐乃の声は氷のように冷たかった。

舟一はゆっくりと振り返った。顔にはあまり驚きはなく、ただ平静さだけが広がっていた。

「藤原の資料を赤日に流したのは、あなたでしょう?」

桐乃は両手をデスクに突き、その目つきは研ぎ澄まされた刃のようだった。

「動機も、能力も、アクセス権限も持っているのはあなただけ。陸川さん、その程度の手口ですか?」

舟一は彼女を見つめ、ゆっくりと煙を吐いた。

「手口はどうでもいい。結果が全てだ。桐乃、俺は選択肢を与えた。君が自分で訴えを取り下げようとしなかったからだ」

「あなたは愛人のために、私のキャリアを潰す気?」桐乃の胸は激しく上下したが、声はぎりぎりで平静を保とうとしていた。

舟一の目に、一瞬、苦痛のような色が走った。「あの子は……君とは違うんだ。父親は借金まみれのギャンブル狂いで、自分の妻と二人の娘を『売り飛ばそう』とした。心の母親はDVで精神的に不安定だ。

それに高校にかよっている妹がいて、学費も生活費も全部彼女が支えている。彼女はまだ二十三だ。崩れた家族を一人で背負っていて、彼女には選択肢がなかったんだ」

彼の口調は、説得するように柔らかくなった。「桐乃、訴えを取り下げてくれ。会社の件はきれいに収めてやる。体裁よく退職させ、相応の補償も取らせる。これからは、家でのんびりしていればいい。女は、結局は家庭に戻るものなんだから。今みたいに、毎日外で牙を剥いて戦う必要はない」

「寝言は寝て言いない!」桐乃は嗤いた。

舟一は前に出て、両手をデスクの縁に置いた。「桐乃、あの資料がどうやって赤日に渡ったか。一度できた方法は、二度も三度も使える。次は、今の仕事どころか、業界そのもので生きていけなくなるかもしれないぞ」

桐乃は彼を見上げた。その目は、まるで正気を失った見知らぬ人を見るようだった。

「どうぞ、ご自由に」

彼女はオフィスのドアを開け、振り返ることなく去っていった。

エレベーターホールで、心が桐乃を見つけると、小走りに近づいてきた。声は甘く柔らかかった。「江戸さん……どうか、舟一をこれ以上責めないでください。彼は全部私のせいで……」

桐乃は冷たい一瞥を投げかけ、下りのボタンを押した。

心は諦めず、声を潜めて続けた。「感情は無理強いできないものです。江戸さんはお金もいい仕事もあるんですから、三人とも苦しませる必要ないじゃありませんか?早く手放した方が、みんなハッピーになれると思いますよ」

桐乃はゆっくりと横を向き、書類カバンから一通の書類を取り出して差し出した。

「竹田さん、そこまで彼を思いやるのなら、これを渡してくれません?彼に伝えてほしいです。これが私の最後の条件って。

これにサインすれば、私はすぐにこの街から消えます。二度と彼にまとわりつきません」

心は「離婚協議書」の文字を見て、目がかすかに輝いた。

桐乃は口元を歪めて笑った。「竹田さん。アシスタントより、彼の妻になりたいんでしょう?今、その機会が目の前にあるけど、どうします?」

心は協議書をぎゅっと握りしめ、速足で舟一のオフィスに入った。

五分と経たないうちに、彼女は戻ってきた。隠し切れない、ほぼ勝利に近い安堵の笑みを浮かべ、署名済みの離婚協議書を桐乃に手渡した。

「江戸さん、ほら。舟一がサインしてくれましたわ。約束は守ってくださいね」

丁度その時、エレベーターが「チーン」と音を立てて到着した。

桐乃の口調は相変わらず読み取りにくく、視線は心の名札に一瞬留まった。「効率がいいですね。さすが、陸川さんの信頼が厚いと見えましたわ」

……

キャビンが下降し、かすかな無重力感が体を包む。

桐乃はコートの内ポケットからスマホを取り出し、画面に表示された「録音中」のマークをタップして停止させた。

街角のカフェに入り、予備のスマホで自宅の防犯カメラシステムに遠隔接続した。

画面には、昨夜彼女が寝室のドアに鍵をかけた直後、舟一が書斎に入り、彼女のノートパソコンを約三十分間操作する様子がはっきりと記録されていた。

ノートパソコンのイベントログを開けば、その時間帯に顧客情報ファイル群がコピーされていた痕跡も明らかだ。

彼女は防犯カメラの映像、パソコンの操作ログ、先程の録音ファイル、そして離婚協議書の写しを全て弁護士に送信した。「営業秘密侵害罪」として、法的措置を依頼した。

全てを終えると、彼女は海野市行きの最も早い新幹線のチケットを購入した。

窓の外の景色が流れていく中、彼女はノートパソコンを開き、会社と藤原キャピタルに向けた、詳細な経緯説明と再発防止策の草案を作成し始めた。
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