復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました のすべてのチャプター: チャプター 261 - チャプター 270

329 チャプター

第261話 過保護な同棲生活④

 あっ、と思った瞬間には、身体の重心が前のめりに崩れていた。 視界がわずかに斜めに傾く。 転ぶほどの勢いではない。「おっと」と片足を踏み出せば、すぐに体勢は立て直せる。日常の中で誰しもが経験する、ささいな躓きだ。 次の瞬間、床に足をつこうとした私の耳に、空気を切り裂くような鋭い音が飛び込んできた。「朱里ッ!!」 鼓膜を震わせるほどの、切羽詰まった大声。 ドンッ、と革靴が床を蹴る激しい音がしたかと思うと、猛烈な勢いで風が巻き起こり、私の視界から床の景色が消えた。 倒れかけるよりも早く、湊が信じられないほどのスピードで距離を詰め、私の身体をガッチリと抱き留めたのだ。 彼の硬い胸板に強く打ち付けられ、鼻の奥にシトラスの香りが入り込んでくる。「大丈夫か!? どこか打ってないか!? 足首は!? 捻ったんじゃないか!?」 湊の声は、普段の冷静沈着なトーンからは想像もつかないほど上ずっていた。 彼の腕が、私の身体をきつく、息が詰まるほど強く締め付けている。その腕越しに、ドッドッドッという、早鐘のような彼の心音がダイレクトに伝わってきた。「い、痛くない……ちょっと、苦しい……湊、離して……」「動かないで! 万が一、見えないところで打撲でもしていたら大変だ。すぐに休ませないと――」「だから! 大げさだってば!!」 私は彼の手の中で身をよじり、すぐ横のガラステーブルの上に置かれていた、ペーパーバックの薄い資料ファイルを咄嗟に掴み取った。 そして、手首のスナップを利かせて。 パシィッ! 乾いた音が、静まり返ったオフィスに響き渡った。 私は、丸めたファイルで湊の頭――完璧にセットされた、黒髪のあたり――を、思いきり叩いていた。 静寂。 天井の空調が微かに稼働する音だけが、耳の奥でチリチリと鳴っている。 叩かれた湊は、目を見開いたまま完全に動きを止めていた。 私も、自分が放った一撃の事実に遅れて気づき、ファイルを握りしめたまま呼
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第262話 過保護な同棲生活⑤

 ぽつりと、掠れた声がこぼれ落ちる。 そこには微かな笑みさえ混じっていた。「え……? 怒ってないの?」 私が慌てて彼の頭に手を伸ばそうとすると、湊はゆっくりと首を横に振り、私を抱きしめる腕の力をふっと緩めた。「怒るわけがないだろう。……君が元気だということが、何よりの証拠になった」 湊は深くため息をつくと、私の肩口にそっと額を押し当てた。 ブラウスの生地越しに伝わってくる彼の吐息は、熱く、そしてひどく不規則だった。「ごめん。僕が過剰になっているのは、自分でもわかってる。理屈じゃないんだ。君が傷つくかもしれないという可能性を想像しただけで、呼吸の仕方を忘れるくらい、恐ろしくなる」 私の首筋にすり寄せられる彼の髪が、微かにくすぐったい。 さっきまでの冷徹なCEOの顔はどこにもない。そこにあるのは、ただ一人の女性を大切に想うがゆえに、臆病になってしまった不器用な男の姿だった。「……バカ」 私は小さく呟きながら、ため息を一つ吐き出した。 そして、握りしめていたファイルをガラステーブルにそっと戻すと、私の肩にすがりつく彼の背中に、両腕を回した。 スーツの背中の生地は滑らかで、その下にある筋肉の硬さと、確かな熱が手のひらに伝わってくる。「私はここにいるよ。転んでないし、怪我もしてない。どこにもいかないから」 私が子供をあやすように、ゆっくりと彼の背中を一定のリズムでトントンと叩くと、湊の口から、深く、長い安堵の吐息が漏れた。「朱里……」 彼の手が私の背中に回り、今度はパニックではなく、ただの純粋な愛着を確かめるような、甘く重い力で抱きしめ返される。 私の身体が、彼という存在の熱にすっぽりと包み込まれる。 シトラスの香りに、ほんの少しだけ混じる彼の匂い。耳のすぐ横で聞こえる、規則的を取り戻し始めた落ち着いた心音。 平和な日々。 確かに嵐は過ぎ去った。しかし、この過保護で重すぎるCEOとの日常は、ある意味で嵐の中心より
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第263話 志保との“真の”和解(前編)①

 夜の帳が完全に下りた、ペントハウスの広大なリビング。 天井のメインライトは落とされ、部屋の四隅に配置された間接照明のオレンジ色の光だけが、磨き上げられた大理石の床に柔らかな影を落としている。 壁一面に広がる分厚い防音ガラスの向こうには、東京の夜景が無数の光の粒となって、果てしなく煌めいていた。 静寂。 いや、完全な無音ではない。部屋の隅で高性能な空気清浄機が微かに稼働する音と、そして、向かいのソファに深く腰掛けた湊が、分厚い洋書のページを一枚、また一枚とゆっくり捲る微かな摩擦音が、一定のリズムで空間に溶け込んでいる。 私は、両手で包み込んだ陶器のマグカップの温もりを手のひらで感じながら、その規則正しい音をじっと聞いていた。 湊が淹れてくれた、ノンカフェインのミルクティー。 アールグレイの茶葉の香りに、ほんのりとハチミツの甘い匂いが混じっている。カップの縁から立ち上る白い湯気が、間接照明の光を乱反射しながら空中に消えていく。 平和で、穏やかな夜だった。 つい先日までの、一族全体を巻き込んだ嵐のような日々が、まるで遠い昔の出来事だったかのように思える。 剛造さんとの長きにわたる因縁――次期当主の座を巡る血で血を洗うような権力闘争と、彼が企てたクーデター未遂――に、ようやく明確な決着がついた。湊の肩に幼い頃から重くのしかかっていた見えない枷は、確かに外れたように見えた。 彼とこうして、ただ向かい合って温かい飲み物を口にする。 そんなありふれた日常が、ひどく尊いものに感じられる。 しかし。 私の膝の上には、この静寂を根底から打ち破るかもしれない、ひとつの「爆弾」が乗せられていた。 色褪せた、布張りの古いスクラップブックと、小さな革表紙の日記帳。 本邸での騒動が収束した後、私が志保さんの私室からこっそりと――いや、彼女の無言の許可を得て――持ち出してきたものだ。 指先で、スクラップブックの少しざらついた布の表紙を撫でる。 心拍数が、少しずつ上がっていくのが自分でもわかった。 この穏やかな時間を壊したくないという逃げ腰の自分と、湊が次期当主として
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第264話 志保との“真の”和解(前編)②

 私のただならぬ雰囲気を察したのか、湊の動きが止まった。 彼は再びソファに深く腰を下ろし直すと、両手を膝の上で組み、私を真っ直ぐに見つめた。「何だい。改まって」 私は膝の上のスクラップブックと日記帳を、両手でしっかりと握りしめた。 手のひらにじわりと冷たい汗が滲む。「お義母さんのことなんだけど」 その単語を口にした瞬間。 湊の纏う空気が、明確に変わった。 目元からふっと温度が消え、口角がわずかに下がる。先程までの穏やかな恋人の顔から、一瞬にして、他者を寄せ付けない「氷の城の孤独な王」の顔へと、強固な能面が引き下ろされたのがわかった。「……彼女の話なら、今はしなくてもいいんじゃないかな」 湊の声は平坦で、感情の起伏が一切削ぎ落とされていた。「剛造の一件で、彼女もそれなりに疲弊しているはずだ。本邸の管理は今まで通り彼女に任せてあるし、当面は干渉するつもりもない。次期当主としての僕の決定に、彼女も異論はないだろう。それで十分じゃないか?」「十分じゃないわ」 私は、彼の冷たい拒絶の壁に真っ向からぶつかるように、はっきりと口にした。「湊。あなたはまだ、何もわかってない」 湊の眉間がわずかに寄った。 彼にとって、志保さんは自分から実の親の愛情を奪い、冷酷に突き放した「憎むべき継母」だ。幼い頃に両親を立て続けに亡くした彼にとって、九龍という生き馬の目を抜く環境の中で生き残るため、彼女は最大の敵であり、乗り越えるべき巨大な壁だった。 彼女の冷たい言葉。期待の欠片もない視線。 それらが湊の心を長年凍らせ、「愛は人を弱くする致命的なバグだ」という歪んだ価値観を彼に植え付けた。 それが、湊の中にある「事実」なのだ。「わかっていない、とはどういう意味だい」 湊の口調が、一段階冷たくなった。「彼女と僕の関係性は、もう何年も前に終わっている。ただの戸籍上の身内、それ以上の感情はない。今さら蒸し返すような過去など、どこにも存在しないよ」「あの日、本邸の温室で、私はお義母さんの本当の顔を見たの
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第265話 志保との“真の”和解(前編)③

「違う!」 私は身を乗り出し、彼の言葉を遮った。「お義母さんは、あなたを憎んでなんかいなかった。むしろその逆よ。剛造さんたちの激しい攻撃から、次期当主候補であるあなたを守るために、あえて『冷酷な継母』を演じていただけなの」 湊の動きが完全に止まった。 瞬きすら忘れたように、私を見据えている。「剛造さんは、九龍の実権を握るために、常に跡継ぎの座を狙っていたでしょう。もし、お義母さんがあなたに愛情を注ぎ、普通の親子のように接していたら、剛造さんにとってあなたは『扱いやすい、甘えた子供』に映ったはずよ。愛情という弱点を握られ、徹底的に潰されていた」 私の言葉が、静かなリビングの空気を切り裂いていく。「だから、お義母さんはあなたから距離を置いた。徹底的に突き放して、あなた自身が一人で立ち上がり、誰にも隙を見せない『冷酷で完璧な後継者』になるように仕向けたの。あなたを強い男に育て上げること。それが、彼女が選んだ、あなたを剛造さんの魔の手から遠ざける唯一の方法だったのよ」「……馬鹿な」 湊の唇が震え、掠れた声がこぼれ落ちた。「そんなのは、結果論にすぎない。ただの都合のいい解釈だ。彼女の目は、いつだって氷のように冷たかった。僕を見る視線に、愛情など微塵も……」「これを見て」 私は、テーブルの上のスクラップブックを指先で押し、湊の目の前へと滑らせた。「私が本邸から持ってきたの。お義母さんが、ずっと隠し持っていたものよ」 湊は、テーブルの上に置かれた色褪せた布張りの表紙を見下ろしたまま、動かなかった。 まるで、それに触れること自体が恐ろしいとでも言うように。「……これは、何だい」「開いてみて」 湊は深く息を吸い込み、ゆっくりと右手を伸ばした。 その指先が、微かに震えているのがわかった。 分厚いスクラップブックの表紙に手が触れる。ざらりとした布の感触。 彼は躊躇うように一瞬動きを止め、それから、意を決したように表紙を捲った。 パリッ、と古
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第266話 志保との“真の”和解(前編)④

 ページを捲るたびに、そこには湊の成長の細かな記録が、几帳面な文字でびっしりと書き込まれていた。 初めて自転車に乗れた日。 膝を擦りむいて帰ってきた日。 背が伸びて、前のスーツが小さくなった日。 そこにあるのは、冷徹な継母の事務的な記録ではない。遠くから我が子を見守り、決して触れることのできない距離で、ただひたすらに書き留められた不器用な文字の羅列だった。 バタンッ!! 突如、リビングに激しい音が響き渡った。 湊が、スクラップブックを乱暴に両手で閉じ、そのままテーブルの奥へと突き飛ばしたのだ。 分厚い本がローテーブルの上を滑り、置かれていた私のマグカップにぶつかって、中のミルクティーが少しだけこぼれた。「……湊?」 私が驚いて声を上げると、湊は両手で自分の膝を激しく掴み、肩で荒い息を繰り返していた。 その顔は、蒼白だった。 しかし、瞳の奥には、今まで見たこともないような、どす黒い感情の炎が渦巻いていた。「……ふざけるな」 地を這うような、低い声だった。 怒り。 それは、母親の隠された愛情を知って感動するどころか、明確な『拒絶』と『激昂』だった。「強くあってほしいから、突き放した……? 愛していたから、冷たくした……? そんなものが、何になるというんだ!」 湊が顔を上げ、私を強く睨みつけた。 その瞳の端には、血走ったような赤い線が浮かんでいる。「そんなものは、大人になった今だから言える綺麗な言い訳だ! 結果的に僕が生き残ったから、美談のように語れるだけだ! 七歳の子供に、十歳の子供に、裏にあるその『愛情』とやらが理解できるとでも思うのか!?」 彼の声が、静かなペントハウスのリビングに張り裂けるように響き渡る。「熱を出して息もできないくらい苦しんでいる時に、僕が欲しかったのは、扉の向こうの『見守る目』なんかじゃない! ただ、背中を撫でてくれる手のひらだったんだ! 転んで膝から血を流して帰ってきた
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第267話 志保との“真の”和解(前編)⑤

 その痛みは、スクラップブックを見せられたからといって、一瞬で消え去るような軽いものではないのだ。 私はゆっくりと立ち上がり、テーブルを回り込んで、激しく肩を揺らす湊の隣に腰を下ろした。 そして、彼の固く握りしめられた両手の上に、自分の手をそっと重ねた。「……うん。そうね」 私は、彼の怒りを否定せず、ただ静かに頷いた。「お義母さんのやり方は、酷薄で、不器用で……決定的に間違っていたと思う。湊の心を、あんなにも深く、修復不可能なほどに傷つけたんだから。あなたが怒るのは当然よ。許せなくて当たり前だわ」 私の言葉に、湊の肩の震えが少しだけ止まった。「……でもね、湊。彼女もまた、九龍という化け物みたいな家の中で、どう戦えばいいのかわからなかったのよ。血の繋がらない継母という立場で、剛造さんという巨大な敵からあなたを物理的に守り抜くには、彼女自身が悪役という分厚い鎧を着るしかなかった。ただの、無力で不器用な女性だったの」 湊は何も答えない。 ただ、私の手の下で、彼の指先が小刻みに痙攣するように震えている。「……もう一つだけ、見てほしいものがあるの」 私は、テーブルの上に残されていた小さな革表紙の日記帳を手に取り、湊の膝の上へとそっと置いた。「それは、湊のお母さん……由理子さんの日記よ。志保さんが、ずっと大切に保管していたの」 湊の身体が、再びビクッと硬直した。「由理子さんが亡くなる直前のページ。そこに、志保さんがなぜ、あそこまで徹底して『冷酷な継母』を演じ切らなければならなかったのか……その本当の理由が書かれているわ」 湊は、重い鉛のように動かない左手を、ゆっくりと持ち上げた。 革表紙の日記帳に触れる。 激しく震える指先で、彼はページを捲った。 古い紙の匂い。インクがかすれた、細く弱々しい文字。『志保へ。私の命は、もう長くありません。どうか、お願い。湊を、あの子を守って。九龍という
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第268話 志保との“真の”和解(前編)⑥

 その事実の持つ、圧倒的で、あまりにも残酷な重み。「……っ……ああ……っ」 湊の喉の奥から、押し殺したような、獣の呻き声が漏れた。 彼は日記帳から手を離し、両手で顔を覆った。 広い肩が、限界を超えたように激しく震え始める。「彼女は……」 指の隙間から、ひねり出すような、血を吐くような声が響く。「僕を憎むことで……僕を、守って……。母さんとの約束のせいで……あの人も、ずっと一人で……っ!」 怒りは、行き場を失った。 彼がずっと憎み続けてきた相手は、誰よりも深く彼を愛し、そして誰よりも深い業を背負わされていたのだ。 誰も悪くない。 ただ、九龍という血の呪縛が、あまりにも巨大すぎただけ。 その事実を前にして、残されたのは、どうしようもないほどの喪失感と、取り戻せない二十年という時間への途方もない悲しみだけだった。 私は何も言わず、顔を覆って震える彼の広い背中に、そっと両腕を回した。 薄いシャツ越しの彼の背中は、こんなにも大きくて、そして、ひどく脆かった。 筋肉が硬直と弛緩を繰り返し、彼がいかに巨大な痛みを伴うカタルシスに耐えているかが伝わってくる。「ごめんなさい、湊。こんな残酷な真実を、あなたに突きつけて」 彼の背中に頬を擦り寄せながら、私は小さく呟いた。「でも、あなたは知らなくちゃいけなかったの。あなたが決して、誰からも愛されていなかったわけじゃないってことを」 湊の震えは、次第に大きくなっていった。 顔を覆った指の隙間から、ポツリ、ポツリと、透明な雫が床の大理石へと落ちていく。 冷徹で、完璧で、決して弱みを見せることのなかった次期当主の、音のない嗚咽。 自分の存在意義すら揺るがすほどの事実に、彼は今、全身を引き裂かれている。 私は彼の背中を一定のリズムでゆっくりと撫で続け
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第269話 志保との“真の”和解(後編)①

 靴底が分厚い絨毯に深く沈み込む、微かな摩擦音だけが、仄暗い本邸の廊下に響いている。 九龍家本邸の、東側の奥深く。 使用人すら用事がなければ決して寄り付かない、古い静寂に包まれた一角。 あの大号泣の夜から一夜が明け、西日が窓枠の影を長く床に落とす時間帯。私の隣を歩く湊の歩みは、目的地に近づくにつれて、目に見えて遅くなっていた。 仕立てのいいダークネイビーのスーツに身を包んだ広い背中が、まるで目に見えない巨大な重圧に押し潰されそうに強張っている。 歩幅は狭くなり、呼吸は浅く、不規則だ。 右手首の袖口から覗く長い指先は、血の気を失ったように白く、小刻みに震えているのがはっきりと見て取れた。 さらに彼の左脇には、あの夜、二人でページを捲り、真実を知ったあの色褪せた布張りのスクラップブックと、小さな革表紙の日記帳が、まるで壊れ物を扱うかのように大切に抱えられている。「……湊」 私は歩みを止め、彼の冷え切った右手を両手でそっと包み込んだ。 声に弾かれたように、湊の肩がビクッと跳ねる。「……大丈夫よ」 見上げて微笑むと、湊は縁なしの眼鏡の奥で、不安げに揺れる漆黒の瞳を私に向けた。 天下のインペリアル・ドラゴン・ホテルのCEO。 どんな修羅場や冷酷な交渉の場でも、決して鉄壁の仮面を崩さなかった男が、今はまるで、暗闇で道を見失った幼い子供のように怯えている。 目の下には、一睡もできなかったことを物語る微かな隈が落ちていた。「本当に……僕が、ここに来てよかったのだろうか」 極度に乾燥した唇の隙間から、掠れた声が零れ落ちる。「あの日記を読んで、すべてを理解したつもりだ。彼女が由理子母さんとの約束を守るために、二十年間も一人で泥を被り続けてきたことも。……でも、いざ彼女の顔を見たら、僕はどんな顔をすればいいのか……どんな言葉をかければいいのか、まるでわからないんだ」 彼の手のひらには、じっとりと冷たい汗が滲んでいる。
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第270話 志保との“真の”和解(後編)②

 そして、私の手をそっと握り返すと、再び前を向いて歩き出した。 廊下の突き当たり。 壁の装飾に溶け込むような、重厚なオーク材の扉が、沈黙の壁として立ち塞がっていた。 志保さんの私室。 九龍という血の繋がりや権力闘争が渦巻く屋敷の中で、彼女が一人で戦い、一人で泣き、そして誰にも踏み込ませなかった絶対的な聖域。 湊は扉の前でぴたりと立ち止まった。 左脇のスクラップブックと日記帳を抱える手に、ギリッと力がこもる。 震える右手をゆっくりと持ち上げ、冷たい真鍮のドアノブに手を掛ける。 金属の冷たさが、現実の温度として手のひらから伝わってくる。 カチャリ。 微かな金属音を立てて、重い扉が内側へと押し開かれた。 部屋の中に一歩足を踏み入れた瞬間、空気がふっと変わるのを感じた。 絢爛豪華な調度品や、冷たい大理石の床、威圧的な絵画などは一切ない。 足元には使い込まれた温かみのあるペルシャ絨毯が敷かれ、壁紙は目に優しい淡いアイボリー色。 部屋の隅には、古い木製のロッキングチェアが置かれ、その上には編みかけの柔らかな毛糸のブランケットが投げ出されていた。 ほんのりと漂ってくるのは、古い本の紙の匂いと、微かな白檀の香り。 しかし、湊の視線――そして私の視線も――真っ直ぐに、部屋の壁際に置かれたアンティーク調の低いキャビネットに釘付けになった。 そこには。 無数の写真立てと、色褪せた不格好な工作物が、所狭しと並べられていたのだ。 写真立ての中の写真は、どれも記念撮影のような正面からのものではない。少し遠くから、あるいは物陰から隠し撮りされたようなアングルばかりだった。 七五三のスーツを着て、むすっとした顔で立っている幼い湊。 小学校の入学式で、少し大きめの真新しいランドセルを背負って歩く後ろ姿。 中学生になり、制服姿で足早に歩く横顔。 そして、高校の卒業式で、一人ぽつんと桜の木の下に立っている姿。あの時、彼女は遠くの木陰から、誰にも気づかれないようにこのシャッターを切っていたのだ。 それらの写真の隣には
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