「捨ててなんていないわ」 不意に、部屋の奥から静かな声が響いた。 ハッとして振り返ると、奥の書斎スペースとを隔てるアーチの向こうに、志保さんが立っていた。 いつも隙のない和装や、鎧のようなブランドスーツを着こなしている彼女が、今はシンプルな藤色のカーディガンを羽織り、ひどく疲れたような、老け込んだ顔でこちらを見ている。 しかし、彼女の視線が湊の横顔と、彼の手にある灰皿を捉えた瞬間。 その表情が一瞬にして凍りつき、いつもの「冷徹な女主人」の能面が、ピタリと張り付いた。「……何の用かしら。ノックもせずに私の部屋に入るなんて、九龍の次期当主として随分と無作法ね」 志保さんの声は、氷のように冷たく、そして硬かった。 私を牽制するように、鋭い視線が飛んでくる。 しかし、私は一歩後ろに下がり、何も言わずに湊の背中を見守った。 ここから先は、彼自身が言葉を交わし、自らの手で乗り越えなければならない壁だ。「……母さん」 湊の声が、震えていた。 そのたった一言が、静まり返った部屋の空気を激しく揺さぶる。 志保さんの細い肩が、ビクッと跳ねる。「……今、何と?」 志保さんの声が、微かに上擦った。彼女は必死に仮面を保とうとしているが、その瞳孔は激しく揺れ動いている。 湊は、左脇に抱えていたスクラップブックと革表紙の日記帳を両手で持ち直し、ゆっくりと志保さんの方へと向き直った。「どうして……こんなものを、残していたんだ」 湊の一歩一歩が、重く、そして確かな足取りで志保さんへと近づいていく。「あなたが……僕を憎んでいたんじゃないのか。血の繋がらないあなたにとって、僕はただの邪魔者で、目障りな存在だったんじゃないのか」「そうよ」 志保さんは、たまらず一歩後ずさった。「あなたは目障りだった。だから、冷たく接した。それがどうしたというの? 今さら、過去の恨み言を言いに来たのなら、今すぐ
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