All Chapters of 復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました: Chapter 271 - Chapter 280

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第271話 志保との“真の”和解(後編)③

「捨ててなんていないわ」 不意に、部屋の奥から静かな声が響いた。 ハッとして振り返ると、奥の書斎スペースとを隔てるアーチの向こうに、志保さんが立っていた。 いつも隙のない和装や、鎧のようなブランドスーツを着こなしている彼女が、今はシンプルな藤色のカーディガンを羽織り、ひどく疲れたような、老け込んだ顔でこちらを見ている。 しかし、彼女の視線が湊の横顔と、彼の手にある灰皿を捉えた瞬間。 その表情が一瞬にして凍りつき、いつもの「冷徹な女主人」の能面が、ピタリと張り付いた。「……何の用かしら。ノックもせずに私の部屋に入るなんて、九龍の次期当主として随分と無作法ね」 志保さんの声は、氷のように冷たく、そして硬かった。 私を牽制するように、鋭い視線が飛んでくる。 しかし、私は一歩後ろに下がり、何も言わずに湊の背中を見守った。 ここから先は、彼自身が言葉を交わし、自らの手で乗り越えなければならない壁だ。「……母さん」 湊の声が、震えていた。 そのたった一言が、静まり返った部屋の空気を激しく揺さぶる。 志保さんの細い肩が、ビクッと跳ねる。「……今、何と?」 志保さんの声が、微かに上擦った。彼女は必死に仮面を保とうとしているが、その瞳孔は激しく揺れ動いている。 湊は、左脇に抱えていたスクラップブックと革表紙の日記帳を両手で持ち直し、ゆっくりと志保さんの方へと向き直った。「どうして……こんなものを、残していたんだ」 湊の一歩一歩が、重く、そして確かな足取りで志保さんへと近づいていく。「あなたが……僕を憎んでいたんじゃないのか。血の繋がらないあなたにとって、僕はただの邪魔者で、目障りな存在だったんじゃないのか」「そうよ」 志保さんは、たまらず一歩後ずさった。「あなたは目障りだった。だから、冷たく接した。それがどうしたというの? 今さら、過去の恨み言を言いに来たのなら、今すぐ
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第272話 志保との“真の”和解(後編)④

 湊は、二つの冊子を絨毯の上にそっと置くと、そのままゆっくりとその場に膝をついた。 仕立てのいいスーツの膝が、ペルシャ絨毯に深く沈み込む。 天下のCEOであり、九龍の次期当主である男が、一人の女性の前で、無防備に膝を折った。「昨夜……朱里が本邸から持ち出したこの記録と、由理子母さんの日記を……読んだ」 湊の声は、すでに形を保てず、嗚咽に変わっていた。「どうして……言ってくれなかったんだ。あなたが……僕を、剛造たちから守るために、あえて冷酷な母親を演じていたなんて。僕を孤立させて、僕自身を強くするために……由理子母さんとの約束を守るために……一人で、ずっと泥を被っていたなんて……!」「やめなさい……っ」 志保さんが、ついに顔を両手で覆い、首を激しく横に振った。「私は……そんな立派な母親じゃないわ! 私は、由理子さんとの約束を守っただけ……親友だったあの人への贖罪よ……! この恐ろしい屋敷の中で、あなたを潰させたくなかっただけ……。そのためにあなたを傷つけて、あなたから一生恨まれても、それは当然の報いなのよ……!」 顔を覆う志保さんの指の隙間から、透明な雫が次々と零れ落ちた。 カーディガンの胸元に、濃い染みがいくつも広がっていく。 彼女の口から漏れる嗚咽は、長年封じ込めてきた感情のダムが決壊したように、激しく、そして痛ましかった。「僕は……あなたを憎んで、あなたを否定することでしか、生きてこれなかった」 湊は、床に両手をついたまま、ポタポタと大粒の涙をこぼしながら言葉を紡ぐ。「愛を弱さだと言い聞かせて……誰も信じずに、ここまで来た。あなたの冷たさを呪った夜は、数え切れない。&hellip
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第273話 志保との“真の”和解(後編)⑤

 躊躇いと恐怖で、志保さんの指先が虚空を掻く。「お義母さん」 私は、たまらず一歩前に出た。「もう、演じなくていいんです。もう、誰も湊を傷つけたりしない。剛造さんはもういない。あなたを縛り付けていた呪いは、もう解けたんです。……お願いだから、お義母さんが、湊を抱きしめてあげてください」 私の言葉に、志保さんがハッと顔を上げた。 涙で真っ赤に濡れた瞳が、私を捉える。 そして、彼女はゆっくりと息を吸い込み、湊の背中へと両腕を回した。「……湊」 掠れた、ひどく震える声。 志保さんの手が、湊の髪に触れる。 その指先が、不器用に、しかし確かな熱を持って、彼の頭を撫でた。 そして、そのまま強く、強く彼を抱きしめた。「あぁ……っ、湊……私の……私の、大切な息子……っ!」 志保さんの口から、言葉にならない激しい泣き声が漏れた。 二十年分の後悔と、我慢と、そして隠し続けてきた愛情が、すべて涙となって溢れ出していく。 湊もまた、志保さんのカーディガンの背中をきつく握りしめ、その細い腕の中で子供のように泣き叫んでいた。 部屋の中に、二人の激しい嗚咽だけが響き渡る。 開け放たれた小窓から、微かに春の風が入り込み、キャビネットの上に置かれた色褪せた工作物や写真を優しく撫でていく。 九龍という重圧の中で、長く長く凍りついていた二つの心が、今、ようやく本来の形を取り戻して、一つに溶け合っていく。 私は、音を立てないように一歩後ろに下がり、壁際に背中を預けた。 鼻の奥がツンと熱くなり、視界がぼやける。 瞬きをすると、一粒の涙が頬を伝って落ち、ブラウスの襟元に吸い込まれた。 抱き合う二人の姿を、私はただ静かに見つめていた。 湊の背中を撫でる、志保さんのシワの刻まれた手のひら。 志保さんの肩に顔を埋め、激しく震える湊の広い背中。 漂ってく
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第274話 忍び寄る黒い影①

 朝の光が、遮光カーテンのわずかな隙間から一筋の白い帯となって、ペントハウスの寝室の床に長く伸びていた。 エジプト綿の最高級シーツが肌に擦れる、サラサラとした微かな音。 私は、自分の腰に回された重い腕の感触で、ゆっくりと意識を浮上させた。 背中には、ぴったりと張り付くような広い胸板の熱。首筋には、規則正しい呼吸のたびに、微かにシトラスと寝起きの体温が混じった甘い匂いが吹きかかってくる。「……湊」 私は、腰に回されたその太い腕を指先でツンツンとつついた。 返事はない。ただ、背後にいる男は、私が起き上がろうとするのを阻止するように、さらにギューッと腕の力を強めてきた。 まるで、お気に入りの抱き枕を絶対に手放さないと無言で抵抗する子供のようだ。「重い。それに、苦しい」「……あと五分」 私の耳元で、寝起きのひどく掠れた、低く甘い声が鼓膜を震わせた。 その声の振動が直接肌から伝わってきて、背筋にゾクッとしたものが走る。 志保さんとのあの大号泣の和解劇から、数日が経っていた。 あの日、本邸の私室で二十年分の涙を流し尽くした湊は、別人のように穏やかな顔つきになった。 いつも眉間に刻まれていた険しいシワは消え、彼を縛り付けていた強固な呪縛は、綺麗に解け去ったように見える。 剛造さんの一件も完全に終息し、九龍グループの次期当主としての地盤も揺るぎないものとなった。 すべてが、良い方向へ向かっている。 ……ただ一つ、明確な「副作用」を除いては。「五分って、さっきも言ったでしょ。もう七時半よ。朝食の準備しないと」「……シリアルの箱を開けるだけでいい。それよりも、僕の充電が先だ」「スマートフォンじゃないんだから」 私が呆れてため息をつくと、湊は私の肩口に顔を埋め、鼻先をグリグリと押し付けてきた。 整髪料のついていない、素のままのサラサラとした黒髪が首筋をくすぐり、思わず「ひゃっ」と短い声が漏れる。「やめ
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第275話 忍び寄る黒い影②

「……君の匂いは、本当に落ち着く」 湊は、私のパジャマの襟元に顔を寄せ、深く息を吸い込んだ。「やめて、寝汗かいてるかもしれないのに」「それがいいんだ。君の体温の匂いがする」「変態!」「大切な人を愛して何が悪い」「まだ結婚してないってば!」 私はボッと顔を熱くしながら、彼の胸板を両手で押し返した。しかし、彼の身体はビクともしない。「戸籍上の手続きは、君がデザインしたウェディングドレスが完成したタイミングで同時に行う予定だ。実質的には、もう僕の家族だ」「実質的って便利な言葉ね……」 私は諦めて、彼の広い胸に額をこつんとぶつけた。 シャツ越しに聞こえる彼の心音は、力強く、そして穏やかなリズムを刻んでいる。「……あのね、湊」「ん?」「今日のお昼、またお弁当持っていくから。何が食べたい?」 私の問いかけに、湊は少しだけ考える素振りを見せ、そして私の額に自分の額をすり寄せてきた。「君の作る卵焼きがいい。少し甘めのやつ。……僕だけが君の手料理を毎日味わえるという優越感は、何物にも代えがたいな」「性格悪いよ、CEO」「君限定の特権だ」 この音が、ずっと続けばいい。 こんな風に、少し滑稽で、息が詰まるほど甘い朝のやり取りが、私たちの「日常」になっていくのだと、私は疑いもしていなかった。 ◇ 午後二時。 インペリアル・ドラゴン・ホテル最上階の、CEO執務室。 私は、自宅から持参した保温ランチジャーをガラステーブルの上に広げていた。 湊は、最近になって「外食は栄養バランスが偏る」と言い出し、私が簡単な手作り弁当を持ってオフィスを訪れることを強く要求するようになったのだ。「わざわざ君に足を運ばせるのは本意ではないが、君の作ったもの以外、どうも喉を通らなくなってしまってね」などと、真顔でとんでもないことを言う。 デスクの奥には、相変わらずあの「ゼログ
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第276話 忍び寄る黒い影③

 湊はわずかに足を止め、デスクに戻って受話器を取り上げた。「僕だ。……うん? アポイントなしの来客?」 湊の声は落ち着いていた。 受話器の向こうの秘書の言葉を聞きながら、彼の視線がふっと空を泳ぐ。「……そうか。彼らが帰国したのか。わかった、すぐにお通ししてくれ」 湊は受話器を置くと、少しだけ不思議そうな顔をして私の方を振り返った。「どうしたの?」「いや……珍しいお客さんが来たようだ」 湊はネクタイの結び目を軽く直し、ジャケットのボタンを留めた。「九龍の分家にあたる、龍一郎叔父上だ。彼と、その息子の剣吾。ずっと海外を拠点に事業を展開していたはずなんだが、急に帰国したらしい」「分家の方……」 私は、タッパーの蓋をそっと閉め直した。 九龍家という言葉を聞くと、どうしてもあの剛造さんの威圧的な顔や、ドロドロとした権力闘争がフラッシュバックしてしまい、無意識に肩に力が入る。「あの……お会いして大丈夫なの? 剛造さんの件があったばかりだし……」「警戒する必要はないよ」 湊は優しく微笑み、私の肩をポンと叩いた。「龍一郎叔父上は、かつては僕の父と当主の座を争ったこともあるが、それはもう何十年も前の話だ。今はヨーロッパで堅実に美術品の取引や不動産を扱っていると聞いている。剛造のような強引なやり方をする人ではないから、安心していい」 湊の言葉に、私は少しだけホッと息を吐き出した。 そうか、九龍家の親族だからといって、全員が剛造さんのような人だとは限らない。「私もご挨拶した方がいいわよね。お茶、淹れるわ」「助かるよ」 数分後。 重厚なオーク材の扉が静かに開けられ、秘書に案内されて二人の男性が執務室へと足を踏み入れた。「やあ、湊。突然押し掛けてしまってすまないね。日本の気候がどうにも恋しくなって、急に飛行機に飛び乗ってしまったよ」 そう
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第277話 忍び寄る黒い影④

「剣吾も、相変わらず自由なようで安心したよ」 湊は薄く笑みを返し、ソファへと二人を促した。「こちらは?」 ソファに腰を下ろそうとした龍一郎さんが、給湯室からお茶の準備をして戻ってきた私を見て、ふと目を細めた。「ああ、申し訳ありません。紹介が遅れました。僕の大切なパートナーである、茅野朱里です。近々、正式に籍を入れる予定です」 湊が私を真っ直ぐに紹介してくれたことに、胸の奥がじんわりと温かくなる。 私はトレイを持ったまま、深く頭を下げた。「初めまして、茅野朱里と申します。いつも湊さんがお世話になっております」「ほう……!」 龍一郎さんは、パッと顔を輝かせた。「これはこれは。湊にはもったいないくらい、可愛らしくて礼儀正しいお嬢さんじゃないか。いやぁ、こんな素敵な方が側にいてくれるなら、私も安心だ。初めまして、湊の叔父の龍一郎です。こちらは息子の剣吾」「よろしくね、朱里ちゃん。湊がこんな可愛い子を隠してたなんて、驚きだよ」 剣吾さんが、人懐っこい笑顔でウインクをして見せる。 そのあけすけで気さくな態度は、私がこれまで出会ってきた九龍家の人間とは、全く違うものだった。 威圧感も、値踏みするような冷たい視線もない。 純粋に、身内の慶事を喜んでくれているような、温かな空気。 私は内心で、深く安堵していた。(なんだ……すごく素敵な人たちじゃない。私、身構えすぎちゃってたな) 私は、少し緊張が解けた手つきで、ソーサーに載せた九谷焼の湯呑みを、丁寧に彼らの前へと置いていった。 立ち上る上質な玉露の香りが、応接スペースをふんわりと包み込む。「いやぁ、美味しいお茶だ。長旅の疲れが吹き飛ぶよ」 龍一郎さんが湯呑みを両手で包み込みながら、しみじみと息を吐き出す。「ヨーロッパの硬水では、どうしてもこのお茶の甘みが出なくてね。やはり日本はいい。朱里さんの淹れ方が上手なのだろうね」「お口に合って良かったです」 私が微笑むと、龍一郎さんは優しく頷き返してく
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第278話 忍び寄る黒い影⑤

 剣吾さんも、隣で「全くだよ。俺にはあんな胃の痛くなるような立ち回り、絶対無理だね。湊は昔から、何でも一人で抱え込むから心配だったんだよ」と肩をすくめて笑っている。 穏やかな時間だった。 窓の外からは、午後の柔らかな陽射しが差し込み、ガラステーブルの上に置かれた湯呑みの縁をきらきらと反射させている。 会話は終始和やかで、ヨーロッパでの事業の苦労話や、湊の幼い頃の少し恥ずかしい失敗談など、親戚同士の他愛のない世間話が続いた。 湊も、時折小さく笑い声を漏らしながら、彼らの話に耳を傾けている。 私は、空になった湯呑みにお茶を注ぎ足しながら、この平和な光景を心の中で噛み締めていた。 剛造さんとの戦いが終わり、志保さんとの確執も解けた。 そして今、こうして遠い親戚とも穏やかにお茶を飲めている。 九龍という家に付きまとっていた黒い影は、もう完全に払拭されたのだと。 私たちはようやく、本当の意味での「普通の家族」としてのスタートラインに立てたのだと、そう信じて疑わなかった。 お茶を飲み終え、三十分ほどが経過した頃だった。「さて、そろそろ長居は無用だね。湊も仕事が詰まっているだろう」 龍一郎さんが、膝の上を手で軽く払いながら、ゆっくりと立ち上がった。「いえ、そんなことはありませんが……日本でのご滞在は、どちらに?」 湊も立ち上がり、ジャケットのボタンを留め直す。「ああ、都内のホテルを適当に見繕うさ。しばらくは日本でのんびり羽を伸ばさせてもらうつもりだよ」 龍一郎さんは、ふんわりとした笑顔のまま、湊の肩をポンポンと軽く叩いた。「朱里さんも、美味しいお茶をありがとう。今度ぜひ、剣吾も交えてゆっくり食事でもしましょう」「はい、ぜひ。お気をつけて」 私が頭を下げると、龍一郎さんは「ああ、そうだ」と、何かを思い出したように足を止めた。 そして、振り返りざまに。 先程までの、まるで絵本に出てくる優しいお祖父さんのような笑顔を、一ミリも崩すことなく。 ただの世間話の続きのような、ひどく軽やかなトーンで、
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第279話 華枝の急病①

 分家の人間である龍一郎と剣吾が、嵐のような、それでいてひどく静かで不気味な「宣戦布告」を残して去っていった夜。 ペントハウスのリビングは、いつもと同じ間接照明の柔らかなオレンジ色の光に包まれていたはずなのに、空気の密度がまったく違っていた。 私は、冷え切った指先を温めるように、両手でマグカップを包み込んでソファに座っていた。 カモミールティーの白い湯気が立ち上っているが、その香りすら鼻腔を素通りしていくような感覚だ。「……朱里」 隣に座る湊が、私の膝の上に置かれた手に、自分の大きな手を重ねてきた。 彼の指先もまた、微かに冷たさを帯びていた。「まだ、震えているね」「ううん……大丈夫。ただ、あの笑顔が目に焼き付いて離れなくて」 私は、カップの縁から視線を外し、湊の漆黒の瞳を見つめ返した。「剛造さんの時は、敵意がはっきりと形になって見えていたから、怖くても立ち向かえた。でも、龍一郎さんたちは……違う。毒の入ったケーキを、満面の笑みで『君のためだよ』って差し出してくるような、そんな気味の悪さがあった」 湊は微かに顎を引き、深く息を吐き出した。「ああ。龍一郎叔父上は、昔からああいうやり方をする男だ」 湊の親指が、私の手の甲をゆっくりと、確認するように撫でる。「直接的な暴力や圧力は決して使わない。相手の警戒心を解き、懐に入り込み、一番柔らかい部分を正確に突いてくる。剛造が失脚して、九龍の内部が少しでも緩んでいる今を、彼は何年も海外から狙い澄ましていたんだろう」 彼の声は落ち着いていたが、重なり合った肌越しに、彼の中にある静かな怒りと、強い防衛本能の張り詰めが伝わってくる。「次期当主の座を譲れ、なんて……。湊が、これまでどれだけ身を削ってこのグループを守ってきたか、わかっているはずなのに」「彼らにとって、僕の苦労などどうでもいいことさ。九龍という巨大な権力と資金、それだけが目的なんだから。……だが」 湊は、私の手を引き寄せ
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第280話 華枝の急病②

 その知らせは、本当に唐突だった。 龍一郎たちが執務室を訪れた日から、三日が経った夜のこと。 私たちはペントハウスのリビングで、夕食後の静かな時間を過ごしていた。 湊はソファに深く腰掛け、膝の上にノートパソコンを開いて、海外の市場データか何かの複雑なグラフをチェックしている。縁なしの眼鏡に、ブルーライトの青い光が微かに反射していた。 私はキッチンに立ち、お湯を沸かして、レモングラスとペパーミントをブレンドしたハーブティーの準備をしていた。 カップにお湯を注ぐと、湯気とともに青々とした爽やかな香りが立ち上る。 テレビはついておらず、ただ空気清浄機の微かな稼働音と、湊がキーボードを叩くカチャカチャという乾いた音だけが、広いリビングに響いていた。 この数日、湊は少し帰りが遅くなっていた。 分家の動きを牽制するため、各系列ホテルの責任者と面談を重ね、株式の防衛策を強化しているのだと教えてくれた。 忙殺されているはずなのに、彼はペントハウスに帰ってくると、必ず私を抱きしめ、体温を補充するように長い時間をかけて私の髪や肩に触れる。 その不器用で重たい愛情表現が、今の私にとっては唯一の安らぎだった。「湊、お茶が入ったわよ。目を休ませて」 私がトレイに二つのマグカップを載せてリビングへ歩み寄った、ちょうどその時。 ビーッ、ビーッ、ビーッ。 ローテーブルの上に置かれていた、湊のプライベート用スマートフォンのバイブレーションが、静寂を鋭く切り裂いた。 画面が明るく発光し、そこに表示された文字を見て、湊のキーボードを叩く手がピタリと止まる。「……母さんからだ」 湊がノートパソコンを閉じ、スマートフォンを手に取る。 こんな夜の十時過ぎに、志保さんから直接電話がかかってくることなど、これまでに一度もなかった。 背筋を冷たいものが滑り落ちるような感覚がして、私はトレイを持ったまま、ソファの横で足を止めた。「僕だ。……どうした、こんな時間に」 湊の声は、普段の冷静さを保とうとしているが、
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