All Chapters of 復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました: Chapter 351 - Chapter 360

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第351話 届かないスカウト

「湊様……」 「朱里。このドレス、君のサロンで使えるか」  湊が私に問いかける。  私は深く、力強く頷いた。 「ええ。使えるどころじゃないわ。このリメイクのアイディアと技術があれば、どんなに予算がなくても、最高の一着を作れる。……麗華さん」  私は彼女の、荒れた手に触れようとした。 「あなたのその腕が必要なの。私たちのパートナーになって。もう一度、あなたの才能を……」 「――冗談じゃないわ!」  私の手が触れる直前、麗華が弾かれたようにその手を振り払った。  彼女は真っ赤な目で私を睨みつけ、激しい拒絶の色を浮かべる。 「あんたの施しなんて受けない! 同情された挙句、今度はあんたの会社でこき使われるなんて死んでも御免よ!」 「麗華さん、同情なんてしてない。これはビジネスの話で……」 「黙りなさい! あんたに私の何がわかるっていうのよ!」  麗華の声が、工場の騒音を切り裂いて響き渡る。 「九龍の看板を失って、惨めに喘いでいるあんたたちに何ができるの! ? 私を助ける? 笑わせないで。自分たちの心配でもしていなさい!」  彼女はミシンの前に座り直し、乱暴に布を掴んだ。 「二度と来ないで。私はここで、一人で這い上がるわ。あんたたちの助けなんて、一ミリもいらない!」  ガガガガガ、と。  再び激しいミシンの稼働音が響き始め、会話を拒絶するように空間を支配した。  麗華の背中は、針金のように細く、そして折れそうなほどに強張っていた。  あの背中へ手を伸ばせば、かえって深く傷つけてしまうのだろうか。必要だと伝えたつもりの言葉が、彼女には別の響きで届いた。その隔たりが、さっきまで目を奪われていたドレスの美しさと同じくらい、私の胸に残った。  湊が私の肩に手を置き、静かに首を振った。 「……今は何を言っても届かない。退散しよう」  私は、必死にミシンを走らせる麗華の横顔を、一度だけ振り返った。  汗と涙で汚れた彼女の頬を、西日が無慈悲に照らし出している。  私たちは無言のまま、工場を後にした。  外に出ると、夕暮れの冷たい風が、墨田の路地裏を吹き抜けていく。  工場の音は遠ざかったが、あの端切れで作られたドレスの、息を呑むような美しさが、網膜に焼き付いて離れなかった。  湊が、私の手を強く握りしめた。  その手の熱に触れながら
last updateLast Updated : 2026-04-14
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第352話 路地裏の決心

 オレンジ色から深い群青へと沈みゆく空の下、墨田区の狭い路地裏には、刃物のように鋭く冷たい風が吹き抜けていた。  湿った冷気が鼻腔を刺す。トタン屋根の錆びた匂いが、下町特有の生活臭と混ざり合って、肺の奥にねっとりとまとわりついてくる。  ガタガタ、という乾いた音が頭上から鼓膜を打つ。  背後からは、佐藤縫製所の古いミシンが立てるカタカタという低い駆動音が、まるで急き立てるようなメトロノームとなって等間隔で響き続けていた。  繋がれた右手に込められた湊の高い体温を感じ、ピタリと足を止める。  少し骨張った彼の長い指が、冷え切った指の間にパズルのピースのように入り込んでいる。その密着した皮膚の隙間から、脈打つような確かな熱が流れ込んでくる。  ヒールの底がアスファルトの小石を擦り、ジャリ、と鈍い音を立てた。  数歩先を歩いていた湊が、引かれる形で立ち止まり、ゆっくりと振り返る。  薄暗い街灯の頼りない光が、縁なしの眼鏡のレンズを白く光らせた。 「……どうした、朱里」  低い、地の底から響くような落ち着いた声。  その響きには、こちらが何を考えているのかをすでに見透かしているような、静かな理解が滲んでいる。 「……やっぱり、諦めきれない」  繋いだ手に少しだけ力を込め、漆黒の瞳を真っ直ぐに見上げた。 「あの端切れのドレス……。たった数枚の安っぽい余り布で、あんなに美しいドレープとピンタックを作り出せるなんて。あれは、ただの暇つぶしや意地だけでできる仕事じゃない。あの手には、間違いなく本物の技術と、服に対する異様なまでの執念があるわ」  湊は何も言わず、静かに言葉の続きを待っている。 「今回のお客様の、お母様の形見のドレス。……色褪せて、生地も弱くなっているあのシルクを、ただ修復するだけじゃなく、花嫁の魅力を最大限に引き出す新しい一着に生まれ変わらせるには、あの狂気的なまでの集中力と技術が必要なの。……あの腕が、どうしても欲しい」  熱を帯びた声が、路地裏の冷たい空気に白く溶けていく。  湊は、小さく息を吐き出し、掴んでいた手首を引き寄せて、そのまま自分のコートのポケットの中へと滑り込ませた。  ウールの裏地のざらりとした感触と、彼自身の体温が、冷え切っていた指先をじんわりと包み込む。鼻の奥を、微かなブラックコーヒーの香りがくすぐった。
last updateLast Updated : 2026-04-15
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第353話 契約書という武器

「わかってる。……同情や、上から目線の施しなんて思われたら、意地でも首を縦に振らない。だから、純粋なビジネスとして、打ち負かすだけの『武器』を用意するわ」 「武器、か」  湊の口角が、暗がりの中で微かに吊り上がった。 「よかろう。本気でM&Aホールディングスに引き入れるつもりなら、僕も全力でサポートしよう。……まずは、君の言う『武器』の研磨からだな」◇ 翌朝。  杉並の古い賃貸マンションのリビングには、焦げたトーストの匂いと、特売のドリップコーヒーの苦い香りが充満していた。  暖房の効きが悪い部屋は、靴下越しの足の裏からじわじわと冷え上がってくる。  狭いダイニングテーブルの上に、昨日お客様から預かった形見のドレスの写真と、寸法のデータ、そして手書きのラフデザイン画を何枚も広げた。紙が擦れるカサカサという乾いた音が、静かな部屋に響く。  向かいの席では、湊が中古のノートパソコンを叩き、M&Aホールディングスとして雇用した場合の契約書の雛形と、報酬のシミュレーションを弾き出している。  ターン、カチャカチャ、という無機質な打鍵音が、思考のリズムを加速させる。画面の青白い光が、彼の端正な横顔を鋭く切り取っていた。 「……湊。アパレル部門のチーフデザイナーとして迎える場合、この初任給の設定で採算は取れる?」  提案書の数字を指差すと、湊は画面から目を離さずに即答した。 「立ち上げ直後の我々の資金力では、これがギリギリのラインだ。だが、完全歩合制のインセンティブを厚く設定してある。作ったドレスが売れれば売れるほど、取り分は青天井で増えていく仕組みだ」  湊がノートパソコンの画面をクイッとこちらへ向ける。  そこには、冷酷なまでに緻密な数字の羅列が並んでいた。 「プライドを刺激するには、『固定給』にするよりも、『自分の実力で稼ぎ出せ』という実力主義の契約のほうが効果的だ。……本当に這い上がる気があるなら、この条件に食いつくはずだ」 「ええ。……同情じゃない、戦力として首根っこを掴むための、完璧な契約書ね」  手元のラフデザイン画をクリアファイルにまとめ、立ち上がった。  椅子の脚が、フローリングを擦ってギッと鳴る。 「行ってくる」 「一人で大丈夫か?」  湊が、キーボードから手を離して見上げた。 「ええ。これは、女同士の戦いよ。あ
last updateLast Updated : 2026-04-15
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第354話 形見のドレス

 湊の低い声を背に受け、分厚いファイルケースを胸に抱きしめ、アパートの扉を開けた。冷たい朝の空気が、頬をピシャリと叩いた。◇ 再び訪れた墨田区の『佐藤縫製所』。  昨日と同じように、舌の根にまとわりつくような機械油の匂いと、むせ返るような埃の匂いが混じり合う薄暗い空間。  床を這う微かな振動が、ヒールの底を通して足首へと伝わってくる。  佐藤工場長に軽く頭を下げ、真っ直ぐに一番奥のパーテーションで仕切られた作業スペースへと足を向けた。  コンクリートの床に、コツ、コツと硬い足音が反響する。  パーテーションの向こう側。  麗華は、昨日と同じ首元がよれた作業服姿で、工業用ミシンの前に背中を丸めて座っていた。かつて高級サロンで完璧な姿勢を保っていた背中は、今は丸く縮こまり、薄っぺらい布越しに肩甲骨の尖ったラインが浮き出ている。  手元を照らす小さな作業灯の光だけが、顔の輪郭を鋭く浮かび上がらせていた。  カタカタカタカタッ!  凄まじいスピードで布が送られ、針が正確に落ちていく。  背後に人が立っていることに気づいているはずなのに、ミシンから目を離そうとも、手を止めようともしない。 「……また来たの」  ミシンの音に負けない、刺々しく冷ややかな声が飛んできた。 「昨日、二度と来るなと言ったはずよ。……暇人ね、あんたも」  抱えていたファイルケースを、すぐ横の作業台の上にドン、と音を立てて置いた。  舞い上がった埃が、作業灯の光の中でキラキラと光る。  その鈍い音に、ミシンの針が一瞬だけ止まった。 「暇じゃないわ。仕事をしに来たの」  ファイルケースの留め金を外し、中から一枚の写真と、ラフデザイン画を取り出して、視界に入るように広げた。 「……何よ、これ」  忌々しげに顔を向け、写真に目を落とす。  そこに写っているのは、三十年以上前に作られた、黄ばみ、レースがほつれかけた古いシルクのウェディングドレスだった。 「今度、私たちが担当するお客様のドレスよ。亡くなったお母様が着ていたものを、自分の結婚式で着たいって。……でも、見ての通り生地は劣化しているし、今の花嫁の体型にも合っていない」  ラフデザイン画を写真の横に並べた。  古い紙の匂いと、新しいインクの匂いが交差する。 「生地の傷みが激しい部分は、この新しいフランス
last updateLast Updated : 2026-04-16
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第355話 忘れていない傷

 視線が、ラフデザイン画の線をなぞるように動いた。  眉間が微かに寄る。プロとしての目が、そのデザインの難易度と、要求される技術の高さを瞬時に計算しているのがわかった。 「……バカじゃないの」  鼻で笑い、乱暴に視線をミシンへと戻した。 「こんなボロボロの布切れ、一から新しいドレスを仕立てるよりずっと手間がかかるわ。生地が死んでるのよ? 少しでも針を入れる角度を間違えれば、そこから引き裂けて終わり。……そんなリスクの高い仕事、どこの工房も受けるわけないじゃない」 「ええ。だから、頼みに来たのよ」  その言葉に、作業服の肩がピクリと跳ねた。 「昨日、あの余り布で作っていたサンプルのドレス。……あれを見た時、鳥肌が立ったわ。あんな安っぽいポリエステルの端切れに、あそこまで完璧な命を吹き込める手があるなら。……このドレスを、世界で一番美しい状態に蘇らせることができるのは、あなたしかいない」  静かな工場内に、声が真っ直ぐに響く。  ミシンに手を置いたまま、ギリッと奥歯を噛み締める音が聞こえた。  首筋の血管が青く浮き上がり、身体が小刻みに震え始める。 「……ふざけないで」  搾り出すような、ひどく掠れた声。 「ふざけないでよ! !」  バンッ!  両手で作業台を激しく叩き、弾かれたように立ち上がった。  作業灯の光の下、瞳は血走り、怒りと羞恥で顔が真っ赤に染まっている。荒い呼吸のたびに、痩せた胸が上下に激しく揺れる。 「バカにするのもいい加減にしなさいよ! 同情してるんでしょ! ? 全てを失って、こんな泥水すすってるのを見て、優越感に浸りたいだけでしょ!」  口から飛沫が飛び、乱れた髪が激しく揺れる。 「九龍の看板を失って、あんたたちだってギリギリのくせに! 利用して、自分が『心の広い人間』だって酔いしれたいだけじゃない! そんな偽善に付き合わされるくらいなら、ここで一生埃吸って死んだほうがマシよ!」  烈火のごとき怒声。  かつてのプライドの高い令嬢としての最後の虚勢が、音を立てて崩れ落ちそうになっている、ギリギリの悲鳴だった。  その怒りを正面から受け止め、一歩も引かず、血走った瞳を真っ直ぐに見据える。  彼女の技術に惹かれたからといって、傷つけられた記憶まで消えたふりはできない。ここで曖昧に頷けば、これからの仕事も嘘の上
last updateLast Updated : 2026-04-16
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第356話 技術を買う契約

「今ここで泥水をすすっているのは、自業自得よ。自分の蒔いた種を刈り取っているだけ。……そこに同情する余地なんて、一ミリもない」  ファイルの中から、湊が作成した雇用契約書を取り出し、麗華の目の前の作業台に叩きつけた。分厚い紙の束が、バサリと重い音を立てる。 「これは、ビジネスの話よ」 「……ビジネス……?」 「ええ。M&Aホールディングスのアパレル部門、チーフデザイナーとしてのスカウトよ。……固定給は最低限。でも、作ったドレスがお客様に選ばれれば、その利益の多くを還元する。完全な実力主義の契約」  視線が、契約書の紙面に落ちる。  印字された無機質な数字と、厳しい条件の数々。 「……以前、言ったわね。『ドレスを愛していない。自分のプライドを着飾る道具にしているだけだ』って」  震える肩を見つめた。 「でも、それは間違っていたわ。……昨日、あの端切れのドレスを見てわかったの。すべての虚飾を剥ぎ取られて、どん底に落ちて……やっと、本当に服を愛せるようになったのよ」 「……っ!」  両手から力が抜け、ダラリと下がる。 「あのミシンの目の細かさ、生地を扱う手つき。……そこにあるのは、ただ純粋に『美しい服を作りたい』っていう、執念だけだった。……その執念を、その技術を、買いに来たの。同情なんかじゃない、会社を大きくするための、最強の戦力としてよ」  静寂。  遠くで他のミシンが動く音だけが、二人の間に横たわる重い空気を微かに震わせている。  俯いたまま動かない。  作業服の膝のあたりで、握りしめられた両手が、ブルブルと激しく震えている。  ポタリ。  透明な雫が、作業台の上に広げられたラフデザイン画の端に落ちた。乾いた紙の上に落ちた雫は、あっという間に濃い染みとなって広がっていく。 「……あんたに」  絞り出すような、泣き声に濡れた低い声。 「あんたなんかに……何がわかるのよ……っ」  ポタリ、ポタリと、次々に涙が落ちる。  顔を上げず、ただ両手で自分の顔を覆い隠した。 「……何もかも失って。……お父様もお母様も、電話にすら出なくなって。……誰からも見放されて……っ」  嗚咽が、肩を激しく揺らす。 「もう、服を作ることしか、残ってないのに……っ。それすら、誰も認めてくれない。……誰も、必要としてくれない……っ!」  それは
last updateLast Updated : 2026-04-17
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第357話 荒れた手の握手

 何も言わず、バッグの中から清潔なハンカチを取り出し、震える手の横にそっと置いた。 「……私たちが、必要としているわ」  静かな声に、嗚咽がピタリと止まる。 「その手が。服への執念が。……どうか、パートナーになって」  長い、長い沈黙が降りた。  ハンカチの白さが、油の染みた作業台の上で小さく浮いていた。もう一度頼み込むこともできた。けれど、ここから先は彼女が選ぶ時間だ。私は言葉を足さず、隣のミシンの規則正しい音を聞いた。助ける側と助けられる側に分かれてしまえば、差し出した契約書の意味が薄れてしまう。目の前のドレスを任せたいという気持ちを、ただ動かさずに待っていた。彼女の指が紙へ伸びるその瞬間まで、私の手も身体の脇で強張ったままだった。  工場の空気に浮く細かなホコリが、窓から差す光の中でキラキラと舞っている。  やがて。  ゆっくりと顔を覆っていた手が離れた。  涙と汗でファンデーションは完全に崩れ、目は真っ赤に充血している。  しかし、その瞳の奥には、先ほどまでの惨めな絶望の色は消え去り、かつての『悪女』としての、強烈な負けん気と意地が、ギラギラと蘇り始めていた。  置かれたハンカチを乱暴に引っ掴み、目元の涙をゴシゴシと拭う。 「……同情なら、お断りよ」  鼻声だが、そのトーンには明確な棘が戻っていた。 「ええ。同情じゃない。戦力としてよ」  真っ直ぐに見返すと、フン、と鼻を鳴らし、テーブルの上の契約書を指先で引き寄せた。 「……勘違いしないでよね」  契約書の紙面を鋭い目で睨みつけながら、吐き捨てるように言う。 「あなたのためじゃないわ。……私が、這い上がるためよ。こんな泥水すすったまま、終わるもんですか。……九龍の連中に、私の本当の才能を見せつけて、後悔させてやるんだから」  ツンと尖った顎。強がりの言葉。  けれど、その声は微かに震え、契約書を握る指先には、確かな熱がこもっている。  思わず口元を綻ばせた。 「……ええ。期待しているわ、チーフデザイナー」  右手を差し出すと、忌々しそうに舌打ちをし、それから、乱暴な動作でその手をパシッと握り返してきた。  ザラザラとした指先の荒れ。ミシンだこのできた硬い手のひら。  それは、血を流しながら一人で戦ってきた時間の結晶の感触だった。  工場の機械油の重い匂いと
last updateLast Updated : 2026-04-17
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第358話 虚飾のレセプション

 重厚な銘木の扉が開くたびに、むせ返るような百合の香りと、数多のブランド香水が混じり合った甘ったるい匂いが鼻腔を突いた。  都心の一等地にそびえ立つ、ガラス張りの外資系高級ホテル。そのメインバンケットホールは、何百というクリスタルのパーツを連ねた巨大なシャンデリアの光に焼き尽くされ、ギラギラとした熱を帯びていた。  天井まで届く巨大なスクリーンには、『新生・九龍アパレル部門 新規ブランド「Étoile Noir(エトワール・ノワール)」レセプションパーティー』という豪奢な文字が、金色の光を放ちながら回転し続けている。  グラスの中で弾けるシャンパンの泡の音。高価な靴のヒールが大理石の床を叩く硬い響き。そして、バイオリンとチェロによる生演奏が、ざわめきを覆い隠すように優雅な旋律を奏でている。  私は、自分の右腕に絡めた湊の腕の、スーツ越しに伝わる硬い筋肉の感触に意識を集中させた。 「……随分と、派手な立ち上げだな」  湊の低い声が、弦楽器の音色を縫って鼓膜に届く。彼の横顔を見上げると、縁なしの眼鏡の奥の漆黒の瞳は、会場を埋め尽くす招待客たちを値踏みするように冷たく細められていた。微かに香る彼特有のサンダルウッドの香りが、会場の淀んだ空気を浄化してくれるように感じられる。 「ええ。九龍の豊富な資金力を、これでもかと見せつけているわね。メディアのカメラの数も尋常じゃないわ」  私は、会場の壁沿いにズラリと並べられたトルソーの群れに視線を移した。  剣吾――現在の九龍グループにおいて、湊を追放した後にトップに座った男――が、社運を懸けて立ち上げたという新規アパレルブランドのドレスたちだ。  遠目から見れば、大量のスパンコールと金糸の刺繍が施され、照明を反射して暴力的なまでに輝いている。だが、プロのブライダルコーディネーターとしての私の目は、その虚飾の奥にある致命的な『軽さ』を正確に見抜いていた。  一歩、トルソーに近づく。  視界の端で、薄いシルクオーガンジーのフリルが揺れる。だが、その揺れ方はどこか不自然に硬かった。  (……生地の落ち感が悪い。縦糸と横糸のテンションが合っていない証拠ね。それに、この刺繍の裏側……当て布の処理が甘くて、表に微妙なシワを作ってしまっている)  私はドレスに触れることなく、その表面のわずかな歪み、光の反射の不均一さ
last updateLast Updated : 2026-04-18
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第359話 黒いコートを脱ぐ

 スピーカーから割れんばかりの音量で響く声に、私は小さく眉間を寄せた。  最高級の素材。最先端のトレンド。  どこかのカタログから抜き出してきたような、空虚で手垢のついた言葉の羅列。そこには、服作りへの熱や、針の一刺しに込める祈りのようなものは一ミリも感じられない。 「……旧体制の古臭い価値観を切り捨て、圧倒的な資本力で業界を席巻する。それが、新生九龍のやり方です。さあ、本日のメインとなる一着を、皆様にお披露目しましょう!」  剣吾の合図とともに、ステージの中央にあった巨大な黒い幕が、バサリと音を立てて引き下ろされた。  閃光のようなカメラのフラッシュが一斉に炸裂する。  現れたのは、真紅のベルベットをベースに、無数のクリスタルを散りばめた巨大なプリンセスラインのドレスだった。  会場から「おおっ」という感嘆のどよめきが上がる。  だが、私はそのドレスを見た瞬間、あまりのバランスの悪さに息を呑んだ。  (……ひどい。ベルベットの重厚な質感に対して、胸元のシフォンの装飾が完全に浮いている。生地同士が喧嘩をして、シルエットが崩壊しているわ。あれでは歩くたびにドレスの裾が不格好に歪むはずよ)  しかし、そんな服の構造的欠陥など気にも留めない招待客たちは、ただ「九龍の新作」というブランド名と、表面的な輝きだけに盛大な拍手を送っていた。  剣吾は満足げにうなずき、ステージの上から会場を見渡した。  そして、その視線が、壁際で静かに佇む私たちを捉えてピタリと止まった。  マイクを持ったまま、剣吾の口角が嫌悪と嘲笑に歪む。 「おや……? 会場の隅に、見慣れた顔がいらっしゃるようですな。まさか、追放された元CEOが、我々の輝かしい門出を妬んで這いつくばって見学に来るとは」  わざとらしいマイクを通した挑発に、会場の視線が一斉に私たちへと集まる。  好奇の目、憐れみの目、そして露骨な冷笑。  無数の視線が矢のように突き刺さる中、湊は私と組んだ腕の角度を一ミリも変えることなく、ただ静かに、凪いだ水面のような漆黒の瞳で剣吾を見返していた。 「……招待状を送ってきたのは君の方だろう、剣吾。身内の恥を大々的に晒す悪趣味な会だと知っていれば、貴重な時間を割きはしなかったがな」  マイクを通さない、だが信じられないほどよく通る湊の低い声が、静まり返った会場の
last updateLast Updated : 2026-04-18
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第360話 青いシルクの反撃

 バサリ、という重い衣擦れの音。  直後、会場の空気が、文字通り凍りついた。  呼吸の音すら消え失せた完全な静寂の中、私が身に纏っていた『それ』が、無数のシャンデリアの光を浴びて、圧倒的な存在感を放ち始めた。  それは、深い海の色を思わせる、ミッドナイトブルーのシルクドレスだった。  剣吾のドレスのような、過剰なスパンコールも、けばけばしい金糸の刺繍もない。  あるのはただ、極限まで計算し尽くされたカッティングと、生地の特性を魔法のように操ったドレープの波だけ。  私がわずかに息をするだけで、シルクの表面が水面のように波打ち、深い陰影が生まれ、そこから信じられないほどの艶やかな光が滲み出す。身体のラインに吸い付くような完璧なフィット感は、まるで第二の皮膚のようだった。  余計な装飾をすべて削ぎ落とし、ただ『服そのものの美しさ』と『着る人間の骨格』を究極まで際立たせるための、狂気的なまでの引き算。  カメラマンの一人が、無意識のうちにシャッターを切った。  カシャッ、というその乾いた音を合図に、堰を切ったように無数のフラッシュが私に降り注いだ。 「な……っ」  ステージの上の剣吾が、目を見開き、マイクを握る手をブルブルと震わせた。 「なんだ、そのドレスは……。どこのブランドだ! そんな生地の処理、見たこともないぞ……!」  どよめきが渦を巻く中、バンケットホールの後方、重厚な扉が再びゆっくりと開かれた。  そこから歩み出てきたのは、かつての豪奢な巻き髪をタイトにまとめ、機能的でありながらも洗練された黒のパンツスーツに身を包んだ女性だった。  首には、職人の証である黄色いメジャーが、まるで勲章のように無造作に掛けられている。 「……ずいぶんと安っぽい服を自慢しているのね。目が腐りそうだわ」  凛とした、しかしどこか冷酷な響きを持ったソプラノの声。  ゆっくりと歩みを進めるその姿に、会場の何人かが息を呑んで道を開けた。 「あ、綾辻……麗華……!?」  剣吾が、信じられないものを見るように声を裏返した。 「九龍にブランドを潰され、借金まみれで消えたはずの女が、なぜここにいる!?」  麗華はヒールの音を響かせながら私の横に並び立つと、ステージ上の真紅のドレスと、私のミッドナイトブルーのドレスを交互に見比べた。  そして、ふっ、と鼻
last updateLast Updated : 2026-04-19
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