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第371話 張り巡らされた蜘蛛の糸④

 私はソファから立ち上がり、手早く身支度を始めた。 コートを羽織り、バッグを手にする。 その時、スマートフォンが再び短い振動を立てた。 画面には、『詩織ねえちゃん』の文字。 ビクッとして、画面を見つめる。姉の詩織は、昔から勘が鋭い。私が何か隠し事をしていると、すぐに匂いを嗅ぎつけてくる。 出ない方がいい。そう思ったが、もし父の容態が急変したという知らせだったらと思うと、無視することはできなかった。 深呼吸をして、通話ボタンを押す。「……もしもし、お姉ちゃん?」『朱里。今、どこ?』 挨拶もなしに、単刀直入に切り込んでくる声。そのトーンは、普段の軽口を叩く時とは違う、硬く冷たいものだった。「アパートにいるけど。お父さんのこと、お母さんから聞いた?」『聞いたわ。今、病院に向かってる途中よ。……で、あんたはどうするつもり?』「どうするって……。私も、後で病院に行こうかと」『嘘ね』 ピシャリと、詩織の言葉が空気を切った。『あんたのその声、昔から一人で何か無茶なことをしようとしてる時の声よ。お父さんの会社の取引先に、私が知り合いの弁護士経由で探りを入れてみたわ。……見事なまでに、九龍の息がかかったところばかりが一斉に手を引いてる』 私は息を呑んだ。姉はすでに、裏で動いていたのだ。『あんた、まさか一人で九龍本家に乗り込もうなんて思ってないでしょうね。相手はヤクザも同然の連中よ。あんたみたいな小娘がどうにかできる相手じゃないわ』「……お姉ちゃんには関係ない。これは、私の問題だから」『家族が倒れてるのに、関係ないわけないでしょうが! あんたねぇ……』「ごめん、切るね」 これ以上話せば、ボロを出してしまう。 私は詩織の怒鳴り声を遮るように通話を切り、スマートフォンの電源を落とした。 静寂が戻ったリビングで、バスルームから聞こえるシャワーの音だけ
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第372話 詩織と征司(前編)①

 空調の低い唸りだけが、その部屋の薄氷のような静寂をかろうじて繋ぎ止めていた。 指先に、ずっしりとした重みが加わる。 高級万年筆の、黒漆のような冷たい軸。それを握る私の右手は、まるで自分のものではないように白く強張り、小刻みに震え続けていた。 視線の先には、純白の上質紙。そこに並ぶ無機質な活字は、湊を社会的な死へと誘う「偽りの供述書」だ。「……どうした。ペン先が震えているぞ、朱里さん」 対面のソファから、龍一郎の底冷えのするような声が鼓膜を刺す。 彼は優雅に脚を組み、バカラのグラスをゆっくりと傾けた。琥珀色の液体の中で、丸く削られた氷がカラン、と乾いた音を立てる。その微かな音さえもが、今の私には心臓の鼓動を一瞬停止させるほど鋭利な刃に感じられた。「この一行にサインをするだけでいい。そうすれば、君の父親の工場の機械は明日の朝には再び動き出し、銀行の担当者は手のひらを返して君の家に頭を下げるだろう。君はただ、ペンを滑らせるだけで家族の平穏を取り戻せるんだ」 龍一郎の背後に控える剣吾が、勝ち誇ったような、歪んだ笑みを浮かべてこちらを見下ろしている。彼の瞳に宿る卑屈な優越感が、部屋の空気の粘度をさらに上げ、私の呼吸を浅くさせていた。 ペン先を、わずかに紙面へと近づける。 インクの、鉄の匂いに似た微かな香りが鼻腔を掠めた。これを紙に押し付ければ、すべてが終わる。同時に、私の愛した時間はすべて汚れ、湊の築き上げてきた誇りは足元から瓦解する。 だが、私がここで踏みとどまれば、父の、インクの染み付いたあのゴツゴツとした手から、生きるための術が永遠に奪われる。 視界が滲み、呼吸の仕方を忘れたように喉がヒューヒューと鳴った。 この逃げ場のない選択が私に突きつけられる数時間前。 もう一人の茅野家の娘は、冷え切った自室の闇の中で、孤独な闘いを開始していた。 ◇「……見事なまでの『貸し剥がし』ね。絵に描いたような嫌がらせだわ」 深夜。築数十年の古びたワンルームアパート。 茅野詩織は、ブルーライトが瞳に刺さるよう
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第373話 詩織と征司(前編)②

 先ほど、妹の朱里と短い電話を交わした。 朱里は「大丈夫」と言った。だが、その声の微かな震え、語尾の消え入りそうな不安定な息遣い。長年、区役所の市民相談窓口で、数え切れないほどの区民の「声なきSOS」を聞き分けてきた詩織の耳を誤魔化すことなど不可能だった。あれは、極限まで追い詰められ、自分一人でどうにかしようとしている人間の悲鳴に他ならない。 朱里は、一人で背負い込むつもりだ。あの不器用で真っ直ぐな妹が、家族を守るためにどんな馬鹿げた自己犠牲を選ぼうとしているか。それを想像するだけで、詩織の胃の奥に熱い怒りの塊が込み上げてきた。「待ってなさいよ、朱里。あんたが自分の人生を安売りする前に、私がその汚い蜘蛛の糸を根元から叩き切ってやるから」 詩織は再び眼鏡をかけ、ノートパソコンのキーボードを激しい音を立てて叩き始めた。 区役所の窓口で培った、泥臭い法律知識と、理不尽な要求を跳ね返すための交渉術。法廷の弁護士のような華やかさはないが、法の網目を縫って生きる人間たちの手口には誰よりも精通している自負があった。 だが、法の盾だけでは足りない。 龍一郎のような、金と権力で法の枠組みそのものを捻じ曲げる怪物を止めるには、正攻法だけでは到底太刀打ちできない。 必要なのは、相手の喉元に直接突き立てるための、決定的な「劇薬」だ。 詩織の指が、検索画面に打ち込んだ一つの名前の上でピタリと止まった。『九龍征司』 九龍グループの内部構造を洗い出していた際に見つけた、特異な経歴を持つ男。剛造の息子であり、湊の従兄弟。 かつて湊と次期当主の座を争う位置にいたが、父・剛造の失脚に伴い、その悪行の責任を自ら被る形で九龍の本流から身を引いた人物だ。現在は海外支部へとその身を移し、表向きは「追放された放蕩息子」を演じている。 だが、詩織の集めた情報によれば、彼の手腕は決して無能な遊び人のものではなかった。むしろ、空気を読み、人の懐に入り込む天性の「人たらし」であり、その軽薄な仮面の奥には、一族の腐敗に心を痛める生真面目さが隠されているという。 湊に対しては、その圧倒的な完璧さに劣等感を抱き、時に嫉妬の言葉を口にすることはあっても、彼
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第374話 詩織と征司(前編)③

 詩織の声は、自分でも驚くほど冷徹に、そして滑らかに夜の空気の中へと溶け込んでいった。『……ほう?』 電話の向こうで、男の気怠げな空気が一瞬にして微かな緊張へと変わるのを、詩織は確かに感じ取った。 ◇ 午前二時三十分。 銀座の喧騒から数本外れた、街灯の光すら届かない路地裏。看板のない会員制バーの重厚な真鍮のドアを押し開けると、冷房で極限まで冷やされた空気と共に、スモーキーなウイスキーの香りと、気怠いサックスの旋律が詩織の全身を包み込んだ。 薄暗い店内。カウンターの最奥、最も光の届かない席に、その男はいた。 少し着崩したブランド物のシャツの上から、仕立てのいいチャコールグレーのジャケットを羽織り、片手でクリスタルグラスをゆっくりと回している。湊の洗練された、どこか触れがたい冷たさを持つ貴公子のような佇まいとは対照的な、柔らかく、それでいて油断ならない甘いオーラを放つ男。 詩織はヒールの音を忍ばせることなく歩み寄り、彼の隣の空いたスツールへと迷いなく腰を下ろした。「……茅野、と言ったか。湊の隣にいる、あの生真面目そうな女の子の姉さんだという」 征司はグラスから視線を外すと、目元に愛嬌のある笑みを浮かべて詩織を見つめた。ベルガモットの爽やかで、ほんのりと甘い香水が香る。「わざわざ海外から帰国中のお休みのところ、申し訳ないわね。遊び人のフリをするのも疲れるでしょう?」「手厳しいな。フリじゃなくて、俺は根っからの遊び人だよ。親父の不始末の泥を被って海外に飛ばされた、ただの道楽息子さ。湊みたいな完璧な王様とは出来が違う」 征司は肩をすくめ、氷の溶けかかった液体を一口含んだ。その軽口の裏に、チクリとした劣等感の棘が隠されているのを、詩織は聞き逃さなかった。「湊に対するコンプレックスの話なら、他所でやってちょうだい。私がここに来たのは、傷の舐め合いをするためじゃないわ」 詩織はバーテンダーに短く目配せをし、最も度数の高いジンをストレートで注文した。「私は湊を助けるためにここへ来たんじゃない。私の家族を、私の妹を守るために、あ
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第375話 詩織と征司(前編)④

「本心からそう思っているなら、今すぐこの店を出ていくわ」 詩織は届いたジンのグラスを一気に煽り、喉を焼くようなアルコールの熱と共に、真正面から征司を睨みつけた。「あなたは親の悪行に耐えきれず、自ら責任を被って身を引いた。根は生真面目で、一族の腐敗に誰よりも心を痛めている男が、龍一郎のような怪物の暴走を黙って見ていられるはずがないわ。……違う?」 詩織の言葉に、征司の目から軽薄な笑みがスッと消え去った。 数秒の、重苦しい沈黙。グラスの氷が溶ける音だけが、二人の間に流れる張り詰めた緊張感を煽り立てる。「……言うじゃないか、区役所勤めの公務員殿」「窓口で毎日、理不尽な人間と闘っているのよ。人の嘘や強がりを見抜くのには慣れているわ」 詩織はバッグから一枚の折り畳まれたコピー用紙を取り出し、冷たいカウンターの上を滑らせた。 紙が擦れる乾いた音が、サックスの旋律の間隙を縫って響く。 そこには、詩織が独自のルートで調べ上げた、九龍関連企業の不可解な資金移動ルートが、法的な問題点を赤ペンでびっしりと書き込まれた状態で記されていた。 征司の太い眉が、微かに跳ねる。 彼はその紙片を手に取り、鋭い目つきで内容を精査し始めた。「……なるほど。この国内のダミー会社を経由した資金の還流。俺が海外から密かに追っていた、ドバイの口座の不自然な動きと、ここで完璧に繋がるわけか」「龍一郎は、自身の失敗による損失を補填するために、密かに国内の関連会社から資金を吸い上げている。明らかな横領であり、特別背任。九龍の監査役や大株主たちが、この決定的な証拠を見せられて黙っているはずがないわ」 詩織は身を乗り出し、征司の目を真っ向から見据えた。「私が欲しいのは、実家への融資を今すぐ再開させるための、龍一郎への決定的な脅し文句。あなたが持っているのは、その脅し文句を完成させるための、海外の裏帳簿という実弾。……利害は一致しているはずよ、九龍征司さん」 征司は不意に、喉の奥を鳴らして低く笑い出した。 
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第376話 詩織と征司(前編)⑤

「俺は、ただの善意で動くような人間じゃない。それに、こんな危険な橋を渡るんだ。この貸しは、法外な利子をつけていつか必ずあんたに払ってもらうぞ」 至近距離で見つめてくる、熱を帯びた瞳。 詩織はわずかに口角を上げ、挑発的に微笑み返した。「区役所の給料は安いのよ。払えるものなら、何でも持っていけばいいわ。……ただし、私の家族に指一本でも触れたら、その時はあなたが法廷に立つことになるけれど」「ははっ! 最高だ。ますます気に入ったよ」 征司は身を引き、満面の笑みで頷いた。「時間は一刻を争うんだろ。あんたの妹が呼び出されている場所は分かっている。そこへ踏み込むための最高のシナリオを、今すぐ練り上げようじゃないか。……あの怪物を法の網で絡め取るための、反撃の狼煙をな」 薄暗いバーのカウンターで視線を交わす二人の間に、静かに、しかし確実に火花が散った。 それは単なる共犯関係の始まりというだけではない、互いの魂の芯の部分を認め合った、ヒリヒリとするような熱を帯びていた。 ◇ 再び、現在のVIPルーム。 私の指先で、万年筆のペン先が、ついに紙面へと触れた。 インクの小さな黒い点が、純白の紙にゆっくりと染み込んでいく。「……さあ、朱里さん。手が止まっているよ。ご両親の首が絞まっていく音が、君には聞こえないのかな」 龍一郎の、蛇が這いずるような催促の声。 私は強く唇を噛み締め、血の味が口の中に広がるのを感じながら、最後の一文字に向かってペンを滑らせようとした。 その時。 ドォン、という、重厚な香木の扉を物理的に蹴り破るような凄まじい衝撃音が、密室の空気を爆発的に震わせた。「――その契約、法的な瑕疵があまりにも多すぎるんじゃないかしら。龍一郎様」 部屋の静寂を真っ二つに切り裂いたのは、氷のように冷たく、そしてどこまでも凛とした、私のよく知る声だった。 私は弾かれたように顔を上げた。 粉々に砕け散った静寂の中、ドアの枠を背にして立っていたのは、深夜の
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第377話 詩織と征司(後編)①

 爆発的な音と共に、VIPルームの重厚なマホガニーの扉が、枠ごと悲鳴を上げて跳ね飛ばされた。 衝撃で生じた微かな埃が、間接照明の光に照らされてキラキラと舞う。その粒子を切り裂くようにして室内に踏み込んできたのは、凛とした、そして怒りに燃える一振りの刃のような、姉の詩織だった。「――お姉ちゃん……っ!」 私は、万年筆を握り締めたまま、掠れた声を絞り出した。ペン先が純白の紙の上で大きく滑り、醜い黒のインクを撒き散らす。 詩織は私を一瞥すると、その足で真っ直ぐにローテーブルへと歩み寄った。彼女の背筋は定規を当てたように真っ直ぐで、区役所の窓口で鍛え上げられた「公務員」としての冷静さと、家族を傷つけられた「姉」としての苛烈さが、その全身から冷気となって溢れ出している。「強要罪、刑法第二百二十三条。生命、身体、自由、名誉若しくは財産に対し害を加える旨を告知して脅迫し、又は暴行を用いて、人に義務のないことを行わせ……。龍一郎様、この状況は、まさしくそれ以外の何物でもないわね」 詩織は、テーブルの上に散らばった融資停止通知書を、ゴミでも見るような目で一瞥した。「法的根拠のない融資の打ち切り、および取引先への不当な圧力。それらを用いた偽証の強要。……この『供述書』とやら、法廷に出す前に、私の名前で告発状として受理してあげましょうか?」「……詩織、と言ったか。区役所の小役人が、九龍のやり方に口を出すとは、身の程を知らないにも程があるな」 龍一郎が、低く、唸るような声で応じた。彼の指先が、持っていたバカラのグラスをミシリと軋ませる。その余裕の仮面の下で、剥き出しの殺意が蠢いているのが、ここからでもはっきりと見て取れた。 だが、その殺意を、場違いなほど軽快な声が真っ向から受け流した。「まあまあ、叔父貴。そう怖い顔しないでくださいよ。せっかくの最高級ウイスキーが、毒の味になっちゃうじゃないですか」 詩織の影から、悠然と姿を現したのは、九龍征司だった。 彼はシャツの第一ボタンを外したまま、遊び慣れた軽薄な笑みを湛えて、部屋
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第378話 詩織と征司(後編)②

 征司はジャケットの内ポケットから、一台のタブレット端末を取り出し、それを滑らせるようにしてテーブルの上、龍一郎の目の前へと突き出した。 画面に映し出されていたのは、複雑な資金移動を示すグラフと、聞き慣れない海外法人の名前、そして……龍一郎自身の署名が入った決済書類の数々だった。「ドバイを経由した資金の還流、および国内関連会社からの不当な引き出し。……合計で、ざっと三十億ってところですか? 叔父貴、ご自分の不動産投資の失敗を、会社の金で穴埋めしようなんて、特別背任もいいところですよ」 龍一郎の顔色が、土気色へと変わった。「そんなもの、どこで……!」「俺を誰だと思っているんですか? 要領の良さだけが取り柄の、九龍征司ですよ。空気を読むのは得意なんです。……あっちの銀行家たち、叔父貴に愛想を尽かしかけていましたよ。『龍一郎はもう終わりだ、次は湊か征司の時代だ』ってね」 征司は、驚愕に凍りつく剣吾の肩を、ポン、と軽く叩いた。「剣吾、お前も大変だな。こんな沈みかけの泥舟に最後まで乗らされて。……まあ、お前もその片棒を担いでいた記録は、ここにあるけど」 剣吾は絶句し、その場に力なく崩れ落ちた。 龍一郎は、震える手で葉巻を灰皿に押し付けた。その指先が、明らかに統制を失っている。「……茅野詩織。貴様、征司と組んで、私を脅迫するつもりか」「脅迫? 人聞きの悪い。私はただ、市民の平穏な生活を守るために、行政の立場から『不適切な事務処理』を是正するお手伝いをしているだけよ」 詩織は冷たく言い放つと、私の手から万年筆をもぎ取るようにして奪い、そのペン先を龍一郎へと向けた。「今すぐ、実家への融資停止を撤回させなさい。そして、取引先への圧力もすべて解除すること。……さもなければ、このタブレットのデータは、一分後には検察と証券取引等監視委員会に同時送信される。……選択肢は、もうないわよ」 密室の空気が、
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第379話 詩織と征司(後編)③

「叔父様。……僕を倒すために朱里を、そして彼女の家族を標的にしたのは、あなたの生涯で最大の失敗です。あなたが汚した九龍の誇りは、僕と……そこにいる征司が、責任を持って浄化させてもらいます」 湊の言葉に、龍一郎はもはや反論する力すら残っていないようだった。「……湊。僕の貸し、高くつくからな」 征司が、グラスを掲げて湊にニヤリと笑いかけた。 湊は、かつてのライバルを冷たく、だがどこか信頼を込めた目で見返した。「わかっている。……利子は、君が満足するまでつけてやろう」 詩織は、やり遂げたという表情で、深くため息をついた。「……ったく。どいつもこいつも、ドラマチックすぎて胃が痛いわ」 彼女は、乱れた眼鏡を指先でクイッと直すと、征司の方へ視線を向けた。「征司さん、約束は守るわよ。……でも、高い酒のおかわりは、自腹でお願いね」 征司は目を丸くした後、肩を揺らして笑った。「ははっ! やっぱり、あんたには敵わないな。……ああ、最高だ。これだから、生真面目な女ってのは面白い」 二人の間に流れる、どこか甘く、それでいてヒリヒリとするような火花。 私は、湊の腕の中でようやく、肺の奥まで空気を吸い込むことができた。 勝った。 私たちは、この悪夢のような夜を、自分たちの力で切り抜けたのだ。 湊の手が、私の腰をより強く引き寄せた。その体温が、生きているという実感を与えてくれる。 しかし。 その勝利の余韻を、湊のポケットの中で鳴り響いた、一本の電話が残酷に切り裂いた。 湊は表情を曇らせ、スマートフォンを取り出した。 画面を見た瞬間、彼の瞳が、見たこともないほどに大きく見開かれる。「……志保さん?」 湊は電話を耳に当てた。 数秒後、彼の全身から、血の気が引いていくのがわかった。「&hell
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第380話 孤独な闘い①

 救急車の赤い回転灯が、巨大な鉄格子の門をくぐり抜け、鬱蒼と茂る森の闇の向こうへと吸い込まれていった。遠ざかっていくサイレンの甲高い音は、夜の重い大気に絡め取られるようにしてやがて消え失せ、後には耳の奥がキーンと痛くなるほどの、暴力的とも言える静寂だけが残された。 九龍家本邸。 鎌倉の深い森に抱かれたその広大な屋敷は、今はただの巨大な石の墓標のように、青白い月の光を浴びて冷たく沈黙している。 玉砂利の敷かれた車回しに、一人の女性が立っていた。 志保。湊の継母であり、この呪われた家で二十年以上「冷酷で無関心な後妻」という役を、血を吐くような思いで演じ続けてきた女性だ。 彼女の指先は、カシミヤのコートのポケットの中で、土に汚れた小さな園芸用スコップの柄を、折れんばかりに強く握り締めていた。その冷たく硬い金属の感触と、柄に染み付いた土の微かな匂いだけが、今の彼女を、押し潰されそうな現実の重力に繋ぎ止めている。「……志保さん。あなた、本当に行かなくてよろしいのですか?」 分家の主だという、脂ぎった顔をした初老の男が、車の窓を開けて声をかけてきた。心配を装ってはいるが、その小さな目には、本家の不幸を喜ぶ下卑た好奇心と、志保を軽蔑する色が隠しきれずに浮かんでいる。彼もまた、龍一郎が本邸に引き入れた取り巻きの一人に過ぎない。「ええ。看病は、忠誠心あふれる分家の方々にお任せしますわ」 志保は振り返ることなく、氷のように冷徹な、そして少しだけ傲慢さを滲ませたソプラノで応じた。「私は、この屋敷に残ります。……華枝様が不在の間に、積もりに積もった『汚れ』を、隅々まで掃除しておかなければなりませんから」「ですが、こんな広い屋敷に女手一つで……」「お行きなさい。今すぐ病院に駆けつければ、龍一郎様に忠犬としての顔を売る、絶好のチャンスではありませんか? あなたのそのお腹の肉よりは、いくらか足しになる働きができるでしょう」 志保の氷の刃のような蔑む視線に、男は顔を真っ赤にして言葉を詰まらせ、逃げるように黒塗りの高級車へと首を引っ込めた。 タイ
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