บททั้งหมดของ 復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました: บทที่ 361 - บทที่ 370

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第361話 針先で示す価値

 麗華の的確すぎる指摘に、会場にいたファッション関係者たちが、ハッとしてドレスの裾を食い入るように見つめ、次々に納得の声を上げ始めた。 「……確かに、裾のラインが波打っている」 「シフォンの縫い代が表に響いてるぞ……あれじゃ素人の仕事だ」  ざわめきが、急速に剣吾への不信感へと変わっていく。  麗華はつまんでいたシフォンを汚いものでも捨てるように放り投げると、冷たい視線で剣吾を見下ろした。 「あんたの服作りは、ただ高い布を切り刻んで、スパンコールという名の接着剤でごまかしているだけ。そこには、着る人間の体温も、骨格も、呼吸すらも計算されていない」 「だ、黙れ……っ! 警備員! この女をつまみ出せ!」  パニックに陥った剣吾が叫ぶが、誰も動こうとはしない。いや、私の着ているミッドナイトブルーのドレスの放つ異様なまでの美しさに魅了され、誰も麗華の言葉を止めることができなかったのだ。  麗華はステージの端まで歩み寄り、私を、そして私が着ているドレスを指差した。 「これを見なさい。これが『真のドレス』よ。シルクの落ち感だけでボディラインを構築し、一針の歪みすら許さない、ミリ単位のドレープの調整。……この服はね、着る人間の呼吸に合わせて生きているのよ」  私は静かに息を吸い込んだ。  その胸の動きに合わせて、ドレスの布地が滑らかに滑り、照明の光を波のように反射させる。  締め付けられている感覚は全くないのに、私の身体は誰よりも美しく、気高く見えているはずだ。それが、麗華の指先が作り出した魔法だった。 「……服を愛していない人間に、ファッションを語る資格はないわ」  麗華のその言葉は、かつて彼女が最も見下していたはずの『服への愛情』そのものだった。  どん底の縫製工場で、油に塗れ、爪を割って、血を滲ませながらミシンに向かっていた日々。虚栄心をすべて剥ぎ取られ、残った純粋な執念だけが、彼女を真のクリエイターへと昇華させたのだ。  剣吾は膝から崩れ落ちるように後ずさり、背後の壁に背中をぶつけた。 「そんな……バカな……。俺が、九龍の資金で作ったブランドが……こんな、端切れのような……」 「資金の多寡ではない。服に宿る魂の重さの違いだ」  湊が、私の隣にゆっくりと歩み寄ってきた。  彼は私の腰にそっと手を回し、その硬く熱い手のひらで、シルク越し
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第362話 控室の採点

 フラッシュの残像が網膜の裏側に焼き付いたまま、控室の重厚なドアがカチャリと冷たい金属音を立てて閉まった。  分厚い防音扉が、バンケットホールから溢れ出していた狂乱に近い熱狂と、逃げ場を失ったざわめきを完全に遮断する。残されたのは、換気扇の低い駆動音と、シルクの生地同士が擦れ合う微かな、だが密やかな音だけだった。  私は大きく息を吐き出し、限界まで張り詰めていた肩の力をゆっくりと抜いた。ミッドナイトブルーのドレスが、私の動きに合わせて夜の海のように波打ち、室内灯の下で艶やかな光の余韻を落とす。 「……まったく、呆れた着こなしね」  ソファにどかと腰を下ろした麗華が、首から下げていた黄色いメジャーを指先で弄りながら鼻を鳴らした。その声には、先ほどまでの冷酷なトーンとは違う、どこか毒気を抜かれたような、あるいは照れ隠しのような響きが混じっている。 「シルクのテンションを殺さないように歩けと言ったのに、最後の三歩、明らかに歩幅が大きすぎたわよ。裾のドレープが〇・五秒遅れてついてきてたじゃない。あれじゃあ、せっかくのバイアスカットが台無しだわ」 「ご、ごめんなさい。でも、あれだけの人に見られてたら、足元なんて気にしてられなくて……。頭の中が真っ白になりそうだったの」 「プロなら視線すら計算に入れて服を着なさい。視線は重力と同じよ、利用してこそ最高のシルエットが生まれるんだから。……まあ、及第点よりは少し上だったけれど」  ふい、とそっぽを向く麗華の横顔に、私は思わず口元をほころばせた。不器用な彼女なりの、最大限の賛辞だということは、これまでの針仕事に懸ける執念を見てきた私には痛いほど分かっていた。 「ありがとう、麗華さん。このドレスのおかげで、私はあそこに立てたわ。私の背中を支えてくれたのは、麗華さんの針先だった」 「勘違いしないで。私はただ、自分の作った服の一番美しい形を世間に見せつけたかっただけよ。あんたはそのための動くトルソー。それ以上でも以下でもないわ」  ツンとした態度のまま、麗華は立ち上がり、壁際のハンガーラックから私の元の服を引っ張り出した。 「さあ、さっさと脱ぎなさい。シルクは体温と湿気を吸うと劣化するの。私の子どもにこれ以上、無駄な熱を吸わせないでちょうだい」 「子どもって……。本当に、服が愛しくて仕方ないのね」  苦笑しながら
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第363話 非通知の着信

 至近距離で香る、彼特有の清涼なサンダルウッドの匂いが、急激に私の心拍数を跳ね上げる。 「湊のおかげよ。隣にいてくれなかったら、きっと足がすくんで一歩も動けなかった」 「僕はただ、君が輝くための適切な影を用意したにすぎないよ。光を放ったのは、紛れもなく君自身だ。僕の目は、最初からそれを確信していた」  湊はわずかに目を細め、私の頬を大きな手のひらで包み込んだ。その熱が、ドレスの冷たい感触と鮮やかなコントラストを描き、皮膚の奥へと浸透してくる。 「あー、もう。そういう甘ったるいやり取りは、私が帰ってからにしてくれない? こっちは仕事が終わって、今すぐビールを流し込みたい気分なんだから」  麗華がわざとらしく大きなため息をつき、ハンガーをガシャガシャと派手な音を立てて鳴らした。  湊はゆっくりと手を離し、スチール製の腕時計に視線を落とした。 「……すまないが、ゆっくり祝杯を挙げている時間はなさそうだ。これからすぐ、別室でシンガポールの投資ファンドとの極秘会談が入っている」 「今から? もう夜も遅いのに」 「ああ。剣吾の致命的な失態を目の当たりにした彼らは、今最も僕たちの条件を飲みやすい状態にある。鉄は熱いうちに、そして心が折れているうちに打つべきだ。今回の会談は機密性が極めて高く、電波を完全に遮断したシールドルームで行われる。二、三時間は外部との連絡がつかなくなるが、終わったらすぐにアパートへ戻るよ」 「分かったわ。無理しないでね、湊」  湊は短く頷くと、控室のドアノブに手をかけた。その背中は、再び冷徹なCEOのオーラを纏い始めている。 「麗華、朱里を頼む。タクシーは手配してあるから」 「言われなくても。私の最高傑作のモデルに、傷一つつけさせるもんですか。あんたこそ、数字の計算で頭をパンクさせないようにね」  湊の背中が扉の向こうに消え、再び部屋に、密閉された空間特有の静けさが戻った。  私は麗華の手伝いで慎重にドレスを脱ぎ、いつもの着慣れた柔らかなニットとパンツに着替えた。上質なシルクが肌から離れる瞬間、魔法が解けたような、どこか心細い感覚がふっと足元をかすめた。◇ ホテルの従業員用の、照明が少し落とされた裏通路を歩いているときだった。  コートのポケットの中で、スマートフォンが短い振動を執拗に繰り返した。  立ち止まり、画面の表
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第364話 家族への脅し

 スピーカーから漏れ出したのは、微かなノイズの混じった、ひび割れたような低い声だった。  一瞬、肺が凍りついたように息が止まる。数十分前、豪華なステージの上で私を嘲笑い、そして最後には絶望に顔を歪めていた男の声。 「……剣吾」 『湊の隣で、ずいぶんと気持ちよく笑っていたじゃないか。俺をコケにして、すべてを手に入れたような顔で……。吐き気がするよ』  ギリギリと奥歯を噛み締めるような音が、電話越しに生々しく伝わってくる。その背後には、異様なまでの静寂が横たわっていた。 「何のご用ですか。もう、あなたと話すことは何も……」 『電話を切るな!』  突然の鼓膜を震わす怒鳴り声に、私は思わず肩をビクッと跳ねさせた。数歩前を歩いていた麗華が、鋭い視線で怪訝そうに振り向く。私は片手を挙げて「少し遅れる」とジェスチャーで制し、通路の角に身を隠した。 『切れば一生後悔することになるぞ。お前の実家の小さな印刷所……茅野印刷だったか。あそこ、明日には不渡りを出して倒産する手筈になっている』  心臓が、ドクン、と嫌な音を立てて跳ねた。 「……何を言っているの? うちの工場は、経営は安定しているはずよ。父も母も、真面目に働いて……」 『安定? 笑わせるな。メインバンクからの融資が急にストップし、大口の取引先から一斉に契約を切られたら、あんな吹けば飛ぶような町工場、一日で首が回らなくなる。今頃、お前の親父は血相を変えて、閉まった銀行のシャッターの前で土下座でもしている頃だろうな』  口の中が砂を噛んだようにカラカラに乾き、唾液を飲み込むことすら困難になる。 「嘘よ。そんなこと、あなたにできるはずが……」 『俺にじゃない。……九龍という巨大な歯車に、だ』  剣吾の声が、底意地の悪い粘り気を帯びて鼓膜にまとわりつく。 『今すぐ、指定する場所へ一人で来い。誰かに話したり、逃げたりしてみろ。お前の両親は文字通り路頭に迷い、首を吊ることになる。湊に助けを求めようとしても無駄だぞ。奴は今、電波の届かないVIPルームで呑気に商談中だからな。……三十分だ。三十分待って来なければ、実行の判を捺す』  私の置かれた状況を、針の穴を通すような正確さで把握している。  指先から急速に温度が奪われ、爪先が冷え切っていくのが分かった。 「……どこへ行けばいいの」  剣吾はホテルの名
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第365話 三五〇一号室

「……ううん、なんでもない。ごめんなさい麗華さん、私、どうしても外せない急用を思い出してしまって」 「急用? こんな時間に? 湊がタクシーを手配してるって言ったでしょう」 「そのタクシー、麗華さんが使って。私、別のところに行かなきゃいけなくて。本当に、ごめんなさい!」  早口でそれだけをまくしたてると、私は麗華の制止の声を背中で振り切るように、ホテルの従業員出口へと向かって走り出した。  夜の冷たい空気が、肺の奥を刃物のように刺す。  頭の中で、剣吾の歪んだ声が何度もリフレインしていた。  両親の会社が潰れる。  それは、私のせい? 私が湊の側にいることを選んだから?  流しのタクシーを拾い、指定されたホテルへ向かう道中、私は震える指で何度も湊の番号に発信した。しかし、聞こえてくるのは「電波の届かない場所にいるか……」という機械的なアナウンスだけだった。それは、今の私を包む絶望的な孤独を象徴しているようだった。◇ タクシーを降りると、指定されたホテルは、先ほどのパーティー会場の熱狂が嘘のように、深い静寂の中に沈んでいた。  ライトアップされたエントランスは美しいが、どこか人を拒絶するような冷徹さを湛えている。大理石のロビーには人影はなく、私のヒールが床を叩く乾いた音だけが、天井に向かって虚しく反響した。  エレベーターで三十五階まで上がり、ふかふかの絨毯が敷き詰められた廊下を進む。足音がすべて絨毯に吸い込まれ、まるで感覚が麻痺していくような錯覚に陥った。 『3501』  真鍮製の重厚なプレートが打ち付けられた、マホガニーのドアの前に立つ。  手のひらに滲んだ嫌な汗をコートの裾で拭い、意を決してインターホンを押した。  数秒の、永遠にも感じられる空白の後、カチャリと内側から鍵の開く音がして、ドアがゆっくりと開かれた。 「……ようやく来たか。意外と早かったな」  そこに立っていたのは、シルクのタイをだらしなく緩め、髪を振り乱した剣吾だった。強烈な酒の匂いと、安物の香水のような、そして何より強い葉巻の煙の匂いが混じり合って、むせ返るような不快感を煽る。 「入れ」  乱暴に細い腕を掴まれ、室内に引きずり込まれる。  広大なリビングルームは、隅に置かれた間接照明だけが点けられ、濃い影が部屋の四隅に溜まっていた。  そして、部屋の最奥
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第366話 差し出された偽証

 九龍グループの闇そのもの。湊の過去を、そして現在をも支配しようとする怪物。  九龍龍一郎が、氷のように冷徹な眼差しで、獲物を定めるように私を見据えていた。 「龍一郎……様」 「座りなさい。君を歓迎する準備はできている」  龍一郎が顎で、対面に置かれた本革のソファをしゃくった。  私は震える膝を必死に抑え込み、ゆっくりとソファの端に、浅く腰を下ろした。剣吾は私の背後に回り、逃げ道を塞ぐように腕を組んで、壁に寄りかかっている。その視線が、ねっとりと私の背中にまとわりつくのが分かった。  龍一郎は葉巻の灰を、無造作にクリスタルの灰皿へと落とした。カチン、というその微かな音が、私の神経を逆撫でする。彼はローテーブルの上に置かれた、膨らんだ茶封筒を、私の前へと滑らせた。  シュッ、という紙が擦れる音が、沈黙の中で妙に大きく響いた。 「開けてみなさい。君の家族の運命が、そこに綴られている」  促されるまま、私は震える指先で封筒の口を開き、中に入っていた数枚の書類を取り出した。  それは、私の実家である茅野印刷への『融資停止通知書』のコピーと、長年付き合いのあった主要な取引先数社からの『契約解除通知』の写しだった。  書面の隅には、見覚えのあるメインバンクの公印や、取引先の担当者のサインが、残酷なほど鮮明に記されている。 「……これは、横暴です。こんなことが、許されるはずが……」 「世の中は数字と印鑑で動いている。私の指示一つで、明日の朝九時にはこれらの原本が内容証明として君の実家に届く手筈になっている。零細企業など、銀行の蛇口をほんの少しひねってやるだけで、あっという間に干上がる。簡単なことだ」  龍一郎はバカラのグラスの中の氷をカランと鳴らし、琥珀色の液体を一口含んだ。 「なぜ、こんな……! 私の両親は、九龍の闘争には何の関係もないはずです! 彼らはただ、真面目に仕事をしているだけなのに!」 「関係大ありだ。君という存在が、あの湊の精神的な拠り所になっている。それが、私にとっては計画を乱すノイズでしかないのだよ」  龍一郎の目が、爬虫類のように細く、冷たく歪んだ。 「単刀直入に言おう。君のご両親の会社を、そして彼らの人生を救う道は唯一つしかない。私と、ある『契約』を結ぶことだ」 「契約……?」 「明日、私の息のかかった週刊誌の記者が君
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第367話 裏切れない相手

 偽証。  湊を、その魂ごと陥れるための、取り返しのつかない嘘。  通知書の角が、照明の下で白く光っていた。あの紙を燃やせば父の仕事が守られる。その代わり、私の口から出た言葉は、もう二度と取り消せない形で湊を傷つける。どちらも紙の上の話なのに、その向こうには、人の一日一日の暮らしがあった。 「……ふざけないで」  私は、テーブルの上に散らばった書類を乱暴に束ねると、龍一郎の目の前へ叩きつけるように突き返した。  紙の束がローテーブルの上を滑り、乾いた音を立てて止まる。 「私は、ブライダルコーディネーターです」  声が震えているのが自分でも分かった。それでも、私は膝の上で両手を強く握り締め、龍一郎の底の見えない目を真っ直ぐに見返した。 「人と人が、心から信じ合って結びつく、その瞬間を一番大切に思って働いてきました。……偽りの契約で、愛する人を奈落に突き落とすような真似は、死んでもしません」  その言葉を聞いた瞬間、龍一郎は微かに眉を動かし、そして、喉の奥で低く、不気味に笑った。 「愛、か。若さゆえの純粋さは実に滑稽だが、同時に酷く脆い。君のその言葉が、明日、親の涙に変わっても同じことが言えるかな?」  彼は葉巻を灰皿に押し付けると、ゆっくりと身を乗り出し、私の顔を間近で覗き込んだ。 「いいだろう。なら、君のその美しい矜持と引き換えに、ご両親が住み慣れた家を追われ、路頭に迷う姿を特等席で見物するといい。首を吊るためのロープ代くらいは、私からの最後の香典として包んでやろう」  肺の中の空気が、すべて真空へと吸い出されたような感覚に陥った。 「……っ!」  私は弾かれたようにソファから立ち上がり、背後にいた剣吾の腕を突き飛ばすようにして、ドアへと走り出した。 「おい、待てと言っているんだ!」  背後で剣吾が激昂する声を聞きながら、私はドアノブを乱暴に回し、部屋を飛び出した。  廊下に飛び出した瞬間、呼吸の仕方を忘れたように喉がヒューヒューと鳴った。  無音の絨毯の上を、足がもつれそうになりながら必死で走る。  エレベーターのボタンを何度も連打し、箱の中に滑り込むと同時に、壁に背中を預けてズルズルとその場にしゃがみ込んだ。  湊を裏切るか。両親を、家族を見殺しにするか。  冷たいエレベーターの床の感触が、パンツ越しに肌を刺し、私の意
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第368話 暗い部屋への帰宅

 エレベーターが1階に到着を告げる、無機質な電子音が鳴った。  ゆっくりと開く金属の扉の隙間から、深夜の冷え切ったロビーの空気が流れ込んでくる。私は壁に押し当てていた背中を離し、震える膝に力を込めて立ち上がった。  足元がフワフワとして、まるで自分の足ではないような感覚がまとわりついている。それでも、一歩ずつ大理石の床を踏みしめ、ホテルの自動ドアを潜り抜けた。  外に出ると、冷たい夜風が容赦なく頬を叩いた。コートの襟をかき合わせ、通りを走るタクシーのヘッドライトの群れをぼんやりと見つめる。  龍一郎の、底冷えのするような低い声が、まだ耳の奥で反響していた。 『君のご両親が住み慣れた家を追われ、路頭に迷う姿を特等席で見物するといい』  ローテーブルの上にばら撒かれた、融資停止通知書と契約解除通知の束。あれは決して脅しなどではなく、九龍という巨大な組織がその気になれば、明日の朝には現実となる冷酷な刃なのだ。  私はタクシーに乗り込み、行き先を告げる声が酷く掠れていることに気づいた。  アパートの部屋に戻ったのは、日付が変わってしばらく経った頃だった。  鍵を開け、真っ暗な玄関に足を踏み入れる。湊はまだ帰っていない。シンガポールの投資ファンドとの極秘会談。彼もまた、生き馬の目を抜くような戦いの最中にいる。  靴を脱ぐ動作すら重労働に感じられ、私はリビングのソファに倒れ込むように身を沈めた。  暖房を入れる気力もなく、ただ暗闇の中で膝を抱える。  私が湊の側にいるから、両親が標的になった。私が彼を支えたいと願ったことが、家族の平穏な生活を根底から破壊しようとしている。  ――偽りの契約を結べ。  湊を裏切るなんて、できるはずがない。彼の孤独を知り、彼の不器用な優しさに触れてきた私が、彼を奈落の底へ突き落とすような嘘の証言をするなんて。  けれど、もし私が拒めば、父と母はどうなる? 小さな印刷所を必死に守ってきた父の、インクの染み付いたゴツゴツとした手が、絶望に震える姿を想像するだけで、胸が刃物で抉られるように痛んだ。  どうすればいい。どうすれば。  ぐるぐると堂々巡りの思考を繰り返すうち、いつの間にか私は、ソファの上で浅い眠りに落ちていた。◇ 耳を刺すようなスマートフォンの着信音で、私は弾かれたように目を見開いた。  窓の隙間から、
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第369話 母からの電話

 冷え切った指先で、通話ボタンをスワイプする。 「……もしもし、お母さん?」 『朱里……! 朱里、どうしよう、お父さんが……』  スピーカー越しに聞こえてきた母の声は、しゃくり上げるような泣き声にまみれていた。  全身の血液が一瞬で凍りつくような感覚に襲われる。 「お母さん、落ち着いて。お父さんがどうしたの?」 『今朝、早くに工場へ行ったお父さんが、事務所で倒れてて……。救急車で運ばれたの。今、病院の待合室なんだけど、まだ意識が戻らなくて……っ』  母の震える声が、鼓膜を突き破って脳に直接響く。 「倒れたって……どうして。昨日まではあんなに元気だったじゃない」 『わからないわ……。でも、お父さんの机の上に、銀行からの速達が束になって置いてあって……融資が打ち切られるって、そんなこと……』  言葉が、出なかった。  龍一郎の言葉が、現実のものとなったのだ。彼は宣言通り、朝一番を待たずに、水面下で既に手を回していた。父は、その絶望的な通知を一人で受け取り、心労で倒れたのだ。 「お母さん、病院はどこ? すぐに……」 『来なくていいわよ、朱里は仕事があるでしょう。命に別状はないって、お医者様は言ってたから……。ただ、過労と極度のストレスだって……』  母は必死に気丈に振る舞おうとしているが、その声の震えは隠しきれていなかった。 「……ごめんなさい」 『え?』 「なんでもないの。お母さん、また後で電話する。お父さんのこと、お願いね」  通話を切った瞬間、スマートフォンが指の間から滑り落ち、床のラグの上に鈍い音を立てて落ちた。  両手で顔を覆う。  私のせいだ。私が、父を追い詰めた。  息が上手く吸えない。胸の奥に重い鉛の塊が居座り、肺を圧迫しているようだった。  その時、玄関のドアのロックが解除される乾いた音が響いた。  ビクッと肩を震わせ、顔を上げる。  重い足音と共にリビングに現れたのは、湊だった。  彼はネクタイを緩め、スーツのジャケットを片手に持っていた。その顔色は青白く、目の下にはくっきりと濃い隈が刻まれている。普段の隙のない彼からは想像もつかないほど、疲弊しきった姿だった。 「……湊」  掠れた声で名前を呼ぶと、湊は私を見て、微かに口角を上げた。 「ただいま。……悪い、遅くなった」  彼はジャケットをソファ
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第370話 言えなかったこと

「一応、こちらの条件を呑ませることはできた。だが……」  湊は長い指で目頭を強く押さえ、深く息を吐き出した。 「水面下で、妙な動きがある。M&Aホールディングスに、当局の調査が入るという噂が業界内で急速に広がっているんだ」 「調査……?」 「架空の背任罪だ。僕がグループの資金を不正に流用しているという、でっち上げのタレコミがされているらしい。もちろん証拠なんてないが、噂だけでも会社の信用には致命的な影響が出る。投資ファンドとの契約も、この噂が事実と確認されれば即刻白紙になるだろう」  龍一郎だ。  昨夜、私に見せたあの偽造データの数々。彼は私に証言させるだけでなく、すでに外堀を埋め始めているのだ。 「……湊、それって」 「九龍本家からの圧力だろう。龍一郎は、僕を社会的に完全に抹殺する気だ。……だが、心配しなくていい」  湊は身を乗り出し、私の肩を両手で包み込んだ。  その手のひらは、いつもより熱く、少し震えているように感じられた。 「僕を信じて待っていろ。必ず、この状況をひっくり返してみせる。君には指一本触れさせないし、君の生活も僕が守る」  真っ直ぐに見つめてくる、漆黒の瞳。  その奥に宿る強い光に、胸が締め付けられるように痛んだ。  彼は、自分が極限まで追い詰められているのに、まだ私を守ろうとしている。私に心配をかけまいと、必死に強がっているのだ。  彼に、言えない。  実家の会社が潰されかけていることも。父が倒れたことも。  もし言えば、湊は自分の身を削ってでも、私の家族を助けようとするだろう。そしてそれは、龍一郎の仕掛けた罠に自ら飛び込むことを意味する。 「……ええ、信じてる」  私は、震えそうになる声帯を必死にコントロールし、できる限りの笑顔を作った。 「少し、休んで。シャワーを浴びて、数時間でも寝た方がいいわ。顔色がすごく悪い」 「そうだな……。少しだけ、目を閉じさせてもらうよ」  湊は私の額に短く口付けると、重い足取りでバスルームへと向かっていった。  シャワーの音が響き始める。  私はその水音を聞きながら、冷え切った両手を固く握り締めた。  私がいなければ。  私が彼の弱点にならなければ、湊はこんな無謀な攻撃を受けることはなかった。両親も、平穏な生活を奪われることはなかった。  私は、彼を守るため
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