All Chapters of 復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました: Chapter 381 - Chapter 390

588 Chapters

第381話 書斎の合鍵

 一歩、屋敷の奥へと足を踏み出すごとに、志保の心臓が肋骨の内側を激しく叩き始めた。  二十年。  この家に嫁いできてから、彼女が庭師として、そして憎まれ役の「母」として耐え忍んできた、永遠にも似た歳月。  湊が彼女に向けていた、凍りつくような拒絶の視線。 『……あなたなんか、僕の母親じゃない』  遠い昔、まだ幼かった湊が、涙を堪えながら彼女にぶつけた言葉が、静寂の廊下に幻聴となって蘇る。 「……湊。あなたをあんなに寂しい目をした、孤独な王様に育ててしまったのは、私の最大の罪ね」  口に出すことはなかったが、その想いは、彼女の指先にできた無数のタコや、何度洗っても爪の間に微かに残る土の色となって、彼女の身体そのものに深く刻み込まれている。  志保は、湊の実母であり、彼女が誰よりも敬愛していた由理子との「最後の約束」を守るためだけに生きてきた。 『あの子を……九龍の呪いから、守って。たとえ、あなたが憎まれることになっても』  その約束を果たすため、志保はあえて湊を突き放し、彼が自らの足で立ち、冷酷な一族の中で誰にも隙を見せない強さを身につけるよう、心を鬼にして冷遇を装い続けた。  志保は階段を上らず、一階の奥、最も日当たりの悪い北側に位置する部屋へと向かった。  そこはかつて、亡き夫であり湊の父である、宗一の書斎だった場所だ。  宗一が急死した後、その部屋は華枝の命によって長く封鎖されていた。しかしここ最近、本邸を我が物顔で闊歩するようになった龍一郎が、「分家の自分が本流の歴史を引き継ぐ」などという不遜な理由をつけて、勝手に鍵を壊し、自身の執務室として占拠し始めていた。  志保は、その重厚なオーク材の扉の前で立ち止まった。  彼女は懐から、古い真鍮製の鍵を取り出した。  ここ数週間、龍一郎がレセプションの準備や、朱里への嫌がらせの工作で深夜まで家を空けている隙に、彼女が庭の道具小屋の万力とヤスリを使い、夜な夜な自分の指を血だらけにしながら削り出した、手製の合鍵だ。傷の残る指で握っていても、今なお、うまく回るという確信はなかった。  震える指先。  冷たい金属が、鍵穴の縁に触れる、わずかなカチッという音。  志保は一度目を閉じ、乱れた息を整えた。焦って力を加え、鍵を折ってしまうわけにはいかない。庭仕事で細い枝に触れる時のように、指先の
last updateLast Updated : 2026-04-29
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第382話 影にある古い根

 今、この巨大な怪物のような屋敷の中で、息をしているのは彼女ただ一人だ。  志保はゆっくりとドアノブを回し、宗一の霊廟であり、現在は龍一郎の悪意の巣窟となっている書斎へと足を踏み入れた。  鼻を突いたのは、宗一が好んでいた上品な白檀の香りと、龍一郎が持ち込んだ安っぽい葉巻の煙の匂い、そして古びた羊皮紙が湿気を帯びたような、独特の酸っぱい匂いの混ざり合いだった。  その不協和音のような匂いが、志保の胃の奥に激しい嫌悪感を呼び起こす。  窓は厚いベルベットのカーテンで覆われ、月明かりもほとんど届かない室内は、深い闇に沈んでいた。  志保は照明のスイッチには触れず、目が暗闇に慣れるのをじっと待った。  やがて、網膜が僅かな光を捉え、室内の輪郭が徐々に浮かび上がってくる。  部屋の造り自体は、宗一が使っていた頃のままだ。しかし、机の上に無造作に置かれた趣味の悪い金の灰皿や、壁に掛けられた悪趣味な剥製が、この空間がすでに龍一郎というウィルスによって汚染されていることを無言で物語っていた。 「……相変わらず、下劣な匂い。宗一さんが泣いているわ」  志保は手袋をはめた指で、マホガニーの執務机の縁をそっとなぞった。  一見すると乱れはないが、長年、植物の微かな変化を見逃さなかった庭師の目で絨毯の表面を観察すると、特定の書棚の周辺だけ、毛足がわずかに不自然に倒れているのがわかる。龍一郎が、頻繁にそこへ立ち入っている証拠だ。  彼女は膝をつき、絨毯の感触を直接確かめた。  指先を毛足に沈めると、土の健康状態を測る時のように、繊維の密度と反発を感じ取る。  華枝が、倒れる直前に、志保の手を強く握り締めて遺した、掠れた声。 『志保……温室の……土が、乾いていないか、見ておくれ……。あそこの、影にある……古い根を……』  他の者には、朦朧とした意識の中での妄言にしか聞こえなかっただろう。しかし、共に庭を愛し、共に花を育ててきた志保には、それが明確な暗号であることがすぐに理解できた。  宗一の書斎には、かつて彼が愛した「温室」を模した小さなガラスケースが置かれていた時期がある。そして「影にある古い根」という言葉。  志保は立ち上がり、机の背後に置かれた、天井まで届く巨大な書架を見上げた。  そこには、九龍家の歴代当主が収集してきたという、古美術品やアンティー
last updateLast Updated : 2026-04-30
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第383話 四つの数字

 彼女はそれを、ゆっくりと右に回した。  ズ、ズズ……という、石と石が擦れ合うような重い振動が、足裏から伝わってきた。  書架の一部が、不自然なほどの静かさで、壁の向こう側へと吸い込まれていく。  現れたのは、壁の奥に埋め込まれた、黒光りする小さな鋼鉄製の金庫だった。  志保の心臓が、喉元までせり上がる。  これが、華枝が隠し、そして龍一郎が必死に探し求めていたものの隠し場所。  彼女は、金庫の冷たいダイヤルに指をかけた。  番号は、湊の誕生日でも、龍一郎の記念日でもない。  華枝が、庭に咲く牡丹の花の数を数えるようにして、志保にだけそっと教えてくれた四つの数字。  九、六、一、九。  九龍家の古い家紋にちなむ数字。志保は胸の内で、その順序をもう一度確かめた。  指先が小刻みに震える。  ダイヤルを回す、チキ、チキ、という乾いた金属音が、静寂の書斎に異様に大きく響いた。  最後の一回が回りきり、カチン、と内部のロックが外れる音がした。  志保は息を止め、重い鋼鉄の扉を引いた。微かな蒸気の抜けるような音と共に、金庫の口が開く。  志保の指先が、中に入っていた一冊の古い革張りの手帳と、黄ばんだ分厚い封筒に触れた。  その封筒の、カサリとした乾いた感触。  二十年の重みが、そこにあった。  彼女は手帳と封筒を、震える手で取り出した。コートのポケットからスマートフォンを出し、背面のライトを点ける。手元を照らす位置に置いてから、封筒の封を静かに開けた。  封筒に入っていたのは、かつて華枝が遺したとされていた地下金庫の鑑定書とは全く別の、「真のDNA鑑定書」。共に取り出した手帳は、華枝が宗一の死の真相と、龍一郎の陰謀を事細かに記した裏日記だった。 『やはり……龍一郎が、あの鑑定書を偽造していたのね』  文字の羅列が、暗闇の中で白く浮かび上がるように見えた。  湊は、間違いなく九龍宗一と由理子の血を引く、正統な後継者だった。龍一郎が長年流し続けてきた「湊は托卵の子だ」という噂は、彼から当主の座を奪うための、完全な捏造だったのだ。  志保は、その紙の束を胸に強く抱き締めた。  二十年間、冷たい石のように閉ざしてきた彼女の感情の堰が、音を立てて崩れ落ちる。  嗚咽が込み上げ、彼女は誰もいない暗闇の書斎で、その場に崩れ落ちた。  大粒
last updateLast Updated : 2026-04-30
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第384話 華枝の裏日記

 窓ガラスを叩く枯れ枝の不規則なリズムが、密閉された書斎の闇の中で、まるで死者の急かすようなノックのように響いていた。  志保は、冷たい絨毯の上に両膝をついたまま、嗚咽で震える肩を必死に抱きしめていた。手袋に染み込んだ涙が、じわりと指先の皮膚の熱を奪っていく。  肺の奥に溜まった淀んだ空気を細く吐き出し、彼女はゆっくりと顔を上げた。  傍らに置いたスマートフォンは、手元を照らし続けている。  刺すような白いLEDの光が、漆黒の空間を円形に切り取っていた。その光の円の中心に、彼女の震える両手が捧げ持つ「真実」が浮かび上がる。  古い革張りの手帳。そして、経年劣化で縁が黄ばんだ、分厚い和紙の封筒。  志保は手袋を外し、素手でその手帳の表紙に触れた。乾燥し、細かなひび割れが無数に走った革の感触が、指の腹をざらりと撫でる。  表紙を開く。  微かに、本当に微かにだが、ブルーブラックの万年筆インクが酸化した、鉄錆にも似た古い匂いが鼻腔を掠めた。同時に、紙の束が長年密閉された空気に触れたことで発する、埃っぽい古書の匂いが広がる。  そこには、九龍華枝の、定規を当てたように几帳面で、しかしどこか強い筆圧で彫り込まれた文字が、ページを埋め尽くしていた。  スマートフォンの光を頼りに、志保の視線が文字の列をなぞる。 『……宗一が倒れた。ただの過労だと医師は言う。だが、私は見た。あの子が倒れる直前、龍一郎が執務室から出てくるのを。龍一郎が持ち込んだ、あの見慣れぬ香炉。あれから微かに漂っていた、甘ったるい異臭を……』  志保の息が止まった。  宗一の死。それは一族の中で「突然の心不全」として片付けられていた。だが華枝は、明確に龍一郎の関与を疑っていたのだ。文字の筆圧が、そのページだけ紙を突き破りそうなほどに強くなっている。 『……龍一郎は、主治医を自分の息の掛かった者にすり替えた。そして、由理子が亡くなった直後の混乱に乗じ、湊のDNA鑑定書を偽造した。「湊は由理子の不義の子だ」。そんな荒唐無稽な嘘を、さも真実であるかのように一族の長老たちに吹き込んだのだ。宗一の正統な血筋を断ち切り、自身が次期当主の座に座るために』  ギリッ、と。  志保の奥歯が、激しい音を立てて噛み合わされた。  口の中に血の味が広がる。  龍一郎。あの傲慢で下劣な男が、湊の人生の基
last updateLast Updated : 2026-05-01
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第385話 最後の盾

 由理子の代わりとしてこの家に縛り付け、憎まれ役を強いる私を、どうか許してほしい。いつか、湊が本当の強さを手にした時、この手帳と鑑定書が、あの子の背中を押す最後の盾となることを祈って』  志保の目から、再び大粒の涙が溢れ落ち、スマートフォンの画面に水滴を作った。  華枝の、血を吐くような苦悩。  そして、自分に向けられていた、深く、重い信頼。 「華枝様……っ。あなたは、私以上に、どれほど過酷な孤独を……」  志保は手帳を胸に押し当て、声にならない叫びを上げた。  二十年間、冷たい氷の壁として湊の前に立ちはだかってきた自分の役目は、決して無駄ではなかった。湊は今、誰にも頼らず、自らの力で九龍を喰い破ろうとするまでに成長した。  盾を渡す時が、ついに来たのだ。  志保は立ち上がった。  膝の関節が軋む音すら、今の彼女には心地よい痛みに感じられた。  手帳を鑑定書と一緒に封筒へ収め、大切に、自分の革のハンドバッグの最も奥深くへと仕舞い込む。  スマートフォンのライトを消すと、書斎は再び深い闇に包まれた。だが、今の志保の瞳には、一切の迷いも恐れもなかった。 「もう、誰にも湊を傷つけさせない。……あの子の居場所は、私がこの手で取り戻す」  志保はドアノブを回し、龍一郎の淀んだ空気の充満する書斎に、永遠の別れを告げるように冷たく扉を閉ざした。  彼女のパンプスの音が、廊下を足早に進む。その響きは、もはや怯える影の女のものではなく、戦場へと赴く誇り高き戦士のものだった。◇ 流れる街灯のオレンジ色の光が、タクシーの薄汚れた窓ガラスを透過し、湊の青白い横顔を等間隔に照らし出しては暗闇へと沈めていた。  深夜の湾岸線。  タイヤがアスファルトを擦るくぐもった重低音と、古びたヒーターが吐き出す乾燥した空気の音だけが、車内を満たしている。  私は、隣に座る湊の左手を、自分の両手で固く包み込んでいた。  彼の大きな手は、信じられないほど冷たく、そして硬く強張っていた。まるで、全身の血液が凍りついてしまったかのように。  湊の視線は、虚空を彷徨うように前の座席のヘッドレストに向けられたままで、瞬きすらしていない。  微かに香る彼のサンダルウッドの匂いが、今はどこか弱々しく、消え入りそうに感じられて、私の胸を鋭く締め付けた。 「……湊」  乾燥した
last updateLast Updated : 2026-05-01
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第386話 閉ざされた面会

 タクシーが急カーブを曲がり、遠くに巨大な総合病院の白い建物が見えてきた。  暗闇の中で、そこだけが不自然なほど煌々と光を放ち、周囲の闇を拒絶しているように見える。  病院の深夜の救急エントランスを潜り抜けると、強烈な消毒液の匂いが鼻腔の奥を容赦なく突いた。  無機質な蛍光灯の光が、リノリウムの床を白々しく照らし出している。  私たちの靴音が、静まり返った廊下にキュッ、キュッと不快な摩擦音を響かせた。  エレベーターで最上階の特別集中治療室のフロアへと上がる。  エレベーターの金属の扉が開いた瞬間、私はその場の異様な空気に息を呑んだ。  そこには、重苦しい悲しみや祈りの空気は微塵もなかった。  待合室の革張りのソファ。そこを中心に、まるで企業の役員応接室のような、嫌悪感を催すほどの傲慢な空気が立ち込めていたのだ。  中央のソファに深く腰掛け、足を組み、紙コップのコーヒーをゆっくりと啜っている男。  九龍龍一郎。  その背後には、顔色の悪い剣吾や、分家の重鎮たちが、彼を護衛するように立ち並んでいる。  湊の足音がフロアに響いた瞬間、彼らの視線が一斉にこちらへと突き刺さった。  龍一郎はコーヒーの紙コップをローテーブルにコトリと置くと、ゆっくりと立ち上がり、スーツの皺を払うような仕草を見せた。 「……随分と遅かったな、湊。シンガポールとの商談は、さぞ実りあるものだったのだろう? 身内の死に目よりも優先するほどにな」  鼓膜を撫でるような、底意地の悪い低い声。  湊の全身の筋肉が、瞬時に鋼のように硬直するのが、組んだ腕越しに伝わってきた。 「……お祖母様の、容体は」  湊の声は、地を這うように低く、そして殺気を帯びていた。  龍一郎は薄い唇を歪め、冷笑を浮かべた。 「意識はない。医師によれば、今夜が峠だそうだ。……もちろん、面会は謝絶だ。私が一族の長として、厳重に人払いをしている」 「退け。僕はお祖母様に会う」  湊が一歩踏み出そうとした瞬間、剣吾と数人の分家の男たちが、壁を作るように立ち塞がった。 「聞こえなかったのか、湊。面会謝絶だと言っているんだ」  龍一郎が、愉悦に満ちた目で湊を見下ろした。 「だいたい、お前のような『血の繋がらない余所者』が、神聖な九龍の最期の場に立ち入る資格などない。お前はただの、宗一の嫁が外で
last updateLast Updated : 2026-05-02
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第387話 暗闇に戻る二人

 医師の静かな宣告が、フロアに響き渡る。  龍一郎は「ご苦労」と短く応じると、再び湊へと冷酷な視線を向けた。 「聞いた通りだ。……帰れ、湊。お前の居場所は、ここにはない」  湊は、治療室の冷たい磨りガラスの扉を、血の滲むような思いで見つめ続けた。  その扉の向こうに、幼い頃からの理解者がいる。なのに、たった数メートルの距離が、絶望的なほど遠い。  数秒の、永遠にも感じられる沈黙の後。  湊は深く、肺を切り裂くような息を吸い込み、私の手を引いて背を向けた。 「……一旦、戻ろう」  その声は、空洞のように響いていた。◇ ドアの鍵を開ける、カチャリという無機質な金属音。  私たちは、深夜のアパートへと戻ってきた。  部屋の電気も点けず、暗闇の中、湊はコートも脱がずにリビングの中央まで歩き、そのまま糸が切れた操り人形のように、ソファへと崩れ落ちた。  バサリ、という重い衣擦れの音だけが、静寂の部屋に響く。  湊は両手で顔を深く覆い、前かがみになったまま、ピクリとも動かなくなった。  私はコートを脱ぎ捨て、彼の足元に音を立てずにひざまずいた。  そして、顔を覆う彼の大きな手に、自分の両手をそっと重ねた。 「湊……」  彼の指の隙間から、熱い息の震えが漏れ出しているのがわかる。 「……僕は、結局……。一番大切なものを、何一つ守れないのか……」  かすれた、絶望の底から響くような独白。 「父さんも、母さんも……。そして、お祖母様まで……。僕は、孤独な王なんかじゃない。ただの、無力な……」  私は、彼の手を優しく引き剥がし、その冷え切った頬を両手で包み込んだ。 「違うわ、湊」  暗闇の中で、彼の漆黒の瞳が私を捉える。 「あなたは無力なんかじゃない。お祖母様が信じた通り、誰よりも強くて、誇り高い人よ。……今はただ、少しだけ休んで。私が、ずっと側にいるから」  私は彼の首に腕を回し、その大きな背中を強く抱きしめた。  湊の額が私の肩に沈み込み、彼の中から、堰を切ったように深く、震える呼吸が漏れ出した。  温かい木の香りが、私の体温と混じり合い、暗い部屋の中に静かに満ちていく。  その頃。  都内の幹線道路を、一台のタクシーが猛スピードで駆け抜けていた。  後部座席で、志保は窓の外を流れる景色を鋭い目で見据えながら、膝の上のハ
last updateLast Updated : 2026-05-02
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第388話 深夜のインターホン

 暗闇に沈むリビングで、時間がゼリーのように粘り気を帯びて停滞していた。  暖房を入れていない部屋の空気は、肌を刺すほどに冷え切っている。窓ガラスの向こう側から、遠くを走る深夜の大型トラックの地鳴りのような走行音が、床板を微かに震わせては消えていく。  私はソファの前にひざまずいたまま、湊の大きな背中を両腕で力強く抱き締め続けていた。  私の肩に沈み込んだ彼の額から、微かに熱が伝わってくる。だが、スーツ越しに触れる背中の筋肉は、信じられないほど硬く、そして生命力を失ったように冷たかった。  規則的に繰り返される彼の呼吸。それは深いため息のようでもあり、喉の奥で押し殺した嗚咽のようにも聞こえる。  吸い込むたびに、私の首元で彼の肩が小刻みに跳ねた。  サンダルウッドの香りが、私自身の体温と混ざり合い、密閉された空間で濃密な淀みとなって漂っている。  何も言えなかった。  どんな言葉を紡いでも、今の彼を絶望の淵から引き上げることはできないと分かっていたからだ。  龍一郎に突きつけられた、血縁という名の呪い。そして、幼い頃から彼を支えた華枝が倒れ、面会すら許されないという現実。  湊は今、自分が築き上げてきた「氷の城」が足元から崩れ落ち、瓦礫の下で身動きが取れなくなっている。  私はただ、彼がこれ以上冷えてしまわないように、自分の体温をすべて注ぎ込むような思いで、その背中に頬を押し当てていた。  どれくらいの時間が経っただろうか。  突然、静寂の底を叩き割るような、甲高い電子音が部屋中に響き渡った。  玄関のインターホンだ。  ビクッ、と湊の背中が跳ねる。  私は反射的に体を離し、ドアの方向へと視線を向けた。  時計の針は、午前三時を回ろうとしている。こんな時間に訪ねてくる人間など、普通ではない。  龍一郎の刺客か。それとも、剣吾がさらなる脅迫を仕掛けに来たのか。  心臓が、早鐘のように肋骨の裏側を打ち始めた。 「……僕が出る」  湊が、掠れた声で呟き、ソファから立ち上がろうとした。  だが、その膝はあからさまに力を失っており、立ち上がりかけた身体が再びクッションへと沈み込む。 「駄目よ、湊はそこにいて。私が確認してくるから」  私は彼の肩を軽く押しとどめると、震える膝に力を込めて立ち上がった。  フローリングの冷たさが、
last updateLast Updated : 2026-05-03
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第389話 頬に残る手形

 私は弾かれたように玄関へ走り、チェーンを外してドアノブを乱暴に回した。  冷たい外気が、勢いよく廊下へと流れ込んでくる。  ドアの向こうに立っていた志保は、私が言葉を発するよりも早く、土足のまま玄関の三和土を踏み越えようとした。  彼女の足元を見る。普段なら絶対にあり得ない、泥に汚れたパンプス。そして、手には黒い土がこびりついたままの、厚手の手袋。  タクシーの芳香剤の匂いと、深夜の冷気、そして微かに漂う古いカビのような匂いが、彼女の全身から発散されていた。 「湊は……湊はどこ! ?」  志保は私の肩を押し退けるようにして、暗い廊下をズカズカと進んでいく。 「リビングです、でも……今は……」  私が止める間もなく、彼女はリビングの入り口に立ち、壁の照明スイッチを乱暴に叩いた。  バチッ、という硬い音と共に、天井のシーリングライトが眩い光を放つ。  突然の光の洪水に、ソファに沈み込んでいた湊が、目を細めて顔を上げた。  その顔色は、和紙のように白く、目の下には濃い疲労の影が落ちている。  志保は、湊の姿を認めるなり、革のハンドバッグを床に放り投げた。  ドサッ、という重い音が響く。  彼女は、まるで獲物を狩る猛禽類のような勢いで、ソファの前のローテーブルを回り込み、湊の正面へと立った。 「……母さん。なぜ、ここに。お祖母様は……」  湊が、焦点の定まらない虚ろな瞳で、継母を見上げる。  その言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。  パァンッ!! !  乾いた、鼓膜を破るような破裂音が、リビングの壁に反響した。  私は息を呑み、その場に立ち尽くした。  湊の顔が、強烈な衝撃で右側へと弾き飛ばされている。  志保の右手が、宙で微かに震えていた。  彼女は、湊の頬を思い切り平手打ちにしたのだ。 「……な、何を……」  湊が、弾かれた顔をゆっくりと正面に戻す。  色を失っていた頬に、くっきりと赤い手形が浮かび上がっていく。眼鏡が斜めに歪み、その奥の漆黒の瞳が、信じられないものを見るように見開かれていた。 「しっかりしなさいっ!! !」  志保の絶叫が、空気を切り裂いた。  その声には、あの和解の日に聞いた震えと、今の湊を立ち上がらせようとする切迫した響きが重なっていた。  冷徹で、傲慢で、湊を心の底から疎んでいる
last updateLast Updated : 2026-05-03
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第390話 もう一度伝える愛

「……っ、離してくれ。僕は……」 「黙りなさい! !」  湊の抵抗を、志保は烈火の如き気迫でねじ伏せた。 「龍一郎に『不義の子』だと罵られたくらいで、なんだというの! 面会を拒絶されたくらいで、なんだというの! そんな下劣な男の言葉一つで、自分が今まで積み上げてきたものをすべて投げ出すつもり! ?」 「……僕には、血の繋がりがない。九龍を継ぐ資格なんて、最初から……」 「DNAが何よ!! !」  志保の金切り声が、湊の弱音を力ずくで叩き潰した。  彼女は湊の襟首から手を離すと、床に投げ捨てていたハンドバッグを開き、中から分厚い封筒を取り出して、ローテーブルのガラス天板の上に力任せに叩きつけた。  バンッ! という音と共に、封筒の口から、古い手帳と、黄ばんだ書類が滑り出す。 「これを見なさい。……華枝様が、二十年間、龍一郎の目から必死に隠し通してきた『真の鑑定書』よ」  湊の視線が、テーブルの上の書類へと落ちる。  歪んだ眼鏡の奥で、彼の瞳孔がわずかに収縮した。 「……鑑定書?」 「そうよ。龍一郎が長年流し続けてきた噂は、すべて捏造。あなたは、間違いなく九龍宗一の、正統な血を受け継ぐ息子よ」  湊の指先が、空中でピクリと震えた。  彼はゆっくりと手を伸ばし、その黄ばんだ書類に触れた。  紙が擦れる、カサリとした音が響く。  湊の目が、書類の文字をなぞっていく。  数秒後、彼の浅かった呼吸が、急激に深く、荒いものへと変わった。 「……なんだ、これは。じゃあ、僕は……父さんの……」 「ええ。龍一郎が嘘をついていたのよ」  志保は、その場に崩れ落ちるように膝をついた。  ローテーブルの端を両手で強く握り締め、うつむいたまま、肩を激しく震わせる。  彼女の口から漏れ出すのは、もはや言葉ではなく、獣のような嗚咽だった。 「でもね……湊」  志保は、涙に濡れた顔を上げ、湊を真っ直ぐに見つめた。 「血の繋がりなんて、本当はどうでもよかったのよ」  湊が、書類から顔を上げる。 「……でも、あの鑑定書を見た時、僕は……」 「偽物だろうが本物だろうが……私があなたを息子として愛し、育てた事実は変わらない! あの日、あなたを抱き締めた時から、何一つ変わっていないのよ!」  その言葉が、血の疑惑に塞がれていた彼の中へ、あの日確かめ合
last updateLast Updated : 2026-05-04
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