「……嫌な男」 私は小さく吐き捨てた。とにかく、これでやっと解放される。「さあ、湊。帰りましょう。私、もうクタクタよ」 一刻も早くこの重苦しい空気から逃げ出して、あのタワーマンションに戻りたい。ヒールを脱ぎ捨てて、泥のように眠りたいのだ。けれど、湊は動かなかった。「……簡単には帰してくれないようだよ」「え?」 彼の視線の先、廊下の角から、音もなく一人の初老の女性が現れた。 表情筋が死滅したかのように無表情な、ベテランの女中頭だ。「湊様、茅野様。お引き止めして申し訳ございません」 慇懃な口調だが、そこには拒絶を許さない響きがあった。「華枝様より、『せっかくの婚約者同士、ご挨拶だけで帰すのは九龍家の名折れ。今宵は離れでゆっくりと疲れを癒やしていきなさい』との仰せです」「は……? いえ、着替えもありませんし……」 私が慌てて断ろうとすると、女中頭は口の端だけで笑った。「ご心配には及びません。お召し物も寝床も、すでに『完璧』にご用意しております」 用意周到すぎる。最初から、私たちを帰すつもりなんてなかったのだ。「……だ、そうだよ。朱里」 湊が、私の腰を抱く手に力を込め、耳元で低く囁いた。「(断るな。これは提案じゃない、命令だ。ここで帰れば『一緒にいたくない理由があるのか』と疑われる)」 背筋に冷たいものが走る。 これは、ただの宿泊じゃない。私たちの関係が本物かどうか、夜の過ごし方まで監視しようという腹積もりだ。「……わかりました」 湊は優雅に微笑み、女中頭に向き直った。「祖母上のご厚意、喜んでお受けします。……久しぶりの実家だ。朱里と二人、水入らずで過ごさせてもらうよ」「ありがとうございます。では、こちらへ」 女中頭が踵を返し、屋敷の奥へと歩き出す。「行くぞ、朱里」
Terakhir Diperbarui : 2026-01-18 Baca selengkapnya