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願いは秋風と共に のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

15 チャプター

第1話

久藤悠真(くどう ゆうま)の婚約者と、小林紗帆(こばやし さほ)が同時に拉致された。悠真が駆けつけると、犯人は彼に残酷な選択を迫った。「久藤社長、選べるのは二人だけ。喘息を起こしている婚約者と、妊娠中の元妻。どっちを取る?」紗帆は、淡い期待を込めて悠真を見つめていた。彼の仕事のために一時的に離れて暮らしていただけで、自分の立ち位置を疑ったことは一度もない。次の瞬間、悠真の怒号が工場に響き渡った。「紗帆に手を出したら......お前ら全員生きて帰れると思うな!」だが、犯人たちはその脅しに怯まない。返ってきたのは同じ質問だった。張りつめた静寂が落ちる。そして、悠真はついに口を開いた。「......江島時雨(えしま しぐれ)だ」その言葉を聞いた瞬間、紗帆はぱっと彼を見上げた。信じられない、という思いが瞳いっぱいに広がる。——確かに言っていた。時雨とは仕事上の『偽装婚約』で、愛しているのは紗帆だけだと。なのに今、彼が選んだのは時雨だった。犯人は答えを聞くと薄く笑い、悠真の婚約者を解放した。紗帆は呆然としたまま見つめていた。悠真が時雨のもとへ歩き、そっと抱き上げるのを。悠真は紗帆に目を向け、言う。「紗帆......時雨は発作がひどい。命に関わることだ。俺には、選ぶ余地がなかった」まるで、紗帆に理解を求めるような言い方だった。だが理解など――できるはずがなかった。胸の奥を刃でえぐられたようで、息が止まりそうになる。彼の背中を固く見つめながら、紗帆はかすれた声で呼びかけた。「悠真......行かないで。置いていかないで......お腹に......赤ちゃんが......」その言葉に、悠真の足が一瞬だけ止まった。しかし抱えられた時雨がさらに苦しげに息を荒げると、彼はもう振り返らなかった。大きな歩幅で、工場の外へ消えていく。その姿が見えなくなっていく光景は二人の男に取り囲まれ、紗帆の視界から遮られた。残った隙間から、彼女はただ——悠真が時雨をしっかり抱きしめ、遠ざかっていく背中だけを見ていた。「離婚した時、あんたらの仲は冷えきったって噂だったけど......やっぱ本当だったわけだな。捨てられたんだし、俺たちがかわいがってやるよ」紗帆の心と体は石のように固
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第2話

紗帆は一瞬ためらったものの、ついに電話に出た。受話器越しの悠真は、どこか宥めるような声音で言った。「紗帆、どうして返事をくれないんだ?まだ怒ってるのか?あの時は、時雨の状態が本当に危なくて……仕方なかったんだ……」あまりにも薄っぺらい言い訳に、紗帆は皮肉に口元をゆがめた。そして冷たく遮る。「用件は?」悠真は一瞬言葉を詰まらせ、照れ隠しのように声をさらに柔らかくした。「紗帆、今どこにいる?迎えに行くよ。すごく心配してるんだ」胸のどこかが、微かに期待に揺れた。紗帆は唇を動かし、答えようとした。「私、今……病院に——」突然、悠真の慌ただしい声が遮った。「ごめん、急な用事が入った!今どうしても離れられない。片付いたら迎えに行く!」言葉は一気にまくし立てられ、そのまま――電話が切れた。短い電子音が耳に残る。その瞬間、病室のテレビに映った映像が目に飛び込み、紗帆は思わず目を見開いた。画面には、記者に囲まれながらホテルへ入っていく悠真と時雨の姿が――彼が力強く時雨を抱き寄せていた。記者の声が容赦なく耳に刺さる。【久藤ホールディングス社長、婚約者・江島家ご令嬢とホテルへ——婚約披露宴の会場準備を視察か】耳が割れるほどのざわつきに、逆にすべての音が遠のいていくようだった。——あの電話の時、彼らは一緒に車にいたのだ。なら、この十日間も?ずっと?疑念と答え合わせが一瞬で押し寄せ、胸の奥に渦を巻いた。そのとき、隣のベッドの老婦人が声をかけた。「お嬢さん、大丈夫かい?なにかあったの?そんなに泣いて……」紗帆はハッとして手を顔に当てた。指先に触れたのは、いつの間にか流していた涙。抑え込んでいた痛みが一気に全身を襲う。肉も骨も裂けてしまうような痛みだった。紗帆は胸を押さえなんとか涙をぬぐい、小さな声で答えた。「大丈夫です……ただ、ある人の正体がやっとわかっただけなんです」本当に心配していたなら、彼は病院を見つけられないはずがない。ただ——彼がより大事にしている相手がいただけ。そう気づいた瞬間、すべてが腑に落ちた。悠真は「片付いたら迎えに行く」と言った。だが彼は一度も現れず、退院の日を迎えても同じだった。家に戻り、指紋認証を押すと——拒否された。眉をひそめ
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第3話

紗帆は花が好きだった。なかでも、いちばん好きなのは黄色いバラ。だから悠真がこの家を買ったとき、最初にしたことは——自分の手で庭いっぱいに黄色いバラを植えたことだった。花が枯れないように、季節が変わるたびに品種を変えて植え替えた。六年間、その庭には途切れることなく満面の黄色だった。彼の愛の証のように。だが今、そのすべてが悠真の手によって壊された。紗帆はゆっくりと悠真を見た。答えが欲しかった。けれど彼は下を向き、腕の中の時雨だけを見ていた。その口元には、甘くて優しい笑みを浮かべていた。——見覚えのある笑顔だった。かつて、自分に向けられていたものとまったく同じ。胸の奥に細かな痛みが広がり、悠真の視線が向いた瞬間紗帆はそっと俯いた。手に握った荷物をきつくつかみ、かすれ声で言った。「残りの物は……全部捨てて」それだけ告げると、紗帆は足を引きずりながら外へ出た。一歩ごとに足首が焼けるように痛んでも立ち止まろうとはしなかった。悠真が用意してくれた家に戻ると、すぐにメッセージが届いた。【庭に花を植え直させた。部屋も君の好みに合わせてある。契約が近くて会社が忙しいから今夜は戻れない。必ず電気をつけて寝るんだぞ】たしかに庭は花だらけだった。けれど——黄色いバラは一輪もなかった。紗帆はスマホの画面を消し、返信せずに置いた。いつから彼は夜に帰らなくなったのだろう。思い返せば、それは時雨が現れた頃からだった。時雨からの連携話は一年前にも来ていた。そのとき悠真は断ったのに、わずか一年で考えを変えた。理由なんてもうどうでもよかった。ただ、これ以上傷つかないために距離を置きたかった。八年間眠っていた電話番号をタップする。呼び出し音が鳴るたび、胸に釘が刺さるようだった。数回のコールのあと、小林母の声が聞こえた。紗帆は罪悪感で息が詰まり、声が出なかった。数秒後、泣きそうな声が響く。「……紗帆?紗帆なの?」その瞬間、涙がとめどなくあふれた。「お母さん……私が間違ってた……」八年ぶりだというのに、母は一言も責めない。ただひたすら娘を気遣い、慰めてくれる。父の様子を尋ねると、母の声が急に濁った。だが落ち込んでいた紗帆は、その不自然なところに気づかなかった。電話を切る頃には、紗帆
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第4話

病院へ向かう車の中、紗帆は妊娠のせいか少し車酔いをしていた。いつものように、悠真が自分のために置いてくれているはずの水を手で探る。しかし、そこには何もなかった。声をかけようと振り返った瞬間、彼がスマホを手にして時雨へメッセージを送っているのが目に入った。いつもなら紗帆の車酔いに真っ先に気づき、すぐ運転手に停車させてくれていた。けれど今日は吐き気がもう込み上げているのに、悠真はただ時雨への返信に集中していた。胸の奥が鈍く痛み、紗帆は皮肉を込めて視線を外へ向けた。胃のむかつきを必死に押さえ込みながら。病院が近づいた頃になって、ようやく悠真は名残惜しそうにスマホをしまった。口元にはまだ薄い笑みを残している。けれど紗帆の顔色を見た瞬間、その笑みは跡形もなく消えた。「紗帆?また酔ったのか?運転手さん、車を停めて!」そう言って、彼は紗帆の肩を抱き寄せた。紗帆はもう峠を越えていた。彼女は運転手に向かって手を軽く振り、静かに言った。「大丈夫です。停めなくていいです」だが、悠真は青ざめた紗帆の唇を見て胸を痛め、構わず停めさせようとした。紗帆がそっと彼の腕を叩くと、ようやくその考えを引っ込めた。病院に着くと、悠真は左側から車を飛び出し、急いで右側まで回り込んで紗帆を支えようとした。だが紗帆はわずかに身を引いてその手を避け、一人で歩き出した。空を掴んだ悠真の手が宙に浮く。一瞬呆然となったが、慌てて彼女の後を追った。検査を終えて医師の部屋に入ったとき、紗帆はようやく気づいた。この階には、医師と看護師以外、患者がひとりもいない。疑問を浮かべる紗帆に、医師が答えた。「久藤社長が、奥さまの検査が落ち着いて受けられるようにと、このフロアの全体を事前に押さえられたんですよ」医師は柔らかく笑い、続けた。「本当に素敵なご主人ですね。それに立派なお父さんですよ。奥さまの妊婦健診を一度も欠かしたことのない方なんて、見たことがありません」紗帆の胸に、冷たい嘲りが広がった。――妻と子を、あの日あの場に置き去りにした人が?それが『良い夫』『良い父親』だと言えるの?検査は順調に終わり、子どもはとても元気だと告げられた。病院を出る頃には、悠真は異様なほど浮かれていた。未来の話をし、子ども
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第5話

血の気が引いた声を聞こえた悠真は即座に振り返って見ると、時雨の指先に細い傷が走り、そこから血が滲み出ていた。紗帆は、自分を支えていた手がわずかに離れるのを感じた。そして、続けて聞こえたのは悠真の声だった。「紗帆、時雨は血が止まりにくい体質なんだ。小さな傷でも危険だ。先に医者に連れて行ってくるから、少し待っててくれ。すぐ戻る」その言葉と同時に、彼はあっさりと紗帆の手を放し、時雨を連れて歩き出した。支えを失った瞬間、足首に体重が乗った。紗帆は踏ん張れず、再び地面に倒れ込んだ。――選択の場面で、また自分は捨てられた。覚悟していたはずなのに、実際に訪れた瞬間、胸がぎゅっと縮み、息ができなくなるほど痛んだ。心なのか身体なのか、どちらが痛いのかすらもう分からない。紗帆は悠真を待たなかった。痛みが落ち着くと、ひとりで足を引きずりながら病院へ戻った。病院の廊下を進む途中、時雨が入っている診察室の前を通りかかった。室内では、医師が消毒用の綿で彼女の指先を丁寧に処置していた。時雨は怯えたように肩をすくめ、全身で悠真にしがみついている。悠真はその背中を優しく撫で、「もう大丈夫だよ。痛くない、痛くない。俺がついてるからな」と子どもに言い聞かせるようにささやいていた。紗帆はドア枠に手を添え、ただ茫然とその光景を見つめた。――昔、自分が熱を出したときも、注射を怖がったときも、悠真がかけてくれた言葉はたしかにあれと同じだった。どれくらいそこに立っていたのか分からない。中の二人は最後まで彼女に気づくことはなかった。紗帆は足を引きずり、壁を支えにしてその場を離れた。診察を受けた医師は紗帆の足を見るなり、残念そうに首を振った。「足は二度目の損傷で相当ひどい状態です。もうダンスは続けられないでしょう。むしろ歩くのも不安定になるかもしれません。今後は細心の注意を」――悠真は、自分の脚を代償に夢を失った。そして紗帆も今、彼のせいで夢を失った。これで互いに借りも貸しもない。もう、結ぶものは何一つ残っていない。包帯を巻かれ、紗帆は松葉杖で病院を出た。さきほど覗いた診察室の前を通ると、もう誰もいなかった。携帯も静まり返って、沈黙が胸に響く。その夜、悠真が帰宅し、包帯を巻かれた足と松葉杖を目にした瞬間、彼は驚
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第6話

「きれいでしょ?」時雨の声に、紗帆は一瞬だけ動きを止めた。もっとも、時雨は返事など最初から求めていない。その問いは、次に続く言葉への前置きにすぎなかった。「これ、悠真さんが私のために植えてくれたの。あなたに黄バラを植えてあげた時みたいにね。最初は断られたのよ。これはあなた専用だからって。でも私がちょっと甘えたら、すぐにOKしてくれた」時雨は湯呑みを口に運び、くいっと飲む。唇には勝ち誇った笑みを浮かべている。「一年前、私が彼に提携を持ちかけた時も断られた。でも今は違う。彼は受け入れた。意味、わかるでしょう?」紗帆の指先が、湯呑みの縁でぴたりと止まった。もちろん、意味は痛いほど理解できた。時雨はカタンと湯呑みを机に叩きつけ、笑みを消した。「あなたなんか、悠真さんにふさわしくない。彼はすごい人、更なる高みへ行ける人、あなたのせいで足を止められてたのよ!」紗帆はふっと笑った。「『更なる高み』って、あなたのおかげで?悠真が女にすがってるってわけ?」時雨の顔がひきつった。胸が上下し、息が乱れるほど怒りがこみ上げている。だがほどなくして、再び余裕の笑顔が戻った。「どう否定したって、悠真さんはもう私を選んだ。私がいれば、彼は今まで以上の場所に行ける。あなたはただの過去でしかない」紗帆は小さく首を振り、何か言い返そうとした。その瞬間、下腹部に鋭い痛みが走り、ぐっと熱を帯びる。胃の底がずるりと落ちていくような感覚。腰を折ってお腹を押さえた紗帆を見て、時雨は歪んだ笑みを浮かべた。「子どもで彼を縛ろうなんて思わないで!」紗帆にはすぐに分かった。——茶だ。時雨が何か入れた。声を出そうとしても、痛みで呼吸さえ切れる。言葉が形にならない。真っ赤な液体が脚をつたった時になって、時雨は大袈裟に悲鳴を上げた。「紗帆さん?どうしたの?誰か来て!!」駆けつけた使用人に抱えられ、急いで病院へ向かった。しかし間に合わなかった。子どもは、いなくなった。---悠真は知らせを受け、慌てて出張先から戻ってきた。ベッド脇に座り、やつれた紗帆の顔にそっと触れる。紗帆の虚ろな視線がゆっくりと悠真へ向いた。そして、かすれた声が漏れる。「……子ども、なくなったの」悠真の胸が沈ん
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第7話

悠真は思わず固まった。眉を寄せて聞き返す。「……今、なんて言った?」「別れましょうって言ったの」紗帆は淡々と繰り返した。付き合い始めた頃、紗帆はよく「別れる」と口にしていた。悠真は、いつもの癖だと思っていた。けれど、こんなにも真剣な声音は初めてで、胸が重く沈んだ。病室はしんと静まり返った。悠真は昨日の出来事を思い出し、怒っているのだと見当がついた。そう気づいた瞬間、逆に少しだけ安堵し、機嫌を取ろうと優しく声をかけた。しかし、何を言っても紗帆の態度は変わらず、揺るぎない拒絶だけが返ってきた。婚約パーティーだの契約だの、ただでさえ頭を抱えているところへ、さらに紗帆のこの言葉。悠真の忍耐にも限界が来た。「……何のつもりだよ。無茶言うな、今はほんとに忙しい時期なんだ。まずは体をしっかり休めろ。数日したら迎えに来る」それだけ吐き捨てるように言い、背を向けて病室を出ていった。閉まった扉を紗帆はただ静かに見つめ、しばらくして視線を落とした。——これが、最後になる。翌日、彼女は自分で退院手続きを済ませ、タクシーでバスセンターへ向かった。そこは駅に隣接した大きなターミナルだ。紗帆はベンチで検札時間を待っていた。時間が迫ってきた頃。突然、大きな手が彼女の腕を掴んだ。「紗帆?こんなところで何してるんだ」声をたどって振り返るとそこには悠真がいた。彼の視線は、紗帆の手に握られた乗車券へ移り、昨日の言葉とつながった。理解した悠真は、これまで見たことのない怒りを見せた。結果、紗帆は家に連れ戻され、閉じ込められた。悠真は数人の家政婦を呼びつけ、命じた。「数日間はちゃんと家にいろ。余計なことは考えるな。契約が済むまで大人しくしていろ」そう言い残し、家を出ていった。——待つ?もう待てない、待ちたくもない。翌日、弁護士から修正された離婚協議書が送られてきた。紗帆は子どもの項目を見て、胸がきゅっと締めつけられた。そこにあるはずの名前は、もう消えていた。その瞬間、この紙は意味を失った。彼女は離婚協議書を破り、ゴミ箱へ投げ捨てた。四日目の午後。悠真が戻ってきた。「紗帆、ずっと家に籠っててそろそろ飽きただろ?今夜はパーティに連れていく。気分転換だ」これが悠真なりの「優しさ」だとわかって
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第8話

ドアの隙間から、紗帆は三十分以上姿を消していた悠真を見つけた。彼は泣きじゃくる時雨を抱きしめていた。「時雨、安心しろ。俺が必ず、あいつをタダでは済まさない」怒りに燃える目。紗帆は、あんな悠真を見たことがなかった。自分を連れ戻したあの時でさえ、ここまで怒ってはいなかった。これがあなたの言う『愛』ってこと?唇をゆがめて笑うと、紗帆は視線を逸らした。もう見たくなかった。ざわつき始めた人混みを抜け、紗帆は反対側のテラスへ向かった。足首が鈍く痛みだす頃、ようやく室内に戻ろうとしたその瞬間——母から電話が入った。通話ボタンを押した途端、泣き声が耳に飛び込む。「紗帆……もうどうにもならなくて……迷惑かけたくなかったんだけど……」胸が縮む。紗帆は慌てて問い返した。「どうしたの?」「お父さんが病気で、手術しないと助からないって……でもどうしてもお金が足りないの……」「いくら?」「あと100万円……」紗帆は息を吸い込み、できるだけ穏やかに答えた。「お母さん、心配しないで。すぐ送るから。お父さんのそばにいてあげて。私もすぐに帰る」電話を切ると、紗帆は急いで送金画面を開く。そのとき——バンッ!テラスのドアが勢いよく開いた。振り返ると、そこには怒りに顔を染めた悠真がいた。後ろには、面白がって見ている客が何人も並んでいる。意味もわからないまま、紗帆は再び視線を落とし、送金金額を入力する。だが、そのスマホは無情に奪い取られた。紗帆はハッとして、すぐに手を伸ばして奪い返そうとした。「返して!」悠真はスマホを高く掲げ、見下ろすように彼女を見た。「返したら、証拠を消すつもりか?」紗帆は眉をひそめる。「何を言ってるの?」悠真は乾いた笑いを漏らし、スマホを操作して紗帆の目の前に突きつけた。「ほら、これでもまだ白を切る?」画面に映ったのは——加工された時雨の裸写真。そのとき、時雨が泣きながら人混みをかき分けて入ってきた。「紗帆さん、まだ私のこと恨んでるんですか?私がうっかりあのお茶を飲ませたから……だから、私をこんな目に?」すかさず悠真が続ける。「時雨の流出写真、追ったら発信元は君のスマホだった。今も証拠が残っている。まだ言い逃れするつもりか?気持ちはわかる
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第9話

婚約披露宴の会場は、精巧で気品に満ちていた。婚約式というより、まるで結婚式そのもののような華やかさだった。重い扉が押し開けられ、悠真は豪奢なドレスをまとった時雨の手を取り、ゆっくりと会場へ歩み入る。四方から称賛の声が湧き起こり、そのひとつひとつが耳に届く。だが悠真は、目の前の光景に心を奪われることはなかった。脳裏にあるのは、昔、紗帆と挙げたささやかな結婚式の記憶ばかり。あの頃、二人にはお金がほとんどなかった。だから式は簡素でさっと終わってしまった。それでも紗帆は笑っていた。「お金がないならないでいいの。あなたが私を愛してくれているってわかっていれば、形式なんて必要ない」その言葉が忘れられなかった。いつか必ず、彼女のために盛大な式を挙げ直そう——そう言っていた。今回の仕事が終わったら、必ず実現させる。最高の式を挙げて、彼女を再び迎えに行く。そんな未来ばかり思い描いていたせいで、司会者の「指輪の交換をお願いします」という声に気づかなかった。対面に立つ時雨は、その様子を見逃さなかった。悔しさと嫉妬で唇を噛む。一年前、時雨が悠真を好きになった頃、彼に妻がいると知っても、彼女は構わなかった。思い切って提携と婚約を持ちかけたが、悠真は即座に断った。それでも時雨は諦めず、必死に一年かけて動き、ようやく首を縦に振らせたのだ。契約前に、悠真は何度も言っていた。「婚約は契約上のものだ。結婚する気はない」それでも時雨は頷いた。当時はただ彼と記憶を共有できればよかった。だが今は——記憶だけでは足りない。式が終わり、契約調印の時間、悠真と時雨の父親が中央に立つ。そのとき、ひとりの男が近づいてきた。時雨は彼が悠真の部下であることに気づき、即座に手を伸ばして阻んだ。「急ぎなら私に言って。悠真は契約中なの」男は逡巡し、低い声で告げた。「紗帆様が姿を消しました。久藤社長に見張るよう命じられていたので、直接ご報告を……」時雨は瞬きもせず、内心で笑う。「私が伝える。戻っていいわ」軽く手を振り、男を追い返した。背を向けていく男の姿が遠ざかるとき、時雨の唇はゆっくりと歪んだ。——昨日、わざと紗帆の見張りを悠真に代わり配置させた。逃げるに決まっている。女の考えることは、結局は女が一番よく
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第10話

悠真は一秒も待てず、すぐに車を走らせた。着いたのは、地方の小さな町にある古びた団地だった。ここは――紗帆の父親に自分の脚を折られた場所でもある。それでも彼は、恨んだことは一度もなかった。後悔したこともなかった。棟の前に立ったとき、参列者の足元に舞い散ったお布施袋の紙片と線香の灰が目に入る。その瞬間、紗帆が言っていた父親の病気の話が頭をよぎった。胸の奥で、不吉な予感が一気に膨れ上がる。悠真は記憶を頼りに紗帆の家のドアの前へ向かった。コンコンコン。だが中からは何の気配もない。焦りはどんどん膨らみ、ノックはいつしか拳で叩きつけるように変わっていた。「紗帆!紗帆!中にいるのか?」派手な音に驚いたのか、向かいの部屋の住人が顔を出した。「向こうの人ならもう出ていきましたよ。昨日のうちにね。どこか遠くへ行ったみたいですが」悠真の呼吸が止まった。振り下ろした拳が、ドアの前で力なく落ちた。――来るのが遅すぎた。住人はドアを閉めようとした。だが悠真は思わず手を伸ばし、それを止め、震える声で聞いた。「すみません……ここで、どなたか亡くなったんですか。風でお布施袋の紙片が舞っていたので……」どうか違ってほしい。もうこれ以上、背負える罪はない。願いは祈りに近かった。住人は一転、興味深そうに口を開いた。「ええ、向かいの家ですよ。ご主人が病気になってね。お金がなくて治せなかったそうです。結局、そのまま……亡くなりました」淡々と、無情に続く。「娘さんがですね、昔、男と一緒に出て行って八年も戻らなかったらしいのですよ。この前戻ってきましたたけども……お父さんにはもう会えなかったみたいです。そりゃあ泣き崩れて、それはもう見てられなかったんですよ……」ぐらりと世界が傾いたようだった。――紗帆は、嘘なんてついていなかった。父が倒れ、急いで送金しようとしていただけ。なのに自分は……彼女のスマホを奪い、懇願を聞かず、信じず、結果として――紗帆の父親を死なせた。胸をえぐる痛みが、肉体まで裂くように広がった。紗帆は本当に出ていった。そしてもう、戻らない。決して、自分を許さない。後悔と自責が押し寄せ、悠真の心臓を内側から引き裂く。呼吸さえできないほどだった。どうやって帰ったのか
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