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第8話

Auteur: 皆無
ドアの隙間から、紗帆は三十分以上姿を消していた悠真を見つけた。

彼は泣きじゃくる時雨を抱きしめていた。

「時雨、安心しろ。俺が必ず、あいつをタダでは済まさない」

怒りに燃える目。

紗帆は、あんな悠真を見たことがなかった。自分を連れ戻したあの時でさえ、ここまで怒ってはいなかった。これがあなたの言う『愛』ってこと?

唇をゆがめて笑うと、紗帆は視線を逸らした。

もう見たくなかった。

ざわつき始めた人混みを抜け、紗帆は反対側のテラスへ向かった。

足首が鈍く痛みだす頃、ようやく室内に戻ろうとしたその瞬間——母から電話が入った。

通話ボタンを押した途端、泣き声が耳に飛び込む。

「紗帆……もうどうにもならなくて……迷惑かけたくなかったんだけど……」

胸が縮む。

紗帆は慌てて問い返した。「どうしたの?」

「お父さんが病気で、手術しないと助からないって……でもどうしてもお金が足りないの……」

「いくら?」

「あと100万円……」

紗帆は息を吸い込み、できるだけ穏やかに答えた。

「お母さん、心配しないで。すぐ送るから。お父さんのそばにいてあげて。私もすぐに帰る」

電話を切ると、紗帆は急いで送金画面を開く。

そのとき——バンッ!

テラスのドアが勢いよく開いた。

振り返ると、そこには怒りに顔を染めた悠真がいた。

後ろには、面白がって見ている客が何人も並んでいる。

意味もわからないまま、紗帆は再び視線を落とし、送金金額を入力する。

だが、そのスマホは無情に奪い取られた。

紗帆はハッとして、すぐに手を伸ばして奪い返そうとした。

「返して!」

悠真はスマホを高く掲げ、見下ろすように彼女を見た。

「返したら、証拠を消すつもりか?」

紗帆は眉をひそめる。

「何を言ってるの?」

悠真は乾いた笑いを漏らし、スマホを操作して紗帆の目の前に突きつけた。

「ほら、これでもまだ白を切る?」

画面に映ったのは——加工された時雨の裸写真。

そのとき、時雨が泣きながら人混みをかき分けて入ってきた。

「紗帆さん、まだ私のこと恨んでるんですか?私がうっかりあのお茶を飲ませたから……だから、私をこんな目に?」

すかさず悠真が続ける。

「時雨の流出写真、追ったら発信元は君のスマホだった。今も証拠が残っている。まだ言い逃れするつもりか?

気持ちはわかる。子どもを失ってつらいのだろう。

でもこれは時雨のせいじゃない。君は許されないことをした」

紗帆には、どうして写真が自分のスマホにあるのか見当もつかない。

だが今はそれどころではない。

ただ——早く送金しなければ。

「悠真!お願い。スマホ返して。お父さんの手術にお金が必要なの。送金だけさせて!本当に急いでるの!」

必死の声は、悠真には芝居にしか聞こえなかった。

「君は、親と八年も音信不通だったろ?嘘をつくならもっとマシなの考えろ」

その瞬間、紗帆は崩れた。

「嘘じゃない!お願いよ……本当なの……お願いだから返して……お父さんが……本当に……」

涙と嗚咽がこぼれる。

その必死さに、悠真の表情が揺れた——けれど。

「なんでそんなことするんですかあああ!」時雨が突然大泣きし、ぐらりと倒れた。

「時雨?時雨!」

悠真は飛びついて抱きあげる。

紗帆を見る目は、氷のように冷たかった。

「失望したよ、紗帆。彼女を家に連れ戻せ。俺が許可するまで外に出すな」

ボディーガードに両腕をつかまれ、紗帆は必死にもがく。

「違う!お願い、信じて——!!悠真!!」

けれど彼は一度も振り返らなかった。

再び部屋に閉じ込められ、紗帆は家の使用人に懇願した。

「悠真に会わせて……お願い……」

返ってくるのは一言だけ。

——「旦那様は江島さんの側におられます」

どれだけ頼んでも、叫んでも。

婚约披露宴前夜、紗帆はとうとう一度も悠真に会えなかった。

そしてその夜、警備が式場に移り、家は手薄になったのを隙に、紗帆は窓から逃げ出した。

スマホはない。

家にあった現金を握りしめ、乗車券を買い、故郷へ急いだ。

家に着いたのは翌朝。

足の痛みも忘れて駆け込むと——そこにある父の遺影に目が留まった。

父は、もういなかった。

一方その頃、婚約パーティー会場では。突然、悠真の胸に不安がよぎった。

紗帆……大丈夫だろうか?やりすぎたのではないか。

そう思い始めた時、電話が鳴った。

「ご依頼の山一面、黄色いバラの植え付けが完了しました。

ご指定の一区画は、ご自身で植えられるよう空けてあります」

悠真は満足げに微笑んだ。

式が終わったら、これを紗帆に贈るつもりだった。最近気まずかった関係を、これで元に戻せると信じていた。

父の遺影に線香をあげ終えると、母が涙ながらに言った。

「お父さんね、本当は三日ももたないって言われてたの。でも紗帆に会うまでは死ねないって……それで昨日まで……頑張ってくれたのよ……」

涙が喉に張りつき、声も出ない。

紗帆は母を抱きしめ、壊れた声で繰り返す。

「ごめん……ごめんなさい……全部私のせい……私が……帰っていれば……ごめん……」

こんなにも後悔したことはなかった。

もしやり直せるなら——彼と出会った大学も選ばない。

あの日、彼についていくこともない。

葬儀が終わったら、母を連れてここを出る。

そして、全てやり直す。二度と振り返らずに。

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