All Chapters of 都合のいい妻の終活、私の葬式へようこそ: Chapter 1 - Chapter 10

18 Chapters

第1話

結婚して10年。青木菖蒲(あおき あやめ)が青木克哉(あおき かつや)を愛して止まないということは、芸能界で誰もが知っていることだった。それだけ、愛が深かったからこそ、彼女はたとえ、克哉が結婚しているにも関わらず数々の馬鹿げたスキャンダルを起こしても、何一つ嫌な顔をせず、後始末をしてきた。例えば、克哉と小林綾(こばやし あや)がクラブでキスしているところを撮られた時、菖蒲はパパラッチのSNSの投稿を引用して、【克哉がキスしていた相手は私です】と投稿することで粉飾しようとした。また、ある時、克哉と綾のいかがわしい写真が流出した時も、「プライベートな撮影をしていただけです」と菖蒲は記者に説明した。さらに、克哉と綾が同じ部屋に3時間も二人きりでいた時は、「実はあの夜、私もその部屋にいました」と言ってのけた。こうして、菖蒲は克哉が繰り返すスキャンダルの後始末をひたすら行ってきたのだった。そして、世間から、最初は同情も買っていたが、いつしか「クズ男に尽くす追っかけなんて自業自得だ」と罵られるようになったのだ。だが、こうした騒ぎが続く中、克哉と綾の話題が99回も世間を騒がせた時、いつもなら真っ先に夫をかばうはずの菖蒲が、何の反応も示さなかった。そんな状況に、世間が驚いている矢先、菖蒲はSNSに一件の投稿をした。【みなさん、こんにちは。私の命はもうまもなく底をつきます。よければ、7日後のお葬式にでも、ぜひお越しください】……その、投稿をし終えると、菖蒲はスマホをソファに放り投げた。画面はまだ明るく、コメント欄は炎上していた。でも、彼女はそれを見る気にもならなかった。その時、ドアが激しい音を立てて開けられた。菖蒲がどうにか顔を上げて目線を向けると、入口に克哉がスマホを握りしめ、顔を怒りで歪ませながら立っているのだった。そして、克哉は靴も脱がず、高価な手織りのウールカーペットの上を土足でずかずかと歩いてきた。「菖蒲、また何かしようとしているのか?同情を引くためなら、そんなくだらない手まで使おうっていうのか?」そう言われて、菖蒲はゆっくりと顔を上げ、克哉の怒りに満ちた視線を静かに受け止めた。10年も愛してきたこの男の顔を見ていると、彼女はなんだか笑えてきた。菖蒲と克哉は、古い団地で一緒に育った幼馴染だった。
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第2話

そう思って、菖蒲はゆっくりと体を起こし、テーブルの下の棚から銀色のライターを取り出した。カチッと音を立てると、青い炎が診断書にたちまち燃え移り、紙は丸まりながら黒く焦げ、やがて一握りの灰になった。まるで、燃え尽きた自分の10年間の愛のように。それから、菖蒲は深く息を吸い、こみ上げてくる血の味をなんとか飲み込み、改めてスマホを手に取ると、画面には克哉が投稿した例の投稿が表示されたままだ。そのコメント欄は、ひどい言葉で埋め尽くされているのだった。【キモ。菖蒲のヤツが本当の尻軽女だったとはね!】【綾さんに謝れ!芸能界から消えろ!】【独りよがりに尽くしても、思うようにならなかったのね!菖蒲のヤツ、ざまあみろ!克哉さん、早く離婚して!】次々と増える悪質なコメントを眺めていても、菖蒲はもう痛みを感じなかった。心が廃れていくと、体も感覚を失うのかもしれない。そう感じながら菖蒲は、ほとんど連絡を取ることのない番号に電話をかけた。「陣内先生、すみませんが家まで来ていただけますか。遺言書を作成したいんです」それから、弁護士の陣内浩平(じんない こうへい)はすぐに来てくれたが、彼は血の気もなく、まるで別人のように痩せこけた菖蒲の姿を見て、驚きを隠せないようだった。記憶にある菖蒲は、いつも上品で落ち着いていた。どんなに大変な状況でも、気品を失わない人だったのに。どうしてこの数ヶ月で、こんなに死にそうなほど衰弱してしまったのだろうか。「青木さん、あの……」「私にはもう時間がありません、陣内先生」菖蒲は浩平の言葉を遮り、用意していた書類の草稿を渡した。「私の個人資産はすべて、両親の遺産も、これまでの投資の利益も、私の名義になっているあの古い家の権利も、死後、すべて児童基金会に寄付します。問題がなければ、この通りに進めてください」そう言われて、浩平はうなずいた。そして、何かを言いかけたとき、菖蒲の額に冷や汗がにじむのが見えた瞬間、彼が反応する間もなく、菖蒲は後ろへばったりと倒れ込んでしまったのだ。菖蒲が再び目を開けると、そこは病院の白い天井だった。「目が覚めたか?」克哉がベッドのそばに立っていた。そして、菖蒲を見下ろしながら、そう言う彼の声はひどく冷たかった。「菖蒲、仮病を使うならもう少しマシな芝居をしろ。わざわざ病院に担ぎ
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第3話

それを聞いて、克哉はぐっと拳を握りしめた。しかし、菖蒲は彼に構うことなく話を続けた。「10年間、私は無名だったあなたが成功するまでずっとそばにいた。マスコミの対応も、人間関係のやり取りも全部私が担ってきた。ワイヤーアクションの事故で崖から落ちたあなたを、捜索隊と一緒になって、私も飲まず食わずで3日間探し続けた。あなたが見つかったとき、体はもう冷たくなっていた。病院では輸血が必要だって言われて、私はすぐに腕をまくって私の血を抜いてもらったの。大人が一度に献血できるのは400ccまでなのに、あの時一気に、私の血を900ccもあなたに輸血した。それなのに、私が最後に手にしたのは、数えきれないほどの裏切りと、『疫病神』という言葉だった」こうして菖蒲は一語一句言う度に、長い間息を整えなければならなかった。それでも無表情なままの克哉を前に、菖蒲は自嘲気味に笑い、静かに言った。「克哉、二つ目の願い。あなたと離婚させて」その言葉を聞いた克哉は、鼻で笑うように言い放った。「こんな大騒ぎして、結局はそれが目的か?いくら欲しい?俺の財産、何割よこせって言うんだ?」菖蒲は落ち着いた表情だった。「克哉、離婚しよう。私が欲しいのは、たった180円だけ」その一瞬、あたりが静まり返った。克哉は完全に固まってしまった。まるでその言葉が理解できないかのように。「なんだって?」「180円よ」菖蒲ははっきりと繰り返した。その視線は克哉を通り抜け、10年前の、狭いけれど希望に満ちていた役所の窓口を見ているかのようだった。そこには、ちゃんとした服すら買えないほど貧しかった、菖蒲と克哉の姿があった。「だって、あの時役所までの交通費が180円だったでしょ。私が出したのよ」その言葉が終わると、まるで時が巻き戻ったかのようだった。克哉の脳裏に、あの日の午後の陽射しがよぎった。若かりし頃の菖蒲が、顔を赤らめ、穴のあいた財布から、まだ温かい18枚の10円玉を大事そうに数えて出した。そして、振り返って、はにかみながらも明るい笑顔を自分に向けた。克哉は突然喉を詰まらせた。かつてのあの18枚の10円玉に打撃されたかのようで、胸に一瞬、鈍い痛みを感じたのだった。彼が何かを言おうとしたその時、遠くから甘ったるい声が聞こえてきた。「克哉さん、小さい頃はこんな
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第4話

すると血が飛び散り、ほこりだらけのコンクリートの床に、痛々しいほどの赤い花を咲かせた。それを見て、綾の靴を拭いていた克哉の手が、ぴたりと止まった。綾は驚いて一歩後ずさり、口元を覆った。「菖蒲さん……」菖蒲は手の甲で口元の血をぬぐい、弱々しい笑みを浮かべた。「小林さんを驚かせちゃった?ごめんなさい、最近ちょっと体調が悪くて」一方で、克哉もすっと立ち上がり、眉をきつく寄せた。「一体どうしたんだ?」「たいしたことじゃないわ」菖蒲は静かに首を振り、再び窓の外の寂れた小道に目を向けた。「克哉、三つ目の願いは……」「もういい」克哉は突然菖蒲の言葉を遮った。その声には、自分でも気づかないほどの焦りが含まれていた。「お前のわけのわからない願いには、もう付き合いきれない。東都に帰るぞ。離婚のことは弁護士から連絡させる。たった180円だと?馬鹿にしてるのか?」「馬鹿にしてる?」菖蒲の瞳にようやく、かすかな感情の波が立った。「克哉、あなたはこれを、侮辱だと思うの?」菖蒲はゆっくりと克哉に近づいた。手のひらの傷からはまだ血が滲み、一滴、また一滴と落ちていく。「親が亡くなった後、残してくれたわずかなお金と、私がバイトを三つ掛け持ちして貯めたお金で、あなたを養成所に通わせた。あの頃、地下室で一緒に暮らし、一番安いカップ麺を食べたりしたわね。あなたの初舞台の衣装も、父の古いスーツを私が徹夜で手直しをしたものよ。そして、あなたが初めて賞をもらった時だって、会場で手が真っ赤になるまで拍手していたのは、私だけだったわ」菖蒲は克哉の目の前に立ち、静かに告げた。「それなのに、180円を侮辱だと言うの?じゃあ聞くけど、大物俳優のあなたにとって、何なら侮辱にならないの?あなたの財産の半分を奪うこと?それともあなたの恩知らずな本性を世間にばらすこと?まさか、この小林さんのように……」菖蒲の視線が綾をちらりと捉えた。「他人の真心と尊厳を踏み台にして、欲しい地位を手に入れること?」それを言われて克哉の顔色が一気に険しくなった。でも菖蒲は全く気づかないふりをして、一語一句はっきりと告げた。「三つ目の願い。五日後、すべての人にあなた自身の口から伝えてほしいの。『菖蒲を一度も愛したことはない。10年前の結婚はただの取引で、利用しただけだった』って。そ
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第5話

図星を指され、克哉は気まずそうに顔を歪めた。「何をわけの分からないことを言ってるんだ?」菖蒲はなんとか地面に手をついて立ち上がったが、動くたびに、後頭部の痛みはどんどんひどくなった。それでも菖蒲は克哉を見つめ、一言一言、力を込めて話し始めた。「この10年、あなたがファンをけしかけたこと、一度や二度じゃないでしょ。私の撮影場所をリークして、唾を吐かせたり、汚い物を投げつけさせたり。わざと私の両親のお墓の場所をバラして荒らさせて、最後には、遺骨までめちゃくちゃにされたわ。克哉、私はバカじゃない。ただ、昔はあなたのことを愛しすぎていただけなの」克哉はきょとんとした。菖蒲は激しい痛みをこらえ、あざけるように言った。「私が死んだら、あなたは嬉しいんでしょ?だって『離婚より死別の方が聞こえがいい』って言ってたもの。だから今更、助けに来たふりなんてしないでよ。私がそれであなたに感謝するとでも思ったの?」最後の仮面が無情にも引き剥がされた。かつて愛し合った二人の間には、痛々しい傷跡しか残っていなかった。克哉は何も言わなかった。一方、菖蒲は克哉に背を向け、バスルームへと向かった。再び彼に目を向けることはなかった。「ちょっと洗ってくる。大物俳優のあなたはお忙しいでしょから、離婚の時間を遅らせたりはしないわ。ご心配なく」克哉はその場に立ち尽くしていた。バスルームから聞こえるシャワーの音を聞きながら、袖についた赤いペンキを見つめる。その瞳には、深く複雑な色が浮かんでいた。しばらくして、水の音が止んだ。菖蒲が出てきた。その声は、何の感情も感じられないほど平坦だった。「行こう。この道を二人で歩くのも、これで最後になるわね」……3時間後、東都の役所の前。菖蒲は、自分が克哉と離婚する時に、綾が付き添うことになるなんて、思いもしなかった。手続きは事前に済んでいたためか、驚くほど早く進んだ。だが、サインをする菖蒲の手は、かすかに震えていた。名残惜しいからではない。体の痛みが、もう限界に達していたからだ。菖蒲は歯を食いしばり、一文字ずつ丁寧に自分の名前を書き記した。克哉は、菖蒲の血の気のない横顔と額ににじむ冷や汗を見て、思わず口を開いた。「お前……」「青木さん、署名をお願いします」と、職員が促した。
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第6話

役所の前で、乾いた平手打ちの音が響き渡った。殴られた衝撃で克哉の顔は横を向き、左の頬がみるみる赤く腫れ上がった。克哉はその場に凍りつき、信じられないという表情で目を見開いていた。この10年、菖蒲は彼に一度も声を荒らげたことがなかった。ましてや手を上げるなんて、ありえないことだ。一体どうして?そこへ綾が悲鳴を上げて駆け寄ってきた。「克哉さん、大丈夫?」綾は心配そうに克哉の頬を撫でると、向き直って菖蒲を睨みつけた。「頭おかしいんじゃないの?」菖蒲の手はまだ小刻みに震えていた。でもそれは後悔からじゃない。痛みと怒りが入り混じったせいで、体が勝手に反応しているだけだ。菖蒲は目の前の二人をまっすぐ見つめた。その眼差しは氷のように冷ややかだった。「頭がおかしいのはそっちでしう。克哉、あなたがここまで恥知らずな人間だとは思わなかったわ」それを聞いた綾はすぐに警察に通報した。「人前で殴るなんて立派な犯罪よ。克哉さん、絶対にこのままにしちゃダメ。あなたは有名人なのよ。もし誰かに動画でも撮られて、元妻からDVされてるなんて広まったらどうするの……」克哉は、そんな綾を止めようとしなかった。二十分後、警察署の一室。綾は克哉に寄り添うように座り、甘ったるい声を出した。「おまわりさん、見てください。克哉さんの顔、まだこんなに赤いんですよ。これは立派な傷害事件です。法律に従って、ちゃんと罰してほしいです」中年の警察官が菖蒲に尋ねた。「殴ったことは認めますか?」「はい、認めます」菖蒲は落ち着いた声で答えた。「どうして殴ったんですか?」菖蒲は顔を上げ、克哉と綾に目をやり、ふっと鼻で笑った。「この人は、殴られて当然だからです」綾がすぐに立ち上がった。「おまわりさん、聞きましたか?まったく反省してないんですよ!こんな人は留置場に入れるべきです!」警察官は眉をひそめた。「菖蒲さん、あなたが謝って、相手の方が許してくれれば……」「謝らないし、許してもらう必要もありません」菖蒲は話を遮った。「捕まる方がましです」それを聞いて、克哉が不意に口を開いた。「実はもう一つ、選択肢がある」菖蒲は無表情のまま、克哉に視線を向けた。「契約通りなら、お前は今日の午後には撮影に参加するはずだ」克哉の声には感情がこもっていなか
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第7話

その瞬間、照明が一斉に灯された。眩しい光の中で、克哉は思わず目を細めた。菖蒲は薄汚れたシーツの上に横たわっていた。顔は血の気がなく、真っ青だった。口の端からは血が流れ、彼女の周りにはおびただしい量の血だまりができていた。すると、ベッドのそばでは、男優の一人が股間を押さえ、苦痛に顔を歪めている。「こいつ……俺に噛みつきやがって!そのあと急に血を吐き始めたんだ!どうなってんのか、さっぱりわからねえ!一発ヤれると思ったのによ、とんだ災難だぜ、まったく!」その言葉を聞いて、克哉は眉をひそめ、不快感を露わにした。しかし何も言わず、ただアシスタントに菖蒲に服を着せるよう指示し、救急車を呼ぶよう電話をかけただけだった。しばらくして、病院の救急処置室の外で、克哉は長椅子に座っていて、手には、乾いてこびりついた血痕が残っているのだった。それは、医者に手伝いを頼まれた時に、うっかり触れてしまったものだった。そこへ、菖蒲のマネージャーである夏川杏(なつかわ あん)が慌てて駆けつけた。杏は克哉の顔を見るなり、無言で思いきり平手打ちを見舞った。「克哉さん、この人でなし!どうして菖蒲にあんな酷いことができるんですか?菖蒲がどれだけ……」彼女がそう言いかけていると、「杏さん、もうやめて。克哉には帰ってもらって」か細い声が、救急処置室のドアの向こうから聞こえた。そして、看護師がストレッチャーを押して出てきた。その上には、血の気のない真っ青な顔をした菖蒲が横たわっていた。菖蒲はうっすらと目を開け、虚ろな瞳で克哉を見つめていた。「克哉、もう帰って」その言葉に、杏はベッドに駆け寄り、目を赤くしながら言った。「菖蒲、どうして?」一方、克哉は立ち上がり、拳を握りしめて言った。「菖蒲、これもお前の芝居か?」「克哉さん!」そこへ綾が駆けつけ、克哉の腕に自分の腕を絡めた。「外に記者がたくさん来ている!誰かが情報を漏らしたみたいで、今、ネット中が菖蒲さんが私のヌードの代役だったってことで持ちきりよ!今日の撮影現場でのことも、全部暴露されて!」克哉の表情が険しくなる。彼は菖蒲をさらに冷たい目で見つめた。「お前がやったのか?」菖蒲は目を閉じ、何も答えようとしなかった。「菖蒲さんがやったかどうかはともかく、今はまずこの一件を解決するのが先決よ」綾
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第8話

こうして、その四本の投稿は、まるで熱した油に水を落としたかのように、またたく間にネットを炎上させた。その熱でSNSのサーバーが、まる1時間もダウンしてしまうほどだった。そして、サーバーが復旧すると、菖蒲の投稿には、毎分1万件以上のとんでもないペースでコメントが殺到した。【また新しい手口でしょ?同情を引くために診断書まで偽造するなんて、ありえないんだけど】【絶対に嘘!克哉さんがあんなひどいこと言うわけない!】【音声は合成に決まってる。今の技術なら、作れないものなんてないんだから】【死んでも自業自得よ。病気や死をネタにすれば、全部チャラになると思ってるわけ?】綾のファンたちが、真っ先に反撃を開始した。診断書の病院名を「精神病院」に加工し、訃報の写真には「悲劇のヒロインごっこ」といったコメントを付けて拡散したのだ。中でも影響力のあるファンは、【#中村菖蒲を追放せよ】というハッシュタグを拡散させた。しかし、次第に違う意見も現れ始めた。【放射線科の医師です。このCT画像は本物で、間違いなく末期の膵臓がんの所見ですよ】【音声分析の専門家三人に解析してもらったけど、編集された形跡はないって】【待って。もしこれが全部本当だとしたら……克哉さんは10年もの間、ずっと愛妻家キャラを演じてたってこと?】そして、朝の6時、克哉が綾のマンションで目を覚ますと、スマホは不在着信とメッセージで埋め尽くされていた。マネージャーからはボイスメッセージが30件も届いており、最後の1件はもはや絶叫に近かった。「克哉さん!今どこにいるか知らないけど、すぐにSNSを見てください!大変なことになってますよ!」克哉は眉をひそめてトレンドを開いた。すると目に飛び込んできた四本の見出しに、息を呑んだ。「克哉さん……」綾がバスローブをまとってバスルームから出てきた。克哉の表情を見て、声はたちまちか細くなった。「どうしたの?」だが、克哉は答えなかった。そして彼が録音データを再生すると、静かな寝室に自分の声が響き渡った。「菖蒲と結婚したのは、若気の至りで責任を取っただけだ……だから、今回あいつがお前のヌードシーンの代役を終えたら、すぐに捨てて、お前と結婚する」綾は顔面蒼白になった。「ど、どうして菖蒲さんがこの録音を?あの日、たしかに……」
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第9話

それから電話からは、ツーツーという無機質な通話が切れる音だけが聞こえるのだった。一方で、克哉はスマホを耳に当てたまま、その場で丸1分間も立ち尽くしていた。綾がそっと克哉の腕に触れた。「克哉さん、夏川さんが出たの?絶対にグルよ、芝居に決まってるわ。私たちは……」「出ていけ」克哉の声は、恐ろしいほど静かだった。「え?」「出ていけと言ったんだ」克哉が振り返ると、その眼差しから放たれる冷気に綾は2、3歩後ずさった。「今すぐ、だ」すると、綾は唇を噛みしめ、目を赤く潤ませた。「克哉さん、私を怒鳴るの?あんな女のために、私にそんな態度をとるの?」「彼女はあんな女じゃない」克哉は一語一句、区切るように言った。「さっさと、消えろ」そして、ドアが閉まると、克哉は再び杏に電話をかけた。今度こそ、相手はすぐに出た。「夏川さん、そんな子供だましの芝居はやめろ」克哉は窓際に寄り、階下で集まり始めた記者たちを見下ろした。「菖蒲に代われ。本人の口から説明させろ」電話の向こうから、嗚咽をこらえる声と、紙がめくれる音が聞こえてきた。「克哉さん、私、今病院の霊安室にいます」杏の声は震えていた。「菖蒲は目の前で、白い布をかけられて眠ってます。彼女に説明してほしいって?いいでしょう、来てくださいよ。その目で、菖蒲の最期の姿をちゃんと見届けてあげてください」「もうやめろ!」克哉は壁に拳を叩きつけた。「信じないぞ。この数日、あいつはピンピンしてたじゃないか。どうして急に末期がんなんだ?診断書は偽造なんだろ、そうだろ?」「この数日、ですって?」杏は、ふと笑った。その笑い声は泣き声よりも胸に突き刺さる。「克哉さん、菖蒲がこの数日間、どんな思いで過ごしてきたか、あなたに分かりますか?日に7、8回も吐いて、痛みで夜も眠れず、体重だって10キロも落ちたのですよ。なのに、あなたは?あなたときたら、菖蒲に離婚を迫って、小林さんのヌードシーンの代役をやらせて、あげくの果てには、記者たちの前で自分がセックス依存症だって認めさせました!」克哉は息をのんだ。彼はこの時初めて、この数日間の、いくつかの些細な出来事を思い出した。菖蒲の顔色は日に日に青白くなっていったこと。いつも体調が悪いと言っていたこと。食事の量がどんどん減っていったこと。ある日、家で突然ト
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第10話

そして、霊安室は、克哉が想像していたよりもずっと冷たかった。彼はサングラスとマスクをつけ、マネージャーに付き添われて病院の裏口からこっそりと入った。すると、廊下の突き当たりに、杏が一つの書類を手に持って立っていた。「よくもまあ、ここに来れましたね」杏の目は腫れ上がり、ほとんど開けられない状態だった。「菖蒲はどこだ?」克哉の声は、ひどくかすれていた。杏は、そばにあったドアを押し開けた。部屋は狭く、真ん中にはステンレス製のベッドが一つだけ置かれていた。上には白い布がかけられ、人の形がうっすらと浮かび上がっている。克哉は、入り口で立ち尽くした。「さあ、行ってくださいよ」杏は冷たく笑った。「信じられないんじゃなかったのですか?自分の目で見たいって言ったでしょう?」そう言われて、克哉の足は鉛のように重く、一歩進むのがやっとだった。「菖蒲、すごくきれい好きでした」後ろから杏の声が聞こえた。「あなたが菖蒲の香りが好きだと言ったから、毎日2回もシャワーを浴びていました。でも、最後の3日間は痛くてベッドから起き上がれなくて、私が体を拭いてあげてました」それを聞いて克哉の手は、宙で止まった。「さあ、触ってくださいよ」杏の声は涙で震えていた。「布をめくって、その目で確かめたらいいです。あなたが宝物のように大切にしていたのに、最後は泥の中に踏みつけた奥さんが、今どんな姿になったのかをね」指が白い布の端に触れた瞬間、骨まで凍みるような冷たさを感じた。結婚式の日のことを思い出した。ベールを上げたとき、菖蒲は顔を上げてにっこりと笑いかけてくれた。その瞳には、満天の星空が映っているようだった。自分は言った。「菖蒲、これからの人生、よろしく頼むよ」菖蒲は言った。「克哉、10年、20年、そして一生、あなたについていくわ」だが、二人が共に過ごした10年は、裏切りによって終わりを告げた。白い布の端が、めくり上げられた。まず見えたのは、ぱさついた黒髪だった。菖蒲の髪は、かつて豊かで艶やかで、克哉は、その髪に顔をうずめるのが好きだった。次に、土気色の横顔が見えた。目は固く閉じられ、唇は紫色をしていた。口の端には、まだ拭き取られていない血の跡が残っている。菖蒲じゃない。こんなの、菖蒲であるはずがない。自分の菖蒲は、いつも
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