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一輪のめぐり逢い のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

20 チャプター

第1話

杉本莉子(すぎもと りこ)は、誕生日を迎える婚約者の久保充(くぼ みつる)をサプライズで驚かせようと、仕事を大急ぎで片づけた。だが、夜通し車を走らせた疲れがたたり、つい不注意から事故を起こしてしまう。足を引きずりながらも充の家になんとかたどり着いたが、家の中は莉子が想像していたような静けさはなかった。テーブルはたくさんの人で埋め尽くされている。それに、いつも自分が座っている席には、知らないおとなしそうな女が座っていた。そこにいた人々は莉子に気づくと、笑い声をぴたりと止め、一斉にその女のほうに視線を向けた。充の笑顔までもが強張っている。「どうして来たんだ?」莉子は固まってしまった。プレゼントを抱えた莉子の鼻は、寒さで真っ赤になり、おまけに足は怪我をしている。なのに充は、そんな莉子の様子を気にかけるどころか、第一声は自分になぜ来たのか、と聞いてきた。「もしかして、私が来たら都合でも悪かった?」莉子は、無理やり口角を上げて笑ってみせる。「いや、そういうわけじゃないけど。ただ、今日は来ないと思って、席を用意してなかったから」充の声に苛立ちが混じっているのが、莉子にははっきりと分かった。しかし、その苛立ちが招かれざる客である自分へのものなのか、それともこの気まずい鉢合わせへのものなのかは定かではないが……「そんな顔するなよ。席を用意するから、早く座れ。みんながお前を待ってるんだから」そう言うと充は適当に、背もたれすらない椅子を持ってきた。その椅子を無理やりテーブルの隙間に押し込んだせいで、ひどく場違いに見える。足の痛みはまだ引いていなかった。この怪我のせいで、もうモデルの仕事は続けられなくなるだろう。なぜなら、会社から半年は休むように言われたから。この業界で半年も休んだら、もう自分の居場所はなくなってしまうはずだ。しかし、仕事を失っても、自分には充がいる。そう思っていたけど、それもどうやただの思い上がりだったようだ。なんて自分は馬鹿だったんだろう。莉子は椅子に座らず、充の隣にいる女に視線を向けた。女の肩には、サイズの合わない白いメンズジャケットがかけられていて、よく見ると油のシミが点々とついている。しかもそのジャケットは、数日前に充と旅行へ行った時、莉子がプレゼントしたもの。充はそれを
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第2話

澪は莉子をベランダに連れて行き、タバコを一本差し出した。「どうしたの、結婚やめるの?あなたが海外に行きたがってること、久保さんは知ってるの?」冷たい風が、切ない痛みで張り裂けそうな莉子の心を、ゆっくりと冷やしていく。莉子は5年もつけていた指輪を無造作に外すと、近くの池に投げ捨て、自嘲気味に言った。「山下さん、結婚は二人でするものですが、別れは一人でも決められるんです。それに私、自分のことは自分で決められますから、充が知る必要はありません」海外赴任の件が充に知られれば、きっと機嫌を取ろうと下手に出てくるだろう。でも、そんな卑怯な手を使ってまで充の優しさと愛情を勝ち取ることを、莉子のプライドが許さなかった。同情で得た優しさなんていらない。もう充のことでは十分泣いた。だからこれ以上、あの人のために立ち止まっているわけにはいかない。「1ヶ月後にM国でモデル選考のプロジェクトがあるの。経験豊富なあなたに行ってもらうってもいいかしら?」澪は莉子の肩をぽんと叩いて、その場を去った。タバコを一本吸い終えると、莉子は足首にズキズキとした痛みが走るのを感じた。視線を下すと、傷口から滲み出た血でガーゼが赤く染まっている。莉子は疲れた体を引きずって、再び病院へと向かった。一人で治療室に座っていると、心配そうにパートナーに付き添っている人が目に入った。いつだったか、充もあんな風に自分を気遣ってくれたことがあった。病気だと知ればすぐに仕事を放り出して病院に連れて行ってくれたし、熱を出せば一晩中そばで看病してくれた。疲れて椅子にもたれかかり、そっと目を閉じた莉子は、どうしてか昔のことを思い出していた。充と出会った頃、彼はまだ一介の社員にすぎなかった。莉子があちこちからお金をかき集めて、充と一緒に会社を立ち上げたのだった。接待に付き合っては一緒にお酒を飲み、充が今の地位に上り詰めるまで支えてきた。今では、東都で誰もが知る社長となった充。そして、莉子はモデル業に復帰してトップモデルに躍り出た。婚約してからは、二人で毎月神社へお参りに行くのが習慣だった。東都には、ある言い伝えがあった。恋人同士が66ヶ月間、欠かさず神社にお参りし、願掛けの短冊を木箱に納めて御神木の下に埋めると、添い遂げられるというもの。
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第3話

聞き覚えのある声。莉子が顔を上げると、にこりと笑みを浮かべている紗奈と目が合った。「奇遇ですね。莉子さんもお参りに来ていたなんて。充に勧められたんですよね?実は、私たちがまだ学生だった頃、よく充を連れて合格祈願のお参りに来てたんです。そのおかげか、充は本当に東都で一番の大学に受かりまして。それから充は、この神社の御利益を会う人みんなに話してるんですよ」莉子は唇を固く結んだ。何も言わなかったし、何を言えばいいのかも分からなかった。紗奈の言葉は、まるで石つぶてのように、引き裂かれて血まみれになった莉子の心にねじ込まれ、心臓が脈打つたびに、鈍い痛みが走る。自分だけがまるで充の過去を知らないまま、締め出されてしまった部外者みたい。どうりで、充が短冊に願い事を書くときの表情があんなに真剣だったわけだ。充は心からご利益があると信じて、本気で紗奈との未来を願ってい他のだから。莉子が何も話さないのを見ても、紗奈は気まずそうな素振りも見せず、話を続けた。「この間は本当にごめんなさい。莉子さんが充の服を他人に着られるのをあんなに気にするなんて思ってもみなくて。私たちは小さい頃からすごく仲が良くて、服を借りるのなんてよくある事でしたから。あの時はとても寒かったので、充が羽織らせてくれてたんですけど、気づかないうちに汚しちゃったみたいで。新しいのを弁償させてください」莉子も特に遠慮はせず、すぐに連絡先を交換した。しかし、相手から送金されたのは、たったの1万円だった。莉子はそれを受け取らず、口の端を上げて、気のない笑みを浮かべた。「青木さん……」しかし、紗奈は莉子の言葉を遮り、気前よく言った。「もし多く払っていたら、お返しは結構ですよ」「違うの。あの服は30万円だったから、あなたからの1万円じゃ、端数にも足りないってこと。だから、残りの29万円、一括で払う?それとも分割にする?」紗奈は信じられないという顔で莉子を見つめる。「30万円?!あの服、金かなにかでできてるんですか?」莉子は眉を上げて紗奈を見た。「青木さんの方から弁償すると言ってきたけど、まさか口だけ?」莉子は紗奈に逃げ道を与えず、ずっとその場で対峙し続ける。結局、紗奈は唇を震わせながらもクレジットカードを切った。お金を受け取った莉
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第4話

莉子が振り向くと、スーツの上着を腕にかけた充がいた。でも、その凛々しい顔には喜びの色なんて少しも見えない。しばらくぶりに会えたはずなのに。「あの服は私が買ったもの。お金を受け取って何が悪いの?」莉子は淡々とそう言うと、また目の前の食事に視線を戻した。「紗奈とは長年の友達なんだ。あいつだってわざと上着を汚したわけじゃないだろ。それに、あいつには金がないって分かってるのに……俺が他の友達からどう見られるか、考えてくれなかったのか?」「それが何?」莉子の声は平然としていて、何の感情も読み取れなかった。しかし、もし充がもう少しだけ理解しようとすれば分かったはずなのだ。それは無関心なんかではなくて、完全なる失望で心が死んでしまったからだということを。近づいてきた充からは、知らない女性ものの香水の匂いがする。きっと、あの「女友達」と会っていて、心の中ではとっくに答えを出したのだろう。充はいつもこうだった。莉子のいない世界で生きることに、すっかり慣れてしまっている。莉子はふと、自分の心がひどく疲れているのを感じた。一体いつから、二人の関係はこんな風になってしまったんだろう。今では、充がプレゼントをくれたり優しくしてくれたりするのも、全部下心があってのことだった。「お前にとってあの金額は大したことないだろ?だから、紗奈に返してやれよ。それに、食事にでも誘って、ちゃんと謝ってくれよな。俺からのプレゼント、受け取ってくれたんだろ?だから、ここは俺の顔を立てて、さ?それに、結婚式で俺の友達とも気まずくなりたくないだろ?」充は声を潜め、莉子の後ろに立つ。そしてテーブルに両手をついて、まるで莉子を腕の中に閉じ込めるような体勢になった。紗奈のためなら、充は自分から頭を下げることも厭わないらしい。莉子の心に、チクリと痛みが走ったが、それはすぐに跡形もなく消えてしまった。「いやよ」莉子は片手で充を突き放す。紗奈に頭を下げて謝るなんてありえないし、充の友人達からの祝福なんて必要ない。だって、もう自分と充に未来なんてないのだから。莉子は充の横をすり抜けて足早に二階へ上がると、そのまま部屋のドアを閉めた。気まずい雰囲気のまま、次の日の朝を迎えた。だからか、会社の創立記念パーティーがあるというのに、充は莉子
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第5話

莉子は病院でたった一人、手当てを受けていた。もうモデルを辞める決心はついていたので、自分の体の傷跡を見ても、そこまで辛くはならなかった。足首の古傷がまた開いてしまった莉子が足を引きずりながら病室を出ると、そこにいたのは、今までそばにいなかった充だった。「病院にいてくれて良かった」莉子の顔を見て、充はなんだかほっとした様子だった。そして充は有無を言わさず、莉子の腕を掴んで引っ張っていく。「紗奈の体に傷跡がたくさん残ってしまって、先生が言うに、綺麗に治すには皮膚移植が一番いいらしい。それで考えたんだけど、お前に皮膚を提供してもらおうと思ってさ」莉子の目が大きく見開かれる。目の前に立つ男の、その広い背中を信じられない思いで見つめた。かつては安心感を与えてくれたその背中が、今ではまるで大きな山のように、彼女を押し潰して呼吸困難にさせる。足首の傷がどんなに痛むといっても、心の痛みには到底かなわなかった。モデルの体に傷があってはならないことを充が知らないわけがない。それなのに、自分の将来を潰してまで、紗奈のご機嫌をとるというのか?莉子の目はみるみるうちに赤くなり、充の手を荒々しく振り払うと、声を張り上げた。「充、どうかしちゃったの?!あの女と私が同時に怪我した時、私を助けてくれなかったことはもういい。それなのに、今度は彼女に皮膚をあげろって?私のことも、私の将来も、何だと思ってるのよ?!」立ち止まった充は振り返り、心底がっかりしたという顔で莉子を見つめる。「紗奈は俺の大切な友達なんだ。それに、お前のせいで怪我をしたんだから、もし俺が紗奈を先に助けなかったら、周りから何を言われるか。そもそも、お前が紗奈を押さなければ、こんなことにはならなかったんだから、これはお前が負うべき責任なんだよ。太ももの皮膚を少し取るだけだ。ショートパンツでも履かなければ、見た目に影響はないだろ?」莉子はとんでもない冗談を聞いたかのように笑い始めた。しかし、そのうちその目からは涙が堰を切ったように溢れ出してきた。「少しでも監視カメラを調べようとしてくれたら分かることなのに……私は青木さんを強く押したりしてない。あの女が自分で転んだ拍子に、私を巻き込んだだけ。でも、あなたはあの女のことばかり考えて、私がこんなに包帯だらけなのは見て見ぬふ
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第6話

充の心臓が跳ね上がり、息も荒くなった。勢いよく莉子の方を振り返る。しかし、莉子はもう完全に気を失っていて、手術室の中へ運ばれていった。「もう喧嘩はやめて……私、手術は受けないし、今すぐ退院するから……」紗奈は二人の口論におびえて、泣きそうな声を出す。「悪いのはあいつだ。お前は何も悪くない。自分を責めるな」充は、ささやくように紗奈をなぐさめた。秘書の池田裕也(いけだ ゆうや)に紗奈を病室へ送らせた充は手術室のドアの前に座り込む。頭の中では莉子がさっき言った言葉が何度も繰り返されていた。あれは、カッとなって言っただけとは思えない。急に胸が詰まるような息苦しさを感じ、どうしようもない焦燥感が心を締め付けた。でも、莉子が自分から離れていくわけがない。きっと、自分を困らせたくてあんなことを言っただけだ。充はスマホを開くと、莉子とのこれまでのやり取りを何度も見返した。莉子がまだ自分を愛している証拠を探し出しては、自分に言い聞かせるように心を落ち着かせる。どれくらいの時間が経っただろうか。ようやく手術室のランプが消えた。どうやら皮膚組織の摘出は、無事に終わったようだ。充はためらうことなく、すぐに紗奈の病室へ向かった。紗奈の手術が無事に終わったのを確認すると、充は疲れきった足取りでやっと莉子の病室へと戻った。病室に入ると、莉子はもう目を覚ましていた。莉子が身を起こしたのを見て、充はすぐに駆け寄って水を渡す。しかし、莉子はそれを受け取ろうとしなかった。抑えていた苛立ちが、また充の心にこみ上げてきたが、莉子の青白い顔を見て、なんとかこらえ口を開く。「紗奈の手術は成功した。お前が紗奈に謝れば、それでこの件は終わりにしてやる。あと1週間で結婚式なんだ。大人しく言うことを聞けよな」充を見上げる莉子の瞳には何も映っておらず、静まり返った水面のようだった。その目に、充は心臓が鷲掴みにされたような感覚を覚える。「謝るつもりはないし、結婚式を取りやめたいなら好きにして」充は拳を固く握りしめ、ギリッと歯を食いしばった。充の瞳の奥にあったわずかな優しさも、一瞬にして氷のような冷たさと嫌悪に変わる。「お前がそんな態度だったら、結婚式は中止しないどころか、前倒しで決行する。ただし、まともな式場も、
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第7話

莉子は、紗奈のあざとい態度に付き合うのはもううんざりだった。もし紗奈に本当に下心がなかったのなら、充の誕生日パーティーで、自分の正体を知ってもなお、平然と自分の席に座り続けるなんてことはなかったはずだ。それに、パーティーで散々もったいぶったあげく、結局アクセサリーを返そうともしなかったし、わざとシャンパンタワーにぶつかって、大騒ぎを起こすこともなかったはず。口先だけで行動が伴わない人間は、いつだって本心は別にあるのだから。しかし、もうすぐここからいなくなるのだから、莉子はそんなことを気にするつもりはなかった。この別荘が誰を新しい女主人として迎えようと、もう自分には関係のないこと。紗奈は声を詰まらせ、しばらくもごもごとつぶやいていた。しかし、急に目を赤くして、ひどく傷つけられたかのような不満そうな顔を見せる。「私……莉子さんがずっと、心の奥でそんな風に思っていたなんて……でも、莉子さんが私を押したこと、もう責めるつもりなんかなかったのに、どうして私にそんなこと言うんですか……私は平凡で、何もかもあなたに敵わないことは分かっていますし、何かあっても、みんなが信じるのはあなたの方だから……私はいつもあなたのご機嫌をうかがって、決して逆らったりしなかったのに……ご迷惑をおかけしたみたいで、本当にごめんなさい。今日の午後には充に辞表を出して、東都を去りますから」目を赤くしたままうついた紗奈が駆け出すと、温かい胸にぶつかった。顔を上げると、そこにいたのは恐ろしいほど顔を強張らせた充だった。どうやら、さっきの二人の会話を聞いていたらしい。「莉子。俺が間に合わなかったら、お前は権力に物を言わせ、この子を追い出すつもりだったのか?」紗奈を背後にかばう男を見て、莉子は静かに微笑む。「彼女が自分から辞めたいと言っただけよ。私が追い出したわけじゃないわ」充のこめかみには青筋が浮かび、場の空気は一瞬にして凍りついた。「そんなに揉め事を起こしたいのか?」今日の午後にはここを出ていける。そう思うと、莉子はもう言い争うことすら馬鹿らしくなってきた。「あなたの目には、私がそんな根性悪い女に映ってるのね。だったら、望み通りめちゃくちゃにしてあげる。はっきり言うわね。彼女がいるなら私は出ていくし、私を選ぶというなら彼女を
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第8話

ギッと音を立てて、オフィスのドアが開いた。充が顔を上げると、資料を持った紗奈が立っていた。充の目には一瞬失望の色が浮かんだが、すぐに疲れた目頭を揉む。「充、もしかして私には会いたくなかった?」紗奈は充の気持ちを敏感に察して、少し不満そうな表情を浮かべた。「そんなことないよ。資料はそこに置いておいてくれ、あとで目を通すから」充の声は少し和らいだが、彼の視線は机に置かれたスマホへと、無意識に向いている。もう何日も莉子からの連絡はない。何もなさすぎて、かえってなんだか嫌な胸騒ぎがする。莉子はカッとなりやすいけど、すぐに機嫌も直ったし、思ったことは溜め込まず口にするから、こんな風に何日も連絡がないなんて、今まで一度もなかったのだ。連絡しようと思うたびに、莉子のしたことを思い出しては、メッセージを打とうとした手を、また下ろすのだった。これ以上、莉子を甘やかすわけにはいかない。まだ結婚もしていないのに自分の友達に手を出すなんて、結婚したら一体どうなるというのだ?しかし、別れ際の莉子の青白い顔が、どうしても頭から離れない。ペンを握る手に力が込もる。山積みの書類を見てもイライラするだけで、内容は全く頭に入ってこない。なんだか、もうどうでもよくなって書類を閉じた。そして、椅子に背を預けて目を閉じる。紗奈への訳の分からない敵意さえなければ、莉子のちょっとした我儘は、むしろ可愛らしいくらいなのに。怒ると、少し丸みを帯びた頬をぷくっと膨らませ、潤んだ大きな瞳でじっと見つめてくる。昔は、喧嘩をしても、ひどく言い争うようなことはなかった。愛し合っていたからこそ、相手を傷つけるようなひどい言葉は、お互い口にできなかったから。花束と莉子の大好きなショートケーキを買って帰ると、彼女は走ってきて抱きついてくる。そして、唇をとがらせてこう言うのだ。「今回は許してあげる。だって、充が一番だから」なのに、今、どうしてこんなことになってしまったのか充には分からなかった。自分と紗奈は長年の友人で、同じような境遇からここまで這い上がってきたから、何かと気にかけるのは当たり前だというのに。愛しているのは莉子だけだって、何度も説明したし、時には仕方ないこともあるのだ。それだけでは足りないというのか?自分の体も心も、世界でた
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第9話

紗奈は驚きで目を大きく見開き、唇を震わせた。そしてひどく傷ついた様子で、泣きながら部屋を飛び出して行った。しかし今回、充は追いかけなかった。紗奈の後ろ姿を見つめ、ため息を一つこぼす。そうか、紗奈は最近ずっと、そんな気持ちで自分のことを見ていたのか……しかし、自分はそれに全く気づかなかった。充は貧しい家庭の出身で、自分の力だけで今の地位まで上り詰めてきた。だから友人のことは、できる限り助けたいと思っていた。紗奈の気持ちを知ってしまった以上、これからは距離を置かざるを得ない。そうと決めたからには、莉子との間にこの件でわだかまりを残しておく必要もない。充はスマホを取り出すと、かけ慣れた番号を呼び出し、まずは電話で莉子に謝ろうと決めた。しかし、聞こえてきたのは、無機質なアナウンスだけ。「おかけになった電話番号は、現在使用されておりません……」「おかけになった電話番号は、現在使用されておりません……」充が何度かけ直しても、結果は同じだった。今度はラインを開いてメッセージを送ってみたが、いくら待っても返事はない。充は一瞬固まった。スマホを握る手はかすかに震え、心の中の苛立ちと不安がどんどん大きくなっていく。莉子……まさか自分をブロックしたのか?今までどんなにひどい喧嘩をしても、莉子がこんなことをしたことはなかった。なのに今回は、黙って家を出て行き、電話もラインも、すべて繋がらない。まるで、自分との関係を完全に断ち切ろうとしているかのようだ。充は大きな窓のそばへ歩いていき、タバコに一本火をつける。暗闇の中でタバコの赤い火がぼうっと光る。充はきらびやかな街の夜景を見下ろし、ニコチンが血流に乗って全身に広がる痺れるような感覚を味わうと、少しだけ不安が和らいだ。きっと自分の考えすぎだ。莉子が、本気で自分のもとを去るはずがないんだから。今回はよほど腹を立てていて、少し長引いているだけ。その考えを裏付けようと、充は最近の二人のやり取りの履歴を遡り始めた。莉子の愛情の証を探し出そうとするかのように。しかし、遡れば遡るほど、充の心臓は嫌な音を立てた。いつからか、二人の会話はどんどん減っていき、莉子の返事も素っ気ないものになっている。甘えるような言葉も、可愛いスタンプもなく、あったのは果て
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第10話

充はゆっくりと手紙を開けた。しかし、充は混乱した。莉子は帰ってきていたにもかかわらず、自分には何の連絡も無しに、手紙を一通だけ残して姿を消したのか、どうしても充には分からなかったのだ。そういえば、もう1週間も莉子に会っていないし、彼女に関する話も、まったく耳にしていない。手紙には莉子のきれいな字が並んでいた。【充へ。私たち別れよう。それに、この手紙をあなたが読んでいるとき、私はもう東都を離れているわ。けど、探さないで。もう顔も見たくないから】最後には、莉子の勢いのあるサインが書かれていた。充は、まるで雷に打たれたような衝撃を受けた。その場で体が固まる。頭が真っ白になり、信じられない気持ちで、何度もその短い文章を読み返した。別れるって、どういうことだ?どうして別れなきゃいけないんだ?もうすぐ結婚できるはずだったのに。なぜ莉子は、急に自分の手を離してしまったのだろう?一瞬、誰かの悪質ないたずらなんじゃないかとさえ思った。でも、手紙の文面も、筆跡も、どう見ても莉子のものだった。莉子はやると決めたらすぐに行動に移すし、一度決めたことは、どんなに難しくてもやり遂げる。そして、人にいちいち何かを説明するのを好まない。充の顔はみるみるうちに青ざめていった。足元がふらつき、そのままソファに崩れ落ちる。呆然としたまま、しばらく動けなかった。行ってしまったのか?莉子は、本当に自分と東都でのキャリアを全部捨てて、行ってしまったっていうのか?ありえない。きっと何かの間違いだ。あんなに自分を愛してくれていた莉子が、本当にいなくなるはずがない。きっと友人の家か、南市の実家にいるんだ。自分が迎えに来るのを待っているに違いない。充は慌てて、莉子の母親・杉本千佳(すぎもと ちか)に電話をかけた。待ったのはほんの十数秒だったが、充には永遠のように長く感じられた。電話が繋がった瞬間、充の心臓がどきりと跳ねた。声がかすれる。「おばさん、莉子はそちらに……」「充、どの面下げて電話してきたの?」いままでの穏やかな態度とはうってかわって、それは千佳の怒りを滲ませた冷たい声だった。「昔、うちに挨拶に来た時、なんて約束したか覚えてる?『一生莉子を大切にします』って言ったよね。私たちはあなたの誠意を信じて、大事な娘
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