All Chapters of 身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った: Chapter 21 - Chapter 30

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第21話

心愛は黙って箸を取り、うつむいたまま食事を始めようとした。「貴臣はどうしてまだ来ないのかしら」向かいに座る千恵が空いた座布団に目をやり、気まずい空気を和らげようと優しく尋ねた。心愛は顔を上げ、そつのない微笑みを浮かべた。嘘をつくことにはもう慣れきっている。「会社で急用が入ったのでしょう。片付き次第、こちらへ向かうと申しておりました」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、上座の雅子が「トン」と、激しい音を立てて箸を座卓に叩きつけた。それほど大きな音ではなかったが、その場にいた全員の動きを止めるには十分だった。「この役立たずが!」雅子の刃のような視線が、心愛の顔を剃ぎ落とす。「結婚して数年も経つというのに、夫の心一つ繋ぎ止めておけぬとは。外で女遊びなどさせて、桐生の名に泥を塗るような真似を……今日の食事はお預けよ。そこで正座しなさい。ご自身の不甲斐なさを、きちんと反省しなさい!」茶の間に控えるお手伝いたちの視線が、一斉に心愛へと集まった。心愛は箸を握る手に力を込めたが、やがてゆっくりとそれを置き、立ち上がった。そして茶の間の隅へ歩み寄ると、正座をして背筋を伸ばし、うつむいた。食事は、張り詰めた沈黙の中で続けられた。桐生家の人々が席を立ち、次第に茶の間を去っていく中、広々とした空間に残されたのは、一人で正座する心愛と、音を立てぬように食器を片付けるお手伝いだけだった。千恵が羊羹の小皿を手に、こっそりと近づいてきた。その表情には、気の毒さと不安が滲んでいる。「心愛、こんなに長く正座して……顔が真っ白だわ。これても食べて、少しでもお腹に入れないと」心愛が顔を上げ、口を開こうとしたその時、背後から鋭い声が飛んできた。「何をしてるの、千恵!」いつの間にか雅子が戻ってきていた。冷徹な面持ちで歩み寄ると、千恵の手から小皿を取り上げ、傍らの茶箪笥に置いた。「先日の病院での無礼、私からの電話を叩き切るなどという身の程知らずな慢心……今日という今日は、その鼻っ柱を徹底的に叩き折ってやらねばならん!さもなくば、今後どんな不始末をしでかすか分かったものではないわ!」雅子は高圧的に心愛を見下ろし、その瞳には執拗なまでの悪意と嫌悪が宿っていた。近くに控えていたお手伝いから雑巾を受け取ると、心愛の目の前の畳に放り投げた。「
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第22話

雑巾はすでに固く絞られ、半ば乾いていた。彼女は身をかがめ、一寸一寸、丁寧に床を磨いていく。膝はとうに感覚を失い、やがて刺すような鋭い痛みが走り始めた。腰も、今にも折れてしまいそうなほど重く、だるい。――もう少し。離婚協議書に記した期日が来れば、すべてが終わるわ。そうすれば、祖母を連れ、弟を連れて桐生家を出ていける。二度と、桐生家の顔色をうかがう必要なんてない。心愛は心の中で、何度も自分に言い聞かせた。彼女はうつむいたまま、胸に溜まったすべてのやりきれなさを、手にした雑巾に押し込めるように、黙々と動かし続けた。どれほどの時間が過ぎただろうか。階段から足音が響いた。雅子が昼寝から目覚めたのだ。悠然と下りてきた彼女は、床に這いつくばる心愛を、冷え切った目で見下ろす。やがてその視線が、今しがた拭き終えた場所に止まった。「待て」寝起き特有のかすれを含んだ声が落ちる。「ここ、どうしてまだ曇っているのかしら?あんた、本当にまともに働けないのかい。その目はただの飾りかね?」心愛は動きを止め、指さされた先を見た。そこは、自分の顔が映り込むほど、すでに磨き上げられていた。彼女は言い返さなかった。喉はからからに渇き、声すら出ない。ただ黙って、雅子を見つめ返す。その無言が癪に障ったのか、雅子の表情はいっそう険しくなり、語気が荒れた。「聞こえてないのか?人が話しているんだよ。そこ、もう一度きちんと磨き直しなさい!」心愛は、とうに感覚の消えた膝をわずかにずらし、低く、かすれた声を絞り出した。「……はい」それだけだった。暖簾に腕押しのような手応えのなさに興ざめしたのか、雅子は鼻を鳴らすと、茶碗を手に居間へ移り、テレビをつけた。心愛は再び雑巾を濡らし、指定された場所へ戻ると、また一寸ずつ、床を拭き清めていった。そうしているうちに、空の色は、少しずつ暮れていった。貴臣は――やはり、来なかった。心愛は思う。彼が、自分との約束を覚えているはずなんてない。「心愛、もういいわよ」頭上から、穏やかな声が降ってきた。見上げると、千恵が目の前に立っていた。その瞳には、気遣いと痛ましさが滲んでいる。「お義母様は、一時間ほど前に出かけられたわ。雀友とのお買い物ですって。当分、戻られないでしょう」そう言いながら、
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第23話

意識が完全に闇へ沈み落ちる、その直前。背後で、耳を裂くような急ブレーキの音が響いた。……桐生家の別荘。貴臣が玄関のドアを開けると、リビングには壁灯がひとつ灯っているだけで、人の気配はなく、しんとした静寂に満ちていた。後ろから入ってきた葵が周囲を見回し、甘えるような声で尋ねる。「貴臣、心愛さんは今日、お家にいないの?彼女の作ったチキンスープ、飲みたかったんだけどな」スーツの上着を脱ごうとした貴臣の手が止まった。一日中張り詰めていた脳裏の弦が、不意に弾け飛んだかのような衝撃が走る。……今日、本宅まで心愛を迎えに行く約束をしていたのだった。どうして、そんな大事なことを忘れていたのか。「貴臣、どうしたの?」急に顔色を変えた彼を見て、葵が不安げに覗き込む。貴臣は答えず、玄関の飾り棚に置かれていた車のキーをひったくるように掴むと、そのまま外へ飛び出した。「葵、一度本宅へ戻る。お前は先に休んでいてくれ」そう言い残して。今日の午後、葵から電話があり、取引先にひどい扱いを受けたと泣きつかれた。貴臣はすぐに駆けつけ、問題を片付け、そのまま葵の夕食に付き合った。そのうちに、心愛との約束は完全に記憶から抜け落ちていたのだ。貴臣はエンジンをかけ、アクセルを限界まで踏み込んだ。本宅に辿り着き、玄関を上がると、居間に雅子一人の姿があった。「あの子は?」挨拶もそこそこに、貴臣が問い詰める。「誰のことをおっしゃるのかしら?」雅子は顔に貼ったパックの端を押さえながら、不機嫌そうにまぶたを上げた。「そんな大声をあげては、みっともありませんね」「心愛です!」「ああ、あの子か」雅子はゆっくりとパックを剥がした。「とっくにお帰りよ。今日は珍しく、おとなしくしていたわね。一日中、床を磨かせてみたが、終始一言も漏らさなかった。少しは折り目がついたのかしら」貴臣の心臓が、どくん、と鈍い音を立てて沈んだ。一日中、床を磨かせた……?胸の奥で、罪悪感が急速に膨れ上がっていく。雅子が心愛を快く思っていないことを知りながら、彼女を一人、この屋敷に残してきたのだ。貴臣はそれ以上言葉を続けず、うつむいたまま背を向け、車を別荘へと走らせた。別荘に戻っても、リビングの様子は先ほどと変わらず、心愛の姿はどこにもない。シルクの
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第24話

空が白みはじめ、微かな光が差し込んできた。心愛は喉の渇きで目を覚ました。焼けつくような乾きが広がり、水を飲みたいという欲求が強まっていく。重たい瞼を押し上げると、目に飛び込んできた刺すような白い光に、思わず目を細めた。ここは、別荘の物置部屋ではない。……ここは、どこ?胸の奥を不安がかすめる。見知らぬ天井、灰色の壁。部屋全体は冷ややかで高級感のある色調に統一され、空気には微かにシダーウッドの香りが漂っていた。弾かれたように身を起こし、自分の体を確かめる。服は乱れておらず、喉元までせり上がっていた心臓が、ようやく半分ほど落ち着きを取り戻した。布団をめくり、時刻を確かめようとスマホを探す。サイドテーブルの上に置かれていたそれを手に取り、ボタンを押したが、画面は真っ暗なままで反応しない。充電が切れている。無理もない。昨日から今まで、あまりにも多くのことが起こりすぎて、充電のことなど気にかける余裕はなかった。スマホをポケットに入れ、ベッドから下りようとする。右足を床につけた瞬間、左膝に突き刺すような激痛が走った。「っ……」息を呑んだ拍子にバランスを崩し、そのまま前へと倒れ込む。「あ……!」慌てて声を上げ、心愛は反射的に目を閉じた。だが、予想していた痛みは来なかった。逞しい腕がしっかりと脇を支え、倒れゆく体は温かな胸の中へと受け止められる。男の香りが鼻をくすぐった。清潔で清冽な、部屋に漂っていたあのシダーウッドの香りだ。全身を強張らせたまま、心愛は勢いよく顔を上げた。目の前にいたのは、まったく見知らぬ顔だった。非常に端正な顔立ち。知的な気品を帯びた精緻な造作、穏やかな目元、高く通った鼻筋、そしてストイックな薄い唇の線。質の良い灰色のルームウェアを纏ったその男は、全体に清潔感があり、柔らかな印象を与えていた。貴臣のような彫刻めいた硬質で刺々しい格好良さとは違い、ずっと人を安らげさせる雰囲気を持っている。そんな考えが頭をよぎった瞬間、心愛は自分を平手打ちしたくなった。こんな時に、男の顔を眺めている場合じゃない。彼女はすぐさま身を引き、相手の胸から離れると、サイドテーブルを支えにして立ち上がった。体は引き絞られた弓のように緊張している。「……どなたですか?」寝起きのせいで声は掠れて
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第25話

暁は静かに首を振った。「困った時はお互い様です。どうかお気になさらず」そして、今にも逃げ出しそうな彼女の様子を見て、穏やかに問いかけた。「何かお手伝いできることはありますか。それとも、どこかまでお送りしましょうか?」心愛は即座に首を横に振った。「いえ、結構です。助けていただいただけで、もう十分感謝していますから」「ご両親は?」心愛は視線を落とした。「……おりません。天涯孤独の身です」暁は何かを思案するように、さらに言葉を重ねかけた。だが心愛は壁に手をつき、足を引きずりながら出口へと向かっていた。「一晩泊めていただき、ありがとうございました。もう失礼します」一歩踏み出すたび、膝に針を打ち込まれるような痛みが走る。奥歯を噛み締め、額に冷や汗をにじませながらも、心愛は頑なに背筋を伸ばし続けた。見知らぬ他人の前で、これ以上の脆さをさらしたくはなかった。暁はその場に立ち尽くしたまま、彼女の背中を見送った。無理に引き止めることはしなかったが、心愛が玄関にたどり着いたとき、ひと言だけ添えた。「スマホの充電が切れていましたね。リビングに充電器がありますよ」心愛は一瞬足を止めたが、振り返らなかった。「……結構です」そう言い残してドアを開け、外へ踏み出した。……リバーサイドの絶景を望むその豪奢なマンションを出て、心愛はここが名雲市でも指折りの高級住宅街であることに気づいた。道端でタクシーを拾う。「グランヴィラまで」運転手がバックミラー越しに彼女を盗み見た。その目には、どこか怪訝そうな色が宿っている。自分がいかに無様な姿をしているか、心愛には分かっていた。髪は乱れ、服は皺だらけで、顔色もきっと幽霊のように青白いだろう。心愛は窓に額を預け、流れるように後ろへ遠ざかる街並みをぼんやりと見つめた。膝の痛みが波のように押し寄せ、昨日、桐生家の本宅で起きたすべてを否応なく思い出させる。あの屈辱。あの痛み。だが今となっては、不思議なほど心に波風は立たなかった。おそらく、感覚が麻痺してしまったのだろう。それでいい。期待を捨ててしまえば、もう傷つくこともない。車はほどなくグランヴィラのエントランスで止まった。心愛は運賃を払い、不自由な足取りで中へと入っていく。遠くに、見慣れた別荘が見えた。三年間暮らした家。け
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第26話

空気が一瞬にして凍りついた。貴臣の表情がわずかに強張り、やがてほんの少しだけ和らいだ。「昨日は仕事が山積みで、どうしても手が離せなかったんだ。あとから本宅へ探しに行っただろう」心愛は鼻で笑った。「仕事が忙しかったの?それとも、葵に何かあったの?」貴臣の声が数トーン上がる。「なぜお前はいつも、葵に対してそこまで攻撃的なんだ。彼女は帰国したばかりで身寄りがない。俺たちが少し面倒を見てやるのが、そんなに悪いことか」心愛は口を閉ざした。貴臣はいつもこうして葵を贔屓する。ソファに座る彼の背筋は真っ直ぐに伸び、徹夜のせいで目の下にうっすらと隈が浮かんでいるが、それでも彼から放たれる圧倒的な威圧感は少しも損なわれていなかった。「どこへ行っていた?」彼が口を開く。声には寝不足の掠れが混じっている。心愛はその問いには答えず、物置部屋へ戻るとスマホを充電器につないだ。「昨夜どこへ行っていたのかと聞いている」貴臣は物置部屋まで追ってきた。無視を続ける心愛を強引に引き止めようと、彼はその腕を掴んだ。ところが、もともと膝を痛めていた心愛は、引かれた拍子にバランスを崩し、その場に崩れ落ちてしまった。貴臣は慌てて心愛のズボンを捲り上げた。痣でどす黒く変色した膝を目にした瞬間、彼は一瞬、どうしていいか分からず狼狽した。心愛は顔を上げ、真っ赤になった両目で彼を見据えた。「私が本宅へ戻れば嫌がらせを受けるって、分かっていたはずよ。電話であなたは何と言った?私に何て約束した?謝罪動画だって、あなたが撮れと言ったから、私は協力した。それなのに、どうしてお祖母さんはまだ私のせいだと決めつけるの?」心愛の声は静かだったが、その一言一言が、貴臣の胸の奥にある最も後ろめたい部分を正確に突き刺していた。彼の喉仏が上下する。叱責の言葉は喉の奥に詰まり、形にならなかった。物置部屋に沈黙が落ちる。貴臣の薄い唇は一文字に結ばれた。その膠着した瞬間に、葵が歩み寄ってきた。貴臣のそばに身を寄せ、そっと彼に寄りかかる。「心愛さん、貴臣に向かって、そんな言い方はないんじゃないかしら?」葵の声には、わずかに悲しげな響きが混じっていた。「私たちはここで一晩中、あなたを待っていたのよ。特に貴臣なんて、一睡もしていないわ。彼を労うどころか、帰ってくるなりそんな
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第27話

貴臣の胸は詰まり、得体の知れない怒りがさらに激しく燃え上がった。外からはもう彼の声は聞こえてこなくなり、心愛は疲れ果てた体を床に横たえた。ひどく疲れていた。充電が少し溜まったスマホを手に取り、電源を入れる。その瞬間、膨大な数のメッセージと着信通知が狂ったように流れ込み、端末は激しく震え続けた。通知センターは、ほとんど貴臣のメッセージと着信で埋め尽くされている。数十件の着信履歴と、居場所を詰問する十数件のメッセージ。それを目にしても、心愛の心にさざ波ひとつ立たなかった。これらの焦燥に満ちた言葉は、支配者がコントロールを失った「所有物」を追い求めているにすぎない。彼の罪悪感の裏返しでしかなかった。通知を指で弾くようにスクロールし、見覚えのあるアイコンの前で動きを止めた。清夏からのメッセージだ。開くと、ひとつのリンクとともに文章が添えられていた。【心愛、加賀見グループの今年の『ステラアワード』デザインコンテストが始まったわ。これが応募サイト。テーマは自由だけど、条件が一つだけ。「作品の中に『愛』が感じられること」。今は辛い時期だと思うけど、これはチャンスよ。諦めないで】加賀見グループ。「愛」。心愛は、その二つの言葉をじっと見つめた。今の自分にあるのは憎しみだけで、愛などどこに残っているというのか。けれど、これは清夏の厚意であり、自分のキャリアを取り戻すための踏み台でもある。そう自分自身に言い聞かせ、すぐに清夏へ「大好き」スタンプを返し、了承の意を伝えた。充電は二十パーセントまで回復している。十分だ。ケーブルを引き抜き、上着を掴んだ。一刻もここに留まりたくなかった。すぐに祖母の病院へ行かなければ。心配でたまらない。別荘を出たところで、再びスマホが鳴った。画面にはまた「貴臣」の名が躍っている。心愛が通話をスライドさせると、彼女が口を開くより早く、怒りを押し殺した声が耳に流れ込んできた。「心愛、今何時だと思っている?まだ出社してこないとは。今月の皆勤手当は諦めるんだな」その口調は、まるで部下に命令するかのようだった。心愛はスマホを握りしめ、遠くのどんよりとした空を見つめた。不意におかしくなった。貴臣の目には、自分は秘書以下の存在にしか映っていないのだろう。「社長」彼女は静かに口を開いた。「考えた
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第28話

心愛はタクシーで病院へと向かったが、鼻を突く消毒液の臭いが、ただでさえ優れない体に追い打ちをかける。病院の廊下は目がくらむほど白く、一歩踏み出すごとに綿の上を歩いているかのように足元が覚束ない。病室にたどり着くと、文子は静かにベッドに横たわっていた。付き添い介護士、西村和佳子(にしむら わかこ)が心愛に気づいて声をかける。「深水さん、ちょうど先生がご家族の方をお探しでしたよ。何かお伝えしたいことがあるようです」和佳子は、以前この病院で清掃員をしていた縁で雇った方だ。心愛は礼を言うと、すぐに主治医の診察室へと急いだ。ドアをノックして入ると、心愛は切り出した。「先生、お忙しいところ失礼します。ベッド番号39の深水文子の孫の者です。祖母の容態をうかがえればと」「文子さんが入院されてから、何度かご家族お声がけしたのですが、なかなかご連絡がつかなくて。現状はひとまず落ち着いています。外傷の処置は終わり、生命徴候も安定していますよ」医師は金縁の眼鏡を押し上げ、淡々と説明した。心愛は上着の裾を握りしめ、申し訳なさそうに声を絞り出した。「……どうしても抜けられない用事がありまして、申し訳ありません。祖母は、いつ頃意識が戻るとお考えでしょうか?」医師は手元のレントゲン写真をライトにかざして眺め、やがてそれを置いた。「脳内の血腫が神経を圧迫している状態です。これは……予断を許さない状況ですね。意識回復の可能性は、現時点では五分五分といったところでしょう」五分五分。覚悟はしていたものの、はっきりと告げられると、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。心愛はそれ以上何も聞かず、ただ頷いて「ありがとうございました」と告げ、診察室を後にした。病室は静まり返り、モニターの規則的な電子音だけが虚しく響いている。ベッドに横たわる文子は酸素マスクに覆われ、白髪が土色の額に張り付いていた。かつて慈愛に満ちた笑みを向けてくれたその瞳は固く閉じられ、目尻は力なく垂れ下がっている。心愛は丸椅子を引き寄せ、枕元に座った。そして、点滴の針が刺さり、皺と老人斑に覆われた祖母の手をそっと包み込んだ。「おばあちゃん……」その手を自分の頬に寄せ、かすれた声で語りかける。「先生がね、大丈夫だって言ってたよ。少し休めば良くなるって。だから、早く目を開けて。俊輔が待ってる
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第29話

むしろ、その方が都合がいい。今の心愛が一番顔を合わせたくない相手は、貴臣なのだから。心愛は疲れ果てた体を引きずり、慣れた足取りで物置部屋へと続く廊下へ向かった。そこが今の彼女にとって、唯一の居場所だった。少し進んだところで、二階の階段からしなやかな声が降ってきた。「心愛さん、おかえりなさい。おばあさんの具合はどう?」心愛は足を止め、顔を上げた。葵が裸足のまま階段に立ち、この家の女主人であるかのように物憂げなポーズを取っている。その顔には、計算し尽くされた「気遣い」が張り付いていた。心愛は彼女と化かし合いをする気にもなれず、無表情のまま通り過ぎようとした。しかし、すれ違う刹那、心愛の視線が凍りついた。葵の首元に、細い赤い紐がかかっていた。その先で揺れているのは、水のように透き通った碧色の光をたたえた、勾玉のペンダント。それは間違いなく、かつて自分が貴臣に贈ったものだった。脳裏で、何かがぷつりと切れる音がした。全身が抑えきれない怒りで震え出し、足元から頭のてっぺんまで冷気が突き抜ける。葵は彼女の反応に満足したのか、さも無意識を装って胸元の勾玉に指先を触れ、甘く微笑んだ。「心愛さん、何を見ているの?このペンダント、綺麗だと思わない?」心愛はゆっくりと目を上げた。その眼差しは研ぎ澄まされた刃のように、真っ直ぐ葵を射抜く。「……なぜ、それがあなたの手に」低い声だった。一文字一文字が歯の間から絞り出され、そこには押し殺した怒りが滲んでいる。葵はその迫力に一瞬たじろいだが、すぐに平静を取り戻し、いっそ勝ち誇ったように笑った。彼女は手のひらにペンダントを乗せ、見せびらかすように突き出す。「貴臣がくれたのよ」葵は首をかしげ、無邪気でありながら残酷な口調で続けた。「この色、私の肌にすごく似合うって。今まで見た中で一番美しい勾玉だって。どう?素敵でしょう?」貴臣が与えた。彼が、美しいと言った。その言葉は錆びついた刃となり、すでにぼろぼろになっていた心愛の心臓を、ゆっくりと、容赦なく切り刻んだ。心愛は笑った。泣くよりも、ずっと痛々しい笑みだった。「素敵……?」彼女は一歩ずつ葵に詰め寄った。その瞳は真っ赤に充血し、怒りが渦巻いている。「それが何なのか、分かっているの?それは私のものよ。物心ついた時から、肌身離
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第30話

心愛は、葵の口からこぼれた言葉に愕然とし、即座に言い返した。「……売れるものなら、売ってみなさい」「いいわよ。やってみようかしら。貴臣がもう私にくれたんだもの。まあ……やっぱり質がいいわね。均整の取れた最高級品。透明度も申し分ないわ」葵の口調には、けだるげな自慢が滲んでいた。心愛の体が強張る。脅しの言葉が思わず口を突いて出た。「もし売ったりしたら、あなたたちが私を脅して謝罪動画を撮らせたこと……全部ぶちまけてやるわ」あの勾玉のペンダントは、心愛が物心ついた頃からずっと身につけてきたものだった。深水家に引き取られた後、文子がその質の良さを見抜き、「大切に保管しなさい」と言ってくれた品だ。かつては運命の相手を見つけたのだと思い、もう本当の家族を探す必要はないのだと信じて、貴臣に贈った。まさか彼が、彼女の私物を葵に横流しするほど卑劣な男だったとは。「返して」心愛は葵を凝視した。葵は余裕たっぷりに視線を返し、口角を面白そうに歪める。再びペンダントを取り出し、指先で弄んだ。彼女はそれを揺らしてみせた。「今、私に命令したの?心愛さん」ついに、ついにこの女が、麻痺したような無表情以外の顔を見せた。葵は面白くてたまらなくなった。最初の恐怖は消え、代わりに悪趣味な好奇心が芽生える。心愛がどこまで取り乱すのか、見てみたくなったのだ。「それは私のものだと言っているわ」心愛は一歩ずつ歩み寄り、視線をペンダントに釘付けにしたまま、再度、低く強調した。「返して」「あなたの?」葵は鼻で笑い、ペンダントを手の中に収めた。「今これが私の手にある以上、私のものよ。何か文句でもある?」その瞳には挑発が満ちていた。剥き出しの蔑み。葵は踏んでいた。心愛が手出しできるはずがないと。この女は、刑務所にいる弟のため、死人同然のおばあさんのためなら、どんな屈辱にも耐えるはずなのだから。「返・し・て、と言っているの!」心愛は一文字ずつ噛みしめるように区切り、押し殺した怒声を響かせた。「返さないわ」葵は立ち上がり、わざと心愛の目の前まで歩み寄ると、ペンダントを目線の高さに掲げて眺めた。「私をどうにかできるの?貴臣に言いつける?行ってきなさいよ。彼があなたと私のどっちを信じるか、見ものだわ」葵は顔を寄せ、二人だけに聞こえる低い声で囁いた。
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