All Chapters of 身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った: Chapter 31 - Chapter 40

40 Chapters

第31話

「きゃあぁぁぁっ!」悲痛な叫びが、屋敷の空気を震わせた。続いて、階段を転げ落ちる体の鈍い音。そして、あまりにも残酷な、乾いた破砕音が響いた。パリンッ。その音は決して大きくはなかったが、重い槌のように心愛の心臓を打ち砕いた。貴臣の瞳が激しく見開かれる。彼は心愛の表情を確かめる暇もなく、思考よりも先に体が動いていた。数段を一気に駆け下り、踊り場に崩れ落ちた葵を抱き寄せる。「葵!大丈夫か!」声には、隠しきれない焦燥と不安が滲んでいた。彼は顔を上げ、階段の上に立ち尽くす心愛を、氷のように冷たい眼差しで射抜く。「心愛、今度は何の真似だ。また狂ったのか!」心愛は、葵を抱えて支える貴臣も、彼の腕の中で苦悶に顔を歪める葵も、一瞥すらしなかった。彼女の瞳に映っていたのは、床に無残に砕け散った勾玉のペンダントだけだった。心は、深淵へと沈み落ちていくように、完全に冷え切っていった。温かみのある碧色の石は、ばらばらの破片と化して床に散らばっていた。「謝れ」貴臣の声は、毒を塗った刃のようだった。心愛はゆっくりと顔を上げた。虚ろな眼差しで彼を見つめるその姿は、まるで目の前の男が誰なのかさえ分かっていないかのようだ。唇がかすかに動き、風のようにか細い声が零れ落ちる。「……どうして、あのペンダントを彼女に渡したの?」貴臣は眉をひそめた。心愛が何を言っているのか、まるで理解できない。ペンダントがどうしたというのだ。彼の視線が床の破片に落ち、そこで初めて事態を把握する。「どうしてって……葵はただ綺麗だと思って、少し借りて見ていただけだ。心愛、いい加減にしろ。言いがかりも甚だしい!」貴臣は説明しようとした。だが、心愛の問いは、彼には理不尽な狂人の戯言にしか聞こえなかった。「貴臣……痛い……足が……」葵が絶妙な間合いでうめき声を上げ、弱々しく貴臣の胸に寄りかかる。瞳には涙が光っていた。貴臣の心臓が、きつく締め付けられる。彼はもう心愛と言葉を交わす気さえ失せ、葵を横抱きにすると、大股で外へと向かった。ただ一言、冷徹な言葉を残して。「葵に何かあったら、ただで済むと思うなよ」玄関のドアが、激しい音を立てて閉ざされた。世界は、完全な静寂に包まれる。心愛はその場に立ち尽くした。長い、長い時間。窓の外が刻一刻と闇に
Read more

第32話

車は夜の街を疾走した。貴臣は、葵を横抱きにしたまま救急外来へと駆け込んだ。「すみません、階段から落ちてしまったんです!」貴臣の声は焦燥に震えていた。慌ただしい検査が続いた後、医師がレントゲン写真を持って現れた。しばらくして、葵が車椅子で運ばれてくる。「桐生さん、ご安心ください。足首の捻挫と軟部組織の挫傷はありますが、骨折はしていません。頭部については軽い脳震盪の可能性があるので、一晩入院して様子を見ましょう」貴臣の張り詰めていた神経がようやく緩んだ。病室に入ると、葵はすでに病衣に着替え、ベッドの背もたれに寄りかかっていた。青白い顔に、目は赤く腫れている。葵は貴臣の姿を見るなり、また涙をこぼし、申し訳なさそうに声を絞り出した。「貴臣、ごめんなさい……迷惑をかけちゃったわよね?」「馬鹿なことを言うな」貴臣は歩み寄り、ベッドの脇に腰を下ろした。「医者は大丈夫だと言っている。ゆっくり休むんだ」葵は下唇を噛み、おずおずと貴臣の服の裾を掴んだ。「私……わざとじゃないの。ただ、あの勾玉のペンダントを……心愛さんが急に帰ってくるなんて思わなくて。彼女……何も言わずに、いきなり奪いかかってきて……」言葉が進むにつれ声は小さくなり、最後は咽び泣きに変わって、彼女は力なくうなだれた。その姿に、貴臣の胸は締め付けられるように痛んだ。彼は手を伸ばし、葵の背中を優しく叩いた。自分でも気づかないほどの慈しみを込めた口調で。「分かっている。お前のせいじゃない」「違うの」葵はすぐに顔を上げ、必死に言葉を紡ぐ。「私が悪いのよ。人のものに触れたりして。心愛さんは……」葵が「聞き分けよく」心愛を庇おうとすればするほど、貴臣の腹の底にある怒りの火は激しく燃え上がった。たかが古いペンダント一つのために、人を階段から突き落とすのか?心愛の奴、いつから、これほどまでに残酷な女になったのか。「あいつを庇う必要はない」貴臣の声が冷たく沈んだ。彼はティッシュを取り出し、葵の頬の涙をそっと拭った。「お前にこんな怪我をさせておいて、あいつは謝罪の一言もなく逃げ出したんだぞ」貴臣は葵の手を握り、低い声で言い聞かせるように約束した。「安心しろ、このままでは終わらせない。必ず心愛をここに連れてきて、お前に直接謝らせる」葵の瞳の奥に、目
Read more

第33話

心愛はしょぼつく目をこすり、そこでようやく、窓の外がすでに深い闇に沈んでいることに気づいた。部屋にはスタンドライトが一灯だけ灯っており、その淡い光が彼女の影を長く引き伸ばして、そばの壁に映し出している。貴臣は、まだ帰ってこない。きっと今も病院で、想い人の看病にでも付き添っているのだろう。心愛は口の端をわずかに歪めたが、胸の内には何の波紋も立たなかった。今の彼女にとって、あの二人のことなど、もはや関わりたくもない存在だった。立ち上がり、凝り固まった体を軽くほぐしてから、テーブルの上のスマートフォンを手に取る。画面が灯ると同時に、未読メッセージが一件、視界に飛び込んできた。差出人は貴臣。内容は短く、そして棘に満ちていた。【葵を突き飛ばして怪我をさせておいて、謝ることもできないのか?明日病院に来い。葵に謝罪しろ】命令口調の文面は、桐生グループ社長である彼らしい、疑いようもないほど傲然としたものだった。心愛はそのメッセージを、十秒ほどじっと見つめていた。怒りは湧かない。ただ、馬鹿馬鹿しくて、滑稽ですらある。この二人、頭がおかしいんじゃないの。人をいじめるのも、いい加減にしてほしい。無表情のまま長押しし、タップして削除する。一連の動作に、ためらいは一切なかった。画面は再び、何もないすっきりとした表示に戻る。スマートフォンをソファに放り投げると、キッチンへ向かい、自分のために具のない簡素なカップ麺を一杯作った。立ちのぼる湯気と麺の匂いが、がらんとした部屋の寂しさを、ほんの少しだけ和らげてくれる。それがこの上ないご馳走であるかのように、心愛は一本一本、ゆっくりと麺をすすった。ちょうど食器を洗い終えた頃、玄関の方から鍵の開く音がした。貴臣が帰ってきたのだ。ドアを開けるなり、彼はキッチンに立つ心愛と、その足元に置かれた、まだ片づけていないゴミ袋に気づいた。中にはカップ麺の空き容器が入っている。たちまち、彼の眉間に深いしわが刻まれる。「メッセージは見てないのか」上着を脱ぎ、ソファに無造作に投げながら、詰問するように言った。「スマホ、壊れたの」「壊れた?」明らかに信じていない様子で大股に歩み寄り、ソファの上のスマートフォンを掴み取って画面を点ける。「壊れてないじゃないか」画
Read more

第34話

翌朝早く、心愛はスマートフォンの振動音で目を覚ました。重たいまぶたを持ち上げるようにして目を開き、手探りでスマートフォンを掴む。画面には「清夏」の二文字が躍っていた。スワイプして通話に出ると、心愛が口を開くより早く、清夏の張りのある声が受話器から弾けるように飛び込んできた。「起きてる、心愛!?もう日が高いわよ!引っ越すって言ってたでしょ?この私、仕事が早いでしょ。あんたのために、もういくつか物件見ておいたんだから!」その声には、有無を言わせぬ勢いと高揚がこもっていた。「……起きてる」心愛の声は、まだ少しかすれている。「じゃあ、さっさと顔洗って着替えなさい。三十分後に迎えに行くから!今日中に絶対この話は片づけるんだからね。あんな気味の悪い場所に、一日だってもういちゃダメ!」心愛に断る隙すら与えず、通話は一方的に切れた。心愛はスマートフォンを握ったまま、数秒間、呆然としていた。こんな親友がいて、本当に良かった。身支度を終えた心愛は、貴臣がまだ起きていないことに気づいた。昨夜彼が口にしていた「謝罪」のことを思い出すと、足が向かなかった。そのまま別荘を出る。背負っているのは、シンプルなキャンバスバッグが一つだけ。門を出ると、清夏の赤い車がすでに待っていた。ドアを開けて乗り込むと、清夏は心愛を上から下まで一瞥し、舌を鳴らす。「へえ、思ったより顔色いいじゃない。三日三晩泣き暮らすかと思ってたのに」「泣いて、何になるの」心愛はシートベルトを締めながら、細い声で言った。「こんなに近くに車停めて、貴臣に見られるの怖くないの?」清夏はバンッと大きな音を立ててハンドルを叩いた。「見つかったっていいじゃない!今の桐生家は、まだあいつが好き勝手できるわけじゃないんだから。心愛、あんたが吹っ切れたなら、それが何より嬉しい!さあ、行くわよ。新しいお部屋、一緒に見に行くわ!」車窓の景色が目まぐるしく流れていく中、心愛はバックミラーに映る、次第に遠ざかる屋敷の輪郭を見つめていた。清夏は本当に親身になって動いてくれた。午前中だけで、三つもの異なるマンションを見て回った。「ここは南向きで日当たりはいいけど、低層階だから道路の音が気になるかも」「ここは内装がきれいで即入居できるけど……少し狭いのが難点ね。一人で住むには充分だけど、
Read more

第35話

不動産屋を出た二人は、通り沿いのカフェに入った。心愛の胸に長くのしかかっていた重荷が、ようやく半分ほど軽くなった気がした。「清夏……」心愛は顔を上げ、向かいに座る親友を懇願するような目で見つめた。「俊輔の件……本当に、もう打つ手はないのかな?」その問いに、清夏もぐっと眉を寄せた。わずかに身を乗り出し、声を潜める。「心愛、正直に言うわね。ツテを使って探りを入れたし、判決文の内容も把握している」一拍置いて、低く続けた。「……かなり厳しいわ。宇佐美が唯一の目撃者で、彼の証言は俊輔に決定的に不利。それに……葵が当時、俊輔の弁護士でありながら、法廷でわざと手を抜いた。裁判官に、俊輔が犯人だと確信させるようにね。もう判決は確定している。これを覆すには、よほどのことがないと……」「よほどのことって、何?」心愛はすがるように問い詰めた。「新しい証拠を見つけることよ。たとえば、宇佐美が偽証した証拠か、現場に第三者がいて俊輔が嵌められたことを証明できる誰かを見つけるか」清夏は小さく息を吐いた。「でも、あんな混乱した状況で、今さらどこでそんなものを見つけるの?」あのバーの防犯カメラのデータは、すでに破棄されている。葵と紘は、すべてを完璧に計算し尽くしていたのだ。「諦めちゃダメよ!」心愛の表情を見て、清夏は慌ててその手を握った。「難しいけど、詰んだわけじゃない。もう助手に宇佐美の身辺を調べさせているの。あいつの身辺が完全に綺麗だなんて、信じられないわ。尻尾さえ掴めば、あんなに威張らせておかないから!」手の甲から伝わるぬくもりに、心愛の冷え切っていた心が、ほんの少しだけ温まった。彼女は顔を上げ、瞳を潤ませる。「清夏……ありがとう」「水臭いわね!」清夏はわざとらしく彼女を睨んだ。「本当に感謝してるなら、さっさと立ち直って、仕事を見つけて、自分の足で立ちなさい。お金が足りなかったら言いなさいよ、無理は禁物なんだから!」心愛は力強く頷いた。何か言いかけた、その時。バッグの中のスマートフォンが鳴り響いた。画面に表示された番号を見て、心愛は深く息を吸い込み、通話ボタンをスライドさせた。「……はい、もしもし」「お忙しいところ失礼いたします。加賀見グループ、デザイン部の佐藤と申します。深水心愛様でいらっしゃいますか
Read more

第36話

清夏と食事を終えた帰り道、心愛は、ここ数日ずっと胸につかえていた冷たい塊が、すっかり取り払われたような気がしていた。胃の奥がじんわりと温かい。彼女はでたらめな鼻歌を口ずさみながら、別荘の扉を開けた。リビングにはランプが一灯だけともり、ソファにはすらりとした人影が深く沈み込んでいる。指には煙草が一本挟まれ、その先端の赤い火が薄闇の中で明滅していた。貴臣だった。心愛の顔から、かすかな笑みが瞬時に消えた。靴を履き替える動作さえ、ぴたりと止まる。明かりもつけたくなかったし、口も開きたくなかった。ただ静かに、あの小さな物置部屋へ戻りたかった。「どこへ行っていた?」男の声が、ソファの向こうの暗がりから響いた。心愛は足を止めたが、振り返りもせず、淡々と答えた。「外でご飯を食べてきた」「ご飯だと?」貴臣は煙草を灰皿に押し付けて消し、わずかに身を乗り出した。「病院へ行って葵に謝れと言ったはずだ。俺の言葉を無視する気か?」また、葵。心愛は、さきほど食べたばかりの夕食を吐いてしまいそうになるほどの嫌悪感に襲われた。彼女は振り返り、相変わらず尊大な態度の貴臣を見つめた。「今日は用事があったの」それがどんな用事かは説明しなかったし、説明する気もなかった。その平然とした態度が、貴臣の神経に障ったようだった。彼は、心愛が従順でいることに慣れ切っていたのだ。こんな飄々とした返事が返ってくるとは、思いもしていなかった。眉間の皺がいっそう深くなり、声も低くなる。「お前に葵より大事な用事などあるのか?葵は帰国したばかりで、ここには身寄りもいない。あんなにつらい目に遭ったんだ。俺がそばにいて、気遣ってやるのは当然だろう?」心愛は、急にすべてが滑稽に思えてきた。もう、こんな戯言は聞きたくない。その一言一句が、過去三年の自分の人生がいかに馬鹿げていたかを、容赦なく突きつけてくる。貴臣の口から出るのは葵のことばかりで、そのすべてが、自分の物分かりの悪さを責める言葉だった。もう言い争う気力もなかった。妻への最低限の気遣いすら持たない男と、言葉を尽くして争うこと自体が、自分を貶める行為に他ならない。心愛には、もっと大事なことが待っている。明日の、加賀見グループの面接。仕事を見つけ、金を稼ぎ、俊輔の判決を覆す道を探
Read more

第37話

夢を見ることもない、深い眠りだった。翌朝、心愛は早くに目を覚ました。いつもなら真っ先にキッチンへ向かい、朝食の支度を始めるところだが、今日は違った。物置部屋に置かれた小さな姿見の前に立ち、時間をかけて身なりを整える。クロゼットの奥から、久しく袖を通していなかったアイボリーのセットアップを取り出した。それに着替え、控えめにメイクを施す。長い髪を丁寧にまとめ、凛とした夜会巻きにすると、すらりとした首筋があらわになった。鏡に映る自分は、静かでありながらも、どこか鋭い光を宿している。――よし、完璧。地下鉄に乗り、都心でもっとも栄えているオフィス街へと向かった。朝の光を浴びた加賀見グループ本社ビルは、ガラスのカーテンウォールがまばゆく反射している。心愛は深く息を吸い込み、背筋を伸ばして中へ足を踏み入れた。面接の待機エリアにはすでに多くの応募者が集まっており、誰もがエリート然とした身なりをしていた。張り詰めた空気の中に、高級な香水の香りが混じって漂っている。心愛は隅の席を見つけ、静かに腰を下ろした。「あら、誰かと思えば。心愛じゃない?」わざとらしく誇張された声が、頭上から降ってきた。顔を上げると、そこには完璧に作り込まれた顔があった。中村梨紗(なかむら りさ)。葵の親友だ。全身をブランド品で固め、手には最新作のバッグ。その瞳には、隠そうともしない軽蔑と驚きが入り混じっている。心愛は何も言わず、ほんの一瞬だけ視線を向けると、すぐに手元の資料へ目を落とした。徹底的に無視されたことで、梨紗の顔が露骨に歪む。梨紗も今日、面接を受けに来ていた。こんな場所で心愛を見かけるなど、高級レストランで皿洗いのスタッフに出くわしたような感覚だった。梨紗はスマートフォンを取り出し、素早く葵にメッセージを打ち込む。【葵、誰に会ったと思う?心愛よ。信じられないことに、加賀見の面接に来てるわ】送信を終えると、梨紗は意を決したようにわざと声を張り上げ、待機エリアにいる全員に聞こえるよう言った。「心愛、久しぶりね。あなた、桐生家に嫁いで専業主婦になったんじゃなかった?どうしてこんなところにいるのよ?」その言葉は、見事に周囲の注目を集めた。「桐生家の奥様?」誰かが小声で囁く。「それなら、どうして仕事なんて探しに来るんだ?」
Read more

第38話

周囲のざわめきの一つ一つが、鋭い棘となって心愛の耳に突き刺さる。そのとき、ロビーの入り口付近で小さな騒ぎが起きた。スーツを完璧に着こなした一人の男が入ってくる。その瞬間、彼の放つ独特のオーラに、先ほどまで騒がしかったロビーの空気が、まるで数度下がったかのように静まり返った。梨紗はすぐに背筋を伸ばし、完璧な笑みを浮かべ、いつでも自分をアピールできるよう身構えた。だが、男は彼女に一瞥もくれず、まっすぐ心愛の前で足を止めた。「深水心愛さんでいらっしゃいますか?」低く澄んだ声が響く。心愛は一瞬呆然とし、それからゆっくりと顔を上げた。「……はい、私です」梨紗の顔から、笑みが音を立てて凍りついた。――えっ?なんで、こいつが……?脳裏を、焦燥が激しく駆け抜ける。犯罪者の姉で、桐生家から追い出されかけた女のくせに……!男は周囲の反応など意に介さず、心愛に向かって穏やかに手で示した。「どうぞ、こちらへ」梨紗はついに堪えきれず、一歩前に出て男の行く手を遮った。「どうして彼女だけ特別なんですか!?私たちはみんな、こうして順番を待っているのに。それでは不公平じゃありませんか。加賀見グループは、そんな不公平を許すんですか?」男は眉一つ動かさなかった。「弊社の選考プロセスについて、外部の方にご説明する立場にはありません」その冷淡な視線に、梨紗は一瞬言葉を詰まらせたが、それでも食い下がった。「納得いきません。説明してください。さもないと、SNSでこのことを拡散しますよ!」男はようやく、正面から梨紗を見据えた。そしてポケットからスマートフォンを取り出し、どこかへ電話をかける。「人事部ですか。近藤昂一(こんどう こういち)です。応募者・中村梨紗の面接資格を取り消し、ブラックリストに登録してください」わずかに間を置き、淡々と付け加えた。「理由は、当社の選考プロセスに対する不当な介入および業務妨害です」通話は、十秒にも満たないうちに切れた。梨紗の顔から、みるみる血の気が引いていく。昂一は二度と彼女を見ることなく心愛に向き直り、先ほどと同じ事務的な口調で言った。「深水さん、こちらへ」心愛の頭の中は混乱でいっぱいだった。それでも失礼のないよう、慌てて昂一の後に続く。梨紗の横を通り過ぎる際、背中に突き刺さる
Read more

第39話

「本当に、ありがとうございます……!」心愛は感極まり、言葉が少し乱れた。「精一杯、努めさせていただきます」暁は静かに頷き、一通の書類を心愛の前に差し出した。「こちらが内定通知書兼雇用条件明示書です。内容をご確認ください。試用期間は三か月、給与や待遇についてはすべて記載の通りです。また、遠方からの入社者向けに、会社が手頃な家賃の社宅も用意しています。最寄駅から徒歩五分で、通勤に便利です」助かった……ちょうど家を出たいと思っていた心愛にとって、これ以上ない条件だった。書類を受け取ると、昂一がエレベーターホールまで案内してくれた。「深水さん、明日は直接人事部へお越しください、入社手続きを進めさせていただきます」「はい、ありがとうございます、近藤様!」恭しく頭を下げた心愛に、昂一はわずかに目を丸くした。彼女は自分を会社の重役と勘違いしているらしい。だが訂正することはせず、ただ軽く会釈して見送った。エレベーターの扉が閉まると、昂一はオフィスへ戻り、思わず口を開いた。「社長……わざわざご自身でインターンの面接に出向くなんて……そこまでして、彼女を採用したかったんですか?」長年暁に仕えてきたが、ここまで一個人に気を配る姿は初めてだった。暁は振り返り、昂一を一瞥した。その眼差しは冷静だった。「あの子は、特別なんだ」「特別って……どんなところがですか?」昂一の好奇心が爆発する。「まさか、本当に生き別れの――」言い切る前に、暁の鋭い視線がそれを制した。「桐生貴臣の最近の動向を調べろ」暁の声のトーンが下がる。「特に、明石葵が関わっている事柄を詳しく」「承知いたしました」昂一は即座に表情を引き締め、余計な問いを飲み込んだ。一方、加賀見本社ビルを追い出された梨紗は、ついに堪えきれず歩道の端にしゃがみ込み、泣きじゃくっていた。彼女は震える手でスマートフォンを取り出し、泣き声のまま葵に電話をかける。「葵、ひどすぎるわ……!あの心愛がどんな手を使ったのか知らないけど、加賀見の人が彼女だけ特別扱いして中に連れて行っちゃったの。それだけじゃないわ、私……選考から外されちゃったのよ!」電話の向こうで、葵は眉をひそめた。「……何ですって。心愛が、加賀見に?」あり得ない。加賀見グループほど格式の高い大企業は、誰で
Read more

第40話

別荘に戻ると、予想どおり貴臣の姿はなかった。むしろ好都合だ。心愛はクローゼットを開けた。中に掛かっているのは、指で数えられるほどの服だけ。スーツケースを引き出す。それは三年前の結婚の折に祖母が買ってくれたもので、三年間使い続けても、なお新品のような艶を保っていた。心愛は自分の服を一着ずつ、畳み目を整えながら丁寧にスーツケースへ収めていく。そのとき、スマートフォンが小さく震え、画面に「清夏」の二文字が躍った。通話を受けると、心愛の表情にようやく温度が戻った。「心愛!どうだった?面接、受かった!?」清夏の弾んだ声が受話口から飛び出す。自分のことのように落ち着きなく、期待と興奮が入り混じっていた。「……受かったわ」心愛はクローゼットの扉に背を預け、静かに、しかしはっきりと答えた。「やったぁ!あんたなら絶対できるって信じてた!あいつら、意地悪してこなかった?加賀見の人たちに難癖つけられたりしなかった?」声のトーンは一気に高くなり、雛を守る親鳥のような勢いだ。心愛はふっと息を漏らすように笑った。「大丈夫。とてもスムーズだったわ」「最高じゃない!今夜はお祝いよ、お祝い!今どこ?会いに行くから!」「家にいるわ。荷物をまとめているの」「荷物……?ついに引っ越すのね!?」一瞬の沈黙のあと、清夏が叫ぶ。「うわぁ、本当に!?やっと決心ついたのね!いい、動かないで!今すぐ車で迎えに行くわ。この私が、あんたの門出をプロデュースしてあげる!」「いいわよ、荷物も多くないし、あとで自分でタクシーを――」「タクシーなんて論外!私が専属ドライバーよ!そこで大人しく待ってなさい、アクセル全開で向かうから!」そう言ってから、声を潜める。「……で、あのクズ貴臣はいないんでしょうね?」「……いないわ」「よかった。私の手を汚さずに済む」清夏は鼻を鳴らし、満足そうに言った。「待ってて、二十分で着くから!」通話が切れると、部屋に再び静寂が戻った。心愛はスーツケースのファスナーを閉め、ゆっくりと立ち上がって部屋を見渡す。そのとき、ふと思い出した。勾玉のペンダント。あの日、葵に奪われ、床に叩きつけられて砕け散った、あのペンダント。心愛は屈み込み、ベッドの下やカーペットの端を丹念に探した。……何もない。お手伝いが掃
Read more
PREV
1234
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status