All Chapters of 身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

二人が遠ざかっていく後ろ姿を見送りながら、医師はそっと眼鏡を外した。疲れ切った様子で眉間を揉み、力なく首を振ると、小さく独り言をこぼす。「まったく……近頃の人間は、病気でもないのに病人のふりをしてまで病院に来る。つくづく、暇なものだ」……一方、心愛は会社からわざと離れた場所にあるカフェを選んでいた。人通りは多いが、何より貴臣と鉢合わせる可能性が限りなく低い場所だ。席に着いてから二分も経たないうちに、カジュアルなスーツを纏った清夏が大股で歩み寄り、向かいに腰を下ろした。「心愛!」清夏は鼻梁に掛かった金縁眼鏡を押し上げ、開口一番に言う。「随分痩せたじゃない。あの貴臣ほどの経営者が、食事も満足に与えないなんてこと、ないでしょうに」「清夏……」心愛は無理に笑みを作り、力なく答えた。「少し前に、俊輔が宇佐美紘に嵌められて投獄されたの。葵が弁護人を引き受けたんだけど、法廷でまともな弁護もしなかった。おばあちゃんはそれがショックで入院して、まだ意識が戻らないの。最近は、喉を物が通らなくて……」俊輔が投獄されたと聞き、清夏は愕然とした。葵が初めての裁判で敗訴したという噂は、彼女の耳にも入っている。その法廷での不手際は、今や法曹界で広く語り草になっていた。清夏はそれ以上踏み込まず、通勤バッグから角形の封筒を取り出し、テーブル越しに差し出した。「書類、用意できたわ」心愛は手を伸ばし、中から数枚の書類を取り出す。「協議離婚のための念書及び条件合意書」という大きな文字が、はっきりと記されていた。これを基に正式な離婚届を作成し、機を見て貴臣の署名をもらい、役所に提出すればいい。そんなかすかな希望が、胸の奥に芽生え始める。胸を押し潰していた巨大な岩が、ようやく一角だけ取り除かれ、息をつくことができた。三年間――それは、まるで悪夢のようだった。「ありがとう、清夏」心愛は深く息を吸い込み、こみ上げる切なさを押し殺して顔を上げる。そして清夏を見つめ、丁重に頭を下げた。「本当に、あなたのおかげよ。じゃなかったら、あとどれだけ囚われ続けていたか分からない」心愛の赤らんだ目元を見て、清夏は胸の内で小さく息をついた。「水臭いこと言わないで。それより……本当に決心はついたの?」「ええ」心愛は頷いた。その瞳には、これまで
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第12話

オフィスに戻ってからというもの、心愛が誰かに邪魔されることはなかった。きっと、午前中の瑞樹の一喝が効いたのだろう。心愛はデスクに突っ伏し、どうすれば貴臣にサインさせられるかと思案していた。貴臣という男は独占欲が強い。桐生家の名声のためにも、簡単に自分を手放すはずがない。何かきっかけを掴み、どうしても署名させなければ。――ドン。社長室の方角から、何かが床に叩きつけられたような鈍い音が響いた。オフィスエリアにいる全員が、思わず首をすくめる。また誰かが逆鱗に触れたのだ。心愛は顔を上げ、固く閉ざされたガラス張りのドアに目をやった。今の貴臣が、眉間に深い皺を刻んでいる光景が、ありありと脳裏に浮かぶ。あの男、また何でキレてるの。どうせ、葵のことでしょ。瑞樹の声が、先ほど電話越しに聞こえてきた。葵が病院で情緒不安定になり、食欲がないらしい。そんな些細なことで、貴臣はすでに三人もの部長を怒鳴りつけて追い返したという。貴臣の忍耐も、優しさも、そのすべてはあの女だけに向けられるものだ。心愛は伏し目がちになり、きゅっと唇を結ぶと、どうすれば離婚協議書に署名させられるか、再び思考を巡らせた。その時だった。ハイヒールの音が遠くから近づいてきて、心愛のデスクの脇でぴたりと止まる。「深水さん」甘ったるい声。顔を上げると、そこにいたのは午前中にコーヒーの買い出しを言いつけてきたウェーブヘアの女だった。胸元の名札に目をやると、「田中麻美(たなか あさみ)」とある。「何か用?」心愛は感情の起伏を感じさせない、平坦な声で応じた。麻美は青いファイルをそっとデスクに置き、マニキュアを施した指先で表紙を軽く叩きながら、意味深な笑みを浮かべる。「これ、名雲市の西エリアで進んでいるプロジェクトの四半期報告書。急ぎで社長のサインが必要なの。あなたが行くのが、一番適任じゃないかしら」周囲から、面白がるような視線がいくつも集まる。今このタイミングで社長室に入れば、流れ弾に当たるのは目に見えていた。麻美のこのやり手は、あまりにも稚拙で、そして悪意に満ちている。だが心愛は、その青いファイルを前にして、胸を稲妻に貫かれたような衝撃を覚えた。チャンスだ。これこそ、自分がずっと待っていた好機ではないか。手のひらにじっとりと汗が滲む
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第13話

その動きは滑らかで淀みなく、声のトーンにも特段の変化はなかった。貴臣はちらりと目をやったものの、すぐにペンを走らせようとはせず、その視線を心愛の顔に据えた。何かを思い出したかのような、わずかな間。この女、気に食わないが、料理の腕だけは確かだ。医者も葵には消化のいいものを食べさせるよう言っていた。出前では不安が残る。「仕事が終わったら、家に戻れ」貴臣は椅子の背にもたれ、淡々と言った。「葵のために栄養のある料理を作れ。あの子は最近、体調が悪い。消化にいいものを食べさせる必要がある」その言葉に、心愛は一瞬呆然とし、心臓がぎゅっと縮こまる。今は断れない――そう分かっていた。どうせ離婚すれば、いずれここを出て行ける。そう思うことで、胸に滲んだわずかな不満を無理やり押し殺した。「……わかりました」その一言が、心愛の唇から静かにこぼれ落ちた。貴臣は、彼女の反応にわずかに意外そうな色を浮かべた。最近の棘のある態度からして、多少は抵抗するだろうと思っていたのだ。まさか、ここまであっさり承諾するとは。どうやら、前回の灸が効いたらしい。ようやくおとなしくなったか。貴臣の胸にくすぶっていた苛立ちは、なぜかほんのわずかに薄らいだ。彼は机の上の万年筆を取り上げ、キャップを外すと、視線を書類へと落とす。素早くページをめくり、自分の名前を署名した。そして、次のページへ。離婚協議書が挟まれたページをめくった時も、その手に一切の迷いはなかった。ペン先が滑り、流れるような筆致で「桐生貴臣」という四文字が記される。最後のページに署名を終えると、貴臣は万年筆を無造作に放り投げ、ファイルを心愛の方へ押しやった。声は相変わらず冷たい。「持っていけ」「はい」心愛は手を伸ばした。その指先は、かすかに震えていた。「では、失礼します」彼女は俯き、今の自分の表情を見られないようにした。「ああ」貴臣は手を振り、出て行けと合図する。心愛は背を向けてオフィスを出ると、そっとドアを閉めた。扉が閉まった瞬間、もう決めたことだと分かっているのに、それでも悲しみが胸に込み上げた。彼女は、はあはあと荒い息をつく。まるで瀕死の魚のように。オフィスエリアでは、麻美が、心愛が無事に出てきただけでなく、署名済みのファイルまで手にし
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第14話

「これで満足?」葵の得意げな声が、部屋に響いた。紘は舌を鳴らし、口元を歪めて笑う。「お前のおかげだよ。これで俊輔の野郎も、少なくとも十年は出てこれまい。さもなきゃ……」言いかけたところで、葵が言葉を遮った。「私に借りが一つできたこと、忘れないでね」紘は一瞬言葉に詰まり、ばつの悪そうな笑みを浮かべた。「わかってるって。何か俺にできることがあれば、いつでも言ってくれ」電話の向こうで、短い沈黙が落ちる。「今は特にないわ」葵の声には感情がこもっていなかった。「思いついたら、こっちから連絡する」そう言うと、通話はそっけなく切れた。……帰宅ラッシュの時間帯、地下鉄は人波でごった返していた。心愛は葵のために料理を作ると貴臣に約束しており、そのまま家には戻らず、近くの魚市場へ立ち寄った。市場には潮の香りと活気ある喧噪が満ちている。ある露店の前を通りかかると、店主の女性がにこやかに声をかけてきた。「いらっしゃい、お嬢さん。今日の車海老はぴちぴちで絶品よ」水槽の中で跳ねる海老を見つめ、心愛は小さく頷いた。「三百グラムお願いします。ホタテも少し」財布を出して会計を済ませた直後、スマホに清夏からの着信が表示された。「もしもし、心愛?仕事終わった?」「ええ、今、市場にいるの」心愛はビニール袋を提げ、人通りの少ない角へと移動した。「市場?何してんの?名雲で顔の知られた桐生グループの社長夫人が、そんなところで買い物してたら……噂になるわよ」清夏の早口が止まらない。「貴臣の評判、ガタ落ちじゃない」「……あの人、サインしたわ」心愛は静かに言った。電話の向こうが、一瞬静まり返った。数秒後、清夏の声が跳ね上がる。「まじで!?じゃあ、手続きはいつ?」「協議書に日付は入れてあるから、その日に書類をもらいに行くだけ」行き交う人々をぼんやりと眺める心愛の瞳は、どこか虚ろだった。清夏は向こうで何かぶつぶつと言ったあと、声を落として尋ねた。「……それで、これからどうするつもり?仕事は?住むところは?」「今はまだ桐生家にいるわ。仕事は……今、貴臣の秘書をしてるの」桐生グループに籍は置いているものの、社長夫人という肩書があるだけで、社内ではほとんど存在を認められていないに等しかった。「もう、そんな話はやめて!」清夏が焦ったよ
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第15話

けれど、その料理が、貴臣の口に入ったことは一度もなかった。彼が帰宅する時間を見計らい、心を込めて炊き上げ、待ち続けていても、届くのはいつも「残業だ」「接待が入った」「今日は帰らない」という冷淡なメッセージばかり。湯気を立てていた料理は、結局いつも虚しく捨てられ、やがて作ること自体をやめた。まさか、これほどの月日が流れてから、葵のために再び料理を炊くことになるとは。心愛はおたまを動かしながら、ふと物思いに耽っていた。その時、玄関から鍵の回る音がした。心臓がぎゅっと締めつけられる。貴臣が葵を連れて帰ってきたのだ。二人の足音がリビングからダイニングへと近づいてくると、やがて、葵の驚いたような弾んだ声が響いた。「わあ、いい匂い!心愛さん、お料理、すっごくいい匂いがする」いかにも仲が良さそうな、親しげな口ぶりだった。心愛が振り返ると、二人の視線とぶつかった。貴臣の眼差しは葵の笑顔に注がれ、口元もわずかに緩んでいる。「葵に海鮮スープをよそってやれ」彼は心愛を見て、淡々と言った。心愛は答えず、視線を落とした。清潔な汁椀を取り、煮立つ海鮮スープを静かに注ぐ。汁椀を両手で持ち、心愛はダイニングへと向かった。葵はすでに席についており、期待に満ちた表情で彼女を見つめている。「ありがとう、心愛さん」微笑みながら、受け取ろうと手を伸ばした。二人の手が触れ合おうとしたその瞬間、葵の手首が不自然に揺れた。次の刹那、熱い海鮮スープが心愛の腕と腹部へと浴びせられた。「キャッ!」葵が短く悲鳴を上げる。熱さが皮膚に張り付く。心愛は激痛に息を呑み、反射的に体を丸めるようにして腕を引いた。「嫌だ、ごめんなさい!本当にごめんなさい、心愛さん!」葵はすぐに立ち上がり、心底申し訳なさそうな顔を作った。「私……ちゃんと持ててなくて。大丈夫?」口ではそう言いながらも、心愛を見つめるその瞳の奥には、隠しきれない挑発と愉悦が滲んでいた。「氷嚢を持ってくるわ」心愛は痛みに耐えながら言った。露出した腕はみるみる赤く腫れ上がり、ひりひりと熱を持っている。「待て」傍らに立っていた貴臣が声をかけた。心愛は解せないという表情で彼を振り返る。貴臣は彼女の腕を一瞥しただけで、冷淡に言い放った。「大したことはなさそうだし、一々騒ぐな
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第16話

床の汚れは、次第に拭い取られていった。心愛はゴム手袋を外し、深く息を吸い込んで、曲げ続けていた腰をゆっくりと伸ばす。それから、疲れ切った体を引きずるようにしてキッチンを出た。リビングでは、明るい照明の下で、貴臣と葵が親密そうに言葉を交わしている。その光景は、心愛の目にまぶしく、そしてひどく痛々しく映った。視線を戻すと、ダイニングテーブルの中央に置かれていた土鍋は、すでに空になっていた。隣にあったはずの小松菜の胡麻和えも、跡形もない。土鍋の底に残っているのは、わずかに色づいたエビの殻と、刻まれた生姜が数切れだけだった。心愛は呆然と、その場に立ち尽くした。食材の下ごしらえから弱火での炊き込みまで、二時間。結局、空腹のまま鍋や皿を洗うことになった。心愛自身は海鮮アレルギーがあるため、自分用にわざわざ小松菜の胡麻和えを作っておいたのに、それさえもすべて食べ尽くされている。何一つ、残っていない。葵が顔を上げ、ダイニングの入り口に立つ心愛に気づくと、申し訳なさそうな表情を浮かべた。だが、つり上がった口元は、どこか見せつけるように嘲笑っている。「あら、心愛さん、終わったの?ごめんなさい、私と貴臣、お腹が空きすぎてて……うっかり全部食べちゃったわ」その甘ったるい声は、甘えているようでありながら、耳にひどく障った。心愛は葵を見ず、視線を貴臣へと向けた。彼は手首に寄った袖口を整えていた。その仕草は優雅で、表情は平然としている。心愛の尽力など目に入らないどころか、家政婦のような仕事をすることすら、ごく当然だと思っているかのようだった。心愛の視線に気づいても、貴臣は顔を上げることなく、テーブルの上の別の皿を指差した。「土鍋に、少しだけ具が残ってるだろ」その皿には、剥いておいた海老の身と、ホタテの貝柱がいくつか残っていた。スープの中でも、最も贅沢な部分だ。貴臣はようやく視線を向け、淡々とした目で心愛を見た。その口調は、天気の話でもするかのように平坦だった。「普段のお前を見ていると、数口しか食べないだろう。これくらいあれば十分なはずだ」その一言は、氷水を浴びせられたようだった。心愛の心は、音を立てて凍りついた。全身から力が抜け落ちる。食が細い?これで十分?脳裏が一瞬、真っ白になり、次の瞬間、胸の奥底から
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第17話

跡形もなく、粉々に。「いらない。食欲がないから。テーブルの上の食器は、明日、お手伝いさんに片付けさせて」そう言い残すと、心愛は二人の顔を一度も見ることなく、物置部屋へと背を向けた。ガラクタが詰め込まれたあの部屋が、今の彼女にとっては唯一の避難所だった。数歩進んだところで、背後から葵のか弱げな声が届いた。「貴臣、明日……私、チキンスープが飲みたいな。今日のこのスープ、すっごく美味しかったから。でも、心愛さんにまたお願いするのは、ご迷惑かしら……」声は次第に細くなり、申し訳なさと懇願を滲ませながら、潤んだ瞳で貴臣を見上げる。貴臣は案の定、その手に乗った。泣き出しそうな葵の様子に心を動かされた彼は、心愛の背に向けていた視線から、わずかに残っていた温かささえも消し去った。「心愛、待て。葵の話を聞かなかったのか?彼女はお前を褒めているんだぞ。料理が美味しいと言っているのに、なぜ何も返さない」背後から届く淡々とした声には、はっきりとした威圧が含まれていた。心愛は足を止めたが、振り返らなかった。「明日はチキンスープを煮込んでやれ。二人とも、栄養をつけたほうがいい」貴臣の声に、相談の余地は微塵もなかった。心愛は拳を固く握りしめ、爪が掌に深く食い込む。その痛みを感じてから、ようやく指をほどいた。ゆっくりと振り返り、貴臣の冷ややかな視線を真正面から受け止め、歯を食いしばるように言葉を紡ぐ。「私に栄養は必要ない。チキンスープが飲みたいなら、作ってくれる人を探せばいい。私が引き受けたのは、今日のこの一食だけ」心愛が料理を作ると承諾したのは、今日、貴臣が離婚協議書にサインしたからであって、二人の専属料理人になるためではない。貴臣の眉がわずかに跳ねた。心愛の反抗は、よほど不快だったのだろう。彼は椅子の背にもたれ、長い指でマホガニーのテーブルをトントンと叩いた。その乾いた音が、心愛の心臓を締めつける。やがて薄い唇を開き、何でもないことのように言い放った。「お前の祖母さんも、すぐには目を覚まさないだろう。今は秘書と言っても、誰も仕事を割り振っていない。暇つぶしに食事を作るくらい、大した手間ではないはずだ」心愛の体が、はっきりと震えた。これは脅しだ。祖母を人質に取り、自分に頭を下げさせ、妥協させ、二人の家政婦として使い倒そうとし
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第18話

そういえば、ここ数日、祖母の病院へ顔を出せていない。もう三日も経ってしまった。急に胸の奥がざわつき、明日は何とか時間を作って病院へ行こうと心に決める。毛布を頭まで引き上げて眠りにつこうとしたが、窓の外で鳴り続ける風の音が、心身ともに疲れ果てた心愛を再び不眠へと引き戻した。物置部屋の床に身を丸め、薄い布団一枚にくるまる。しかし、この季節の冷え込みをしのぐには、あまりにも心許ない。胃が痙攣するように、きりきりと痛み出した。夕食を口にしていないせいで、中はひどく空っぽだ。ぐぅ……その音が、静寂の底でやけに鮮明に響く。心愛は寝返りを打ち、さらに体を縮めて空腹を紛らわせようとしたが、意識は冴えるばかりだった。脳裏をよぎるのは、今日、貴臣が葵に向けていた、あの溺愛の眼差し。心愛は目を閉じ、泣くよりも無様な笑みを浮かべた。祖母が病院で目覚めない限り、それは貴臣にとって、自分を縛りつけるための格好の切り札であり続けるのだ。心愛は、清夏が話していた加賀見のデザインコンテストのことを思い出し、明日詳しく調べてみようと考えた。そのまま目を閉じ、眠ろうと努める。眠ってしまえば、空腹も感じずに済むはずだ。……翌朝、心愛は耐え難い空腹に突き動かされるように目を覚ました。空が白み始めた頃、壁に手をついて立ち上がると、視界がふらりと暗転する。数秒じっと耐え、ようやく意識が輪郭を取り戻した。邸内はひっそりと静まり返り、貴臣はまだ二階で眠っているようだった。心愛は足音を忍ばせ、キッチンへ向かう。慣れた手つきで冷蔵庫からうどんを取り出し、卵を一つ手に取った。湯を沸かし、うどんを放つ。立ちのぼる湯気が、心愛の蒼白な頬を包み込む。うどんはすぐに茹で上がった。その上に、形よく半熟に焼いた目玉焼きをそっとのせる。箸を入れれば、今にも溢れ出しそうな艶やかな黄身。ダイニングテーブルにつき、箸を取ろうとした、その時だった。「心愛さん、ずいぶん早いのね。何を食べてるの?いい匂い」階段の方から葵の声がした。寝起きの気怠さをまとった、猫のような声音。シルクのナイトガウンを羽織り、しなやかな足取りで下りてきた葵は、心愛の前で湯気を立てるうどんに目を留め、わずかに眉を動かした。「私の分も用意して」それはお願いではなく、当然の
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第19話

「何事だ?」貴臣の氷のように冷えた声が、頭上から降り注いだ。彼はすでに目の前まで歩み寄っており、その高い体躯が影を落として、心愛をすっかり覆い隠していた。視線はまず床に散らばる破片をなぞり、眉間に深い皺を刻む。そして次の瞬間、地面に伏したままの葵へと向けられた。「貴臣……」葵が顔を上げる。瞳は赤く潤み、今にも泣き出しそうな声が震えた。「私……心愛さんにうどんを作ってほしいってお願いしただけなの。でも、心愛さん、あまり気分が良くなかったみたいで……説明しようとしたら、後ろから誰かに押された気がして……」葵は最後まで言い切らなかったが、意味はあまりにも明白だった。彼女の背後にいたのは、心愛しかいない。すなわち、心愛が彼女を突き飛ばしたと言っているのだ。貴臣の視線が瞬時に心愛へと移り、その瞳に険しさが宿る。「本当か?」心愛は、一言も弁明する気になれなかった。自分を信じようともしない相手に説明することほど、愚かな行為はない。彼女はただ、静かに貴臣を見つめ返した。その沈黙は、貴臣の目には暗黙の肯定として映った。胸の奥から怒りがせり上がり、理性を焼き尽くしていく。彼は、心愛が従順でないばかりか、内に毒を秘めているとさえ感じた。「謝れ」歯の隙間から、低く二文字を絞り出す。心愛は動かなかった。瞬き一つしなかった。「葵に謝れと言っているんだ!」貴臣の声が跳ね上がり、有無を言わせぬ怒りが爆発する。忍耐は、完全に限界を越えていた。彼は猛然と手を振り上げた。パチンッ。乾いた平手打ちの音が、リビングに虚しく響き渡る。心愛の顔は横へと弾かれ、白い頬に瞬く間に五本の指の跡が鮮やかに浮かび上がった。耳の奥で、甲高い音が鳴る。痛い。彼女はゆっくりと顔を戻し、再び貴臣をまっすぐに見据えた。「葵がそう言えば、それが全部真実になるのね。貴臣……あなたの目は節穴なの?」貴臣は、自分が本当に手を上げてしまったことに、一瞬だけ罪悪感を覚えた。だが、心愛のその一言が、そのかすかな後悔をたちまち怒りへと塗り替えた。「人を突き飛ばしておいて、よくそんな口がきけるな。謝れ」胸の奥に湧く奇妙なざわめきを押し殺し、冷酷に命じる。床に伏した葵が、か弱げに口を添えた。「貴臣……もしかしたら、私が足を滑らせただけかもし
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第20話

心愛は家を出て、会社へ向かおうとした。だが、あの「仕事」といえば、貴臣が罪悪感からあてがった名ばかりの閑職に過ぎない。どうしても行く気にはなれなかった。タクシーを拾える場所まで来ると、車に乗り込むなり、文子が入院している病院の住所を告げた。今日は祖母にしっかり付き添い、ついでに加賀見のデザインコンテストの応募についても調べてみようと思ったのだ。もっとも、当選すれば、の話だが……何年もデザインから離れていることを思うと、心愛の胸は次第に不安でざわめき、落ち着かなくなっていった。そのとき、スマートフォンの着信音が鳴り響いた。画面に表示された名前を見た瞬間、心愛の胸がどしりと重く沈む。雅子からだ。深く息を吸い込み、通話ボタンを押した。「あんたと貴臣、今日は二人でこちらへ来なさい。ずいぶん長いこと顔を見せないじゃないか」電話口から、雅子の冷淡な声が流れ込んでくる。「……わかりました」そう答えると、通話はそれ以上の余地もなく切れた。心愛はスマートフォンを強く握りしめた。この呼び出しからは逃げられない。あの謝罪動画が公開されて以降も、桐生グループの株価は不安定なままだ。数日前、雅子からの電話を無視したこともあり、間違いなく詰問されるだろう。心愛は貴臣に電話をかけた。これまで何度帰宅を促しても、彼が一緒に本宅へ戻ったことは一度もない。そのたびに、雅子から小言を受けてきたのは心愛だった。何度もコール音が続いた末、ようやく繋がる。受話口から聞こえてきたのは、不機嫌さを隠しもしない声だった。「何だ?今日は会社にも来ていないようだが。言ったはずだ、葵には身寄りがないんだから、俺たちが面倒を見るのは当然だと」「おばあさまが、今日、二人で本宅へ来るようにって」心愛は簡潔に用件だけを伝え、口論する気にもなれなかった。電話の向こうで、二秒ほどの沈黙が落ちる。「……わかった。たぶん、最近の株価暴落の件だろう」返ってきた声は、どこか他人事のようだった。「お前が先に行っていろ。俺は会社の用件を片付けてから、昼には着く」会社の用件?心愛は胸の内で、かすかに冷笑した。どうせ葵の用件だろう。それを暴く気力も、言い争う気力も、すでに残っていなかった。「わかったわ」とだけ告げて、通話を切る。運転手に、病院ではなく
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