《婚姻生活にさようなら、椎名さん》全部章節:第 231 章 - 第 240 章

412 章節

第231話

東安市へ戻るヘリコプターの中で、悠斗は膝の上のノートパソコンに表示された、不審な口座情報を見つめていた。悠斗は一語ずつ区切るように告げた。「この口座の名義人は、バトゥです」バトゥ。遠い過去の名でありながら、骨の髄にまで刻みついたその響きが浮かび上がった瞬間、承也の黒い瞳に凍るような冷気が走った。指の間に挟んでいたタバコが、強い力で無惨にへし折られた。火種が床に落ち、ほぐれた葉がぱらぱらと散る。バトゥは、かつて文彦と手を組んでいた境界地帯の頭目だ。手段を選ばない残忍さで、周辺の者たちに恐れられていた。文彦が承也の両親を死に追いやった後、彼はバトゥと椎名家の周辺事業を分け合った。だがバトゥは利益を独占するために文彦を裏切った。境界地帯の後ろ盾を失った向井家の事業は支えを失い、航空会社まで煽りを受け、向井家は破綻へと追い込まれた。十二年前、承也が志願してエージェント組織に入り、境界地帯で潜入任務についたのは、バトゥを殺すためだった。だが、一歩遅かった。承也が潜入する二か月前、バトゥは病死していた。人が亡くなったからといって、銀行口座が自動的に凍結されるわけではない。問題は、十年以上も前に死んだ男の口座が、今になって何者かに動かされていることだった。悠斗は続けた。「風牙はバトゥの商売を引き継ぎましたが、彼の口座までは動かせません。口座の資金を扱えるのは、法的な相続人か配偶者に限られます。ですが、バトゥには妻も子もいませんでした」バトゥに関する情報は、承也の手元に十分すぎるほど揃っている。バトゥが結婚していなかったことも、確かな事実だ。そして、この口座はバトゥの死後、長いあいだ一度も動いていない。いったい誰がバトゥの口座を動かし、莉奈の命を狙っているのか。今の風牙の資産は、すでにバトゥのそれを大きく上回っている。バトゥの残した金など、風牙が欲しがるはずもない。これまでの動きから見ても、風牙は執念深く、陰険で、狡猾ではある。だが、やると決めれば隠れずに仕掛けてくる男だ。ならば、この人物は風牙ではない。承也は部屋の窓に浮かぶ霜の模様を見据えたまま、低く言った。「バトゥは権力と金で女を支配する遊びを好んでいた。結婚はしていなくても、こちらが把握していない隠し子がいる可能性はある」隠し子にも、相続
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第232話

口元が潰されている。承也は目を伏せた。莉奈の顔から、さっと血の気が引いた。いったいどんな人間が、恵子にそこまで残酷なことをしたのか。莉奈は怒りで震える両手を強く握りしめた。「犯人は捕まったんですか?」女性の捜査員が答えた。「はい。酒に酔っていた男を確保しています。現在、取り調べ中です」取調室では、まぶしすぎるほどの照明が白く光っていた。全身に酒の臭いをまとった男が椅子に座らされ、両手には手錠がかけられている。「被害者と面識はあったのか」男は連れてこられてから、酔いが半分以上醒めていた。強い光に目を細め、落ち着かない様子で肩をすくめている。厳しい声で問い詰められると、男は怯えたように喉を鳴らし、酒臭い息を漏らした。「知らねえよ」取り調べる担当官の声が低くなる。「面識もない相手を、なぜ殺した」「違う!」男の顔が一気に青ざめた。男は赤く濁った目を上げ、手錠をかけられた両手で乱暴に髪をかきむしった。「よく覚えてねえんだよ……坂を下ってきたら、あのおばさんにぶつかっちまって。あいつ、倒れたあとに俺のことを酔っぱらいのろくでなしって罵ったんだ。こっちは賭けで負けてむしゃくしゃして、朝まで酒を飲んでただけなのに、あの女が先にぶつかってきたんだよ……腹が立って……石を拾って……それで……」担当官の視線は鋭かった。「それで殺したのか」「違う!」男は声を張り上げた。「殺すつもりなんかなかった!黙らせたかっただけなんだ。あいつがあんなに弱いなんて思わなかったんだよ。本当に殺す気はなかった。信じてくれ!酔ってて、何も分かってなかったんだ!」男の供述を聞き、莉奈の胸の奥で怒りが渦を巻いた。それでも莉奈は、できる限り声を抑えて反論した。「あり得ません。恵子さんは穏やかな人です。仮にこの人にぶつかられて転んだとしても、せいぜい気をつけてくださいと言うくらいです。人を汚い言葉で罵るような人ではありません。恵子さんはもう亡くなっていて、反論できません。供述がこの人の一方的な言い分だけで進むのは納得できません」世の中には、些細なことで怒りを爆発させる人間がいる。恵子はそういう相手をよく分かっていて、普段から言葉にも態度にも気をつけ、他人と争わないようにしていた。あんな男に食ってかかるはずがない。莉奈の直感は告げてい
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第233話

承也は、赤く充血しながらも強い光を宿した莉奈の目を見つめ、少し顔を背けてボディーガードに命じた。「車から取ってこい」彼がこれほどあっさりと返してくれるとは、莉奈は少し驚いた。どうやら承也は、莉奈の記者証をずっと車の中に置いていたようだ。自分の記者証を受け取った後、莉奈は警察に同行して事件現場へ向かった。テレビ局の撮影スタッフも現場へ急行した。事件現場は、雨よけの屋根がある路地の曲がり角だった。規制線の内側には警察官が立って現場を保存しており、外側には野次馬が群がっていた。通報を受けて迅速に出動した警察は、現場の遺留品には一切手を触れさせていなかった。恵子が朝買った野菜はまだ地面に散らばっており、莉奈の足元には皮の破れたトマトが一つ転がっていた。あの見覚えのある買い物かごを見て、莉奈の目頭が再び熱くなった。「ひどい話だね、真昼間から人殺しなんて。どれだけイカれてるんだか」「しかも椎名家のお手伝いさんだってさ!あの男、とんでもないことをしでかしたな」周囲の群衆のヒソヒソ話が、絶え間なく莉奈の耳に入ってきた。莉奈の視線が、油紙から半分はみ出た牛カツサンドと、そのそばに停まっている牛カツサンドの屋台に止まった時、莉奈は全身をこわばらせた。──恵子さんがわざわざこっちへ来たのは、私のために牛カツサンドを買うためだったのね!莉奈の目から涙がとめどなく溢れ出し、胸の奥が激しく震えて息もできないほどだった。少し離れた場所で、警察が屋台の店主に事情聴取を行っていた。「そうですよ、あのおばさん、確かに俺のところで牛カツサンドを買っていきました。わざわざ『柚子胡椒マヨネーズを多めで』って念を押されたんです。おばさんがお金を払った後、俺はトイレに行きたくなって、向かいのファストフード店のトイレを借りたんです。出てきたら、人が死んだって大騒ぎになってて」調書を取っていた担当官はすぐに同僚に指示を出した。「裏を取ってこい」朝市に設置されている防犯カメラの多くは壊れていたが、周辺にはいくつかの店舗がある。最終的に、莉奈と警察は向かいの仏具店の入り口にある防犯カメラの映像を確認することになった。店主の協力で映像が再生された。何人もの目が画面に釘付けになる。やがて、ごった返す人混みの中に恵子の姿が現れた。そし
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第234話

悠斗は戻る途中で、恵子の死を知らされていた。悠斗は孤児だ。恵子は普段から年長者のように悠斗を気にかけ、夜遅く帰れば夜食を作ってくれた。悠斗の部下が失敗して罰を受けた時も、恵子は黙って薬を塗ってくれた。けれど、悠斗の部下の扱いに口を出したことは一度もない。恵子はとてもいい人だった。悠斗も恵子を心から尊敬していた。もしあの酔った男が本当に身代わりなら、いったい誰が恵子にそこまで深い恨みを抱き、あれほど残酷な殺し方をしたのか。承也はタバコを揉み消し、振り返って悠斗を見た。「朝市周辺で見つかる防犯カメラの映像を、全部回収しろ。この件は部下に任せて、お前は先に休め」悠斗は昨夜、風牙を襲撃して逃げる際、ふくらはぎに泥や草の切れ端を付けていた。戻るなり承也のいる二階へ上がったため、まだシャワーも浴びておらず、着替えも済ませていない。「はい」恵子の家族を乗せた車を見送ったあと、莉奈はその場に立ち尽くした。午後三時を過ぎた陽射しが身体に落ちているのに、少しも暖かく感じない。昨日の夕方、莉奈が家から飛び出して承也を捜しに行った時、恵子は風邪をひかないようにと心配し、上着を持って追いかけてきた。それからまだ二十四時間も経っていない。けれど、恵子はもういない。たった数日のあいだに、自分のそばから二人がいなくなった。莉奈の心臓が、何度も締めつけられるように痛んだ。目の奥が熱くなる。その時、黒い車が松風レジデンスへ入ってきた。車は広い庭の前でゆっくりと速度を落とし、停まる。ドアが開いた瞬間、がっしりとした体格のジャーマン・シェパードが車から飛び降りた。舌を出し、陽の光を受けたつややかな毛並みをきらめかせながら、一直線に莉奈へ駆けてくる。「将軍!」沈んでいた莉奈の顔に、思いがけない喜びが広がった。将軍は莉奈まであと数歩というところで勢いよく跳び上がった。莉奈は反射的に両腕で受け止めたが、その重みと勢いに押され、身体が後ろへよろめく。次の瞬間、莉奈の背中が硬い壁のような胸にぶつかった。将軍の勢いで吹き飛ばされかけた身体を、後ろから支えられる。承也の長い指が、莉奈の腕の中で嬉しそうに息を弾ませている将軍の身体を軽く支えた。承也の冷えた顔に、表情はほとんどない。「こいつがどれだけ重いか、分かってるのか」承也は背
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第235話

白崎執事が将軍へ手招きすると、将軍はすぐに白崎執事の前へ駆け寄り、顔を上げて見つめた。「旦那様とご結婚されてから、将軍の世話はずっと私がしておりました。椎名邸では、将軍は他の者に触らせませんので。ですから、こちらへ連れてまいりました。ちょうどお嬢様もいらっしゃいますし、将軍にそばにいてもらえば、少しは気が紛れるかと思いまして」莉奈の胸に、じんわりと温かいものが広がった。けれど莉奈は白崎執事に言わなかった。明日、恵子の家族が遺骨と松風レジデンスでまとめた遺品を持ち帰れば、彼女もここを出ていくつもりでいることを。……夕方、美月はバスルームでシャワーを浴び終えた。識子が入ってきた時、美月はすでにバスローブを羽織り、器用な指先で腰紐を結んでいた。付き添いの識子は美月を抱えてベッドの端に座らせ、髪にドライヤーを当てながら話し出した。「桜井様、今日ニュースを見たのですが、松風レジデンスにいた、あの目障りな家政婦が亡くなったそうです」美月は爪先を弄びながら、淡く目を上げた。「へえ。どう死んだの?」「ひどい状態だったそうです。口元を叩き潰されていたとか」識子は話しながら、自分で口にした内容にぞっとした。あまりにも恐ろしい。美月は小さく鼻で笑い、識子の手からドライヤーを取った。「自分でやるわ」「では、浴室を片付けてまいります」識子は浴室へ戻った。美月は片手でドライヤーを持ち、もう一方の手で髪をほぐした。耳元で温風の音だけが響いている。やがて識子が、汚れ物のかごを持って浴室から出てきた。衣類を指でつまみ上げ、不思議そうに声を上げる。「桜井様、この靴下、血がついているように見えるのですが」ドライヤーの音が、ぴたりと止まった。部屋が突然、奇妙な静けさに沈む。美月はふっと息を吐き、何でもないことのように言った。「捨てて」その時、庭から車のエンジン音が聞こえた。西苑には、普段ほとんど人が来ない。美月の瞳が明るくなり、女らしい甘い表情が顔に浮かんだ。「承也が来たの?」美月は髪を片側へ寄せ、バスローブの胸元を整えた。けれど窓辺へ走った識子の返事は、美月の期待とは違っていた。「椎名社長ではございません。桜井社長です」階下では、震海がソファに腰を下ろしてしばらく待っていた。やがて、識子に抱えられ
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第236話

震海の顔色が、見る間に沈んだ。「お前、なぜそれを……」美月は冷たく笑った。「どうりで、昔から私をあんなに嫌っていたわけね。お母さんが死んでからは、私のことなんて一度も見ようともしなかった。あの頃の私は、自分のどこが悪いのかって、何度も考えたわ。ある時、階段を下りる途中であなたにぶつかりそうになっただけで、あなたは私を蹴り落とした。首まで絞めて、殺そうとした。その時、ようやく分かったの。あなたは私を嫌っているだけじゃない。憎んでいるんだって」美月はソファの上でゆっくり身を乗り出し、怒りで顔を強張らせた震海を見つめた。唇には、軽やかすぎる笑みが浮かんでいる。「だって私は、あなたが私の母を別の男の寝床へ差し出したあとに残された子だから。私はあなたの子じゃない。あなたの恥そのものなのよ」「黙れ!」震海は激怒し、手にしていたティーカップを床へ叩きつけた。白い磁器が砕け、茶が高価な絨毯に飛び散る。震海は美月の首を力任せにつかんだ。顔が夜叉のように歪んでいる。「この汚らわしい女が。なぜ死ななかった」美月は無理やり顔を上げさせられた。空洞のような瞳には生気がなく、顔にも恐怖の色は少しも浮かんでいない。「あなたが、私を殺せるわけないでしょう。だって私は承也を救った女だもの。あなたが手の中に握っている、椎名家への切り札じゃない」美月はゆっくり笑った。「桜井、本当に男なら、このまま私を絞め殺してみなさいよ」「このクソアマ!」震海は怒りに任せ、美月を床へ突き飛ばした。美月の手のひらが、床に散った磁器の破片で切れた。けれど美月は、痛みなど感じていないようだった。震海はティッシュペーパーを数枚引き抜いて手を拭き、丸めたそれを美月の顔へ投げつけた。声には脅しが滲んでいる。「この仕事が取れなければ、お前の母親の遺骨を犬に食わせるぞ」去っていく震海の背中を見つめながら、美月の陰った顔に、やがて不気味な笑みが浮かんだ。……空が少しずつ暗くなってきた。莉奈は将軍の食事を用意したが、将軍の姿が見えない。将軍が松風レジデンスへ来ることは少ない。ここにあるものすべてが珍しくて、どこかへ遊びに行ってしまったのかもしれない。莉奈は庭へ出て、将軍の名を呼んだ。その時、黒い高級車がこちらへ向かって入ってきた。ヘッドライトが
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第237話

庭から、激しい犬の吠え声が響いた。将軍がどこからか駆けてきて、莉奈を抱きしめている省之介に向かって吠え立てた。省之介の周りをぐるぐる回り、喉の奥から低い唸り声まで漏らしている。「省之介さん、先に離して。将軍が噛むわ」省之介は、かえって腕の力を強めた。「噛ませればいい」莉奈は眉をひそめた。省之介も、こういう時はひどく頑固だ。その言葉が終わるや否や、莉奈の視界の端で、将軍がこちらへ飛びかかろうとするのが見えた。「将軍、だめ!」その瞬間、黒い影が将軍のそばを大股で通り過ぎた。承也は片手で省之介の襟首をつかみ、力ずくで莉奈から引き剥がした。承也の腕力は凄まじい。省之介はこの数日でひどく痩せ、傷も癒えていないため身体も弱っている。引き離された勢いで二歩よろめき、ようやく踏みとどまった。莉奈の目は赤く、省之介の目も赤い。それを見た承也の喉から、背筋が凍るような冷笑が漏れた。「どうした。そんなに訴えたい不満があるなら、頼りになる省之介に聞いてもらえばいい」莉奈は息をのんだ。次の瞬間、瞳が一気に赤くなる。その顔を見た承也の呼吸が、重く沈んだ。握りしめた拳から、鈍く骨の鳴る音がする。胸の奥が詰まるような感覚に突き動かされ、承也は無意識に一歩踏み出した。けれど莉奈はその時、うつむいたまま数歩後ずさった。風が吹き抜ける。莉奈の顔に残っていたわずかな血の気まで、風にさらわれたようだった。物音を聞きつけた悠斗が、別棟から出てきた。庭にいる三人と、ドアが開いたままの黒い高級車が目に入る。悠斗は眉を寄せた。省之介と浩平の車は、松風レジデンスへ自由に出入りできるようになっている。承也と省之介の関係が決裂したあとも、門の警備には通行許可を取り消す命令が出されていなかった。自分の手落ちだった。省之介は莉奈が傷ついている様子を見ると、大股でそばへ歩み寄った。「奈奈、一緒に来て」承也の視線が、省之介の手へ落ちた。莉奈の腕をつかんでいる、その手へ。彼の顔が陰った。片手をわずかに上げた。莉奈の顔色が変わる。案の定、松風レジデンスの各所に潜んでいた影のボディーガードたちが、一瞬で姿を現した。伏せていたボディーガードたちまで動かした。承也は本気だ。莉奈はすぐに省之介を背にかばった。「何をするつもりな
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第238話

承也の深い黒い瞳が莉奈を見据えていた。莉奈はあの問いのあと黙り込み、ただ一度だけ承也を見てから視線を外した。もともと赤かった目元は、さらに赤くなっている。静まり返った庭に、承也のスマホの着信音が唐突に鳴り響いた。承也は莉奈から視線を外し、スマホを取り出した。画面には登録名のない番号が表示されている。だが、その番号はこの一年余り、承也の頭に深く刻まれていた。あちらからむやみに電話がかかってくることはない。よほどのことがあった時だけだ。承也の指先が一瞬固まった。張りつめた顔のまま、車庫へ大股で向かい、電話に出る。莉奈は庭の風の抜ける場所に立っていた。すると、車庫の方からスポーツカーのエンジン音が響く。濃紺のスポーツカーが莉奈のそばを矢のように走り抜け、松風レジデンスを出ていった。遠ざかるテールランプを見つめ、莉奈は指を強く握りしめた。スマホが震えた。画面を開くと、省之介からのメッセージが届いていた。そこにあったのは、短く、切実な言葉だった。【手放せない】一台のマイバッハが松風レジデンスを出たあと、神崎家へ向かっていた。車内で省之介は胸の銃創を押さえ、青ざめた顔でスマホを見つめていた。メッセージアプリの最上部にピン留めしてある莉奈のアイコンは、最初は泥細工の小さな狐だった。それが、帰国する数日前から青空の写真に変わっていた。メッセージを送っても、莉奈から返信が来るとは思っていなかった。省之介は莉奈の性格を知っている。彼女はきっと返してこないだろう。省之介はしばらく画面を見つめてから、静かにアプリを閉じ、通話履歴を開いた。そして一時間前に着信があった番号へかけ直した。呼び出し音が三回鳴り、通話がつながった。省之介は車窓の外の夜景を見つめたまま言った。「美月、奈奈に何かあったと知らせてくれてありがとう」しかし、相手が口を開く前に、いつも穏やかな省之介の声に冷たさが混じった。「だが、僕を捨て駒にするのは、これで終わりにしてくれ」確かに、美月は莉奈が省之介の中でどれほど大きな存在かを見抜いていた。神崎家の事情を投げ出してでも、彼が莉奈のもとへ向かうことも分かっていた。省之介はこらえきれず、承也の前で莉奈を抱きしめてしまった。彼女に迷惑をかけたのは落ち度だ。さっき莉奈が口にした言葉も、承也と対立するのを避け
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第239話

白崎執事は小さく息をついた。夕方、庭で起きた出来事のせいで、莉奈がひどく落ち込んでいるのは分かっている。けれど、彼が立ち入って口出しできることではなかった。「でしたら、牛乳だけでもお飲みになって、今夜は早くお休みください。スマホばかり見ていると、目が疲れてしまいますよ」「うん。白崎さんも早く休んでね」莉奈は自然な仕草で、テーブルの上のカップを手に取った。椎名邸で暮らしていた頃も、夜になると白崎執事はこうして温かい牛乳を用意してくれていた。白崎執事は、莉奈が幼い頃からその成長を見守ってきた人だ。そばにいてくれるだけで、莉奈の心は少し落ち着きを取り戻した。牛乳を飲み終えると、莉奈は浴室へ向かい、シャワーを浴びて歯を磨いた。今日替えた生理用品はほとんど汚れておらず、血はごくわずかしかついていなかった。今回の生理は、明らかにおかしい。最近いろいろなことが起きすぎたせいだろうか。極度のストレスや精神的な乱れが周期に影響することもあると、以前聞いたことはある。ふと、海の上の島で過ごしたあの夜の記憶が頭をよぎった。承也は我を忘れたように、何度も激しく求めてきた。あの無人島に、避妊具などあるはずがない。承也だって、莉奈を命がけで助けに来た時に、そんなものを持っているはずがなかった。だから、あの夜は何の避妊もしていなかった。しかも東安市へ戻った直後、千鶴が亡くなったという知らせを受けた。悲しみと混乱の中で、莉奈はアフターピルを飲むことなどすっかり忘れていた。まさか……莉奈の指が、ぎゅっとシーツを握りしめた。「そんなはずない」莉奈は慌ててスマホを手に取り、検索画面を開いた。【妊娠 出血】を入力し、画面が切り替わる。【着床出血】という文字から、莉奈は目を離せなくなった。莉奈は頭の中で日数を数えた。あの島での夜は、年が明ける五日前だった。そして出血に気づいたのは、元日のことだ。五日。画面には、着床出血は一般的に性交渉から六日から十二日ほどで起こると書かれている。わずか一日ずれているだけだ。本当に、妊娠してしまったのだろうか。莉奈は急いで浴室を出た。今できることはない。明日、松風レジデンスを出たあと、薬局で妊娠検査薬を買って確かめるしかない。きっと考えすぎだ。承也と完全に離れようとしているこの
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第240話

莉奈がうとうとしていると、将軍の短く吠える声が聞こえた。眠気の残る目を開け、寝返りを打ってベッドサイドのランプへ手を伸ばそうとした時、冷ややかな叱責の声が降ってきた。「出ていけ」将軍は小さく喉を鳴らした。だが、血走った冷たい黒い瞳に射すくめられた瞬間、身を翻して部屋を出ていった。承也の声だ。莉奈が伸ばした手を、突然つかまれた。次の瞬間、男の大きな身体が覆いかぶさってくる。莉奈の手は枕元へ押さえつけられ、熱を帯びた唇が、強い酒の匂いごと莉奈の口を塞いだ。「んっ……」莉奈は必死に顔をそらそうとした。けれど承也は顎をつかんで逃がさない。もう一方の手が莉奈の寝間着の襟元をつかみ、力任せに引いた。ボタンが弾け飛び、木の床に落ちて、軽い音を立てて跳ねた。承也の熱い指先が、肩口までずり落ちた寝間着の襟を握る。承也は莉奈の首筋に顔を埋め、肌に赤い痕を残した。乱れた呼吸が、かすかに震えている。薄暗い光の中で、承也の黒い瞳だけが異様なほど鋭く光っていた。莉奈は強引な口づけに息を乱し、髪を散らし、目元には涙を滲ませている。承也は冷えた顔で莉奈を見下ろした。数秒の沈黙のあと、奥歯を噛み締めるように顎の筋肉がこわばる。そして突然、莉奈の上から身を起こした。承也は何も言わずに背を向け、部屋を出ていった。扉がバタンと閉まる。莉奈は息を乱しながら、破れた襟元をきつく握りしめた。扉の向こうから、遠ざかる足音はいつまでも聞こえてこなかった。承也は、まだ扉の外にいる。……翌日、承也が部屋の扉を開けると、ちょうど莉奈がその前を通り過ぎるところだった。莉奈もシャワーを浴びて着替えていた。身にまとっているのは、承也と同じボディソープの香りだ。承也の眉間に、鋭い冷気が走る。三分前、悠斗から電話があった。直哉の車が、すでに松風レジデンスの門まで来ているという。莉奈を迎えに来たのだ。二人は示し合わせたように、同時に階段へ向かった。莉奈が一段目へ足を踏み出そうとした時、視界の端に、同じく階段を下りようとする承也が映った。身体の横に垂れた手が、わずかに強ばる。その瞬間、承也が莉奈の手をつかんだ。階段の縁でふらつき、落ちかけた莉奈の身体を、承也の手が強く支え止める。承也は何も言わなかった。ただ、氷のように冷たく澄ん
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