บททั้งหมดของ 婚姻生活にさようなら、椎名さん: บทที่ 241 - บทที่ 250

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第241話

松風レジデンスや椎名邸で使ったことのある塗り薬と、同じ匂いだった。莉奈はもちろん、自分で薬を塗った覚えなどない。一昨日の夜は承也のベッドで眠っていた。なら、誰が塗ったのかは考えるまでもなかった。尚南は莉奈の返事を待たず、手を伸ばして膝に触れようとした。その指先が膝に触れた瞬間、はっと我に返った莉奈は、尚南の胸元めがけて蹴りを入れた。「勝手に触らないで」尚南は莉奈がここまで素早く動くとは思っていなかった。まともに蹴りを受け、床に尻餅をつく。短く息を吸って立ち上がった尚南の顔が、怒りで歪んだ。「俺を蹴るのか」尚南は突然、莉奈が座っている椅子の背もたれに両手をついた。大きな身体が覆いかぶさるように迫り、強引な男の気配が真正面から押し寄せてくる。尚南の顔が一気に近づいた。無理やり口づけようとしてきたのだ。莉奈は顔を背け、唇を避けた。「その口がいらないなら続ければいいわ。切り落として犬に食べさせても、私は構わない」尚南は莉奈の美しい首筋を見ていた。その時、鎖骨に近い場所に残る赤い痕が目に入った。「松風レジデンスで承也と寝たのか」尚南の目が、急に陰った。莉奈は襟元を引き寄せた。その痕は昨夜、外から戻ってきた承也が酒の匂いをまとったまま、正気を失ったように強引に口づけてきた時についたものだ。関係を持ったわけではない。けれど、そんなことを尚南に説明するつもりはなかった。莉奈は力いっぱい尚南を押しのけ、立ち上がって外へ向かう。「奈奈」尚南は追いかけてきて、莉奈の手首をつかんだ。莉奈はそれを振り払う。尚南が行く手をふさごうとすると、莉奈は今度は膝を蹴り上げた。尚南は痛みに顔を歪めた。「答えろ。承也と寝たのか」「私が彼と寝たかどうかなんて、あなたには一切関係ない」「関係あるに決まってるだろ」尚南の声が鋭くなった。「お前は昔、俺の幼馴染だった。俺の女になるはずだったんだ。なのに、どうして承也と寝られる?」尚南は本当にどうかしている。莉奈はもう一度、尚南の膝を蹴りつけた。今日はヒールを履いている。尚南の顔から血の気が引いた。莉奈の声は冷たかった。「少しは目が覚めた?」尚南は歯を食いしばった。「目を覚ますべきなのはお前だろ。お前の父親が承也の両親を死なせたんだぞ。それなの
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第242話

マンションに戻ると、莉奈はバッグを置き、そのまま浴室へ向かった。妊娠検査薬を一本取り出し、説明書どおりに検査を始める。検査薬を洗面台の上に置き、莉奈はじっと結果を待った。不安で胸が早鐘のように鳴っている。莉奈は指を強く握りしめ、少しでも震えを抑えようとした。五分が、ひどく長く感じられた。結果は、赤い線が一本。陰性だった。莉奈の指から、ふっと力が抜けた。張り詰めていた糸が切れたように、ようやく息を吐く。けれど心の奥では、何かがゆっくり押し潰されていくような感覚があった。胸のあたりが、かすかに苦しい。見間違いだったらいけないと思い、莉奈はさらに数分待った。結果は変わらなかった。続けてもう一本試しても、やはり赤い線は一本だけだった。莉奈は検査薬を見つめたまま、しばらく動かなかった。やはり考えすぎだったのだ。妊娠はしていない。その時、スマホに通知が続けて入った。すべて尚南からのメッセージだった。莉奈は内容を一つも開かず、尚南のアカウントをブロックした。続けて、電話番号も着信拒否にする。……莉奈が松風レジデンスを出てからほどなくして、黒い高級車が松風レジデンスを出発し、中央病院へ向かった。中央病院に着くと、承也は悠斗が降りるのを待たず、先に車のドアを開けた。もう一台の車が、一分ほど早く到着していた。車椅子に座った美月は、こちらへ歩いてくる承也を見つめた。胸の奥が、温かいもので包まれる。連休中で自宅にいる時間が多いせいか、承也は普段よりもラフな格好をしていた。髪も特別に整えているわけではない。それでも、生まれつき備わったような威圧感は少しも薄れず、周囲を自然と黙らせるほどの存在感があった。美月の鼓動が速くなる。微笑みながら、やわらかく言った。「承也、今日が検査の日だって、忘れているかと思ったわ」承也が検査に付き添ってくれる。それだけで美月は嬉しかった。少し前、承也が莉奈とガーデンレストランで食事をしていたことへの鬱屈も、その瞬間だけは薄れていく。承也は美月を淡く見ただけで、低く言った。「入るぞ」美月が採血を終えると、承也は付き添いの識子に命じた。「美月を外へ。少し日を浴びさせてやれ」美月の声には、甘えるような響きがあった。「あなたが一緒に来て」承也はわ
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第243話

深夜、高級クラブの個室で、尚南はひどく酒を煽っていた。友人が何人か女性を呼ぼうと言い出しても、尚南はほとんど反応しなかった。友人が肩を押す。「尚南、好みの子がいるか見てみろよ」尚南の頭の中は、莉奈のことで埋まっていた。莉奈は尚南のメッセージアプリも電話番号もブロックした。昔から気の強い女だ。ブロックすると決めたら、本当に容赦なく関係を断ち切る。苛立ちが胸の奥で燻り、アルコールのせいで全身の血が煮え滾っているようだった。承也との関係があそこまで壊れているのに、それでも莉奈は承也と寝られるのか。首筋の赤い痕を見た瞬間、尚南は感情の歯止めが利かなくなった。だから、あんな言葉を口にしてしまった。あの言葉を聞いた莉奈の顔が、一瞬で血の気を失った。その絶望したような表情を思い出すだけで、尚南は誰かを殺したくなるほど苛立った。尚南は怒りに任せ、目の前のローテーブルを蹴り飛ばした。テーブルの酒が床へこぼれ、ボトルやグラスが落ちて、派手な音を立てて砕け散った。呼ばれていた女性たちは驚き、身を寄せ合って縮こまった。その中に一人だけ、怯えながらもほかの女性たちより落ち着いている者がいた。尚南が顔を上げる。視線が、その女性で止まった。「お前、こっちへ来い」青いワンピースを着て、長い髪を下ろした女性が尚南の前に来た。声は柔らかい。「尚南副社長」照明が、彼女の鼻筋にある薄いほくろを照らしていた。酔いの回った尚南の顔に、ふっと虚ろな色が浮かぶ。目の前の顔が、いつも尚南を見るたびに不機嫌そうな顔をする、明るく鮮やかな別の顔に重なった。尚南は突然、笑った。立ち上がると、その女性の首に腕を回し、個室を出ていった。間接照明だけが灯るホテルの部屋。大きなベッドの上で、尚南は片手で女性の目を覆い、唇を奪った。もう片方の手でワンピースの襟元を乱暴につかみ、力任せに引き裂く。唇が顎から首筋へ下り、鎖骨に強く吸いついた。女性が痛みに小さく悲鳴を上げた。「痛い……!」白い鎖骨に、莉奈の首にあったものと似た赤い痕が浮かぶ。それを見た尚南は、酔いに沈んだ目で笑った。広いベッドの上で、尚南は獲物を押さえ込む獣のように身を沈めた。下にいる女性は、何度も痛みを訴えた。「お願いです……痛いです……」尚南は歪ん
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第244話

千鶴の初七日は、椎名家にとって重要な法要だった。承也は前日から白崎執事を椎名邸へ戻し、準備を任せていた。早朝、承也は車に乗り、椎名邸へ向かった。車内で悠斗がタブレットを差し出す。「社長、データはすべてこの中に入っています」中には、朝市周辺で回収した防犯カメラの映像が保存されていた。悠斗はすでに一通り確認していた。いくつかの映像には恵子が映っている。だが、自分が見落としていないとは言い切れない。だから映像は一つも削除せず、すべて残してある。そのうえで、恵子が映っている映像だけは、確認しやすいようにファイル名を付け直していた。承也は、恵子が映っている時刻を記した動画を一つ開いた。人でごった返す朝市の光景が、タブレットの画面いっぱいに広がる。承也はシートの背にもたれ、片手でタブレットを持った。もう片方の手で車内の収納からタバコを取り出し、唇に挟む。ライターを押すと、小さな火が灯った。同時に、車の窓が少し下がった。冷たい風が車内へ入り込む。車がトンネルに入る。火の揺らめきが、承也のいっそう冷たく深い顔を一瞬照らした。その時、承也の視線が止まった。画面に表示された時刻を確認する。承也はその動画を閉じ、別の映像を開いた。恵子が朝市に姿を見せた時刻まで進め、倍速で再生する。見終えると、また別の映像を開いた。すべての防犯カメラの映像を見終えた頃、車はちょうど椎名邸の敷地内へ入った。車が停まった。悠斗が先に降り、後部座席のドアを開けた。承也はスーツのパンツに包まれた長い脚を外へ下ろす。早朝の薄い霧はまだ晴れておらず、湿った冷気が正面から吹きつけた。承也はタブレットを持ったまま言った。「これを見ろ」悠斗は承也の隣を歩きながら、タブレットを受け取った。承也の声は冷たく、平静だった。「この帽子とマスクの女は、ずっと恵子さんを尾行している」その言葉を聞いた瞬間、悠斗は映像を食い入るように見た。承也の長い指が画面を軽く叩く。魚屋の屋台の前に、恵子が立っている。そのすぐ近くに、バケットハットをかぶり、黒いマスクをつけた女が映っていた。その女には見覚えがあった。一昨日、警察が金物屋の防犯カメラから見つけた女だ。恵子が路地へ入る前、誰かにぶつかられた時に手を貸していたのも、この女だった。悠斗は
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第245話

朝市はあまりに騒々しかった。莉奈はスマホの送話口を手で覆い、声を少し張った。「今、朝市にいるの。警察の人たちと一緒に、ほかに手がかりがないか探しているところ」直哉はすぐに言った。「なら、俺もそっちへ行く。何か手伝えるかもしれないだろ」来ると言われ、莉奈は慌てて止めた。「来ないで。また週刊誌に撮られたらどうするの。私は既婚者なんだから、あなたと同じ画面に入っただけで、アンチに叩かれるに決まってるでしょう」それに、何年も前、莉奈と直哉は本当に週刊誌のカメラに撮られたことがある。直哉は十八歳でデビューして以来、瞬く間に人気を集めたトップ俳優だ。ファンの数も桁違いだった。十九歳の時、一度だけ莉奈は直哉と外で食事をした。初めてお酒を飲んだ莉奈は加減が分からず、すっかり酔い潰れてしまい、直哉に半分支えられ、半分抱き抱えられるようにして車へ乗せられた。その姿を、撮られてしまったのだ。その夜のうちにネットニュースになり、直哉の熱愛疑惑として一気に拡散された。ファンは相手の女性を特定しようと血眼になり、SNSは大荒れになった。翌朝、目を覚まして事態を知った莉奈は、焦りのあまり泣きそうになった。泣きそうな莉奈を見て、直哉はすぐに察した。莉奈はまだ承也に想いを告げておらず、承也に誤解されることを恐れていたのだ。直哉はその場で言った。「泣くな。今から、俺は男が好きだって公表してやる」直哉は、自分の胸に顔を埋める端正な青年の肩を抱いた写真をSNSに投稿した。添えられたメッセージは短かった。【俺の好きな人。男です】莉奈を支えている昨夜の動画には、莉奈の顔は映っていなかった。服もゆったりしていて、小柄な体つきが分かる程度だったため、写真の青年と別人だとは誰も疑わなかった。人気俳優である直哉のカミングアウトは、SNSのサーバーが落ちるほどの大騒ぎになった。ネット上で「スーパー攻め様」という呼び名が広まったのも、その時からだ。後になって、莉奈は直哉を問い詰めた。「男の人が好きだなんて、今まで一度も聞いてないんだけど。まさか私に片想いしていて、私のために男好きのふりをしたんじゃないでしょうね」直哉は笑いながら「どこまで自信過剰なんだよ」と言い捨て、電話を切った。その後、直哉はその物静かな青年を莉奈に会わせた。莉
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第246話

朝市の人混みの中で、誰かが悲鳴を上げた。「人が刺された!」現場は一瞬で混乱に包まれた。叫び声、逃げていく足音、押し合う人影。莉奈のポケットではスマホが鳴っている。けれど、音も景色も、目の前から急速に遠ざかっていくようだった。視界が真っ白になる。世界に残っているのは、莉奈の手のひらについた暗い赤の血だけだった。直哉の腹から流れている血だ。――どうして、こんなに多い……どうして、止まらないのか。止まって!莉奈は無意識に手を伸ばし、血のあふれる傷口を押さえようとした。けれど直哉の手が先に腹を押さえ、もう片方の手が莉奈の肩に置かれた。莉奈の肩が、わずかに沈む。直哉の手には、ほとんど力が入っていなかった。喉が締めつけられる。莉奈の赤くなった目から涙がこぼれ、直哉の名を呼ぼうと唇が開いた。直哉はマスク越しに、震える声を低く抑えた。「しっ……奈奈、名前を呼ぶな。気づかれる。泣くな……お前が泣くと、みんなこっちを見る。ここに俺のファンがいるかもしれない。もし見つかったら、どうするんだよ」正体が知られたら、この場にいる大勢の口をどう塞げばいいのか分からない。「泣くな。支えてくれ」直哉は荒い息を吐いた。声はだんだん小さくなる。「先に、ここを離れよう」莉奈の肩に置かれた手が、止めようもなく震えていた。何もかもが突然だった。直哉の動きはあまりに速く、警察もボディーガードも反応が間に合わなかった。刃物が直哉の腹に刺さった直後、警察は凶器を持った女を取り押さえた。莉奈とボディーガードが、両側から直哉を支える。ボディーガードは悠斗へ電話をかけた。「悠斗さん、ある女が奥様を刺そうとしました。直哉さんがかばって刺されています」莉奈は直哉を支えたまま、ぼんやりと振り返った。女の黒いバケットハットとマスクは、地面に落ちている。露わになったその顔には、どこか見覚えがあった。直哉は、もう立っているのもやっとだった。サイレンを鳴らした警察車両が、朝市の入口から入ってくる。人々は自然と道を開けた。だが朝市の中は屋台が多く、物も雑然と置かれていて、通路が狭い。車両が向きを変えるだけでも、数分かかった。車に乗った途端、直哉は意識を失った。耳にかかっていたマスクが外れる。撮影で少し日焼けしていた
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第247話

ストレッチャーが救急処置室へ運び込まれ、重い扉が閉まった。その瞬間、莉奈は全身から力が抜けたように、その場へ崩れ落ちた。両手を冷たい床につき、どうにか身体を支える。時間がゆっくり過ぎていく。莉奈はこれまで、時間がこれほど遅く、重く流れると感じたことはなかった。背後から足音が近づいた。低く、落ち着いた声が聞こえる。「向井さんを助け起こしてやってくれ」二人のボディーガードが莉奈を支え、椅子まで連れていって座らせた。莉奈は虚ろな目で、救急処置室の扉の前に立つ男を見た。背が高く、彫りの深い、端正な顔立ちの男だ。佐伯時哉(さえき ときや)だった。一昨日、佐伯家で騒動が起きた。直哉は普段、ほとんど家を空けている。それでも家族に対しては、いつも惜しみなく尽くしてきた。そんな直哉は、叔父が財産のために牙を剥き、自分の持つ株を奪おうとするなど、考えたこともなかったはずだ。あの日の危険について、直哉はほんの数言、軽く話しただけだった。けれど莉奈は、直哉の首に貼られたガーゼを見て、おおよその事情は察していた。直哉が間一髪で逃れられたのは、兄である時哉が水面下で人を動かしていたからだ。叔父が家の財産を狙っていると先に読み、手を打っていた。土壇場で、一気に形勢を逆転させたのだ。本来なら海外の仕事が忙しく、連休中の帰省もしない予定だった時哉は、その日のうちに東安市へ戻り、佐伯家の混乱を収めた。直哉が刺されたと聞くと、時哉はすぐに駆けつけてきたのだ。取調室にて。髪を乱した女が、両手に手錠をかけられ、机の前に座っていた。顔には生気がない。取調官が防犯カメラの映像を拡大し、女の前へ差し出した。「年明け二日目の早朝、朝市の防犯カメラの映像に映っているこの女は、あなたで間違いありませんか」女はゆっくり顔を上げた。「私です」「佐々木恵子とは面識がありましたか」女の声はかすれていた。「ありました。一年以上前、松風レジデンスで働いていた時に知り合いました」二人の取調官が顔を見合わせた。「あの酔っていた男は、あなたの共犯ですか」女は首を横に振り、鼻で笑った。「佐々木恵子を殺した時、たまたまあの男に見られたんです。ひどく酔っていて、まともに状況も分かっていなかった。だから、わざと怒らせて、罪をなすりつけるこ
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第248話

莉奈は救急処置室の外で待っていた。やがて扉が開き、医師がマスクを外して時哉に告げた。「出血は止まりました。ただ、刃先が肝臓にまで達していました。まだ麻酔が残っているため患者さんは眠っていますが、ここから二十四時間は予断を許さない状態が続きます」「ありがとうございます」時哉が礼を言った直後、視界の端で華奢な影が動いた。莉奈が、病室へ運ばれていく直哉のストレッチャーを追って、足早に駆けていく。看護師は病室で直哉のベッドを固定し、生体情報モニターが正常に動いているかを一つずつ確認した。それから病室を出る前に、莉奈へ声をかける。「何か変わったことがあれば、すぐにナースコールを押してください」莉奈は礼を言い、直哉のベッドのそばに座った。幼い頃から、直哉は病気らしい病気をほとんどしなかった。具合が悪くなっても、薬を飲んで一晩眠れば治るような人だった。それなのに今は、病院のベッドに横たわり、まだ危険な状態を抜けていない。自分をかばったせいだ。莉奈は一歩も離れず、ベッドのそばで直哉を見守り続けた。夕方になって、直哉がようやく目を覚ました。莉奈はすぐに直哉の手を握り、かすれた声に安堵を滲ませた。「直哉、やっと目を覚ましたのね」直哉は夢を見ていた。一歩遅れて、莉奈をかばいきれなかった夢だ。自分の腕の中で、莉奈が血を流して倒れる夢――目を開けたばかりの直哉の瞳には、恐怖と混乱が浮かんでいた。だが、ベッドのそばに莉奈が座っていること、自分が病室にいること、そして腹に走る鋭い痛みが、直哉の意識を現実へと引き戻した。現実では、間に合ったのだ。直哉は莉奈の手を握り返した。張り詰めていた神経が、ようやく少しだけ緩む。弱々しい声が漏れた。「死ぬほど怖かった」「動いちゃだめ」莉奈は慌てて直哉の手を押さえた。直哉の指先には、モニターのセンサーがつながっている。莉奈は、直哉が悪夢を見ていたことを知らなかった。自分が死ぬのではないかと恐怖を感じたのだと思い込んでいた。「スーパー攻め様は強運の持ち主なんでしょう。あなたのいい日々は、まだこれからなんだから」直哉は、莉奈の赤い目元と、氷のように冷たい指先を見た。莉奈がどれほど怯えたのか、すぐに分かった。「大げさだな。全然痛くないよ」そう言われた瞬間
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第249話

「事件の裏付けはほぼ取れました。今日はもう遅いので、向井記者には明日また来ていただき、その際に改めて取材に対応させていただきます」それでも莉奈の胸には、どこか落ち着かないものが残っていた。莉奈は警察に尋ねた。「その人に会うことはできますか」警察は首を横に振った。「身柄はすでに移送されています。裁判前の面会は、担当弁護士以外認められていません」莉奈は理解を示すようにうなずいた。少なくとも、犯人は捕まった。極刑は免れないはずだ。その知らせを持って、莉奈は中央病院へ戻った。直哉はすでに特別室へ移されている。眠っているかもしれないと思い、莉奈はそっとドアノブを回した。病室はスイートルーム仕様になっていた。外側がリビングのような空間で、その奥に直哉のベッドがある。莉奈が扉を開けた時、時哉の秘書が低い声で話しているのが聞こえた。「椎名社長が警察署へ行き、取調室にしばらく入っていたそうです」ソファに座っていた男が何か言おうとして、扉の方へ目を上げた。淡い色の瞳が、莉奈を静かに見る。莉奈はドアノブを握る手に力を込めた。「時哉さん」時哉はわずかにうなずいた。「戻ったか」直哉が幼い頃、両親は離婚していた。直哉の父親は、佐伯家の当主である祖父との衝突を避けるように海外で暮らすことが多かった。そのため、直哉を育てたのは兄である時哉だった。時哉は現在三十二歳。厳格で品格があり、東安市の財界でも清廉で揺るぎない地位を築いている人物だ。莉奈にとって、時哉は直哉の父親代わりのような存在だった。莉奈は時哉を深く敬っている。彼女はうなずいて中へ入り、後ろ手に扉を閉めた。それから時哉の秘書に尋ねる。「承也が直接、あの女に話を聞いたんですか」秘書は判断に迷ったように時哉を見た。時哉は淡く言った。「構わない」秘書はそこでうなずいた。「はい、向井さん。ただ、こちらで把握しているのはそこまでです」東安市において、佐伯家と椎名家の力に大きな差はない。椎名家の手が届く場所なら、佐伯家もまた情報をつかむことができる。ただし、承也があの女に何を聞いたのかまでは分からなかった。恵子のために行ったのだろうか。莉奈は時哉へ軽く頭を下げた。「直哉の様子を見てきます」莉奈は奥の病室の扉を開けた。莉奈が離
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第250話

その話になると、識子は美月のそばへ歩み寄った。「桜井様、今日のニュースはご覧になりましたか。警察がいた朝市で、刃物を持った人間が堂々と人を刺したそうです。最近は本当に物騒ですね。警察がいても怖がらないなんて」識子は、最近の美月がなぜふさぎ込んでいるのかを知らなかった。下手なことを言えば、またあの蛇のように冷たく不気味な目で見られるのではないかと怯えている。あの目のせいで、彼女は何日も悪夢を見た。美月の機嫌を損ねたことは分かっている。もし解雇されれば、これほど条件のいい仕事を他人に譲ることになる。それだけは惜しかった。だから識子は、毎日どうにか美月の機嫌を取ろうとしていた。言葉を間違えていないか不安になり、識子はそっと美月の顔色をうかがった。美月に特別な反応はない。そこで、識子は本心から感心したように続けた。「もし、誰かに恨みを持った人間がここへ入り込んできたらと思うと怖いです。椎名社長は、本当に桜井様のことを大切に守ってくださっているんですね」美月は窓の外の夜を見つめ、何かを考えていた。やがて唇の端をゆるく上げる。機嫌がよさそうだった。「あなたの言う通りね。承也はやっぱり、私のことをとても気にかけてくれているわ」承也のボディーガードたちはよく訓練されていた。車から降りても静かで、ほとんど物音を立てない。美月がベッドに横になると、識子は部屋の明かりを消し、外へ出て扉を閉めた。暗闇の中で、美月は意味ありげに小さく笑った。気づいたのかしら。……昨日、警察署を出たあと、承也は椎名邸へ戻った。松風レジデンスへ帰ったのは深夜で、そのあとも書斎で仕事をし、眠ったのは午前二時を過ぎてからだった。それでも承也は、仕事の日でも休日でも、休暇中でも、毎日決まった時間に起きる。浩平は何度か、呆れたように聞いたことがある。「お前、結婚してるんだろ。疲れないのかよ。毎日そんな時間ぴったりに起きて、余裕ぶるのもたいがいにしろよ。どれだけ体力余ってんだ」承也は、その手の質問に一度も答えたことがない。承也が階下へ降りると、白崎執事がソファに座り、ローテーブルに身をかがめて何かを書いていた。階段を下りる音に気づき、白崎執事は顔を上げると、すぐに立ち上がった。「旦那様、おはようございます」承也は淡く返事を
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