All Chapters of 愛を知った時には、君はもういない: Chapter 1 - Chapter 10

24 Chapters

第1話

「結婚は人生の墓場である」という言葉があるが、江崎心美(えさき ここみ)の墓に関しては、もはや跡形もなく暴かれ、墓標すら残されてはいなかった。結婚して三年、離婚を切り出したのはこれで九度目になる。無限ループに閉じ込められたバグのように、彼女は再燃する期待と冷え切った絶望の狭間で、出口のない葛藤を繰り返していた。初めて離婚を切り出した時、彼女は交通事故に遭い、通りを鮮血で染めた。だが、沢田哉治(さわだ さいじ)の車は彼女の傍らを無情に通り過ぎていった。固く閉ざされた窓の向こうから、電話越しに投げ捨てられたのは、氷のように冷淡な「立て込んでいる」という一言だけだった。後に知ったことだが、彼が「立て込んでいる」と吐き捨てたその時間は、別の女に特注のケーキを届けるべく、自ら空港へと車を飛ばし、プライベートジェットに乗り込むためのものだったのだ。心美が離婚を切り出すと、哉治はリビングを埋め尽くさんばかりのバラを贈り、彼女の胸に宿ったばかりの決意を、言葉にする前に無理やり封じ込めてしまった。二度目のこと。彼は気温四十度の炎天下、車が飛び交う高架道路に彼女を置き去りにした。心美は虚脱状態で歩き続け、意識を失った。ようやく目覚めた時――その腹の中に宿っていた赤ちゃんの命は、すでに音もなく消えていた。彼は後悔に満ちた顔で彼女の手を握り、言い訳を並べた。「詩織は……妹のような存在なんだ。身寄りもなく、一人で苦労しているから放っておけなくて」心美は血走った目で問い返した。「ただの妹なの?それとも、愛人なの?」悲しみと憤りのまま、彼女は再び離婚届を哉治の前に叩きつけた。すると彼はオークションで競り落とした宝物を差し出し、優しく囁いた。「夫婦なんて、一人がわがままを言って騒ぎ、もう一人がそれを笑って受け流す。その繰り返しじゃないか。離婚が成立しない限り、君の気が済むまで僕がいくらでも付き合ってあげるよ」心美はまるで絶望に駆られたギャンブラーのように、自らの身を削るような自滅的な振る舞いで、彼からのほんの僅かな慈しみを繋ぎ止めようとしていたのだ。だが今回、哉治は初めて、自ら離婚届を彼女の前に差し出した。「心美、離婚しよう。一ヶ月だけでいい、偽装離婚だ。詩織の家が倒産しかけている。彼女の父親に無理やり老いぼれと結
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第2話

心美が通話を終えて振り返った瞬間、視線の先にあったのは、狼狽の色を隠しきれない哉治の瞳だった。彼は大股で歩み寄ると、彼女の手首を強引に掴み上げた。「心美、僕たちが本当に離婚するわけないだろう!何度も説明したはずだ。これは、急場を凌ぐための一時的な方便に過ぎないんだって。離婚が成立するまでに、必ず唐沢家の問題を片付けると約束する」彼の声は微かに震えていた。長い腕を伸ばし、心美を抱き寄せようとする。「今回が最後だ。このあとの埋め合わせは、今の何倍にもして君に尽くすと誓うから」心美は静かに一歩下がり、彼の抱擁をすり抜けるように避けた。そして、冷淡な声で言った。「聞き間違いよ。さっきのは、お父さんの友人の話よ。つい最近、離婚の手続きが完了したんだって」哉治の強張っていた肩から、ふっと力が抜けた。彼は安堵のため息をついた。「なんだ、そうだったのか。驚かせないでくれ。本当に、心臓が止まるかと思ったよ」その夜、哉治が碧水苑の屋敷に戻ることはなかった。心美には分かっていた。彼が今、詩織のそばにいることを。案の定、夜。枕元でスマホの画面が淡く光った。詩織からのメッセージだった。そこに添えられていたのは、仲睦まじい二人のツーショット写真。写真の中の彼女は、満面の笑みを浮かべていた。その後ろで哉治が、慈しむような眼差しを彼女に注いでいる。その熱を帯びた瞳は、心美が三年の月日の中で一度として向けられたことのないものだった。続いて届いたのは、追い打ちをかけるような一文だった。【心美、これまで哉治を支えてくれてありがとう。そして……彼を私に返してくれて、本当に感謝するわ】心臓を針で不意に突き刺されたような、鋭い痛みが走る。凍えるように冷たくなった指先の震えを抑え込み、心美は突き放すような一言を撃ち返した。【忘れないで。まだ離婚の手続きは終わっていないわ。今の私は、まだ哉治の法的な妻よ】詩織からの返信は、ほぼ即レスだった。【私が戻ってきて、哉治を奪ったって怒っているのね。でも、私は本気で哉治を愛しているの。どうすれば、あなたの気が済むのかしら?】その被害者ぶったあざとい言葉に、反吐が出るほどの嫌悪感が込み上げた。心美の指先が画面を叩く。【なら、死ねばいいんじゃない?あなたが死んだら、許してあげるわ
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第3話

「嘘でしょ?離婚して、F国に戻るっていうの?」コーヒーカップを持つ安藤遥(あんどう はるか)の手がぴたりと止まった。彼女は目を見開き、信じられないといった様子で心美の顔を覗き込む。心美は視線を落としたまま、手元のラテを静かにかき混ぜ、小さく頷いた。遥は身を乗り出し、声を潜める。「あんなに死ぬほど愛してたじゃない。それを今さら、そんな簡単に吹っ切れるわけ?」心美は唇を噛み、喉の奥に込み上げてきた苦い感情を無理やり押し殺した。その声は、今にも消えてしまいそうなほど儚かった。「……もう、愛してないの」「どうして?」遥が畳みかけるように問う。心美は視線を上げ、窓の外のどんよりとした曇り空を見つめた。その声は、驚くほど穏やかだった。「私の居場所がない世界に、無理やり入り込もうとするのはもうやめたの。疲れちゃったし……もう、いらないかなって」遥はいたたまれなそうに心美の肩を叩き、深く溜息をついた。「そうね。前から言っていたけど、あの頃のあなたは哉治一筋で、何を聞いても耳に入らなかったもの。あの男のために国内に残って、家族も友達も遠くにやったまま、四六時中あの男の顔色を窺って……見てよ、今のあなた。瞳の輝きが消えかかってるわ」心美は鼻をすすり、無理やり口角を上げて笑ってみせた。けれど、その瞳には隠しきれない涙が滲んでいた。「大丈夫。正式に離婚の手続きが終わって、全部吹っ切れたら……きっと、昔の私に戻れるから」言い終えた直後、何気なく視線を向けたカフェの片隅で、心美の体は凍りついたように動かなくなった。その席に座っていたのは、哉治と詩織だった。二人は肩が触れ合うほど身を寄せ合い、哉治は慈しむような手つきで、そっと詩織の頬をなぞっている。彼が低く何かを囁くと、詩織は顔を赤らめて愛らしく俯き、恥ずかしそうに微笑んだ。心美の視線を追った遥が、その親密な光景を捉える。次の瞬間、遥の心の中で怒りの火が勢いよく燃え上がった。「やっぱりね!あなたが急に踏ん切りがついた理由が分かったわ。あのクズ男、外でこんな不潔な真似をしてたわけ?」心美が止める間もなく、遥は二人のもとへ突き進んでいった。「哉治!白昼堂々、家庭がある身で他の女とベタベタして、恥ずかしくないの!」哉治の顔が一瞬で土気色に変わる。詩織は
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第4話

心美は高熱に倒れた。丸三日三晩、体中の節々が軋むように痛み、頭は割れるように重い。意識は混濁し、微睡みと覚醒の狭間を彷徨い続けた。意識を保つのさえ辛いほどの苦しみの中で、ふと、あの冬の記憶が蘇った。あの時、彼女は重いインフルエンザにかかり、高熱が引かずにいた。それを知った哉治は、進行中だった数十億円規模のプロジェクトを放り出し、海外から夜通し飛んで帰ってきてくれた。彼は五日もの間、寝る間も惜しんで心美のそばに付き添い、薬を飲ませ、汗を拭き、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。ようやく熱が引いたとき、彼は見る影もなくやつれ、血走った目で「もう大丈夫だ」と笑って、彼女の頭を優しく撫でてくれた。あの眼差しに宿っていた、狂おしいほどの不安と慈しみ――あれは、決して偽物などではなかったはずだ。心美は熱に浮かされながら、ぼんやりと考えていた。きっと、あの頃のあなたは、心から私を愛してくれていたのね。熱い涙が目尻から溢れ、髪の生え際へと静かに吸い込まれていった。喉は焼けるように乾き、心美は震える手でサイドテーブルのコップに手を伸ばした。だが、力が入らない指先が冷たいガラスに触れた瞬間、コップは床に落ち、鋭い音を立てて砕け散り、床に水が広がった。ふらつく体で起き上がろうとしたその時、隣の部屋から詩織の甘ったるい声がはっきりと聞こえてきた。「ねえ、哉治。心美、この数日いくら電話しても出てくれないみたいだけど……もしかして、気づいちゃったのかな。あの日、私をイベント会場に送るために彼女を道端で降ろしたこと。やっぱり、怒ってるのかな?」あの日、彼が言った「会社の急用」は、詩織をイベント会場へ送るためだったのだ。 心美は自嘲気味に口角を上げた。最後の気力が抜け落ち、体は制御を失って前方へと崩れ落ちる。反射的に床へ手を突いた先には、先ほど砕け散ったコップの破片が散乱していた。手首に鋭い感触が走り、破片が深く肉に食い込む。あまりの激痛に視界が真っ暗になり、背中にはどっと冷や汗が流れ出した。だが、壁の向こうからは、哉治の穏やかで優しい声が容赦なく突き刺さってきた。「まさか。心美はそんなに心の狭い女じゃないよ。それに、僕は君を一生守ると約束したんだ。僕の前で、詩織が気を使う必要なんてどこにもない」かつて、同じ言葉を
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第5話

入院して三日目、ようやく哉治が姿を現した。「すまない、心美。詩織の情緒がずっと不安定で、どうしても付きっきりにならざるを得なかったんだ」心美は何も答えず、ただ静かに窓の外を眺めていた。睫毛の一筋さえ動かさない。点滴の雫が規則正しく落ちていく。彼女はその一滴一滴に、自由を手にするまでの時間を重ね、心の内で静かにカウントダウンをしていた。そこへ看護師が処置に現れ、包帯をゆっくりと解いていく。露わになったのは、目を背けたくなるほど無惨で生々しい傷跡だった。哉治は息を呑み、その瞳に痛ましさが走った。「こんなにひどい怪我だったのか。僕が君を守ってやれなかったせいだ。心美、本当にすまない」処置の痛みに、心美の額にはじわりと冷や汗がにじむ。唇からは完全に血の気が失せ、雪のように白く乾ききっていた。「……だが」哉治の声が不意に低くなった。そこには隠しきれない失望の色が混じっている。「こんな真似までして気を引こうとする必要はなかったはずだ」「私が好き好んでこんな目に遭ったと思っているの?」心美はあまりの言い草に、思わず吹き出しそうになった。だが次の瞬間、彼の言葉の真意に気づき、弾かれたように顔を上げた。「私が、わざとやったと思っているの?」哉治はまっすぐに彼女を見つめ、確信に満ちた口調で言った。「違うのか?ただ僕を呼び戻したかったんだろう。電話一本くれれば戻ったのに、なぜこんな真似をする」「出ていけ」心美はサイドテーブルのグラスを掴み、床に叩きつけた。「今すぐ出ていって!二度と私の前に現れないで!」それでも、哉治は去らなかった。それが罪悪感からくるものなのか、あるいは別の執着ゆえなのか。彼はその日一日、病室に留まった。彼は以前のように、甲斐甲斐しく彼女の世話を焼いた。S国から取り寄せた彼女のお気に入りのアンティークブローチは、世界に一点しか存在しない極めて希少な品だった。さらには最新機種のスマホを買い与え、データの移行まで細心の注意を払って済ませていた。しかし、新しいスマホを手にした心美が真っ先にしたのは、十日後に発つF国行きの片道航空券を予約することだった。トイレから戻った心美の目に飛び込んできたのは、彼女のスマホを握りしめて立ち尽くす哉治の姿だった。画面には、予約完了を知らせる
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第6話

心美はすべての手続きを滞りなく済ませた。仕事の引き継ぎ、クレジットカードの解約、パスポートの更新。その一つ一つの手順をこなしていくことは、まるで過去との繋がりをナイフで切り離していく儀式のようだった。帰宅の途中、哉治からメッセージが届いた。【唐沢グループへの融資は三日後に実行されることになった】続いて送られてきたのは、オーロラの映像だ。【いつか二人で見に行こう】彼女は無造作にその通知をスワイプして消した。この六年間、彼は数え切れないほどの「いつか」を口にしてきた。けれど、彼女にはもう、それを待つ時間は残されていない。返信がないことに焦れたのか、哉治から直接電話がかかってきた。執拗に繰り返される着信を、彼女は無言のまま拒絶し続けた。家に戻ると、詩織が我が物顔で、使用人たちに心美のトロフィーや表彰状を捨てさせているところだった。「こんなガラクタ、いつまでも残しておいてどうするの!」「誰の許可で、私のものに触っているの?」心美がトロフィーを奪い返すと、その瞳には鋭い光が宿っていた。詩織は鼻で笑った。「離婚が決まったっていうのに、まだこの家にしがみついているわけ?いつまでもここの女主人ぶるのもいい加減にしてほしいわ」「少なくとも、私は妻として堂々と胸を張ってここにいたわ。あなたは?一生世間の目を盗んで、コソコソ隠れて生きるだけの泥棒猫じゃない」詩織の瞳に一瞬、明らかな動揺が走った。だが彼女はすぐさま表情を塗り替えると、何事もなかったかのように別の話を切り出した。「ねえ……あなたが流産したあの子、たしか『秋(みのる)』って名付けるつもりだったんでしょ?」心美の全身が、微かに震えた。それは彼女と哉治の間だけの秘密だった。「驚いた?」詩織は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。「私が飼っていた犬の名前も『秋』なのよ。あの犬が死んだとき、哉治が言ってくれたの。この犬はいつか、僕たちの子供として生まれ変わってくるって」その一言一言が毒を塗った刃となり、心美の心を容赦なく切り刻む。「それから」詩織が一歩、詰め寄った。「あの日、わざと哉治を呼び出したのも私よ。一度はプロポーズを断ったけど、やっぱり後悔しちゃって。どうしても彼に証明させたかった。彼は、私を一生手放せないんだってことを」
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第7話

だが、哉治は心美の濡れた髪をいたわるように整えながら、こう言い放った。「心美、辛いのはわかる。だが、詩織を陥れるために自分を傷つけるなんて……正直、見損なったよ」凍てつくような寒さが一瞬にして全身を駆け巡った。心美は詩織の勝ち誇ったような視線を受け流し、掠れた声で問いかけた。「そこまで、あの女を信じるのね」「すまない」哉治の顔に苦渋の色が浮かぶ。「詩織を連れてくるべきじゃなかった。誤解を解こうと思ったんだが、まさか……」心美は力なく、自嘲気味に笑った。「哉治。あなたは薄情なだけじゃなく、見る目まで腐っているのね」二人が去った後、心美は迷わず警察へ通報した。「殺人未遂で通報します」翌日、哉治が心美のオフィスに怒鳴り込んできた。「心美!ここまで騒ぎを大きくしなきゃ気が済まないのか!警察署なんて場所に詩織を置いておけるわけがないだろう。今すぐ被害届を取り下げろ!」彼は心美の手首を痛むほどの力で掴み上げた。心美はそれを必死に振り払う。「録音データはもう警察に渡したわ。私を信じないなら、法に裁いてもらうだけよ」「偽造証拠を提出すれば、刑務所に入るのは君の方だぞ!」哉治は鋭い声で言い放った。「勝手に思っていればいいわ」頑なな彼女を見て、哉治はついに最後の切り札を切った。「……遥がどうなってもいいのか?」心美は冷徹な眼差しで彼を睨みつけた。哉治の権力をもってすれば、遥をこの街から社会的に抹殺することなど、造作もないことだった。結局、心美は警察署へ向かい、被害届を取り下げる手続きを済ませた。警察署を出た直後、哉治は冷ややかな声で心美に命じた。「謝れ」心美は拳を握りしめ、爪が掌に食い込むのを耐えた。親友を守るため、彼女は深く頭を下げた。「……ごめんなさい」詩織はこれ見よがしに寛大な態度を演じてみせた。「いいのよ、心美。冗談だったって分かっているから。でも、次はもうしないでね。私、本当に怖かったんだから」哉治は愛おしそうに詩織を抱き寄せ、「少しは頭を冷やせ」と言い捨てて去っていった。三日後、哉治から電話が入った。「唐沢グループへの融資が完了した。明日の夜、和奏レストランに来てくれ。詩織との間には、そこではっきり決着をつける」行くつもりはなかったが、詩織
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第8話

目を覚ましたとき、心美は自分が詩織とともに断崖絶壁に吊るされていることに気づいた。足下には鋭利な暗礁が牙を剥き、一瞬でも気を抜けば、真っ逆さまに落ちて粉々に砕け散た。「貴様!彼女たちを放せ!女を拉致するのが貴様のやり方か!」崖の上から、聞き慣れた男の怒号が響く。心美が必死に顔を上げると、そこには端正なスーツ姿の哉治が立っていた。いつもは冷静沈着なその眉間には深い皺が刻まれ、対峙する男を今にも射殺せんばかりに睨みつけている。相手は九条蓮也(くじょう れんや)。この街でその名を知らぬ者はいない、非情で冷酷な男だ。詩織の父が娘の嫁ぎ先として、なかば強引に決めていた相手こそがこの男だった。蓮也は、一点の濁りもない白髪を風に揺らしながら、冷徹な殺気を隠そうともせず低く笑った。「哉治、人聞きが悪いな。唐沢グループも詩織も、元はと言えばわしのものになるはずだった。そこに横槍を入れ、強引に奪っていったのはお前の方だ。先に仁義を欠いたのは、どちらかな?」蓮也の言葉が終わるか終わらないかのうちに、心美を縛るロープがさらにきつく食い込んだ。激痛に思わず息を呑むが、胸をざわつかせる嫌な予感は、痛みなど忘れるほどに強烈だった。案の定、蓮也は追い打ちをかけるように告げた。「両方とも手に入れようなんて、いくらなんでも虫が良すぎると思わないか?よかろう。唐沢グループの経営権についても、これ以上とやかく言うつもりはない。だが、女は一人、ここに置いていってもらうぞ」「ふざけるな」哉治は奥歯が砕けんばかりに噛み締め、怒りに身を震わせた。だが、蓮也はどこ吹く風で、氷のように冷ややかな声でカウントダウンを始めた。「一人を選べ。選ばれなかった方は、わしの好きにさせてもらう。わしの忍耐も長くは持たん。十秒で決めろ。十、九、八……」心美の心は、一瞬にして底なしの淵へと沈んだ。哉治の瞳を見ただけで、答えが分かってしまったからだ。哉治の瞳が潤み、微かに揺れた。宙吊りにされた心美を凝視するその唇はわななき、断腸の思いを込めて声を絞り出す。「……詩織を、選ぶ」その言葉が零れた瞬間、堪えていた涙が決壊し、彼の頬を伝って激しく流れ落ちた。すぐさま詩織が安全な場所へと下ろされる。それとほぼ同時に、心美を繋ぎ止めていたロープが冷酷
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第9話

ついに、離婚が成立する日だ。心美は身を清め、新調したばかりの服に袖を通した。全身を包むのは、一点の曇りもない白。それは、死に絶えた愛情への、そしてこの馬鹿げた婚姻生活への、彼女なりの弔いの装束だった。何も持たず、ただ身分証明書だけを手に取ると、彼女はタクシーを拾った。「区役所まで」運転手は、これから婚姻届でも出しに行く幸せな客だと思ったのだろう。縁起を担ぐように「おめでとうございます」と笑顔を向けた。心美は窓の外へ視線を流し、自嘲気味に口角を上げた。「ええ、そうね。離婚だもの、本当におめでたいことだわ」運転手は気まずそうに口を噤んだ。区役所に到着して間もなく、最後の手続きは滞りなく完了した。心美は受理証明書に記された「離婚」という文字をそっとなぞりながら、言いようのない恍惚感に包まれていた。三年間で、この場所に十八回も足を運び、九回も離婚を切り出した。今日、ようやくこの離婚届受理証明書を手に入れた。彼女はそのままタクシーで空港へと向かった。その道中、遥に電話をかける。「私、行くわ……次はF国で会いましょう」電話を切った後、ふと詩織のSNSが目に留まった。投稿されたばかりのメッセージには、「二十五年。いつもそばにいてくれてありがとう」と綴られている。数枚並んだ写真のそこかしこに、哉治の姿が映り込んでいた。心美は画面を閉じ、窓を下げた。吹き込む風と砂に目を細める。霞んでいく景色とともに、これまでの執着さえも風化させていくようだった。空港は、行き交う人々で溢れかえっていた。ふと、雑踏の中に哉治の後ろ姿を見つけた。もう長いこと、この男をまともに直視していなかったことに気づいた。グレーのシャツが彼の引き締まった体躯を際立たせ、行き交う旅客の誰もが、思わずその姿に目を奪われていた。哉治という男は、いついかなる場所でも、周囲の視線を独占してしまう天性の主役だった。彼が何かに気づいたように振り返った。心美は素早くサングラスをかけ、人混みの中へとその身を隠した。その時、スマホが震えた。哉治からのメッセージだった。【明日、区役所に行って離婚申請の取り下げをするのを忘れるな。心美、前の問いへの答えは、僕が戻ってから話す】心美の表情に揺らぎはなく、その心は凪いだ湖面のように、一点
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第10話

哉治は出張で空港に現れたのだ。南方のリゾート開発プロジェクトの提携相手が、沢田グループによる唐沢グループへの巨額出資を聞きつけ、不信感から一方的に撤退を表明した。事前準備がすべて白紙に戻りかねない窮地に、彼は自ら現地に乗り込み、提携相手の継続を説得すると同時に、事態の収拾を図るしかなかった。この件は、詩織には伏せていた。かつて詩織が海外にいた頃、数少ない面会の場ですら心美との衝突は避けられず、いつも後味の悪い結末に終わっていた。この間の度重なる軋轢を思えば、これ以上の波風を立てるわけにはいかない。哉治は、詩織と長時間行動を共にすることのないよう、慎重に距離を置いていた。しかし翌晩、会食を終えて酒の回った足取りでホテルに戻ると、エントランスに佇む詩織の姿が目に飛び込んできた。詩織は完璧に整えられたメイクを施し、その瞳には羞恥の色を浮かべていた。哉治の眉間にわずかな不快の影が差すのを見るや、彼女は畳みかけるように口を開いた。「哉治……私のせいで、こんなところまで来させてしまったのね。私には何もできないけれど、せめて、あなたのそばにいたかったの」端正な顔を寒さで赤く染め、その美貌には隠しきれない疲労が滲んでいる。哉治はすっかり毒気を抜かれ、情に絆されてしまった。追い返そうと言いかけた言葉は喉の奥に消え、「……わかった」という短い同意に変わった。ようやく仕事に区切りがつき、ふとカレンダーに目をやった時。心美と久しく連絡を取っていないことに思い至った。直前の諍いでは、心美の振る舞いが行き過ぎていると感じていた。だが、染み付いたエリートとしての教養が彼に囁く。いかなる理由があろうと、心美は彼の妻であり、夫婦の不和において先に歩み寄るべきは、男の務めであると。彼はスマホを手に取り、心美にメッセージを送ろうとした。しかし、チャットの履歴は半月前の日付で止まったままだった。最後に送ったのは、あの離婚申請の取り下げを一方的に促した、事務的な一文だ。心美からの返信はない。画面を上にスクロールしてみれば、それ以前に送ったいくつものメッセージさえ、すべて彼女の沈黙によって封殺されていた。哉治は思考を巡らせる。彼女の態度が冷淡になった時期を辿れば、それは詩織が帰国した頃と重なる。その瞬間、哉治の顔にようやく微かな罪
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