Masuk「結婚は人生の墓場である」という言葉があるが、江崎心美(えさき ここみ)の墓に関しては、もはや跡形もなく暴かれ、墓標すら残されてはいなかった。 結婚して三年、離婚を切り出したのはこれで九度目になる。 無限ループに閉じ込められたバグのように、彼女は再燃する期待と冷え切った絶望の狭間で、出口のない葛藤を繰り返していた。 初めて離婚を切り出した時、彼女は交通事故に遭い、通りを鮮血で染めた。だが、沢田哉治(さわだ さいじ)は車の窓すら開けず、「立て込んでいる」と一言残して去った。 後に知ったことだが、彼が「立て込んでいる」と吐き捨てたその時間は、別の女に特注のケーキを届けるべく、自ら空港へと車を飛ばし、プライベートジェットに乗り込むためのものだったのだ。 九度目の今回、哉治のほうから離婚届を差し出してきた。 「心美、離婚しよう。一ヶ月だけでいい、偽装離婚だ」 哉治のその声は、かつてと変わらず優しかった。 「詩織の家が倒産しかけている。彼女の父親に無理やり老いぼれと結婚させられそうなんだ。彼女をそんな泥沼に突き落とすわけにはいかないんだ」 六年もの歳月を捧げて愛したこの男を、心美は静かに見つめていた。そして、不意に自嘲的な笑みを漏らした。 結局、哉治の妻である自分の存在は、唐沢詩織(からさわ しおり)という女の涙一粒にすら、及ばなかった。
Lihat lebih banyak帰国した哉治を待っていたのは、宗一郎の容赦ない言葉だった。「まったく、情けない奴だ。このわしが老骨に鞭打って直々に足を運んでやったというのに、結局、あの子を連れ戻せなんだか」哉治は自嘲気味に口角を上げたが、その声には隠しようのない苦渋が混じっていた。「……お祖父様の仰る通りです」彼はそれだけ言うと、力なくその場を後にした。宗一郎はその孤独で、今にも崩れ落ちそうな背中をじっと見つめ、深く重い溜息をついた。それ以来、哉治は何かに取り憑かれたように仕事に没頭した。自分に一瞬の隙も、余計なことを考える時間さえも与えぬほどに、自らを追い込んでいった。だが、屋敷の寝室だけは、あの日から時が止まったままだった。心美が残していった物たちは、何一つ変わらぬ姿でそこにある。彼女が着ていた服、使いかけの口紅、窓辺に並ぶ色鮮やかな多肉植物、そして枕元に置かれたフリンジ付きのナイトランプ。その部屋は以来、沢田家の「禁域」となった。哉治は、自分以外の何人がそこへ足を踏み入れることも決して許さなかった。光陰矢のごとし、瞬く間に三年の月日が流れた。沢田グループは今や、国内屈指の巨大企業へとその規模を拡大させていた。ある日、哉治はソファに深く腰掛け、テレビに映し出されるインタビュー映像を食い入るように見つめていた。画面の向こうにいたのは、独占取材に応じる心美の姿だった。洗練されたメイクを施し、凛とした佇まいで椅子に座る彼女は、インタビュアーの鋭い問いかけに対しても、驚くほど冷静に、かつ淀みなく答えていく。三年の歳月は、彼女を国内外でその名を知らぬ者はいないデザイナーへと変貌させていた。かつて彼の傍にいた頃の彼女は、その輝きを失い、まるで行き場のない影のように生きていた。だが、彼を離れた今、彼女は夜空に浮かぶ誰よりも眩い一等星のように、その光を放っている。その直後、哉治は誰もが耳を疑う決断を下した。何の変哲もないある日、彼は記者会見を開き、突如として沢田グループの全役職から退くことを宣言した。この電撃引退のニュースは、瞬く間にビジネス界全体に激震を走らせた。哉治はそれまで築き上げてきたあらゆる肩書きを脱ぎ捨て、積み上げてきた仕事のすべてを手放すと、たった一人で世界を巡る旅に出た。D国、極彩色の光が夜空を舞うオーロラの下
亮智から愛を告白された際、心美は再び、首を振った。「亮智。あなたは本当にいい人。でも、私のためにこれ以上、無駄な時間を使わないで」亮智の顔には、隠しようのない落胆と挫折の色が浮かんだ。「哉治のせいか?」「違うの」亮智は諦めきれず、食い下がった。「この前、君のお父さんの心臓の持病が再発した時に、僕が出張中でさえなければ……」「彼とは関係ないわ!」心美は亮智の瞳を真っ直ぐに見つめ、平穏な声で告げた。「私があなたを拒むのは、誰のせいでもない。ねえ、知ってる?こっちに戻ってきたばかりの頃、私の世界には色がなかったの。何の生気もなくて、ただ淡々と、穏やかに枯れていくだけの日々。毎日花を育てたり猫のムギを撫でたりして過ごしていたけれど、心の中は空っぽだったよ。でもね、仕事に復帰して、再びデザインペンを握ったときにようやく気づいたの。この世界には、恋愛なんかよりもずっと輝かしくて、尊いものがあるんだって」ここ半年、心美が発表したデザイン画は業界で大きな話題となり、名だたるメーカーが彼女の作品を求めて列を作っている。彼女は今や、業界が最も注目する新進気鋭のデザイナーとなっていた。「だから……分かるでしょう?」心美は言葉を選び、壊れ物を扱うように慎重に、だがはっきりと告げた。亮智は、彼女の瞳の奥に宿る眩いばかりの光を見た。彼は静かに頷くと、憑き物が落ちたような、どこか晴れやかな笑みを浮かべた。「わかったよ。それなら僕は待っている。君がいつか、誰かの愛を必要とする日が来るまで。僕はいつだって、ここにいるから」彼は心美の手を取り、その手の甲にキスを落とした。哉治は心美がよく立ち寄るカフェで彼女を待っていた。しばらくの間、彼はただ影のように寄り添い、陰で見守ることに徹していた。あの日、凌久が心臓の持病で倒れ、一刻を争う事態に陥らなければ、姿を現すつもりもなかったのだ。あの時、泣きじゃくっていた心美の無力な姿が、今も脳裏に焼き付いている。そこへ、心美が彼のもとへ歩み寄り、向かいの席に腰を下ろした。「お父さんを助けてくれてありがとう」哉治の胸に、歓喜の火が灯った。宗一郎から、心美に会いに行った際の話を聞かされていたからだ。九十九回の鞭打ちに耐えた事実を知ったとき、彼女が明らかに動揺し、自
哉治は病院のベッドで、三日三晩、泥のように眠り続けた。この間、彼は唐沢家を救うため、不眠不休で働き詰めだった。そして、宗一郎から折檻を受け、丸一日、石畳の上で土下座を強制された。傷だらけの身体に亮智からの追い打ちが加わり、張り詰めていた糸が切れるように、彼はそのまま崩れ落ちた。眠りの中で繰り返されるのは、心美の面影ばかりだ。天真爛漫な笑顔、落ち着いた横顔、期待に満ちた顔、そして絶望に沈んだあの顔。夢から覚めるたび、彼はびっしょりと冷や汗をかき、暗闇の中で激しい後悔に苛まれるのだった。亮智に報復するつもりは毛頭なかった。もしあれが心美の差し金なのだとしたら、これこそが自分に相応しい報いなのだと、彼は甘んじて受け入れていた。退院したその日から、哉治は国内と海外を往復する生活を始めた。週の半分は国内で仕事を片付け、残りの時間はすべて彼女のいる異国の地で過ごす。あの最悪な再会の日以来、哉治が彼女の前に姿を現すことは二度となかった。ただ、遠くからそっと彼女を見守る。同じ空の下で、彼女が息をしている。ただそれだけを感じられれば、今の自分には十分だった。心美が彼の存在に気づいていないはずがなかった。夜、窓の外の街灯の下には、いつも決まってすらりとした背の高い男が立っていた。彼女は気づかないふりをして、無情にカーテンを閉める。ある日、彼女がテーマパークを訪れたときのことだ。あろうことか、あの誇り高いエリートであるはずの哉治が、不格好で大きな着ぐるみに身を包み、人混みの中にいた。ただ正々堂々と彼女と握手をするためだけに、彼は自分のプライドをかなぐり捨てた。初雪が降った朝、彼女の通勤路に一つのかわいらしい雪だるまが置かれていた。通りがかった人々は、「まあ、この雪だるま、あの女性にそっくりね」と口々に囁き合った。――そんな執着が続いていたある日のこと。心美が両親を連れてファッション展覧会へ向かっていた最中、道路脇で突如として爆発事故が発生した。彼女の車は混乱の渦に巻き込まれ、立ち往生を余儀なくされる。爆発の衝撃と恐怖に、凌久が持病の心臓発作を起こして倒れた。狼狽した心美は、必死に凌久を抱え上げ、一刻も早く病院へ運ぼうとする。だが、か細い彼女の腕では、凌久の体を引き摺ることさえままならなかった。彼女は焦って
「あなたに、あの子の名を呼ぶ資格なんてない!」心美は絞り出すような声で叫んだ。娘を失ったことは、彼女の人生において決して癒えることのない最大の傷だった。その名を愛娘を死に追いやった男の口から聞かされて、平然としていられるはずがない。「私をどう陥れようと、どれほど辱めようと構わないわ。でも、あの子を殺したのは……あなたと詩織よ!人殺しのあなたに、あの子の名前を呼ぶ資格なんてない」目の前でなりふり構わず感情を爆発させる彼女の姿に、哉治の胸は締め付けられるような激痛に支配された。「僕と一緒に帰ろう。やり直せばいい。子供ならまた作ればいいじゃないか。それに、以前のことは全て調べがついた。僕の誤解だったんだ……心美、本当にすまない」これほどまでにプライドを捨て、なりふり構わず下手に出る自分に、彼自身ですら想像し得なかったことだ。「詩織が君をプールに突き落としたことも分かっている。彼女にはもう、相応の報いを受けさせたから」心美は鼻で笑った。「報い?笑わせないで。どうせ、言葉で少し窘めた程度でしょう?沢田さん、私はもう吹っ切れたの。あなたへの想いも、過去のすべてに関してもね」彼女は涙を拭い、冷徹に言い放つ。「以前のことはもう不問にするわ。でも、またあそこに戻って、あなたたちに踏みにじられるなんて真っ平よ。詩織と仲良く暮らせばいいじゃない。あの子と同じ『秋』なんて名前の子を、何人でも授かればいいわ」「違う、秋じゃないんだ」哉治は焦燥に駆られて説明した。「ただの季節の『秋』なんかじゃないんだ。麦の『穂』……あの実りの『穂』なんだよ」心美は顔を上げ、疑念に満ちた眼差しを向けた。哉治は自嘲気味に微笑んだ。「あの年のデザインコンクールを覚えているかい?君が大賞を獲った時のモチーフが麦の穂だった。君の妊娠が分かったとき、僕は迷わずあの子を『穂』と名付けたんだ」心美はそれ以上、何も言わなかった。ただ、虚ろな瞳で、ふらふらと店を出ていった。亮智はたまらず駆け寄り、今にも崩れ落ちそうな心美をその腕で抱きとめた。愛しい彼女の変わり果てた姿への痛切な想いと、煮え繰り返るような憤りが混ざり合い、彼は追いかけてきた哉治を射抜くような眼差しで睨みつけた。「さっさと消えろ」もし心美に「自分の手で決着をつける」と