All Chapters of 愛を知った時には、君はもういない: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

飛行機が着陸し、ロビーに降り立った哉治は、無意識に辺りを見渡した。だが、そこには見慣れた人影などどこにもなかった。以前なら、心美は必ず早めに空港へ駆けつけ、人混みの中でも一目でわかる場所に立っていたものだ。そして、彼が反応する間もなく駆け寄り、力いっぱい抱きついてきた。胸の奥に、得体の知れない寂寥感がふわりと湧き上がった。隣にいた詩織は、彼の視線の揺らぎも、わずかな情緒の変化も見逃さなかった。だが、彼女は何も口にしない。その瞳の奥に計り知れない思惑を秘め、何かを画策しているようだった。半月ぶりの帰国後、山積していた仕事を片付け、哉治が屋敷に戻ったのはさらに三日後のことだった。玄関に着くなり、彼は疲れた様子で眉間を指先で揉んだ。執事が歩み寄り、スリッパを差し出す。だが、それは彼がいつも愛用しているものではなかった。名家という誇り高い家柄に育った哉治は、幼い頃から、自分の嗜好を容易に露わにすべきではないと厳格に教え込まれてきた。表向きは温厚で礼儀正しく、仕事では一切の隙を見せず、非情なまでの決断を下す。彼は常に仮面を被り、剥き出しの自分をその奥に隠し続けてきた。この数年、そんな彼の本質を真に理解していたのは心美だけだった。彼女は驚くほど察しの良い女性だ。結婚してからの三年間、彼の身の回りの世話を完璧にこなし、何一つ口に出さずとも、彼の好みを隅々まで把握していた。例えば、たかが一足のスリッパにしてもそうだ。全く同じデザインの色違いが並んでいても、彼が薄紫の一足だけを偏愛していることなど、彼女以外の誰も知る由もなかった。哉治は数秒ほど呆然とした後、我に返った。表情を引き締め、手渡されたスリッパを履きながら、何気なさを装って尋ねた。「心美はまだ戻られないのか?」「はい、まだ左様でございます」執事の答えに、哉治は再び言葉を失った。数えてみれば、もう二十日が経過している。ふと、ある懸念が哉治の脳裏をよぎった。出張の翌日は、提出済みの離婚届が正式に受理され、すべての事務手続きが完了してしまう最終期限日だったはずだ。もし、彼女があの日家を出たまま戻っていないのだとすれば、離婚の取り下げの手続きに行っていないのではないか。そこまで考えが至った瞬間、哉治は言いようのない焦燥に駆られた。心美と離婚す
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第12話

詩織の自分に対する執着に、哉治が気づいていないわけではなかった。だが、それを受け入れることは到底できない。二人の関係はとうの昔に終わっているのだ。今の彼にとって詩織はただの妹のような存在であり、それ以上の感情を抱くことは、もはや万に一つもなかった。彼は詩織を突き放すと、彼女の熱っぽく湿った視線を振り切るようにして助手席に乗り込んだ。彼女を自宅まで送り届けると、哉治は顔を拭いてやろうと浴室へ向かい、蒸しタオルを用意した。だが、彼が戻ってきた時、詩織は唇を噛み締めながら彼をじっと見つめていた。その瞳にはすでに明晰な光が宿っており、あらかた酔いは醒めているようだった。「哉治、助けてくれてありがとう」彼女の手が、哉治の首筋に絡みつく。吐息さえも混じり合うほどの至近距離。哉治の目には、詩織の肌の質感や毛穴までもが鮮明に映り込んでいた。伏せられた長い睫毛が頬に濃い影を落とし、赤く艶やかな唇が、誘うように言葉を紡ぐ。「本当は私を求めているんでしょう?昔の私はわがままで、何も分かっていなかった。お願い、許して。またあの頃みたいに戻りましょう?」縋るような期待をその瞳に湛え、彼女はじっと哉治を見上げた。だが、哉治の脳裏に不意に浮かんだのは、心美の姿だった。結婚したばかりの頃、彼はことあるごとに心美を冷遇した。それでも彼女は決して怒らず、不慣れな手つきでスープを作り、火傷で手に水膨れを作ることさえあった。深夜に帰宅した彼にスープを差し出す彼女の瞳も、今の詩織と同じような期待に満ちた色を湛えていた。だが、あの瞳はいつから光を失い、生気をなくしていったのだろうか。この間の数少ない接触を思い返してみても、心美の瞳に宿っていたのは、ただ底知れない失望と、すべてを断ち切ろうとする決別の色だけだった。詩織は頬を赤らめながら、ゆっくりと上着を肌から滑らせた。繊細な鎖骨のラインと、しなやかな曲線を描く美しい首筋が露わになる。哉治はハッと我に返った。彼は衝動的に彼女を突き放すと、たまらず顔を背けた。泥酔して正気を失っているのは、僕の方ではないのか?詩織は呆然と立ち尽くし、やがて屈辱と困惑に震え始めた。彼女は確かに、哉治の瞳の中に熱い渇望と愛惜の情を見たはずだったのだ。だが彼女は知らない。その渇望の対象が自分ではなく心美で
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第13話

秋?哉治は数秒の間、思考を巡らせてようやく事の核心を掴み取った。深い記憶の淵へと、意識が沈んでいく。結婚二年目。詩織の存在を脇に置けば、彼と心美は確かに、熱烈に愛し合っていた。農業支援プロジェクトの視察のため、哉治は心美を連れて現地へと向かった。見渡す限りに広がる黄金色の稲田。彼はそこで、たわわに実った稲穂を摘み取り、即席の花束を編んで彼女に贈ったのだ。後に心美はその稲穂をメインモチーフに据えた作品で国際コンクールに出品し、特等賞を勝ち取った。そこでようやく、哉治は詩織が致命的な誤解をしていることに気づいた。あれは「穗(みのる)」であって、「秋」ではない。確かにかつての彼は、詩織に対し、いつか子供を授かったら「秋」と名付けようと語ったことがあった。だが、そんな約束を別の女で果たすような不誠実な真似を、彼がするはずもなかった。心美への想いと、詩織への情は全くの別物なのだ。「詩織、君の誤解だ」哉治は事の経緯を説明し、最後に静かに告げた。「僕の妻は、心美だけだ」「でも、彼女を愛しているの?」その問いに、哉治は表情を険しくした。不意に、心美の顔が脳裏をよぎった。自分を案じる顔、期待を湛えた顔、失望に沈む顔、そして、苦痛に歪む顔……彼はそこでようやく、思い知らされた。心美という存在はすでに、彼の心の一番深い場所に根を下ろしていた。「当然だろう。僕は心美を愛している」そう言い残すと、彼は席を立った。詩織の傍らを通り過ぎようとした瞬間、彼女がその腕を強く掴んだ。真っ赤に充血した瞳に、涙で濡れそぼった無惨な顔。だが、その口から漏れた言葉に、哉治は背筋が凍るような戦慄を覚えた。「でも、彼女はもう、あなたを愛していないわ。あの『秋』のことも、全部話しておいたもの。あれはあなたが私に誓った約束の名前だってね」哉治は、激しい雷撃に打たれたような衝撃に襲われた。彼は初めて、詩織に対して一切の情を排した氷のような眼差しを向けた。縋り付く彼女の指を一目ずつ、冷酷に引き剥がしていった。そして、振り返ることもなく、大股でその場を立ち去った。ここ数日、哉治はどこかで高を括っていた。心美はただ外で頭を冷やしているだけで、気の済むまで羽を伸ばせば、そのうち自ずと戻ってくるだろう、と。これまでも、いつ
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第14話

哉治がどうやって家まで辿り着いたのか、彼自身にも記憶がなかった。道中、心美に何度も電話をかけたが、返ってくるのは無機質な電子音声ばかりだった。「おかけになった電話は電波の届かないところにあるか電源が入っていない……」諦めきれず、今度はビデオ通話を試みたが、やはり結果は同じだった。彼女が応答することは一度もなかった。哉治は力なくソファに沈み込んだ。その表情は、かつてないほど険しく、重苦しいものだった。幼い頃から、名家の跡取りとして感情を安易に露わにしないよう厳しく躾けられてきた彼は、どんな失意の底にあっても完璧なポーカーフェイスを貫くことを常としていた。だが、リビングを照らす白色のダウンライトの下で、長年仕えてきた執事の目は、哉治の隠しきれない絶望をはっきりと捉えていた。執事が小さく溜息をつき、その場を立ち去ろうとしたその時、哉治が掠れた声で彼を引き留めた。「僕は、夫として失格だっただろうか」執事は彼の非を直接問うことを恐縮し、言葉を選んで遠回しに答えた。「旦那様は少々、お仕事に打ち込みすぎたのかもしれません。奥様を孤独にさせてしまった節は、確かにございました」「……そうか」哉治は自嘲気味に、力なく笑った。その晩、彼は寝室へ戻ることはなかった。暗闇の中から朝日が差し込むまで、ただじっとソファに座り続けていた。寝室の中は、以前と何も変わっていない。心美は、何一つ持たずに出て行ったのだ。枕元に置かれたフリンジ付きのナイトランプはかつて彼が彼女の誕生日に贈ったものだった。彼女はそれを宝物のように慈しみ、「私が死んだら、副葬品として一緒に荼毘に付してほしい」と語っていた。彼女の表彰状やトロフィー、強引に彼を誘って撮った二人の記念写真。そして、彼がこれまで贈り与えてきたブランドのバッグや服、きらびやかなジュエリーの数々……それらすべてを、彼女はただの一つも持たずにこの家を去っていた。白々と明けていく窓の外を眺めながら、哉治はこれまでの、特にここ最近の自分の行いを反芻していた。そして、ようやく思い知らされた。自分は間違っていたのだと。それも、取り返しのつかないほど致命的に。かつては詩織への未練を断ち切れず、請われるままに何でも与えてきた。彼女を妹として扱うようになってからも、一度としてその願い
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第15話

F国に戻った心美の生活は、静かで、どこまでも穏やかだった。最初のうちは自宅で心身を休めることに専念した。朝は目が覚めるまで眠り、食事を済ませるとサンルームで瑞々しく咲き誇るバラを眺め、傍らで三毛猫のムギと戯れる。ムギはもう六歳になる。心美は、この子を迎え入れた日のことを今でも鮮明に覚えていた。あんなに小さかった子猫が、姿見の裏に隠れては自分の鳴き声にさえ怯えていたっけ。そして、その年は、凌久に連れられて一時帰国した年でもあった。けれど彼女はそれから六年間、二度とF国の土を踏むことはなかった。そこまで思い至ると、心美の穏やかだった表情に、ふと悲哀の色がよぎった。この六年間、どれほど自分を押し殺し、哉治のために尽くし抜いてきたことか。それなのに、その献身が彼の真心を繋ぎ止めることはついになかった。報われるどころか、返ってきたのは際限のない責め苦と蔑みだけだった。娘の眉間のしわを見て、母の江崎向葵(えさき ひまり)はたまらずため息をついた。この数日、心美は何も語ろうとはしなかった。けれど、母と娘は血を分けた分身のようなもの。娘がどれほど無残に心を削られ、苦しんできたか、親として察しがつかないはずがなかった。向葵は心美の様子を痛々しく思い、優しく語りかけた。「心美。せっかく戻ってきたのよ。ずっと家に閉じこもっていないで、たまには友達と出かけてきたら?」向葵の言葉に、心美はハッと我に返った。母が自分を気遣い、無理にでも外の空気を吸わせようとしていることは分かっていた。「そうね。あまりに家にいすぎて、少し息が詰まりそうだったから」心美は向葵を安心させようと、健気に微笑んで見せた。だが、向葵にはそれが無理をして作った「空元気」であることは明白だった。ついに、これまでタブーのように扱ってきた哉治とのことに、自ら触れる決意をした。「心美。終わったことは、もういいのよ。これからの人生の方がずっと長いのから」向葵は心美の険しく寄せられた眉間にそっと指を添え、慈しむように続けた。「お母さんはね、あなたがずっと笑顔でいてくれることだけを願っているわ。あなたがどんな道を選んでも、お母さんは全力であなたの味方だからね」その温かな一言が、心美の胸の奥底に張り詰めていた糸がぷつりと切れ、堪えていた感情が堰を切ったよう
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第16話

結局、例の同僚たちは解雇になった。心美は以前にも増して、自らの時間と情熱のすべてをデザインに注ぎ込んだ。デザインは幼い頃からの夢だった。哉治の傍らにいたあの数年間でさえ、彼女はこの情熱だけは完全に捨て去ることはできなかった。心美は、母国の伝統的なエッセンスと異国のロマンティシズムを融合させるという、大胆な革新に打って出た。彼女が描き上げた春の新作ドレスの図案は、発表されるやいなや、多くのメーカーの目を釘付けにした。わずか三ヶ月。心美はF国のファッション業界において、一躍「時の人」となった。仕事は多忙を極めた。次々と湧き上がるデザインの構想、終わりのない商談、週に一度欠かさず行う創作活動のためのスケッチ旅行……けれど、疲れを感じることはなかった。それどころか、かつてないほどの充実感と満足感に満たされていた。ある日の仕事帰り、心美の運転していた車が、走行中に突如として息をつき、道端で立ち往生してしまった。様子を見ようと車を降りかけたが、ふと辺りを見渡して息を呑んだ。そこは人里離れた辺境で、街灯は心細いほどに暗く、見渡す限り人影一つなかった。その瞬間、得体の知れない恐怖が背筋を駆け上がった。脳裏には、かつて目にした不穏なネットニュースの見出しが次々と浮かんだ。【深夜、一人きりの女性ドライバーが故障現場で失踪。数日後……】ドアハンドルにかけていた手が、弾かれたように離れる。その時、車の窓を「コンコン」と叩く音が響いた。心美は瞳を大きく見開き、恐る恐るその方向を振り返った。窓の向こうには、暗がりの中でもはっきりと分かるほど整った男の顔があった。どこか、ひどく懐かしい記憶を呼び起こすような顔立ちだった。数秒の記憶の糸を辿り、彼女はようやく思い出した。中学時代の同級生、浅海亮智(あさみ あきとも)だった。心美は安堵の溜息をつき、ようやく胸を撫で下ろした。ドアを開けると、亮智は驚いた顔を見せたあと、手際よく車を点検し、最後には彼女を家まで送り届ける「騎士」の役目を買って出た。それ以来、どういうわけか心美は亮智と「偶然」顔を合わせることが多くなった。創作のインスピレーションを求めてのどかな郊外へ足を運べば、そこには決まって、トレイルランニングで汗を流す亮智の姿があった。凍てつくような真冬だというの
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第17話

哉治がすぐに心美の行方を突き止めた。彼は秘書に翌日の航空券を手配させた。何が何でも、F国へ渡って彼女を連れ戻すつもりだった。その日の夜、詩織が彼の元を訪れた。彼女は必死に媚びを売り、あらゆる手を使って彼の心を取り戻そうと画策した。しかし、哉治の反応はどこまでも冷ややかだった。「哉治、どうして……私が死ななきゃ、私を受け入れてくれないの?」詩織はついに理性を失い、泣き叫んだ。哉治は書類に署名する手を止めず、視線すら上げようとしない。堪り兼ねた詩織は、机の上の書類を力任せに払い落とした。「哉治!何か言ってよ!」哉治はようやく顔を上げたが、その瞳には冷徹な拒絶が宿っていた。「詩織、警備員を呼ぶような真似はさせないでくれ」詩織は絶望に打ちひしがれ、泣きながら部屋を飛び出した。翌日、空港へ向かう車中で、唐沢家の執事から一本の電話が入った。お嬢様のお姿が見当たりません、と。当初、哉治は取り合う気もなかった。詩織の狂言にはもう、うんざりしていたからだ。だが、「遺書が残されておりました」という言葉に、昨夜の彼女の悲痛な眼差しが脳裏を過った。拭い去れない不吉な予感が、どろりと胸を侵食していった。彼は猛スピードで車を旋回させると、なりふり構わず詩織の行方を追った。ようやく、荒れ果てた廃ビルの中で、縮こまっている詩織の姿を見つけた。近づこうとしたその瞬間、蓮也もそこにいるのが目に入った。「わしが心美を殺すのを手伝えば、哉治の妻になれると言ったのはお前だろう?確かにあの女はいなくなったが、肝心の哉治はちっともお前を娶ろうとせんじゃないか」哉治は、その場に釘付けになった。あの拉致事件は、すべて詩織が仕組んだ自作自演だったのか。それなのに自分は、あろうことか最愛の妻である心美を突き放し、この女を救う道を選んでしまった。絶体絶命の心美を助けに戻ろうとしたあの時、なりふり構わず邪魔をして引き止めたのも、すべてはこの女の計算だったのだ。喉の奥が、張り裂けそうなほどに乾ききっていた。かつての無邪気で清純だったあの少女が、いつの間にこれほど醜悪な怪物に成り下がっていたのか。詩織は動揺を隠せないまま、それでも強気に言い返した。「哉治はきっと私と結婚するわ。私たちは幼馴染なの。彼は私を愛しているのよ!」蓮也は
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第18話

すべてを終わらせた哉治は、すぐさまF国行きの航空券を再予約した。だが、事態は思わぬ方向へ転じる。あろうことか、彼には出国制限がかけられていたのだ。空港に滑り込んだ車の中で、哉治の焦燥は極限に達していた。一刻も早く、心美に会いたい。バックミラー越しに後部座席の様子を伺った運転手は思わず息を呑んだ。哉治の顔は土気色に染まり、固く握りしめられた拳は震えている。全身から周囲を凍りつかせるほどの凄まじい威圧感が放たれていた。運転手は慌てて視線を逸らした。これほどまでに凄まじい哉治の表情を見るのは初めてだった。その時、本家から一本の電話が入った。哉治が電話に出ると、電話の向こう側から、執事の藤堂茂一(とうどう しげかず)の低く、威厳に満ちた声が響いた。「哉治様、宗一郎様がお呼びです。至急、本家へお戻りください」「今は手が離せない重要な用件がある。後で行くと伝えてくれ……」茂一の声は、どこまでも平坦で、それゆえに抗いようのない威圧感があった。「宗一郎様は、『今すぐ』にと仰せです」哉治の言葉を待たず、一方的に電話を切った。突然の出国制限――そんな強引な真似ができるのは、この国で宗一郎をおいて他にいない。本家の広大な邸宅へと足を踏み入れると、庭園のなか、端正な和服に身を包んだ宗一郎が、ひとり静かに弓を引いていた。「お祖父様、お呼びでしょうか」哉治は数歩手前で足を止め、深く頭を下げた。宗一郎は最後の一矢を放ち終えると、ゆっくりと弓を下ろした。「なぜ唐沢グループへの出資を引き揚げた?」哉治は淀みなく、ありのままを告げた。「詩織が九条と結託し、僕の妻を陥れようとしたからです」「『元妻』だろう」宗一郎が冷酷に言葉を被せた。その一言が、鋭い棘となって哉治の胸を刺した。彼は後ろめたさを隠すように背筋を伸ばし、反論した。「すぐに元通りになります。お祖父様、僕はこれから心美を迎えに行くつもりです」宗一郎は射抜くような鋭い視線を哉治に据え、言い放った。「行かせん。お前たちはもう離婚したのだ」哉治は、たまらず一歩前へと詰め寄った。必死に言葉を絞り出し、なりふり構わず食い下がる。「離婚なんてしていません。ただの誤解です!会って説明すれば、きっと彼女も……」「黙れ!」宗一郎の怒声が響き渡っ
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第19話

宗一郎は、数秒の間、呆然と立ち尽くした。哉治を追い詰めて諦めさせるつもりだったが、まさか彼が罰を甘んじて受ける道を選ぶとは。だが、当主として一度口にした宣告を撤回することは許されない。宗一郎の記憶にある限り、哉治と心美の間に深い情愛などなかったはずだ。一体何が、彼をこれほどの執念に駆り立てるのか。宗一郎の合図で、茂一が鞭を捧げ持ってきた。空気を切り裂く鋭い音が響き、鞭が哉治の背にめり込む。重く鈍い衝撃音が庭園に響き渡った。哉治は奥歯が砕けんばかりに食いしばり、全身から噴き出す冷汗と、額に浮き出た青筋がその激痛を物語っていた。一振りごとに、心臓まで抉るような痛みが全身を駆け抜けた。雪白のシャツは瞬く間に鮮血に染まり、九十九振りの刑が終わる頃、哉治はついに支えを失って地面に崩れ落ちた。周囲に控える者たちの目には、隠しきれない忍びなさが浮かんでいる。長い沈黙の後、彼は震える体でかろうじて跪き直すと、掠れた声で問うた。「……もう、行ってもよろしいでしょうか」宗一郎は答えず、手にしていた鞭を投げ捨てると、背を向けて立ち去った。茂一がそっと歩み寄り、いたたまれない様子で声を落とした。「哉治様……沢田家の掟では、このまま二十四時間の土下座を続け、謝罪の意を示し続けねばなりません」哉治は目尻に滲んだ涙を拭い、深く額を地に伏せた。やがて人々は去り、静まり返った庭園には彼一人が残された。背中の傷口には、噴き出す汗が染み込み、それが神経を逆なでするたびに、新たな酷刑となって彼を苛む。凹凸の激しい石畳が容赦なく膝を削り、両手と額を地に突き続ける体勢は、全身の重みを一点に集中させる。足腰は痺れを通り越し、焼火箸を突き立てられたかのような激痛となった。夜が更けるにつれ、周囲の気温は急降下した。薄いシャツ一枚で土下座を続ける体は、凍てつく夜風にさらされ、抗いようのない寒気に激しく震え始めた。深夜、意識は混濁し、体は浮き上がるようにふわふわと頼りない。手を額に当ててみると、やはり熱があった。だが、哉治は歯を食いしばり、土下座の姿勢を崩さなかった。ふと、かつて心美が高熱を出した夜のことが脳裏をよぎった。あの時、彼女もこれほどまでに苦しく、心細かったのだろうか。それなのに、自分は何をした。「僕を家に呼び戻す
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第20話

その背中は一度も止まることなく、雑踏の彼方へと遠ざかっていく。哉治は、地面に縫い付けられたかのように立ち尽くした。背中の激痛が絶え間なく彼を苛むが、今の胸の痛みはその万分の一にも及ばない。彼女の隣には、もう「新しい誰か」が寄り添っている。無理もない、僕たちはもう離婚したのだから。彼女の生き方に口を出す権利など、今の僕には一欠片もありはしない。分かってはいても、哉治は諦めきれなかった。夢にまで見た愛しい人が、今、目の前にいるのだ。たとえ過去の自分が救いようのない過ちを犯し、彼女を深く傷つけてきたとしても、今度こそ彼女を償いたい。彼は足を引き摺りながら、人混みを掻き分け、必死にその背中を追った。ようやく手を伸ばせば届く距離まで詰めると、喉の奥から絞り出すようにその名を呼んだ。その声は惨めなほどに震えていた。「心美」その名を呼ぶ声に、心美の足が止まった。背筋をわずかに強張らせ、数秒の沈黙の後、彼女はまるで映画のスローモーションのようにゆっくりと振り返った。人波を挟んで視線が重なり合った瞬間、あたりの時間は凍りついたかのように静止した。絶え間なく行き交う人波は輪郭を失い、焦点のぼやけた虚ろな背景へと溶けていった。周囲の喧騒は一瞬にして掻き消え、世界は水を打ったように静まり返った。耳に届くのは狂おしいほどに高鳴る心の鼓動の音だけで、そしてその視界の先には、ただこちらを見つめる心美の、透き通るような瞳だけが残されていた。カフェのテラス席。運ばれてきた二杯のカフェモカを、心美は「ありがとう」と柔らかな微笑みを添えて受け取った。しかし、正面に座る哉治に視線を戻した瞬間、その微笑みは潮が引くように消え失せ、無機質な表情に塗り替えられた。その落差に、哉治の心は鋭く抉られた。「心美……」喉の奥が熱く込み上げ、哉治は言葉を詰まらせた。昔のあの弁舌の上手な人が、今はまともな一言すら紡げずにいる。心美は手元の時計に目を落とすと、苛立ちを隠そうともせずに告げた。「沢田さん、私の時間は限られているわ。あなたに割けるのは、コーヒー一杯分の時間だけよ」哉治は深く、重い呼吸を吐き出した。「どうして……何も言わずに去ったんだ。お願いだ、僕と一緒に帰ってくれないか」その震える声には、かつての見下すような傲慢さは微
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