All Chapters of 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Chapter 151 - Chapter 160

212 Chapters

第151話

湊は優しげな微笑みを浮かべると、綾の手を取り、親指でその手の甲をそっと撫でた。これで綾がそばにいてくれるのなら、自分は折れてもいいと思った。普段は冷淡な湊が、今だけは珍しく温もりを見せていた。「あの、明里を迎えに空港へ行かなきゃいけないので、先に行くね」綾は湊の手を振りほどいた。飴と鞭。これは愛じゃなく、コントロールだ。この5年、湊はずっと自分を調教してきた。冷たく突き放したかと思えば、時折見せる優しさで、心を翻弄する。ようやく合点がいった。かつては、湊が車の事故のせいで感情がうまく表現できないだけだと信じていた。だけど、凪へのひいきや、海斗への寵愛ぶりを見れば、湊は愛し方を知っているはずなのだ。明里が海外のブリーダーの施設へ見学に行き、今夜戻ってくるのは確かだった。綾は湊を避けるため、早めに空港へ着き、車を停めて公共のロビーで待ち合わせることにした。ロビーに足を踏み入れると、背筋がすっと伸びた健吾の姿が目に入った。仕立ての良い黒のスーツを着て、金茶色の髪は前回会った時より少し伸び、おでこにふわりとかかっている。深く澄んだブルーの瞳、通った鼻筋、そしてきゅっと結ばれた薄い唇。その佇まいはどこか冷ややかで、気高い雰囲気を纏っていた。綾はしばらく健吾を見つめていたが、すぐに目を逸らした。相手は気配を察したのかこちらを振り向き、見慣れた綾の姿を瞬時に捉えた。逃げるように振り返った後姿でも、前回より痩せたことには気づいていた。「健吾様、何かありましたか?」マルスが視線の先を追った。健吾は彼を止めようとしたが、もう手遅れだった。「綾さんじゃないですか!」訛りのある発音で大声を出されたら、聞こえないフリをするわけにはいかなかった。綾は振り返り、引きつったような笑みで手を小さく振った。挨拶だけで済ませたかったが、マルスは既に大股でこちらへ向かってきていた。「綾さんもお迎えですか?どの便ですか?」綾が便名を答えると、マルスの目が輝いた。「ビアンカ様も同じ便です。一緒に待ちましょう」断れないような勢いに押され、綾は平然を装って健吾の方へ向かうしかなかった。「健吾、奇遇ね」健吾は軽く顎を引いた。「迎えか?」「ええ、明里を」二人の間には、社交辞令の後で重苦しい沈黙が
Read more

第152話

「綾、もうこれ以上健吾に関わっちゃだめ」移動中の高級車の中で、助手席の明里が体を向け、綾を心配そうに見つめながら静かに言った。明里は、二人が出会い恋に落ちた始まりから、その関係がどのように悲惨な形で終わったかまでをずっと見てきた。周りは綾がもう吹っ切れたと思っているけれど、静かな微笑みの裏に隠された心の揺らぎに気づいているのは明里だけだ。綾は正面を見つめていた。街のネオンが窓越しに顔を彩る。綾は赤いオフショルダーのニットを着ており、黒髪を無造作に肩に流している。灯りに照らされた横顔は輪郭がくっきりと浮き出ていて、ドキッとするほど華やかで美しかった。「分かってるよ」綾がそう小声で応え、無意識のうちにハンドルをぎゅっと握り締めた。健吾にもう一度近づきたいなんて思わないと言えば嘘になる。この半年間、二人の間に流れる危うい距離感は、良心と理性だけで辛うじて繋ぎ止められていた。これ以上踏み込めば、取り返しがつかなくなる。健吾まで巻き込み、二人とも引き返せなくなってしまう「そういえば、彼氏と別れたの」明里は気まずい雰囲気を払拭しようと、絶妙なタイミングで話題を変えた。綾が眉をひそめて聞いた。「今回は何が理由なの?」「この前、ニュースになってた高木家って知ってる?」「高木くんの家?」学生時代、綾は明里がいじめの騒動に巻き込まれないよう、自分に起きたことは一切言わないでいた。その後、健吾と出会い、湊が全て片付けてくれたおかげで、わざわざ蒸し返して明里を悲しませる必要もなかった。「そう。うちのお父さんと高木くんのお父さんが大学の同級生でね。お父さんは相手をすっかり信じきって、何年も惜しみなく手を貸してきたのよ。高木家が今の規模になれたのは、ほとんどがうちの資源のおかげだったのに。それが全部詐欺だったなんて、誰もそんなこと、思わないでしょ。それが今さら高木家が大事件になって、提携してたプロジェクトも次々と無くなった……」明里はそう言い終えると、強がってふっと口角を上げた。「私も一人娘だし、遊ぶのもこれくらいにしとくわ。そろそろ親の仕事を手伝うよ」綾は明里の方を見て、彼女の聡明さと人知れぬ苦労に思いを馳せ、深い敬意を抱いた。「それでも、別れる必要なんてないじゃない?」明里はあのアート系の彼氏に
Read more

第153話

明里はペット関連の事業を立ち上げていた。幼い頃から動物が大好きで、家族の後押しもあって、この趣味を立派な仕事にすることができた。綾はにっこり頷いた。「技術的な課題はあるけれど、基本的な原理は同じだから、きっと大丈夫」「やった!事業が安定したら、念花と提携するつもり。その時は絶対、綾に担当してほしいな」「明里、私が無料で手伝いをしてあげるよ」この数年間、明里はずっと寄り添ってくれた。両親を亡くした時、和子が亡くなった時、そして健吾と別れた時も。人生で一番つらい時、いつも明里が側にいてくれた。綾にとって、明るくて強くて、たまにドジで可愛らしい明里はかけがえのない存在だ。明里は綾の太ももをギュッとつねった。「安心して、遠慮なく甘えさせてもらうから」二人は見つめ合って笑った。生まれ育ったこの街が、この瞬間、二人の絆をより深めてくれたように思えた。夕食後、綾は明里を自宅まで送り届けた。別れたばかりで一人になるのが不安そうだったから、そのまま泊まることにした。ベッドの中で肩を寄せ合い、もう眠気で目が開かないほどだったが、夜中の3時過ぎまでおしゃべりが続いた。翌朝、突然の電話の着信音に目を覚ました綾は、まぶたが張り付くように重く感じた。「颯太さん?」「綾さん、大変だ。すぐに研究所へ来てくれ」颯太の声はひどく深刻だった。綾の頭は一瞬で冴えわたった。颯太がこんな時間にかける緊急の電話なんて、ただごとではない。20分後、綾は研究所に到着した。颯太だけでなく、中野グループのプロジェクトチームの仲間も全員集まっており、皆一様に暗い顔をしていた。車を停めて走ってきた綾は、少し息を切らしながら聞いた。「何が起きたの?」颯太は険しい表情で答えた。「販売中の『霊瞳』義眼がほぼ全台、異常発熱と破損を起こしているんだ。ニュースにもなっちゃってる」「そんなはずない。何百回もテストして、問題はなかったはずなのに!」綾の心は大きく揺れ、思考がぐるぐると空回りした。「霊瞳」義眼は、綾が先頭に立って開発した、中野グループが力を入れている主力商品だ。綾はプロジェクトの重みを誰よりも理解している。世に出す前、何度も繰り返しテストして、万全であることを確かめたはずだった。「詳しい原因は調査中だけど、株価が急落したんだ。一晩
Read more

第154話

颯太は綾の調査参加を認めたが、午前の株主総会では数人の大株主が「社長の身内びいきだ」と批判し、綾を解雇して責任を追及するよう求めた。樹はすぐには態度を決めず、綾を呼び出して本人の意思を確かめた。「綾さん、どこでミスが起きたにせよ、念花にいたいと思うなら、必ず君を守る」「私も調査に加えてください。もし開発過程に問題があったのなら、自分から念花を辞めます」綾の瞳には、事実を受け入れた者の清々しい強さが宿っていた。今は問題を解決することだけを考えていた。「俺がついているんだ。そこまで思い詰めなくていい」樹は穏やかな眼差しを向けた。その意地の強さは、まさに亡き彩花の娘のようだった。しかし、調査に参加すれば、周囲からの疑惑や非難に真正面から晒されることになる。その重圧は、人の精神を容易に打ち砕いてしまう。「杉本おじさん。あのとき、噂を消しに走ってくれと言われましたけど、正直なところ、ああいう争いは苦手なんです。凪からの挑発や夫からの仕打ちにも、ほとんど何も言い返せなくて。強がってはいても、本当は弱くて爪ひとつ立てられなかったんです。かといって縁を切る勇気もなく、いつも情に流されてあれもこれもと迷ってばかりいました」綾は少し赤らんだ目を伏せ、睫毛をかすかに震わせた。湯呑みを手に取ると、茶の香りを帯びた湯気が顔に立ちのぼり、乾ききった目をやさしく潤したやがて、顔を上げて力強く言い放った。「でも、今度は違います。今回の舞台は自分の専門分野ですから。もう一度だけチャンスをください」樹は満足げに頷き、その場で決断した。「分かった。颯太とともに調査にあたれ」「ありがとうございます!」綾は肩の荷を下ろし、喜びを隠せない様子だった。だが、颯太が冷や水を浴びせるように言った。「ただし、リスクを伴うぞ。もし問題が君自身にあったとしたら、俺としても……」言葉を詰まらせる颯太に対し、綾はふっと笑った。「責任を持って、自分から辞めます」その日の午後、念花グループと中野グループの合同調査チームが結成された。颯太と綾、そして聡の3人が中野グループの研究所へ向かい、製品の品質チェックを行うことになった。綾が姿を見せると、中野グループの社員たちは憎悪をむき出しにした目で睨みつけた。一度は落ち着きかけていた噂が、前回
Read more

第155話

綾はそれ以上言わず、丁寧に感謝を申した。湊はすべて手配済みで、研究所には緊急回収した新品の製品と、購入者から高値で買い取った故障品のサンプルがいくつか届いていた。颯太が作業を呼びかけたが、湊がいなくなると、中野グループの社員たちは露骨に不満を漏らした。「念花が送ってきた技術チームが使えないせいで、なんで私たちが苦労しなきゃならないんですか?」「そうですよ。勝手に調べればいいでしょう。こっちはもう、クタクタなんですから」彼らは休憩スペースにどっかと座り込み、お茶をすすりながら他人事のような態度を取っていた。誠の側近2名だけが、問題の解明を急ごうと意欲的に動いている。今にも怒り出しそうな颯太に綾は制止を入れ、冷たく告げた。「協力する気がないなら構いません。ただし、開発ミスでないことが証明されたら、この会社を辞めてもらいますから」「はあ?」「コネ入社だと思って侮らないでくださいね」綾は鼻で笑い、すぐさま作業に没頭した。それを見ていた社員たちは顔を見合わせ、しぶしぶ重い腰を上げた。綾の評判がどれだけ悪かろうと、「中野夫人」なのだ。いつもは凪が守ってくれていたとしても、湊に迷惑はかけられない。それに念花から再び圧力がかかることを恐れたのだろう。綾は冷めた目で見つめ、心の中で笑った。中野グループ側の人がこうして関わってくること自体、原因が開発プロセスにないことに気づいている証拠だ。それなのに、自分を陥れようとするなんて。他人の口も恐ろしいが、人の心はもっと怖い。検証を始めてからの数日間、綾は一睡もしていない。念花グループと中野グループの両トップからの圧力が、肩にのしかかっていた。念花では「コネ採用」、中野グループではデマに塗れた「あざとい女」扱い。去年達成したはずの業績までもが、名前を借りただけだと言われていた。真実もわからないうちから、すべてが否定されていた。許せない。結婚生活で奪われた自尊心とは裏腹に、仕事への情熱が心に炎を灯していた。颯太は綾のひどい目の下のクマを見て心配そうに言った。「綾さん、帰って少し眠りなよ」「眠くないから」綾は目を落とし、データを打ち込んだ。「霊瞳」の内部は非常に繊細で、わずか1ナノメートルの狂いが致命的な結果を招くのだ。製品を分解し、開発当
Read more

第156話

青木家の屋敷で、健吾がソファーに深く座り込み、女性の木彫りの像を大切そうに抱えていた。いつものように、顔の造作は刻まれていない。テレビでは中野グループが絡む障がい者支援のニュースが流れており、世間の注目を集めていた。「中野グループの女性管理職の証言によりますと、念花グループが進めるプロジェクトのチームリーダーは、実績の乏しい若手女性だということです。また、この女性については、過去に念花グループ社長との不適切な関係が取り沙汰されていました。さらに別の関係者の話では、その女性は中野グループの社長夫人であるという情報も出ています。いずれも真偽は確認されていませんが、このプロジェクトをめぐっては不透明な点が多いとみられています……」健吾は表情一つ変えず、リモコンを掴んでテレビを消した。「健吾様!」マルスが足早に部屋に入ってくると、手には一つの小箱が握られていた。「USBメモリーです。オデュッセウスが見つけてきました」「どのUSBだ?」健吾が箱を開けると、かつてお祝いとして綾に渡したはずのあのUSBメモリーが入っていた。「ビアンカ!」健吾は勢いよく立ち上がると、庭で日光浴をしていたビアンカのもとへ向かった。「嘘はつくな。どういうことか説明しろ」ビアンカは目を泳がせながら、しどろもどろに答えた。「私、分からないわ。それは一体、何なの?」健吾は冷ややかな眼差しでビアンカを射抜いた。「綾にプレゼントを渡す際、USBを黒猫の置物とすり替えたんじゃないか?」隠しきれないと悟ったビアンカは、不貞腐れたように唇を尖らせた。「呪ってやりたかっただけよ。すり替えたならなんだっていうの?何よその怖い顔」健吾は眉間を揉み解すと、大きく息を吐き出した。「マルス。ビアンカの荷物をまとめろ。今夜のうちにI国へ返せ」「チェッコ!私を捨てるつもり?」ビアンカが健吾の腕にすがりつき、泣き出しそうな声で叫ぶ。「嘘をついたな、ビアンカ」ビアンカは金切り声で反論した。「チェッコこそ言ったじゃない?『綾は最低な女』だって。私はただ、手助けをしただけよ!」健吾はビアンカを突き放した。「ビアンカ、お前はただ問題を大きくしただけだ」「I国には帰りたくない!」マルスは取り乱すビアンカを宥めようと背中に手を置いた。「健吾
Read more

第157話

クラウドに保存されていたそのデータは、「霊瞳」を生産ラインに投入する前、自分の手でアップロードしたものだった。「颯太さん、先に失礼」綾の足取りは鉛のように重かった。これから訪れるであろう嵐に立ち向かうために、今はとにかく休息が必要だった。「送っていくよ」颯太はドアの鍵を閉めると、足早に綾のあとを追った。「そんなに思い詰めなくていい。たいした問題じゃないはずだ」「ありがとう」綾の頭の中は真っ白で、もう思考停止状態だった。自分を認めさせるために、寝食を忘れてがむしゃらに働いてきた。それなのに、一番自信のあるはずの分野ですら、こんな惨めな結果になってしまうなんて。いつの間にかベッドに横たわっていたが、どれほど疲れていても頭だけは冴えわたっていた。数字の羅列が脳裏をかすめ、綾はふと我に返ると、リビングに飛び出しノートパソコンを開いた。公用サーバーにアップロードする前、自分専用の領域にバックアップをとっておいたことを思い出したのだ。もし凪か誰かが、このプロジェクトを利用して自分のキャリアを潰そうとしているのなら、公用サーバーのデータを書き換えるなど容易いことだ。そう考えただけで、マウスを握る指先が震えた。喉元までせり上がる不安を押し殺し、綾は祈るようにファイルを開いた。パシッ!ファイルの中の特定の数値を確かめた瞬間、綾は顔を覆って声を上げて泣いた。張り詰めていた糸が切れ、数日間にわたる緊張からようやく解放されたのだ。涙と笑い声が混じりながら、綾は颯太の番号に電話をかけた。繋がった瞬間に、家の中に盗聴器が仕掛けられていることを思い出し、すぐさま通話を切った。【颯太さん、私が正しかったわ。データが誰かに改ざんされていたの】たった一文に、颯太は綾が纏っていた重圧の深さを感じ取った。颯太もまた、帰宅してからも眠れずにいた。もし本当に開発プロセス自体に問題があれば、綾は念花グループだけでなく、業界から完全に抹殺されてしまう。一度「仕事のできない技術者」という悪名を被せられれば、二度とどの会社も雇ってはくれないだろう。【ファイルを送れ。俺が念花に渡しておく】【明日の朝、パソコンごと持って行くわ。アップロードした日時を直接確認して】綾はノートパソコンが逃げてしまうかのように、じっとそ
Read more

第158話

肩の荷が下りた瞬間、どっと疲れが押し寄せてきた。綾は帰宅するやいなや、倒れ込むように眠った。深い眠りからスマホの音で起こされると、時刻はもう夕方の4時半を回っていた。ぼんやりした頭で電話に出ると、明里の弾んだ声が聞こえてきた。「綾、今夜のご飯あいてる?新しい恋人、『ニコさん』を紹介したくて」「もちろん空いてるよ!」綾は慌てて体を起こした。最近忙しすぎて、そんな連絡すっかり忘れていたのだ。明里が言う「ニコさん」はただの恋人ではない、結婚相手だ。今までの男たちとは違うし、必ず会っておかないと。「ニコさんのお名前は?」「千葉雅也(ちば まさや)っていうの。よくにっこり笑う人だよ」「住所を送って。すぐ行くから」綾は電話を切ると、支度を始めた。待ち合わせの高級なレストランへ向かうと、明里と雅也はもう来ていた。店員の案内で個室に入り、明里といる時のいつもの適当さは封印して、凛として挨拶した。「千葉さん、はじめまして。中野綾です」「綾さん、お噂はかねがね」雅也は立ち上がって迎え入れてくれた。その顔には、ずっと柔らかな笑みが浮かんでいる。後ろに立つ明里が手を振る。「綾、こっちに座って」綾は向かいの席に腰を下ろし、雅也が注いでくれるお茶を両手で受け取った。「明里から、綾さんが念花グループで研究職をしていると伺ってます。素晴らしいことですね」「明里こそすごいです。自分で起業して……」3人での雑談。普段なら一番のお喋りである明里が、今夜は珍しく聞き役に回っている。自分を心から大切に思う二人が、楽しそうに自分を褒め合うのを見つめる。それはとても心が満たされる時間だった。明里が見せる心からの余裕と満足げな顔を見て、綾は思った。これが明里にとって一番穏やかで、一番相性のいい恋愛なのかもしれない。雅也は確かに笑顔がよく似合う人で、その頬には薄いエクボがあった。挙動には風雅な上品さがあり、大人の落ち着きがありながら、不思議と親しみやすい。雅也との会話は、話題を選ばずとも心地よく、楽しいものだった。何より、彼が明里だけを見ている。正確に言うなら、その視界には常に明里しか映っていないのだ。食事を終えて席を立つ前、明里がトイレに向かった。綾は冗談交じりに笑った。「千葉さん、これは最初か
Read more

第159話

健吾は綾の手を取り、小さな箱を掌に乗せた。綾は慌てて手を引こうとしたが、健吾の指先が力強く彼女を捕らえた。「健吾、離して」「今夜は見ないで、明日開けてくれ」健吾はゆっくりと手を離し、脇に退いた。彼は少し目を伏せた。その瞳の奥には、たそがれ時の深く青い空のような色をたたえている。夕日が沈み、月が昇る前、全てを覆い隠す暗闇の時間だ。かつて月を手にしたはずだったが、今のその月はもう照らしてはくれない。誰もいない通りを眺めながら、健吾は唇を歪ませた。家に戻った綾は、監視カメラを避け、箱を両手でしっかりと握りしめた。健吾が言った言葉を思い出し、結局中を開けることなく、書斎の引き出しの奥に隠した。翌日、綾は颯太に誘われて山登りに出かけた。そこには美羽も一緒だった。「綾ちゃん、その……」「大丈夫ですよ。美羽さん、怒ってませんから」美羽の謝罪を綾が遮る。自分にはとても優しくしてくれた人だ。一度くらいは傷つけられても構わないと思えた。「美羽さん、気分転換になればと思って綾さんを連れてきたんですよ。嫌なことは全部忘れて、上まで登りましょう」颯太は二人の荷物を引き受けると、先頭を切って歩き出した。美羽の歩調がゆっくりなのを察した綾は、横に付き添って歩いた。「お二人、ずいぶんと仲がいいのですね」美羽が微笑む。「人前では遠慮してるけど、実はとても仲が良いのよ。颯太くんは気配りができる、本当に良い子だわ」綾も同感だった。颯太は一見大雑把だが、実は誰よりも繊細だ。休憩用のあずまやで颯太と合流し、綾が冗談を言う。「颯太さん、私も一応美羽さんと同じ立場なんだけど?扱い、ちょっと差がある気がするなあ」颯太が警戒するように答えた。「勘弁してくださいよ。ここは別々の対応にしましょうよ」颯太はカメラを手に取った。「二人で写真撮ってあげますよ」「いいわね。綾ちゃんとまだ写真撮ったことなかったもの」美羽が親しげに体を寄せ、二人は似たような笑みを浮かべた。春の日は美しく、木々も芽吹いている。頂上でピクニックをしていた時、颯太が撮影のために離れた隙に、美羽がそっと綾の手を取った。「ねえ綾ちゃん、湊は最近何をしてるのかしら?」綾は首を振る。「分かりません。製品の件があってから、ほぼ一日中研究所に籠も
Read more

第160話

樹の圧力により、わずか3日で塗料の材料変更の経緯が判明した。担当者は誠の側近だった。中間搾取のために独断で安い材料へすり替えていたのだ。中野グループが警察に突き出したところ、その男は数億の着服と4000万のキックバックを得ていたことがわかった。その事実が知れ渡り、誰もが誠の動向を注視した。複数の株主が取締役会に対し、会長職の解任と再選を要求した。なお、データ改ざんの件だが、「霊瞳」の量産化直前にビルの監視システムが停止したため、犯人を特定する手がかりは残されていなかった。報せを受けた綾は、この一件が以前からの計画的犯行だと悟った。公用サーバーの暗証番号はプロジェクトメンバーと一部の幹部しか知らず、そこには湊も含まれていた。綾が湊の社長室に駆け込むと、そこには凪が一人でいた。凪はデスクに座ったまま、小馬鹿にするように笑った。「綾、運がいいのね」綾は怒りを露わにする。「湊は?彼に話があるの」凪は妖艶に微笑む。「湊は忙しいわ。退勤して家に帰ってきたら伝えておいてあげる」「信じられない。湊があなたをかばって真相を隠し、世間の批判を私に押し付けるなんて!」綾は燃えるような目で、真っ直ぐに凪を見つめた。凪は少し表情を強張らせた。「どういう意味?」「あの晩、忘れ物を探してここに戻った時、あなたがここから出てくるのを見たわ。データを改ざんしたの、あなた以外に誰がいるっていうの?」綾は机に近づき、冷たく問い詰めた。凪は立ち上がり、綾を指差して反論した。「でたらめを言わないで!」「湊に会って真実を話すわ。彼ならはっきりさせてくれるはず」綾が湊に電話をかけようとすると、凪が割り込み、綾の手からスマホをひったくって画面を確認した。録音がないことを確信すると、凪はスマホを無造作にデスクに放り投げた。「夢見ないで。湊が後ろ盾でなければ、私だってこんな場所にはいられない」凪はデスクに寄りかかり、せせら笑うように綾を見下ろした。「あなたたちがデータの改ざんに気づいた時、湊はすぐに私の仕業だと気づいたわ。でも彼は証拠を隠滅し、あなたを身代わりにすることを選んだの」社長室には監視カメラがなく、あの日何が起きたかを知るのは、自分と綾だけ。周りの人間は当然、自分の言うことしか信じないのだ。綾の唇から
Read more
PREV
1
...
1415161718
...
22
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status